いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

愛について語ってもいいかい

2022-11-19 23:43:40 | 似非哲学の部屋
世間でもてはやされるような「恋愛」なんて、
二児の父となった身からすると「愛」のうちにも入らんよね。

…などとしみじみ思い始めた熟年パパがここで何か呟きますよ。

若僧よ、それはまだ愛じゃねんだよ。

美味しいもの食べさせよう、てのが恋愛ならな、
本物の愛ってのはだね、
食べさせた数以上に下のお世話もするんだよ。
な? 愛だろ、愛。

君の言う愛ってのは、やたらに脱がしたがるだろ?
本物の愛ってのはだね、
脱がしたのと同じ数だけしっかり着せるんだよ。
なんなら一日中着替えだよ。
な? 愛だろ、愛。
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非スピ三原則

2022-03-14 14:23:42 | 似非哲学の部屋
僕はスピや陰謀論にいちいち反証立てて回るほど暇な立場ではありませんが、
誰でも発信できるSNSにおいて、
彼らの無責任な発言が跋扈するのにはまったく困ったもんです。
最近ではその手の言説に毒された古い知人の姿を見かける機会もちらほらあって、
ただただ悲しくなります。

震災からこっち、原発事故、コロナ、ウクライナと、
彼らが嬉々としてデタラメ書き散らす機会が増えちゃって、
またそれを信じる人も増えちゃって誠に憂鬱です。
また一方では、コロナ禍や戦争で人が死んでいるのに、
ビジネスや投資のチャンスみたいに語る人や、
自分の「時代を見抜くセンス」や「先読みの慧眼」を売り込むネタにする人なんかもいて、
そういう歪んだ価値観が本当にキライな僕はウンザリさせられています。
自分大好きという点で彼らもまた同じカテゴリに括っていいんじゃないかと思います。
ビジネス真理教ね(笑)。

真偽の定かでないことを専門的知識もない素人が判断するのは難しいですが、
彼らは笑えるくらいに共通した表現方法をとるので、
経験則的にそれと見抜くことくらいは僕でも(誰でも)できます。

いわく、
「これは陰謀論でもなんでもない」
「客観的(科学的)な考察」
「私だけが見抜いた」なのになぜか「海外の専門家もみんな認めている」
「考え方はそれぞれ、真偽の判断は任せます」

こうした言葉で自分の理性や客観性を保った気でいるのです。
でもそんな枕詞に頼る時点で、お察しです。

痴漢やDVやセクハラパワハラ、体罰や虐待の言い訳とも似ていますね。
自覚がないんです。
人にどう見られているかが本気でわからないか、
「誰に何と思われようと私は私」みたいに開き直っていて、
わかろうという努力さえ放棄してしまっているのです。
行く着く先は「私以外の世界がみんな間違っている」なわけです。
やっぱりナントカ真理教ですね。

そして、データは「公表された」「信頼できる」「客観的な」ものとして、
公的なとこから引っ張ってくるのですが、
そこからの「独自の」分析や着眼や論説が、
もうどうしようもなく「非公表の裏情報」を織り交ぜた、
とても信頼できない主観的なものだったりします。

また、公的なデータを自分の正当性の担保として使いたがる割に、
同じ文脈の中でなぜか公的機関の誤謬や隠蔽を謳いたがります。
揉めるとすぐ警察を呼べとか騒ぐ癖に、自分に都合よく働いてくれないと、
「権力は信用できない」とか言い出すアレです。

彼らは自分が見つけた「法則」や「公式」にこじつけることがとにかく好きで、
それ自体が目的化しています。
だから誤りを認めることはできないし、謝ったら死ぬので強弁するしかないのです。
そうやって「自分だけがわかっている」気持ちいい世界で信者たちと共にいたいのです。
最初は占いとか心理テストとか他愛もないところから始まって、
やがてビジネス書みたいな極めて安直で限定的な格言の拡大解釈を多用するようになり、
果ては独自理論の構築です。
見事なまでの守破離です。
彼らが何かと師匠やら弟子やらと言いたがるのもわかります。

あとはお金に換えるモデルができたら成功者、できなければカモです。
彼らの言う、
「ビジネス」「使命」「夢」「ミッション」「望ましい世の中」
「あたらしい世界」「そうありたい自分」
どれもみな一皮剥けば同じようなもんです。

基本、この手合いに性別・年齢・学歴・肩書・職業・収入の多寡、一切関係ありません。
伝染性の疾患みたいなものです(厳密には思考習慣病というべきものでしょうけれど)。
陰謀論やスピは、「読まない・拡散しない・関わらない」に限ります。
非スピ三原則。

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陥穽の多読と感性の扉

2021-11-30 14:15:03 | 似非哲学の部屋
「正解」や「抜け道」を与えてくれるような本はダメだ、と僕は思っていて、
よくある『成功の秘訣』とか『幸運の鍵』とか、
『自分を変える七つの習慣』とか、そういう類のを僕は一切読まない。
ゲームの攻略本みたいだな、と思う。

人生は誰もが姫を救い宝を探し魔王を倒す、
最短ルートのクリアを目指すようなものではないはずだ。
僕は時間の許す限り宿屋でゴロゴロし、武器屋でいつまでも好きな剣を眺め、
街の人と世間話をして、方々で道草を食って季節の花を愛で、
何もない洞窟や穏やかな海の上で、ずっと無駄足を踏んでいたい。
持ち金をデタラメに増やすウラワザ情報なんて欲しくないし、
このモンスターがどんな攻撃に弱いかなんてのも、
闘いながら覚えればいいことだ。

