「正解」や「抜け道」を与えてくれるような本はダメだ、と僕は思っていて、
よくある『成功の秘訣』とか『幸運の鍵』とか、
『自分を変える七つの習慣』とか、そういう類のを僕は一切読まない。
ゲームの攻略本みたいだな、と思う。
人生は誰もが姫を救い宝を探し魔王を倒す、
最短ルートのクリアを目指すようなものではないはずだ。
僕は時間の許す限り宿屋でゴロゴロし、武器屋でいつまでも好きな剣を眺め、
街の人と世間話をして、方々で道草を食って季節の花を愛で、
何もない洞窟や穏やかな海の上で、ずっと無駄足を踏んでいたい。
持ち金をデタラメに増やすウラワザ情報なんて欲しくないし、
このモンスターがどんな攻撃に弱いかなんてのも、
闘いながら覚えればいいことだ。
偉人の言葉の受け売りも、
プレゼンツールとしては見栄えがするかもしれないけれど、
真に受けてたらただの信者だ。
同等の苦悩や思惟が伴わなければショボイ自分を飾るアクセサリでしかない。
自分が見逃している何かに気づかせてくれるかもしれない、と思って、
こういう本を手に取る人もいるのだろう。
ガラクタの山から思わぬ骨董品を掘り出すかもしれない。
でも、所詮は与えられた言葉の上の理解でしかない。
説得力のありそうなトークには使えるだろうから、
あくまで「ネタ」として読むというのなら解る。
でも、自分という人間の生き方にどれほど寄与するものかはわからない。
だから、僕はいつも「答をくれない本」を読む。
そして自分なりの答を探して考え続ける。
答のようなものが見つかっても、考えることは止めない。
見つけても見つけなくても、少しおいて、折に触れてまた考える。
そういう本や本の読み方が好きだ。
「そうか、わかった、これはこういうことだ!」という境地は、
爽快感の裏で少なからず見落としを、思い込みや決めつけを生む。
ひいては偏見や差別を生む。
自分の経験や想定を完全に離れたところで、人は判断や理解の術を持たない。異なる文化や価値観、社会背景を持つ人の喜怒哀楽に至ってはなおさらだ。
それでも解ったフリをしたくて、それっぽいことをクチにしてしまう。
そのせいで、知らず誰かを傷つけてしまうこともある。
ものがわかったと思えば思うほど、実は感性の扉は閉ざされてゆく。
人の気持ちがわかるかと問われて、もちろんわかるという人のそれだ。
表情や仕草や言葉の端々に表れたものだけを捉え、
過去の経験に基づく人の心の状態やその反応の「パターン」や「リスト」のようなものを元に「検索」しているのだとしたら、AIと大差はないということにならないか。
経験や想定にない、そしてわかりやすく言葉や態度に表れない、
非常に捉えにくい「何か」について「何だろう?」と考え続ける、
そんな姿勢こそが感性の扉を開けてくれる。
だから、僕は自分以外の人生や経験をありのまま伝えてくれる本が好きだ。
そこに模範的な解釈や明快な答は要らない。
モヤモヤとした問いがいくつか湧けば、それも湧くほどにいい。
それを自分なりに考えてゆくことが読書の醍醐味じゃないか、と思う。
結局、人生において「成功」だとか「正解」なんていうのは、
あくまでも主観に過ぎないのよね。
まず自分の人生を自身でどう評価するかが基軸にあって、
それは客観化できるものじゃないし、
そのための方法論だって、なかなか一般化できるようなものじゃない。
成功した人の人生を構成する無数の要素から特定の条件だけに目をつけて、
成功のコツみたいに商品化するのって、都合のいい結果論でしかないように感じるし、見落としている部分も多いんじゃないだろうか。
他人のフィルターを通してイイトコドリするんじゃなくて、
時間がなくても面倒くさくても、自分の耳目で直接感じ取って、
自分の頭を悩ませないと駄目よねきっと。
運を開くとか、チャンスをつかむとか、出会いや幸福を引き寄せるとか、
そういうのをあたかもスキルやテクニックみたいに語る本もあるけれど、
所詮はおまじないとか信仰の域を出ないんじゃないのかなあ。
少なくとも、僕はまったく信じてない。
もちろん、以上はあくまでも現時点での僕の主観に過ぎなくて、
これが万人共通の絶対的な正解だなんて思わないし、
その手の本が好きな人を腐すつもりもないんですけれど。
どうしても成功したいと、藁をもすがるような思いでいる人の苦悩も、
まあこの歳になれば察せられはしますしね。
僕は読まないけどね、というだけで。
そもそもね、人生(≒成功・幸福)という漠然とした前提で、
唯一最適解なんて導けるわけないだろ、というところに根本的な違和感がある。
例えば、ある症状にこの治療、投薬、予防策というのは考えられても、
「これさえ摂っていれば無病息災・長生き間違いなし!」
みたいな万能サプリはないってことよね。
「だけ・しか・さえ」で語られるものは見落としの方が多いでしょ。
結局、マジで考えれば
「栄養のあるものを適量バランスよく食べて、適度な運動もして、睡眠もしっかりとって…」
なんていう当たり前の結論に至るわけで、
でもそれだと本にしても売れないし…ということなんだろうな。
牽強付会に唯一の最適解に導こうとするノウハウ本ってさ、
これだけ毎日喰え、このストレッチだけしてろ、このサプリ飲め、
果てはイベルメクチンでなんでも治るとか、テスラ缶とかハサル液とか、
ああいうのと同じ臭いを僕は感じ取っちゃうんだよなぁ…。
教育でもしかり。
過去のあるケースにおける原因・対応・結果について知見の蓄積はされても、
いま目の前の子供の問題を解決できる便利なツールにはなりにくい。
イジメの抑止に何が有効か、進学先はどこがベストかなんて問題も、
子供によって千差万別。結論は出ないね。
様々な境遇の子供について知ることで、
子供に接する大人の側の懐が広くなっていく分にはいいけれど、
これはあのパターンだ、なんて当てはめようとするとダメなのと同じだね。
最近では「発達障害」とか「ADHD」みたいな言葉が、
素人の勝手な解釈で安易に遣われているのを見て、つくづく思うよ。