いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

「勇気をもらった」って意味わからんけど

2010-06-30 22:43:41 | 新・いぶたろう日記
サッカーを見た。
面白かった。

「いぶろぐ」では過去、
何度となくW杯にはしゃぎたおす世の中を醒めた目で眺めてきたが、
今回は率直な感想として、良かったと思う。

何より、今までと比べ、
事前にあんまり盛り上がってなかった(ような気が僕はするんだけど)のが良かった。
普段から熱心に応援してるサッカーファンは楽しみにしてたと思うんだけど、
一般社会の反応としては
「ん?ワールドカップ?またあおるだけあおっといて負けるんでしょ?」
みたいな感じじゃなかったか。

それくらい、日韓大会での悪ふざけとも言うべきはしゃぎぶり、
ドイツ大会での無惨な負けっぷりは酷かった。
サッカーに関心を持ち始めた人の興を削ぐのに充分だった。
僕はサッカーに詳しくないので、技術論はさておくとして、
客観的に見て決して高くはない日本のサッカーを、
勇気だ感動だサムライだ世界に旋風を巻き起こせだと、
あらん限りの美辞麗句で実態以上に飾り立てた連中の責任だと思う。
そのせいで試合で実力が露わになると、
イメージとギャップが大きすぎて、ものすごく惨めに見えるのだ。
テレビもスポーツ紙も根拠もなく、イメージだけであおるだけあおっておいて、
終わったら「夢をありがとう」「勇気をもらった」「この感動を次へ」でしょう。
安っぽい。
そりゃあ、しらけますよ。
大いに反省してもらいたい。
特にテレビ。

彼らは日本サッカーのことなんてロクに考えてないもんね。
サッカー界のために仕事してないもん。
面白ければOK。数字取れればOK。
つまるところ、自分たちが儲かればOK。
そんなのにのせられるくだらなさに、ようやく世の中も気づいたというかね。

でも今回は、そういうつくられたキャンペーンじゃなくて、
日本代表が自分の実力で国民をふり向かせたところが素晴らしいと思うんだよ。
カメルーンに勝ち、オランダに善戦し、デンマークに勝って見せた。
しかも負けることを怖れて守るばかりなんじゃなくて(日本サッカーってそんなイメージだ)、
攻めに攻めた。
それも無謀な攻めじゃなくて、必死で守った上で、攻めた。
あの守りは攻撃といってもいいような守りだと僕には映った。
必死な気持ちが伝わるプレーだった。
あくまで素人の目だけどね。
デンマーク戦で頂点に達したよね。3点も取って。
続くパラグアイ戦でも、もう期待以上と言っていいでしょう。
あんな強豪相手に120分戦いきったんだから。
今までの日本だったら、ぽろっと失点してガタガタですよ。
結果はPKで負けだけど、失点しなかったというのは大きいよね。
勝利と同じくらいの価値があるんじゃないか。
そもそも、サッカーに何の思い入れもない僕に、
ここまで雄弁に語らせるんだから、それは素晴らしかったってことですよ。
僕なんかに言われるまでもないだろうけど(笑)。

それでね、僕も反省しました。
僕が何となく今までサッカーとか、W杯とか、好きじゃなかったのって、
これはこれでテレビのつくったイメージに毒されていたんではないかと。
僕が嫌いなのはテレビであって、サッカーではないと言うことだね。
必死にやってる選手たちに好きも嫌いもあるはずなくて、
自分たちは何にもしてないくせに、異常なテンションで、
「夢」「感動」「勇気」「絆」「未来」等々、
鳥肌立つほど安っぽい、
自分たちのアタマの中身そのままの、
空っぽなフレーズを並べるタレントたちがキライなんだね。
真実味のない、横滑りな、商品化された、
何も考えていない、完全予定調和の、一言一言が耳障りな、
あのサッカーになると必ず出てくる声の低いおっさんとか、
相棒いなくなったお笑いの片割れとか、
おおよそ品性を欠いた絶叫しかしないアナウンサーとか、
ジャニーズの兄ちゃんとか、なんかのアイドルとか。
画面狭しとあふれ出す、これでもかと言わんばかりの字幕とか。

そういうものに眩まされて、サッカーの真の魅力に気づけないでいたのだとしたら、
他ならぬ僕こそがテレビに(逆の意味で)躍らされていたということになりはしないか。

そんな風に気づかせてもらった、W杯だった。


ん、まあ、

2010-06-13 00:16:18 | 新・いぶたろう日記
だれにでもさ、ツライときはあらーな。
思うに任せないのが世の中だし、望みを言ったらきりがないし。
がんばってたって「契約終了」の4文字で職を失う人も多いし、
かたやテキトーにやってイイ暮らししてる(ように見える)人もいたりして、
やるせなくてたまんないのが現代日本だよ。