偉人の言葉の受け売りも、
プレゼンツールとしては見栄えがするかもしれないけれど、
真に受けてたらただの信者だ。
同等の苦悩や思惟が伴わなければショボイ自分を飾るアクセサリでしかない。

自分が見逃している何かに気づかせてくれるかもしれない、と思って、
こういう本を手に取る人もいるのだろう。
ガラクタの山から思わぬ骨董品を掘り出すかもしれない。
でも、所詮は与えられた言葉の上の理解でしかない。
説得力のありそうなトークには使えるだろうから、
あくまで「ネタ」として読むというのなら解る。
でも、自分という人間の生き方にどれほど寄与するものかはわからない。

だから、僕はいつも「答をくれない本」を読む。
そして自分なりの答を探して考え続ける。
答のようなものが見つかっても、考えることは止めない。
見つけても見つけなくても、少しおいて、折に触れてまた考える。
そういう本や本の読み方が好きだ。

「そうか、わかった、これはこういうことだ!」という境地は、
爽快感の裏で少なからず見落としを、思い込みや決めつけを生む。
ひいては偏見や差別を生む。
自分の経験や想定を完全に離れたところで、人は判断や理解の術を持たない。異なる文化や価値観、社会背景を持つ人の喜怒哀楽に至ってはなおさらだ。
それでも解ったフリをしたくて、それっぽいことをクチにしてしまう。
そのせいで、知らず誰かを傷つけてしまうこともある。

ものがわかったと思えば思うほど、実は感性の扉は閉ざされてゆく。
人の気持ちがわかるかと問われて、もちろんわかるという人のそれだ。
表情や仕草や言葉の端々に表れたものだけを捉え、
過去の経験に基づく人の心の状態やその反応の「パターン」や「リスト」のようなものを元に「検索」しているのだとしたら、AIと大差はないということにならないか。

経験や想定にない、そしてわかりやすく言葉や態度に表れない、
非常に捉えにくい「何か」について「何だろう?」と考え続ける、
そんな姿勢こそが感性の扉を開けてくれる。

だから、僕は自分以外の人生や経験をありのまま伝えてくれる本が好きだ。
そこに模範的な解釈や明快な答は要らない。
モヤモヤとした問いがいくつか湧けば、それも湧くほどにいい。
それを自分なりに考えてゆくことが読書の醍醐味じゃないか、と思う。

結局、人生において「成功」だとか「正解」なんていうのは、
あくまでも主観に過ぎないのよね。
まず自分の人生を自身でどう評価するかが基軸にあって、
それは客観化できるものじゃないし、
そのための方法論だって、なかなか一般化できるようなものじゃない。

成功した人の人生を構成する無数の要素から特定の条件だけに目をつけて、
成功のコツみたいに商品化するのって、都合のいい結果論でしかないように感じるし、見落としている部分も多いんじゃないだろうか。
他人のフィルターを通してイイトコドリするんじゃなくて、
時間がなくても面倒くさくても、自分の耳目で直接感じ取って、
自分の頭を悩ませないと駄目よねきっと。

運を開くとか、チャンスをつかむとか、出会いや幸福を引き寄せるとか、
そういうのをあたかもスキルやテクニックみたいに語る本もあるけれど、
所詮はおまじないとか信仰の域を出ないんじゃないのかなあ。
少なくとも、僕はまったく信じてない。

もちろん、以上はあくまでも現時点での僕の主観に過ぎなくて、
これが万人共通の絶対的な正解だなんて思わないし、
その手の本が好きな人を腐すつもりもないんですけれど。
どうしても成功したいと、藁をもすがるような思いでいる人の苦悩も、
まあこの歳になれば察せられはしますしね。
僕は読まないけどね、というだけで。

そもそもね、人生(≒成功・幸福)という漠然とした前提で、
唯一最適解なんて導けるわけないだろ、というところに根本的な違和感がある。
例えば、ある症状にこの治療、投薬、予防策というのは考えられても、
「これさえ摂っていれば無病息災・長生き間違いなし!」
みたいな万能サプリはないってことよね。
「だけ・しか・さえ」で語られるものは見落としの方が多いでしょ。

結局、マジで考えれば
「栄養のあるものを適量バランスよく食べて、適度な運動もして、睡眠もしっかりとって…」
なんていう当たり前の結論に至るわけで、
でもそれだと本にしても売れないし…ということなんだろうな。
牽強付会に唯一の最適解に導こうとするノウハウ本ってさ、
これだけ毎日喰え、このストレッチだけしてろ、このサプリ飲め、
果てはイベルメクチンでなんでも治るとか、テスラ缶とかハサル液とか、
ああいうのと同じ臭いを僕は感じ取っちゃうんだよなぁ…。

教育でもしかり。
過去のあるケースにおける原因・対応・結果について知見の蓄積はされても、
いま目の前の子供の問題を解決できる便利なツールにはなりにくい。
イジメの抑止に何が有効か、進学先はどこがベストかなんて問題も、
子供によって千差万別。結論は出ないね。
様々な境遇の子供について知ることで、
子供に接する大人の側の懐が広くなっていく分にはいいけれど、
これはあのパターンだ、なんて当てはめようとするとダメなのと同じだね。
最近では「発達障害」とか「ADHD」みたいな言葉が、
素人の勝手な解釈で安易に遣われているのを見て、つくづく思うよ。
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Liberty is all I need

2019-05-31 00:09:45 | 似非哲学の部屋
世の中、好かれる人と嫌われる人というのがいてね。
みんな、どんな人を好きになるかって、結局「自分を心地よくさせてくれる人」なんだよね。
だとしたら「みんなに好かれる人」ってのは「みんなにとって都合のイイ人」っていうだけかもよ。
逆にそれを割り切って演じきることで何らかの利益を得ているのかもしれないし。
それが自然体だってんならいいけど、別に無理してまでみんなに好かれる必要ってないんだよね。

