いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

毎度へそ曲がりですが

2011-07-18 12:46:05 | 超・いぶたろう日記
なでしこJAPANのW杯優勝、おめでとうございます。
いや、このこと自体は実際スゴイと思う。
ケチをつけるつもりなんて毛頭ない。
文字通り「歴史的」な偉業だと思うし、
何と言っても文句なしに世界一だ。
今まで勝ったことのないアメリカにこれ以上ない大一番で勝った、
このドラマ性も含めて素晴らしいと思う。

しかし、この偉業をマスコミがいつものごとく、
まったく下世話に大はしゃぎで報じるので、あっというまに安っぽくなってしまう。
当然のように被災者の話を持ち出し、
「勇気をくれた」「感動をありがとう」
などなど毎度おなじみ陳腐な言葉のオンパレード。
それが言えるのは被災してないからこそだよね。
震災で身の回りの誰も失ってないからだよね。
同じ日本のサッカー選手たちの偉業、確かに話題にはなるだろうけど、
自分の置かれた苦境とはまったく関係ない世界の出来事に、
「勇気」を「もらう」ってどういうことなの。
意味がわからん。

このサッカー選手の頑張りを見て、
冷房も効かない体育館で、段ボールに囲まれた生活や、
いつまで続くかわからない仮設住宅での不自由な暮らしや、
色も匂いもなく忍び寄る放射性物質の脅威、
それも、政府も誰も守ってくれないという現実に対して、
「なでしこも頑張ったんだから俺たちも大丈夫!」とでも、
思えというのだろうか。

当然のようにくり返される手法、誰も疑問に思わないのだろうか。
選手の父母や関係者を追っかけ回し、どうでもイイコメントを仕入れ、
彼女らの人知れぬ挫折や苦労をほじくり出しては美談でまとめ、
挙げ句の果ては、
なでしこの佐々木監督が試合前に選手をリラックスさせるために見せたという
きみまろのDVDときみまろが河口湖に設置した「金の七福神」とを強引に結びつけ、
この神通力が優勝の原動力だ(!)とか訳のわからないことを言い出す。

テレビ局の人間って、すごいよね。
なんて頭が悪いんだろう。
なんて下劣な品性だろう。
何でもかんでも説明しないと気が済まない。
何でもかんでも感動させないと気が済まない。

何か、そうしないといけないわけでもあるんだろうか。
こういうことでシビアな現実から目を背けようという意図なのか。
そんな思惑すら高尚に思えるほどに下世話だが。
こんなテレビにダマされ流される人って何者?
垂れ流されるステレオタイプのアプローチを喜んで受け容れ、
満足してる人なんて、どれほどいるのかね。

ワイドショーだけじゃない、報道すら毒されてる。
エンターテイメント、歌もドラマも猿真似劣化リメイクばっかり。
挙げ句の果てに新ドラマ「美男ですね」って何それ。
つくづく、テレビはバカのためのメディアなんだね。
バカがバカをつくり、増やすためのツールなんだね。
いい加減、どうにかならないもんかな。
日本はどんどんバカになる。
救いようもないよこれじゃ。

だいたい、みんな日本の将来とか本気で考えたことあるんだろうか。
「今がよければいい」「考えたってわかんない」「どうにかなる」
と思ってやしないだろうか。
真っ暗だよ。
資源も食料も輸入に依拠して、外国に生命線を握られ、
唯一の武器である技術開発力も、ゆとり教育と理系離れで失いつつあり、
新興国・地域の猛烈な追い上げを喰らっても対抗策はなく、
国家財政は1000兆円もの国債を抱えて破綻寸前、
それでいて少子高齢化は絶望的に進行し、社会保障もズタズタ。
2050年には20~30代の人口は半減、10人に4人が高齢者だよ。
1700万人の20~30代が、2400万人の75歳以上を支える社会。
ここからどんな夢と希望と勇気をもらえるというのだろうか?

リスクを嫌い、決断を嫌い、現状維持を願い(そう、ただ願うだけなのだ!)、
都合の悪いことには徹底して目を背け、思考停止に陥る国民性。
起きて欲しくないことや好ましくないことは徹底して考えようとしない。
日本人の精神性は卑弥呼の時代のシャーマニズムから何も進歩してないんだ。
そりゃ、世界に置いていかれて当然だよな。

サッカー女子日本代表の偉業は確かに素晴らしい、
でもそれはあくまでスポーツの世界の中だけのことであって、
こんなことで何でもかんでも
「勇気をもらった」「力をもらった」なんて、
しょせん何もできないし、しようともしない連中が安易に口走らないでもらいたい。
「感動した」「すごかった」「オレも頑張ろう」でいいじゃないか。
個人の感想としては充分だ。
どうしてそれをわざわざ斜陽日本が立ち直るきっかけみたいに言うのか。
重すぎるテーマを軽すぎるノリでかぶせるから違和感がぬぐえないんだよ。