んで、みんな自分以外の誰かのせいにして文句ばっかり言ってるし、
実際、誰かがどうにかしてくれると思ってる。
人の手落ちばかり探してる。
何か言いがかり付けてトクしよう、みたいなね。
たしかに世の中はどーもヤナ感じだ。

僕らはトシもとった。
若い連中の言い分もよくわかんなくなってきた。
何でもかんでも「ビミョー」「キモ」「ワケワカンナイ」じゃあ、ねえ。
いま僕らが彼らに何かもの申せば、
そんなつもりはなくとも「昔は良かった」と響いちゃうだろうし、
彼らにとっては「ウザイ」だけなんだろう。
こればっかりはどうしようもない。

若かった頃は「夢と希望」に向かって「明るく前向きに」生きていた、
それが「現実と失望」にメゲないように、
「妥協と割り切り」でどうにか生きていくのが大人だ。
一方で、すべては自己責任だから、歯止めなしに堕落していくのもアリだ。
「いい大人が」なんてこと気にせずに、
ケータイに、ゲームに、アニメに、PCに、ネットに、
耽溺していくのだってその人が選んだ生き方だろう。

だけどなー。
なくしちゃいけないプライドってあるんじゃないか。
人にアタマを下げないとか、人の話に耳貸さないとか、
そんなレベルの話じゃなくってさ。
僕の場合それは、
久しぶりに会った友人をがっかりさせない
ってことだと思うんだよね。

太るかもしれない、ハゲるかもしれない、
老けこんだかも、やつれたかも、貧乏かもしれない。
だけど、変わらないね、と言われる何か、
お前に会えてよかったよ、と言われる何か、
それを持ち続けていられるかどうか、ってことなんじゃないか。

そのためには、殻に閉じこもってちゃ、やっぱりダメなんだよね。
常に社会と対峙して、人並みに苦労して、矛盾に憤って、理不尽を呑み込んで、
それを分かち合って、発散して、また活力を求めて。
コミュニケーションだよ。
今やっていることに価値があるかどうかじゃない。
自分なりのカラーや味を失わない意識がそこにあるかどうかじゃないか。

お金じゃない、見た目じゃない、年齢じゃない。
市場価値の有無だけが基準じゃない。
誰かがふと、
あいつはどうしてるかな、あいつならどう言うかな、あいつに会いたいな、
そんな風に思い浮かべるうちのひとりでありたいと思う。
俺は、ね。

その辺、どうなんだ?
もう、本当にどうでもいいか?
後付けの言い訳を重ねて、耳に心地良いキレイゴトを並べて、
楽な方、楽な方へ流れ流れていった結果が、それかい?
ウソだろ。
ウソだって言ってくれよ。

頼むよ。

麻中の蓬

2010-06-09 23:15:48 | 新・いぶたろう日記
感じ悪いオヤジ、こまったちゃんなオバチャン、
こういった者に囲まれていると、世の中すっかりイヤになる。
しかし、僕の職業は幸いにも、そればかりでなくて済む。
イヤ~なオトナ、残念な成人、失格社会人、
こういった者にダメージを受けた後こそ、
子どもたちに救われることが多い。
その明るさ、無邪気さ、純粋さ、ひたむきさに。

ただ、誤解しないで欲しいのは、
大人はダメ、子どもはイイ、という単純な二元論ではないと言うことだ。
一人前の大人と満足にコミュニケーションがとれない者が、
自分の支配できる弱者との関係に依存するなんて言うのは論外だ。
無論、そんなつもりで言っているのではない。
僕は大人の友人も数多くいるし、
相手が子どもであるからこそ、手が抜けない、
本気でやらなきゃいけないという難しさはよく解っているつもりだ。

また、「子どもは天使」ではない。
無知で未熟であるが故に、いくらでも残酷にもなり得る。
彼らの心は全くの白紙で、そこに何が映るかは周囲次第。
すべて大人の、社会の鏡なのだ。
自我というものはその上に芽生える。
それまでの数年間、周囲の大人たちのありようはこの上なく重要だ。
彼らにとっての「当たり前」をつくる期間だからだ。
挨拶をする。お礼を言う。きちんと謝る。
人間としての基本の部分は言うに及ばず、
善いことと悪いことの基準もそうだ。

ここで、こんな声が聴かれるかもしれない。

「善悪の基準なんて、誰にも決められない。だから教えるものじゃなくて、自分で考えるものだ。
親の価値観を押しつけるのじゃなくて、自主性を重んじるべきだ。」

それは、間違っている。
何が? 手順が。
物事には順番というものがある。
これは喩えて言うなら、
読み書きも計算も教えずに、世の中に出ろと言うようなものだ。
幼児に三輪車でも自転車でもバイクでもクルマでも、好きに乗れと言うようなものだ。
「自分で考える」ことはもとより重要だが、
その前に基本となる材料は必ず与えられていなければならない。
何だってそうだ。
料理で何をつくろうが自由だが、
砂糖は甘い、塩はしょっぱい、これは火を通すもの、これは皮を剥くもの…など、
すべて基本を知ってこそ、応用や発展の余地が生まれる。