「みんなに嫌われる人」ってのは、それこそ本当に自由な人なのかもしれないよ。
自分の好きなものキライなもの思うところ、それらの一切に遠慮会釈を挟まない。
そのことのメリットが、みんなに嫌われるリスクを上回るというだけ。

で、実はこの2つは対照的なようで、他者から関心を寄せられているという点では共通してるんだよね。
嫌われてはいても孤独とは限らない。
本当の意味で孤独なのは「誰からも何とも思われていない人」じゃなかろうか。
みんなと繋がっているようで、実はそのつながりには熱や温もりがない。必然性もない。
誰かの背景の一部のような人生。
これは寂しい。
まだ自由に生きて嫌われている方がはるかにマシ。

それで僕はいつの頃からか、人に好かれる・嫌われるを本当にまったく気にしなくなっちゃった。
なんせ言わずもがなをいつでもどこでも誰にでもクチにしちゃうので、
嫌われるのが割とデフォというか、気にしたところで追いつかないのよね(笑)。
そしたらメンタルも実に健康になったし、その上で友達でいてくれる人はちゃんと友達でいてくれる。
もう、それで充分なんだよね。

僕にとって友達ってのは、良いときに馴れ合うばかりじゃなくて、
お互いの価値観は尊重した上で、ダメなときにはダメと、
間違っているときには間違っていると直言してくれる存在だよね。
僕も友達にはそうでありたいと思うし。

その点で、僕にはありがたい友達が(多くはないかも知れないけど)充分にいてくれていると感じているから、
別に自分を不自然に歪めてストレス抱えてまで、全員と仲良くしよう・人気者になろうなんて、しなくていいよね。

ノーストレスに優る人生なし。自由こそすべて。
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空気なんか誰が

2019-05-14 05:16:21 | 似非哲学の部屋
大多数が無批判に受け容れていること。
みんなが参加しなきゃいけないと思わされていること。
ついていかないと取り残されるんじゃないかと錯覚していること。
読まなきゃいけないとされる「空気」。

「思い込み」や「イメージ」に過ぎないそれらに一線をひいて、
あくまでも自分は自分と言える勇気。
それは偏屈でもワガママでも非常識でも何でもなくて、個性です。

つまりは、あなたの財産です。
大事にしましょう。
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DIO様に捧ぐ

2019-04-09 12:12:48 | 似非哲学の部屋
母校ボヤ騒ぎの件、あちこちで寄せられたコメントを見ていると、
総じて「昔、身に覚えのある人」ほど若者の過ちにも寛容な傾向がみてとれる。
反面で「レールから外れたことのない人」ほど懲罰感情が強く、
若者の失敗や脱線についても神経質な印象がある。

つくづく、人生に無駄なものはないんだなあと思う。

大人が眉をひそめるようなこと、意味がないと思われたようなこと、
それらがちゃんと人生の「経験」として自分の中に蓄積され、
少なからず人格形成に影響しているのだ。

僕だっていまでこそ先生ヅラしているけれど、
ここまでずっと品行方正で来たかと言えばまったくあてはまらないし、
そんなに悪いことはしてない(と思う)けれど、
しょーもないいたずらや脱線は星の数ほど繰り返してきたし、
なんたって30歳までバンドやって「遠回り」してきた人間だ。

でも、長い長いモラトリアムのようにも思われたその経験が、
いま子供たちと向き合うときに活きているなあと実感する。
僕はそんなに立派な先生ではないけれど、ひとつ取り柄があるとするなら、
子供達の失敗や脱線に寛容なところかもしれないと思う。
そうであろうと意識しているわけではなく、なんせ昔の自分が自分だけに、
それを棚に上げて子供たちにあまり偉そうなこと言えないよな〜、と自然に思うんである。

多少やっちまったことがあっても、そんなの長い人生でどうってことないよ、
いくらでも取り返せるよ、好きなことやんなよ、でもこの一線は越えちゃうとやばいぞ、
ここだけは外さない方がいいぞ、などなど、実経験に基づいた(笑)いろいろな話ができる。

子供達の言い分にも興味があるので、
なるほど、ああわかるわ、おれもそんなこと考えてたなあ…などなど、
共感しながら聞き入ってしまったりもする。

たぶんそういった僕の価値観は、僕自身の経験だけじゃなくて、
周りにいた人々の様子や伝聞にも影響を受けているだろう。
麻布に端を発し、大学のサークル、バイト先、バンド仲間、実に色々な種類の人々との縁があった。
真面目に勉強して世界的に活躍している人もいれば、悪の限りを尽くして獄中入りした人もいるし、
いまなお音楽の世界で奮闘している人もいれば、
破天荒極まりなかった人がいまは幸せな家庭を築いて佳きパパになっていたりもする。

彼らの姿を思い浮かべると、いま目の前の子供が多少のヤンチャしたって、
彼らに比べたらどうってことないとも思えるし、
むしろ温室栽培で均質化の強い印象を受けるこの時代・この地域で、
脱線出来るだけの個性を携えているなんて素晴らしいことじゃないかとさえ思えてしまう。
「けしからんなぁw」などと説教しなけりゃいけない立場も忘れてニヤニヤしてしまう。

僕だって振り返れば、大阪の田舎の小学校の問題児・鼻つまみ者だったのが、
「御三家合格」の栄誉に浴し、そこからまったく勉強せずに成績は地表スレスレの低空飛行、
文化祭をきっかけにバンドに出会い、奇蹟的に大学に受かったと思えば、
また今度はバイトとバンド三昧で留年、そこから30歳までは浮き草生活だったのが、
塾の先生など始めてしまい、気がつけば自分の教室まで開いて偉そうに子供達に人生を語り、
保護者の方に教育論などぶっている。
で、それが案外に受け容れて戴けたりもする。
なぜかはよくわからないのだが。本音と実感に充ちているからだろうか。