サッカーファンの皆さん、水を差してごめんなさいね。
くり返すけど、選手たちの奮闘にケチをつけるつもりは毛頭ないよ。
ファンの歓びにもね。
なんて言うか、そういう純粋な気持ちにもタダ乗りして、
土足で踏み込む連中のイヤらしさを、
どうしても書き留めておきたかったんだ。

いつかも見た行き止まり

2011-07-14 03:42:28 | 似非哲学の部屋
倦んでいる。
たぶん僕は倦んでいる。
このままでも生きてはいける。
小さな幸せに囲まれ、時にちょっとした歓びに触れ、
仕事もそこそこ自由にやらせてもらい、
それでいておそらく、周囲の人よりちょっと幸せに生きていける。

だけど僕は倦んでいる。
同じような日々のくり返しに、
同じような言葉のくり返しに、
倦んでいる。

同じような迷いを抱え、同じような不満を抱き、
それでいつも同じような理屈に丸め込まれて生きていくことに。
もっともらしい後付けの、
人生とか大人とか社会とか常識とか。

同じようなくすぶりを抱え、同じような渇きを覚え、
そしてまた同じような感情にほだされて生きていくことに。
いかにもそれらしい、
義理とか理想とか仲間とか組織とか。

「どうせ」という言葉はキライだったのに、
いつのまにか僕の行く手は「どうせ」で埋まっている。
何歳までに何をしておかなければならないなんて、
そんなの狭いこの国だけの思い込みじゃないのか。
生きている限りは、変革を求めていいんじゃないのか。

同じ所をぐるぐると回り続けるのはキライだ。
変わり映えのしない風景を見ながら、
次の周回はもっといいタイムを、だなんて、ぞっとする。
死ぬまでそれをやるってのか。
まるでハムスターじゃないか。
僕がバカにしていた、それじゃないか。

僕は同じ所を、如何に早く廻るかというだけに、持てる能力を費やしてきたのだろうか。
告白してしまえば、その方がラクだった。
ライバルと思しき連中が、みんな常識と保身で思考停止している環境なんて楽勝だ。
ちょっと頭を使えばできることなんてたくさんある。
仕事は苦しい局面も含めて、楽しんでやるものだ。
それが感じられなくなったら、もう潮時じゃないのか。

僕はトップに立つためにここにいるワケじゃない。
僕は人件費の枠内に収まるためにここにいるわけでもない。
自分の納得できる仕事をして、周囲の人を感動させて、
他の誰にも代え難い評価を得るために、道を選び続けていたはずだ。
それが感じられなくなったら。

壁が見える。
ずっとずっと先まで見通せる一本道という壁。
足元だけを見て歩けばいい日々。
結局、僕は誰かの都合で生かされている。
抜け出したい、けど。

手放せない物ばかり。
いつかも見た行き止まり。
浮かび上がるタイトロープ。
ロープとは呼べない、細い細い1本の蜘蛛の糸。

渡るべきは、今か。

螢の光

2011-07-05 04:39:24 | 超・いぶたろう日記
どうも何だかここんとこ閉塞感。
仕事が面白くない。
理念ばかりで具体策に欠けたり、あちこちで形骸化したシステムに閉口したり、
セクショナリズムに陥って広い視野も改善への提言もなく、ただ愚痴をこぼしてたり。
あちこち修繕してるうちに疲弊していく感じだ。
な-んか達成感がない。

特に誰がというわけではないんだけれど、イイ歳した大人がどうして拗ねたり甘えたりするんだろう。
すぐ組織と自分を分けたがるけど、組織って対象化できるほどのもんなのかな。
こんな小所帯、結局自分が頑張らなきゃ、全体が沈滞するんだよ。
誰だって不平はあるだろうし、自己評価と他者評価は食い違うものだし、
でも全員が満足できる公平な評価なんてあるわけないし。
マイナスに対してマイナスで応えて何になるの。
プラスに転じる方へもっていけるかが勝負じゃないか。
女々しくグチグチ文句言ってるだけで済ませられる人はいいけど、
いちいちそれに付き合わされて振り回されて…っていう立場の人の気持ちはわかんないかな。
わかんないから好き勝手言えるんだよな。

まあ、やめよう。

というわけで、やんなっちゃってます。
いっそ環境も何もかもリセットしてやりたい衝動に駆られるけれど、
まあ僕ごときが何を始めたところで知れたものだろうという諦念もあり。