最近、非常識な人間が増えた。
「常識は定義ができない曖昧なものだ、自分が従う道理はない」
なんて言い訳をする恥知らずも多い。
しかし、常識を知っていて、あえてそれにとらわれない新たな価値観を創り出すのと、
常識を知らずに、屁理屈をこねるのとは違うのだ。
まずは、世間一般で通用しているものを知ることだ。
その上で、自分がそれを受け容れるか、束縛を嫌って踏み出すかは、
充分にそのリスクも自覚の上で、自分で判断すればいい。
我々が子どもと呼ぶ存在は、その前の段階にいる生き物なのだ。

数々の失敗、妥協、成功、挫折、それらに鍛えられた、或いは歪められた、
大人の理屈、大人の視点をそのまま当てはめてはいけない。
当たり前だと言う前に、なぜ当たり前とされるのかも説明しなければいけない。
説明の余地もなく、禁止あるいは強制しなければいけないものだってあるかもしれない。
そのことが生むメリットもデメリットも、自分の人生で引き受けなければいけないが、
子ども本人がそのことの重みもまだわからない年齢ならば、
親が責任を持ってやらなければいけない。
そこに向き合わないのは、自立を促す教育とは言わない。
放任というのだ。無責任というのだ。

思えば、子どもに向き合うというのは大変な仕事だ。
いいかげんな返事、曖昧な知識、恣意的な判断、一方的な押しつけ、暴力、
いずれもタブーだ。
なるべく公正に、フェアに、大人のその場の都合でねじ曲げず、ごまかさず、
子どもにこそ誠実に向き合わなければならない。
大人の身勝手さを感じればこそ、子どもは大人に従わなくなるのだろう。
いま、子どもの身の回りに尊敬しうる大人がどれほどいるだろうか?
核家族化が進み、祖父母と父母が疎遠になり、
不倫と離婚が世の中にあふれ、
学校は権威も秩序も失い、
教員はいち地方公務員、あるいは企業の一員に落ちぶれ、
政治家は2世ばかりでメンツと利権にのみこだわり、
テレビをつければ見目麗しいおバカさんばかり…といった状況では、
何を尊敬し、信頼し、目標にして良いのかわからない。
毎年伝えられる成人式の惨状は、ダメな大人を見倣った、
素直な子どもたちであるかもしれないのだ。

麻中の蓬。

僕がかつて、大きな麻の中で自分らしく生きることを学んだように、
僕はこの広い世の中でわずかに知り合えた教え子たちの、麻でありたい。


…いや、大麻じゃなくって(笑)。

モーレツア太郎的な

2010-06-08 06:14:35 | 新・いぶたろう日記
昔、若かりし頃の大槻ケンヂは、
デビューアルバムでこう叫んだ。

「狂えばカリスマか?
吠えれば天才か?
死んだら神様か?
何もしなけりゃ生き仏か?

そんなロックで子供が踊るよ
モーレツア太郎
ひとつものを教えてあげて下さい」

俺も思うよ。

非常識なら『自由人』か?
友だちいなけりゃ『世捨て人』か?
空気が読めなきゃ『高知能』か?
相手にされなきゃ『帝王』か?

そんなひとりよがりで 子供はおどらねえよ
ひとつものを教える前に教わって下さい


はっははは。
ざれごとじゃ。

僕はあまのじゃくだから

2010-06-02 02:51:59 | 新・いぶたろう日記
わざと厳しい言葉をかけたり、
周囲の辛い評価をあえて伝えることで、
なにくそ、という奮起を促そうとするのだろうけど。

ぼかぁそういうのはキライでっす。

なんか、バカにされてる気がしちゃうのね。
適正な評価がなされていないのなら、
頑張っても頑張らなくても一緒だな、って思っちゃう。

120%を引き出したいなら、賞めるべきじゃないかな。
いつも頑張ってるのに、どうにも条件が合わなくて、
たまたま失策を続けてしまった人間に対して、

「最近ゆるんでるんじゃない?」
だの
「どこかに甘えがあるんじゃないか?」
だの
「そういうところが君の課題だな」
だの

どっかのチームの監督みたいに、
言う方は簡単ですよ。

なんだかなー。
まあ、どこまでいっても、
人のことをきちんと見て公正に評価するなんて、無理だけど。

それならこっちもこっちで、

じゃあ、あなたがやってみてくださいよ

って、言いたくなっちゃうよね~。


………………。

あ、一般論、一般論。
どこから何がどう伝わるかわかんねえもんなー。
正直者が馬鹿を見る世の中だぜ。