てなわけで人生わからん。本当にわからん。
唯一わかるのはいつかは必ず死ぬということ。
だったら人生なんて死ぬまでの暇つぶし。
無駄なんてないし、ある意味、究極的にはすべてが無駄。無駄無駄無駄ァ!
できるだけ楽しくいこう。
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自分を語らない

2016-01-25 03:31:29 | 似非哲学の部屋
僕自身もここで何度もやってしまっているので、
いま思うと本当に恥ずかしいことなのだが、
もういい歳だし卒業すべきだな、と思う。

自ら語る自分像は、単なる願望に過ぎない。
「誰も知らない本当の自分」などではなく、
「周囲にこのように見て貰いたい」というだけのもの。

そもそも、誰に言い訳しているのか、
「自分ってこうだったんだ、それで、いまはこうなんだ」
なんて実は誰も興味はない。
というより、聞かされてる方はたまらない。
どうせ肯定しか許されない話だからだ。

過去の自分もいまの自分も、自分は自分。
都合良く一部を切り取って、どんな意味づけをしようが、
所詮は後付けの自己満足。
言い換えればタダの言い訳。
だいたい、他人はそんなに自分に関心などない。
過剰な自意識は時に見苦しい。

自分語りが大好きな人に限って、
人の気持ちもわかるようなことを言いたがる。
が、大概において恐ろしいほど見えていない。
というより、自分の主観で人を決めつける傾向すらある。
何事も都合良く解釈してしまう癖がついているからだろう。
誰にも指摘して貰えなければ、節穴はますます狭窄する。

そもそも「人の気持ちがわかる」とクチにする人は、
その発言を聞いた周囲がどう思うかを読み違えているという点において、
既に信頼性に疑義がある。

「自分はそんなことはない、自分のこともよくわかっているし、人物評も確かだとよく言われる」
という人間もいるだろうが、
自分に接近することで何らかの利益を得ようとしている取り巻きに
調子よく担がれているだけだということを自覚した方がいい。

何らかの下心でチヤホヤしてくる人間に囲まれるという境遇は
不幸の始まりかも知れない。
本当の意味で自らを客観視して、改める機会を失うからだ。
その心地よさが癖になると、
そのうち、無意識に自分を批判する人間を遠ざけ、
批判には批判でとことん応えようとする人間になる。
こうなってしまうともう進歩も成長も期待できない。

自分に都合の悪い何かを脱ぎ捨て、
その都度、新しい自分になれたような気でいながら、
結局同じことをくり返してしまうのは、
そんな自分を無意識に美化してしまうところに陥穽がある。
人に対してやたらと噛みつく前に、
自分は一体相手にどう見えているのだろうかと、
常に考え直してみるべきだ。

知識と経験は感性の牢獄。
便利な公式は本当の思考を奪う。
絶対の正解なんて何もわからないという態度でいれば、
その都度一生懸命考えるだろうし、
人の声にも誠実に耳を傾けようとするだろう。
それこそが謙虚さというものだ。
無知の知は皮肉でも謙遜でもなく、
謙虚が生む無限の可能性を説いている。
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神はドーナツの穴である

2012-04-16 23:23:22 | 似非哲学の部屋
昔、高校の頃、漠然とだけど、
神様は「ドーナツの穴」のようなもんだな、と思ったことがある。
何も「ない」ところを指して、穴が「ある」と言うところからね。

輪(=自分・人間)を食べてしまうと何も残らないし、
穴を埋めてしまうとそれはもはやドーナツとは呼べないし、
けれど「あんドーナツ」という生き方もありだし、
果たして穴なしのそれがドーナツらしいかどうかも含め、
穴をどれくらいの大きさで持つか、
あるいは持たないかは自分次第、自由だな、と。

穴という形で対象化している「無」について、
存在・非存在を論じてもしょうがないかな、ということだね。

穴の形は人間の在り方によって変化するだろうし、
倫理や道徳の基準としてもだけど、
時に盲目的な背徳や不正義の原動力にもなるから、
まさしく宗教の有り様は人間そのもの。

神や宗教というわかりやすい形でなくとも、
替わりうる「信じる何か」は人それぞれ必ずあるしね。

まあ、これくらいのことは高校生ぐらいまでに、
考えてみてもイイテーマではあるね。
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いつかも見た行き止まり

2011-07-14 03:42:28 | 似非哲学の部屋
倦んでいる。
たぶん僕は倦んでいる。
このままでも生きてはいける。
小さな幸せに囲まれ、時にちょっとした歓びに触れ、
仕事もそこそこ自由にやらせてもらい、
それでいておそらく、周囲の人よりちょっと幸せに生きていける。

だけど僕は倦んでいる。
同じような日々のくり返しに、
同じような言葉のくり返しに、
倦んでいる。

同じような迷いを抱え、同じような不満を抱き、
それでいつも同じような理屈に丸め込まれて生きていくことに。
もっともらしい後付けの、
人生とか大人とか社会とか常識とか。

同じようなくすぶりを抱え、同じような渇きを覚え、
そしてまた同じような感情にほだされて生きていくことに。
いかにもそれらしい、
義理とか理想とか仲間とか組織とか。

「どうせ」という言葉はキライだったのに、
いつのまにか僕の行く手は「どうせ」で埋まっている。
何歳までに何をしておかなければならないなんて、
そんなの狭いこの国だけの思い込みじゃないのか。
生きている限りは、変革を求めていいんじゃないのか。