そこで、プチ旅行です。
行きそうで行かないところへ日帰りで行き、気分転換。
嫁の企画で「螢を見に行こう」ということに。
そういえば、子どもの頃見たことがある程度で、久しく螢狩りなどしていない。
結構心和めるんじゃないか、ということでいそいそと準備。
螢狩りのいいところは、時間帯が夜なので、朝早起きしなくていいこと。
というわけで昼頃まで惰眠をむさぼり、日頃の疲れを癒した上でのんびり準備。
家を出たのは午後1時半でした。

地元のマックでハンバーガーをほおばり、電車に。
バイクでもいいんだけど、こういうときは電車旅。
ゆっくり本なんか読めるしね。
地下鉄に揺られ、大手町から池袋へ。
池袋からは東武東上線で小川町へ。
端っこだ。初めて来たぞ。
で、行き先を詳しく聞いていなかったんで、もうそろそろかと思い、
嫁に訊いたら何とまだ道半ば。
ここから寄居を目指し、さらに秩父鉄道に乗り換えるという。
すげー。3時間超えるぞ。

というわけで着いたのはここ。

武州日野。夕方5時前くらいでした。
周囲は「夏休み」の似合う田園風景。
風情があっていいねー。

駅のそばには小川が流れていて、
元気よく挨拶してくれた地元の小学生のグループが降りてって遊んでる。
僕が昔住んでいたところもこんな感じだったなあ。
基本、こういう山間の町ってノスタルジー感じちゃうんだよね。

少し進むと「水芭蕉園」が。
板敷きで通路ができていて、誰でも自由に見せて貰える造りになっている。

奥まで進むと、こんな感じ。

風がさわやか。不思議とヤブ蚊があまりいない。

さらに歩くと、螢狩りの会場。
とはいっても大会場じゃなくて、山間の蓮畑に、
地元の方の手作りの焼き鳥や梅干しの売店がひとつある程度。
入場料もないし、販売品も良心的な値段だし、地元の人も感じのいい人ばかりで、
それだけでも和む。
手作りのブローチも記念品でプレゼントしてくれました。
なんでも休耕田を蓮畑にしたそうで、明るいうちはまだ螢も出ないし、
ゆっくり蓮を見て回る。




こんな一面の蓮なんて初めて見るなあ。


カエルが乗ってたりして。


つぼみがたくさんついてるんだよ。花開くまではもう少しかな。

でも一部開きかかってるのがあって、

中を見ると虫が入ってもぞもぞしてる。

いやー、いいね。時間の流れ方が違う。

その後は焼き鳥を戴いて、日暮れまではのんびりと文庫本なんか読んだりして。
夜7時位かな。日が暮れて辺りが暗くなってくると、少し人出も増えてきた感じ。
でも螢はなかなか現れない。
流れ星みたいにすっと現れてすっと消えちゃうイメージでいたから、
よく見てないとダメなのかな…と思いきや!

目の前で、すぅーっと。

あ!今の!
と思ったら、気づくとあちこちにチカチカ小さな光が。
すごい。はっきりわかる位に光ってる。
薄いLEDみたいな感じ。
蓮畑中に小さな光が舞う光景は、もうそれだけで充分幻想的。
カメラを向けるけど…コンデジじゃ最高感度でもこんな風にしかとれない。







見えるかな???

嫁の手に止まったのもパシャリ。


売店のテーブルの上にもいたので…


いや、いいね。螢。
期待以上。
見ているだけで楽しい。
1時間位かな、かなり螢を楽しんで、地元のおじさんと話がてら、
ちょっと終電が気になって調べてみたら…なんと今すぐ出ないと間に合わない!
8時半が地元に帰れる終電なのでした。

駅までダッシュ。
無事、間に合ってホッと一息。
帰りはお花畑駅(なんと素敵な命名だろう)から、西武池袋線の特急に乗って快適な電車旅。
地元の駅に降り立ったのは夜11時半でした。
おなかが空いたので、地元のごひいきの焼鳥屋へ。
なんか、焼き鳥づいちゃったんだよね(笑)。
いつものようにキャベツを山盛り食べて、はつや牛串を平らげ、締めは炊きたての鶏飯。
満腹。最高の休日ゴールです。

本当は週明けに備えてやらなきゃイケナイ仕事がいっぱいあったんだけど・・・やる気しねー!(笑)。
だって俺、仕事のために生きてるわけじゃないもん。
忙しいときこそ、遊びに行かないとダメだよね。
思えば去年の今頃はタヒチに胸をときめかせていたなあ。
また行けるだろうか。行けるといいなあ。
人生を仕事で塗りつぶすのはイヤじゃ。
まあ、何も派手に海外とかじゃなくてもイイから、
なるべくこまめにあちこち遊びに行くようにしよう。
こんなにもすがすがしい気持ちをくれるのだから。