同じ所をぐるぐると回り続けるのはキライだ。
変わり映えのしない風景を見ながら、
次の周回はもっといいタイムを、だなんて、ぞっとする。
死ぬまでそれをやるってのか。
まるでハムスターじゃないか。
僕がバカにしていた、それじゃないか。

僕は同じ所を、如何に早く廻るかというだけに、持てる能力を費やしてきたのだろうか。
告白してしまえば、その方がラクだった。
ライバルと思しき連中が、みんな常識と保身で思考停止している環境なんて楽勝だ。
ちょっと頭を使えばできることなんてたくさんある。
仕事は苦しい局面も含めて、楽しんでやるものだ。
それが感じられなくなったら、もう潮時じゃないのか。

僕はトップに立つためにここにいるワケじゃない。
僕は人件費の枠内に収まるためにここにいるわけでもない。
自分の納得できる仕事をして、周囲の人を感動させて、
他の誰にも代え難い評価を得るために、道を選び続けていたはずだ。
それが感じられなくなったら。

壁が見える。
ずっとずっと先まで見通せる一本道という壁。
足元だけを見て歩けばいい日々。
結局、僕は誰かの都合で生かされている。
抜け出したい、けど。

手放せない物ばかり。
いつかも見た行き止まり。
浮かび上がるタイトロープ。
ロープとは呼べない、細い細い1本の蜘蛛の糸。

渡るべきは、今か。
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「本物」とは単なる「好み」のことであったりするが

2011-01-17 15:12:15 | 似非哲学の部屋
何気なくつけたヒストリーチャンネルの、「アメリカの食事」が面白い。
さっきはコーンフレークの歴史、今はピザの歴史をやっている。
「イタリア発祥のアメリカの国民食」であるところのピザは、
イタリア系の移民が持ち込んだ初期の形から、
いかにもアメリカらしくアレンジされ、
現在我々が知るさまざまな種類のピザへと枝分かれしていった。

その過程で、新しいピザのアイデアが出されるたび、
「こんなのピザじゃない」
という保守層との軋轢がやはりあったという。
トマトソースじゃなきゃダメとか、切ってしまったらダメとか、
薪のオーブンじゃなきゃ、いや石炭だ、電気は論外だ、などなど。
今思うと、なんで?と思うような点もあるし、
ああ、今でもそういうこと言う人っているよなー、てなものまで。

たいがい、言い分としては
「あんなの偽物だ、邪道だ」「こちらが本物だ、正統だ」となるわけだが、
その認定は非常に難しいというか、実際はどうでもいい。
守旧派が噛みつく理由はこんなところだろうか。

1)本当に自分の方が美味しい、品質がいい
2)自分が慣れている味わい、価値観から抜け出せない
3)新しいものの方が優れているのが悔しい
4)新しいものを推す人々に誇りやこだわりを感じない

1)は実は2)であったりもするのだが、
長い年月の間で評価が確立していけば証明される。
だから焦ることなく、そう信じるのなら貫いていればいいことだ。
3)4)はありがちだ。
特に自分たちが苦労している面を鮮やかに省力的に解決してしまったものは、
素直に認めにくいだろう。
手間暇かけないものは魂が宿っていないとか何とか言いがかりをつけるわけだ。
伝統的なピザ屋は宅配を批判し、宅配は冷凍ピザを批判する。
しかし、魂が宿っているものを選ぶかどうかは、消費者が選択するところだ。
生産者が適当に、手間をかけず、イイトコドリの、いわばコピペ感覚でつくったものでも、
売れていればそれが現実の市場の評価ということになる。
音楽でも商品でもそうだろう、
売れているものを安易に批判するのは、消費者の否定につながる。

しかし。

市場の評価が、消費者が、常に正しいとは限らない。
それは数々の歴史が証明している。
大量生産品がもてはやされた後、手作り文化に回帰するなんてのもありがちな話だ。
「売れているからいいものだ」なんてのは、
思考停止した極端な民主主義・市場主義の狂信者の決まり文句だ。
やはり、何が本当にいいものなのか、見極める目は必要だろう。
「売れているから」という基準でものの良し悪しを語るのは、
品質を見抜く目が自分の中になく、判断の根拠もまた自分の中にない証明だろう。

というと、必ずこういう反論に出くわす。
「何が本物かなんて一概には言えない」
「人それぞれイイと感じるものは違う」
だから…何だというのだろう。
そんなものは万事議論における前提であって、結論ではない。
すぐにこういう言い方で、それまでの議論の積み重ねを突き崩すのは、
おおよそ賢明とは言えない。

世の中が多様な価値観であふれているのは自明のことであって、
その前提のもとで自分は何にベースを置いて、
何を信じて生きていくのか、ということが求められているのではないか。
それはもちろん、何が正解と言い切れないし、
選択の結果損な生き方を強いられることもあるだろう。
しかしそれも含めて自分の選んだ人生なのだ。
そういう覚悟もなく、ただ自分が貧乏くじを引きたくないばかりに、
勝ち馬に乗ろうとする、大きな流れに身を寄せようとする、
そういう小賢しさは、僕は嫌いだ。
むしろ狭小の誹りを甘んじて受けながら、
自分のこだわりに邁進する人の方にカッコ良さを覚えてしまう。

それを僕は本当の意味での「ROCK」だと考える。
単なる音楽の一ジャンルを表すものでもなく、ファッションでもない。
精神性だ。
守旧ということとも違う。
自分のこだわりを大切にして、古くても新しくても、
いいものはイイと判断し、場合によっては採り入れ、
そしてここが一番大事な点なのだが、
その過程で人の評価なんか気にしないと言うことだ。
究極的に頑固であるが故に、無尽の柔軟性を備えると言おうか。
それが僕の考える「ROCK」の至高の境地なのだ。

決して難しいことではない。
自然体で生きればいいだけだ。
これは「ROCK」か、そうでないか、そんなことも考えなくていい。
一切の基準を気にせず、自分らしく生きるというだけのことだ。
自分に正直に生きればいいし、人になんと思われようが関係ない。
自分にとって最良の(=結果にかかわらず納得のいく)選択のために、
主観と客観のバランスを取りながら、自分の位置や置かれた条件をよく考えて、
その上で自分の判断に自信と責任を持って臨めるかということだ。

しかし、この表層だけをなぞっていると、とんでもないカンチガイ人間になる。
自分独りだけで突出した生産性や、高い付加価値を生み出せるのであれば問題ない。
だがほとんどの場合、人間は協調が前提となる。
個人よりは組織であった方が、効率の面でも成果においても、
大きなものが期待できるのが普通だ。
だから、本当に自分の真価を発揮させようと思うなら、
本当の意味で自由に生きようと思うのならば、
安易な孤立を選ぶよりは、難しい舵取りの妙味を味わいながら、
自分らしく周囲と協調できる方策を探るべきだ。

ここは世間で価値があると思われているものを携えていた方が、
人の評価を得ていた方が、後々自分を貫く上でも有利だと思えば、
それすらありだ。
それは決して妥協でも保身でもない。
大きな戦略の中での戦術だ。
僕にとっては学歴であったり、定時に出社して仕事に従事し、
求められる役割を演ずるということも、その一環に過ぎない。
いつでも絶えずピリピリチクチクやり合うのは得策ではないし、
第一生きていてつまらない。
普段は周囲と上手に折り合いをつけ、
いざというときに自分を主張し、貫けるようにしておく、
そのための陣地は堅固に構築しておきたいし、
武器や味方は無いよりはあった方がいいし、少ないよりは多い方がいい。
それだけのことだ。

だから僕は、自分のこだわりが強すぎて、
それをコントロールできずにやたらと発散し、
組織の中で浮いてしまう人間もまた、ダメだと思っている。
すべてを自分の主観の中だけで判断してしまうこともまた、
すべてを他人の影響のもとで与えられていくということと同じく、
レベルの低い生き方だと僕は思う。

世間の価値観、周囲の意見というものは非常に強力なものだ。
だからそれに易々と屈しないだけの強い自分も築く必要がある。
だから僕は、どんなに流行っていても、売れていても、
僕の目でいいと思わなければ絶対に評価しない。
お前ごときに何がわかると揶揄されても屈しない。
人の意見を参考にはしても、依存はしない。
最終的に僕は僕の感覚を信じる。

これを僕は僕だけの特別な生き方だとは思わない。
「本物の」人間の在り方だと信じている。
今後も僕は本物だと思えるものを選び抜き、
本物だと思える人間と付き合っていきたい。
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何が苦手って

2009-12-02 03:11:40 | 似非哲学の部屋
僕にとって、無視されることほど耐え難いものはない。

呼びかけたけれど、返事がない。
挨拶をしても返ってこない。
自分の話を聞いていない。
これが、ものすごく苦手なのだと気がついた。

とにかく、何らかの反応が欲しいのだ。
相手に悪気があったかどうかは問題でない。
僕は人の呼びかけを絶対に無視しない。
熱中して、あるいは考え事に沈んで、
何かに心が奪われてでもいない限り、
必ず受け応えをする。
しないと気持ち悪い。
無視するということはつまり、
存在を軽んじられるということで、
僕はそれが堪えられないから、人にも決してしないのだ。

それは幼少期に徹底的に干された、あのトラウマに遡るかも知れない。
僕にとって地獄があったとすれば、それは小学校だった。
あの、クラスで一致団結して異分子を排除する感じ。
学校へ行くにも帰るにも独りぼっち、
クラスでもこれ見よがしに椅子や机を離され、
班を決める時なんて最後まであぶれ者の晒し者。
先生も見て見ぬふり。
むしろ、権威に順わない僕が「民主的に」つるし上げられるのを、
小気味よく見守っているかのようだった。
あの苦しみは今思い出しても口の中が酸っぱくなる。
だから僕はいまもって、民主主義の盲信的信奉者が苦手だ。

僕は幸いにして、中学からこの方、
そういう目に再び遭うことなくやってこられた。
しかし僕の深層にはきっと、刻み込まれた何かがある。
僕がやたらとサービス精神旺盛で、人に気遣いを絶やさなかったり、
やたらに気前が良かったりするようなのは、
もしかしたらその裏返しで、
このつながりを失いたくないが故なのかもしれないのだ。

そう気づいて、そんな自分がイヤで、
バンドを始めたのかもしれないし、
バンドを通して自己表現を重ねている内に自分の哲学にたどり着き、
自信のような何かが芽生え、
独りでも吠えて強がるようになったのかも知れない。
その辺はよくわからない。

僕は自信家のようでいて、実はまったく逆だ。
周囲の評価や支持というものを必要以上に気にする面がある。
ただし、この「周囲」は不特定多数をさすのではなく、
自分がこの人にだけは認められたい、と思う人たちだけが当てはまる。
それ以外の何者がどれだけ僕をけなそうと、僕は折れない。
自信家と言うより、頑固なだけだ。
このあたりもきっと小学校時代に培ったものだろう。
狭い世界を飛び出して初めて出会ったすばらしい人々に、
僕は認められることをこれ以上ない歓びとして生きてきた。
その一方で自分を認めようとしない人間には噛みつき、見下し、
闘わなくていい相手と闘ってきた面も少なくない。
様々に矛盾を抱えた厄介な人間だと思う。
言うほどには強くもなく、タフでもなく、
妙に純粋で生真面目なくせに、時に信じられないほどふてぶてしい。
しかし根底には呆れるほどの脆さを抱えている。
そんな自覚がある。

たまに、そんな自分の深層意識が目を覚ますことがある。
どうしようもない孤独感と羞恥心に嘖まれて、
どこかへ消えてしまいたくなるときがある。
だいたい、周囲の誰もが気づかない些細なことで、
僕は深く傷ついていたりする。

そんな僕を救ってくれるのは、たいてい、
なんてことのない、誰かのちょっとした思いやりだったりする。
そうでなければ、自ら掘り起こす、
「人間の最大の理性とは、すべてを冗談に換える力だ」
という信念だ。

危うい精神構造だなと自嘲しながら、
僕はこれもみんな悪い冗談なんだと自分に言い聞かせ、
今日も寝床につくのだった。


だれか。
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実は非常に難しい

2008-06-15 15:57:04 | 似非哲学の部屋
日記と随筆の中間にあるブログというのは実に微妙なものだ。
内省的な自分語りでもあるし、不特定多数への発信でもある。
読まれることを意識して書いているはずなのだけども、
その内容は必ずしも他者への発信を意識しているとはいえない。
居酒屋トーク程度の自己顕示と発散。
場所が居酒屋ならば、相手に面と向かって語られるそれは、
やはり他者のダイレクトな反応を意識せざるを得ないから、
そこには最低限度の抑制を利かせる余地がある。
もちろん、アルコールによって崩壊することが多いけど(笑)。
しかし、ブログにはこの他者のリアルタイムの反応というものがない。
コメントなどによって時間差で寄せられることはあるが、
少なくとも発信時においては、それらを想像することは出来ても、
すでに書き上がりつつある文面を修正させるほどには働かなかったりする。
ここに課題があるわけだ。

しかし、目の前にいるわけでもない他者の反応を想像しながら、
自分の文面を客観的に校閲するというのは非常に難しい。
たいてい、自分の言いたいことを少し曇らせさるをえない。
ガマンの強いられる作業だ。実に面倒でもある。
経験も語彙も必要だし、不可欠なのは自制心だ。
だからこそ、いい文章を書く人間は人格面でも高潔であることが多い。
ゆえに僕も含め、残念ながらその域まで達していない人間は、
「書きたいことを好きなように書きたいだけ書きます」
なんて言い訳じみた文言を看板にせざるを得なくなる。
まあ、自らの稚拙な文章力と未熟な人間性をごまかす、
一種の予防線なわけだ。
無頼を気取り、毒舌を任じ、一見格好いいようでいて、
実は子供じみている。
まあ実社会、特に日本においてはあまり有用でない方法論だと言えよう。
これは僕自身への総括でもあるわけだが。

やはり他者の目にさらされる環境を選んだということは、
少なくとも多少は読んで貰いたいという気持ちがあるはずで、
だとすれば拙文に時間を割いてくれた読者への誠意として、
主客のバランスを図るべきではあるだろう。

だけれども人間というのは一時の感情にとらわれ、
ついつい言いたい放題言ってしまうときがある。
後々振り返れば、そこまで言うほどのことじゃなかったな、
と思うこともしばしばだ。
カンチガイもあるし、心身の疲労具合にもよるし、
直接会って話していないがゆえの思いこみだってある。
それらが歪めた自分の姿を、全世界にさらけ出しているわけだ。
考えてみれば恐ろしいことだ。
ところがあくまで作業をしているのは自分の机上であって、
おおよそ普段そういうことをイメージすることはない。
テレビカメラの前に立っているような緊張感や用心深さは見られない。
これこそが、ネットの落とし穴とも言うべきものだろう。
まさに僕が何度もハマったわけだが(笑)。
これが僕だけならまだしも、
ネットとラジオの違いこそあれ、
言葉のプロフェッショナルであるはずの親父までもが痛い目に遭っているから、
まあ、発信者の立場に立つというのは本当に難しいことなのだろう。

問題は、この難しい立場に誰もがカンタンに立てる時代になってしまったということだ。
思索・思慮の浅い者も深い者も、
語彙の乏しい者も豊かな者も、
博識な者も無知な者も、
実社会での人間関係が濃い者も薄い者も。
「平等」というのは恐ろしい。
5億人の運命を左右するEU憲法がわずか数百万のアイルランド国民、
それも慎重な検討なく単なる反発心だけで反対に票を投じた者たちによって、
カンタンに葬られてしまった例にも明らかだ。
いかにも民主的で平等な手続きに見えるものこそが恐ろしい。
どんなに誤った判断でも集団の盲信が肯定してしまうからだ。
だからこそ、一人一人の自覚と自立、
そして何より自己研鑽が必要なのだが、
それらについてはまったく脆弱なのに、
一人前の権利を要求する者たちによって、
どんなに便利なものも有用なものも歪められ壊される。
僕はこれを「平等幻想の招く不平等」と呼びたい。

本当の意味で謙虚であること。
それしかない。
いわゆる日本的な自己卑下にも似た「謙虚」ではない。
主張したいことは、遠慮していては伝わらない。
謙虚であることと、曖昧でまわりくどいこととは違う。
言うべきことは言い、間違っていれば素直に非を認め、
かつ発言全てに責任を持つこと。
黙っていれば何よりカンタンだし、ラクだが、
僕はそんな背景の一部みたいな生き方はしたくない。
言いたい放題言ってたければ、卓上のノートに記せば済むことだ。
敢えてそれをネット上に曝すのは、そういう至高の目標があるからだ。
覚悟をもって臨みたいと、改めて思う。
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たとえばお腹が空く

2008-01-23 00:33:09 | 似非哲学の部屋
何か食べたいと思う。
でも食べる機会に恵まれない。
するとどんどんお腹が減る。
食べたくて食べたくてたまらなくなる。
食べ物のことしか考えられなくなる。
飢えて渇いて、なりふり構っていられなくなる。
誰かのものであっても、きっと奪って食べてしまう。

人はそれを恥と呼ぶ。
社会はそれを罪と呼ぶ。
しかし、何が悪いのだろうか。

欲望を断ち切ればエライのだろうか。
世の中そんなにシンプルなもんだろうか。
精神力で一時的にしのげても、やがては限界が押し寄せる。
遅かれ早かれ、「醜態」をさらすハメになる。
とすればそんなのヤセガマン。
さもなくば、死か。
とすればそんなの、生きているとは言えない。

愛でも恋でもいいし、友情でもいい、
プライドでもいいし、エゴでもいい、
カネでもクスリでもいいし、権力でもいい。

いともたやすく崩れ去るのが人間だし、
堪えて堪えて矜持を示そうというのも人間だし、
良いとか悪いとかそういう問題じゃないような気がするわけよ。
生きていくってそれだけのことなんじゃないかと思うのよ。

要するに、幸せになりたい。

後味が悪いと、
自分的に定義する自分像と辻褄が合わないと、
要するにカッコ悪いと、
誰も聞いてないのにごちゃごちゃ言う。

潔く認めてしまう方がよほど難しいことなんだけどもね。

人生に意味なんかあってもなくてもいいし、
ただ死ぬまでの間どうしようもないから、
何かして暇つぶしてようというだけのこと。

それ以上でも、それ以下でも、ないんじゃないか?

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生き方の価値観が変わった的な錯覚?

2007-12-17 01:39:11 | 似非哲学の部屋
昔は何とも思わなかったことが、
年を経て様々な経験にさらされた耳目を通じて味わうと、
まったく新たな感覚でとらえられたりするもんで。

だから気に入った作品や難しい作品というものは3年おきに読むべきだと、
昔、僕の尊敬する国語教師は言ってたし、
僕も実践してみてまことにそうだと思うし、
いま僕の生徒にもそう教えている。

僕の大好きな作品を記念したミュージアムが箱根にある。
久しぶりにそこへ行ったのだが、
僕に最も深い思索を促したのは、写真の彼だった。

帰ってきてもう一度読み返した。

こういう人生、昔は価値を認めてなかったような気がする。
今はすごくこの気持ち、解る。
多分、損をしていると思われている。
でも彼自身はきっと満足…じゃないな、「納得」しているはずだ。
自分の存在意義なんて考えるまでもなく、自明なのだ。

彼の存在自体が放つ誠実で質素な輝きの前には、
どんな「実業家」も「うぬぼれ屋」も、くすんで見える。
僕はかつて後者の道を選び、やがてその愚かさに気づいた。
いままた道を誤り、前者へ傾斜しないことを祈る。
どうか心の片隅に、愚直に灯火をともす気概を携えていられますように。

「誰のためとか、何のためとか、そんなもんじゃねえよ。
これが、仕事なんだよ。」

そう、自然と口に出来る人間でありますように。
鉄みたいにさ(笑)。

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その日の朝

2007-12-16 23:15:07 | 似非哲学の部屋
今日、ひょっとしたら自分の人生が終わるかもしれないなんて、
いったいどこの誰が考えるだろう。
難病を抱え、闘い続けている人だって、なかなかそうは思えないものだ。
ましてや健康に日々を過ごしているものならなおさら。
人はギリギリのところまで、自分の明日を信じている。
明日もまた今日と同じように、一日がやってくることを疑わない。
そういうところにふと、何の前触れもなく、落雷のように訪れる。
死というのはそういう理不尽なものだ。

つくづく、神様なんてのはやっぱりいやしないんだろうな、と思う。
どんなに恨まれ、憎まれ、嫌われる人物でも、決して天罰で死んだりはしない。
どんなに愛され、慕われ、必要とされる人物でも、容赦なく死は訪れる。
新婚だろうが、強盗だろうが、
母子家庭だろうが、殺人犯だろうが、
おかまいなしだ。
草むしりのように目についたあたりから引っこ抜いていく。
これでも神様はいるってんなら、よっぽどの悪党だ。
それともさすがにもう重すぎて背負いきれなくなってんのか。
関心ないのか、それとも面白がってやがるのか。
金で歓心を買っているつもりなのか、
お布施つんで、変なもんいっぱい買って、惨めに祈りを捧げて。
まったく人間というのは哀れだ。

こーんな世の中のシステムをつくっておいて、知らん顔。
争い、悩み、苦しみ、もがく人間のさまを、
それこそ生け簀の中でエサを争う鯉のように、
薄ら笑い浮かべて眺めてやがるんだろう。
そんな風にも八つ当たりせずにいられない。

野球に情熱を捧げ、病で静かに幕を閉じるのもひとつ。
格闘技で鍛え上げた肉体ほどには心を磨けず、やがて朽ちて留置所で果てるのもひとつ。
そして何の因果もなく散弾銃に撃たれ、
人生があたかもゲームやパソコンかのように、
訳もわからぬうちに突然シャットダウンされてしまうのも、ひとつ。

残された我々には、冥福を祈ることしかできない。
我々もまた、いつか雑草のようにむしられる日が来るのだろうか。

考えたくないことは、考えないようにするしか、ない。
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