いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

陥穽の多読と感性の扉

2021-11-30 14:15:03 | 似非哲学の部屋
「正解」や「抜け道」を与えてくれるような本はダメだ、と僕は思っていて、
よくある『成功の秘訣』とか『幸運の鍵』とか、
『自分を変える七つの習慣』とか、そういう類のを僕は一切読まない。
ゲームの攻略本みたいだな、と思う。

人生は誰もが姫を救い宝を探し魔王を倒す、
最短ルートのクリアを目指すようなものではないはずだ。
僕は時間の許す限り宿屋でゴロゴロし、武器屋でいつまでも好きな剣を眺め、
街の人と世間話をして、方々で道草を食って季節の花を愛で、
何もない洞窟や穏やかな海の上で、ずっと無駄足を踏んでいたい。
持ち金をデタラメに増やすウラワザ情報なんて欲しくないし、
このモンスターがどんな攻撃に弱いかなんてのも、
闘いながら覚えればいいことだ。

偉人の言葉の受け売りも、
プレゼンツールとしては見栄えがするかもしれないけれど、
真に受けてたらただの信者だ。
同等の苦悩や思惟が伴わなければショボイ自分を飾るアクセサリでしかない。

自分が見逃している何かに気づかせてくれるかもしれない、と思って、
こういう本を手に取る人もいるのだろう。
ガラクタの山から思わぬ骨董品を掘り出すかもしれない。
でも、所詮は与えられた言葉の上の理解でしかない。
説得力のありそうなトークには使えるだろうから、
あくまで「ネタ」として読むというのなら解る。
でも、自分という人間の生き方にどれほど寄与するものかはわからない。

だから、僕はいつも「答をくれない本」を読む。
そして自分なりの答を探して考え続ける。
答のようなものが見つかっても、考えることは止めない。
見つけても見つけなくても、少しおいて、折に触れてまた考える。
そういう本や本の読み方が好きだ。

「そうか、わかった、これはこういうことだ!」という境地は、
爽快感の裏で少なからず見落としを、思い込みや決めつけを生む。
ひいては偏見や差別を生む。
自分の経験や想定を完全に離れたところで、人は判断や理解の術を持たない。異なる文化や価値観、社会背景を持つ人の喜怒哀楽に至ってはなおさらだ。
それでも解ったフリをしたくて、それっぽいことをクチにしてしまう。
そのせいで、知らず誰かを傷つけてしまうこともある。

ものがわかったと思えば思うほど、実は感性の扉は閉ざされてゆく。
人の気持ちがわかるかと問われて、もちろんわかるという人のそれだ。
表情や仕草や言葉の端々に表れたものだけを捉え、
過去の経験に基づく人の心の状態やその反応の「パターン」や「リスト」のようなものを元に「検索」しているのだとしたら、AIと大差はないということにならないか。

経験や想定にない、そしてわかりやすく言葉や態度に表れない、
非常に捉えにくい「何か」について「何だろう?」と考え続ける、
そんな姿勢こそが感性の扉を開けてくれる。

だから、僕は自分以外の人生や経験をありのまま伝えてくれる本が好きだ。
そこに模範的な解釈や明快な答は要らない。
モヤモヤとした問いがいくつか湧けば、それも湧くほどにいい。
それを自分なりに考えてゆくことが読書の醍醐味じゃないか、と思う。

結局、人生において「成功」だとか「正解」なんていうのは、
あくまでも主観に過ぎないのよね。
まず自分の人生を自身でどう評価するかが基軸にあって、
それは客観化できるものじゃないし、
そのための方法論だって、なかなか一般化できるようなものじゃない。

成功した人の人生を構成する無数の要素から特定の条件だけに目をつけて、
成功のコツみたいに商品化するのって、都合のいい結果論でしかないように感じるし、見落としている部分も多いんじゃないだろうか。
他人のフィルターを通してイイトコドリするんじゃなくて、
時間がなくても面倒くさくても、自分の耳目で直接感じ取って、
自分の頭を悩ませないと駄目よねきっと。

運を開くとか、チャンスをつかむとか、出会いや幸福を引き寄せるとか、
そういうのをあたかもスキルやテクニックみたいに語る本もあるけれど、
所詮はおまじないとか信仰の域を出ないんじゃないのかなあ。
少なくとも、僕はまったく信じてない。

もちろん、以上はあくまでも現時点での僕の主観に過ぎなくて、
これが万人共通の絶対的な正解だなんて思わないし、
その手の本が好きな人を腐すつもりもないんですけれど。
どうしても成功したいと、藁をもすがるような思いでいる人の苦悩も、
まあこの歳になれば察せられはしますしね。
僕は読まないけどね、というだけで。

そもそもね、人生(≒成功・幸福)という漠然とした前提で、
唯一最適解なんて導けるわけないだろ、というところに根本的な違和感がある。
例えば、ある症状にこの治療、投薬、予防策というのは考えられても、
「これさえ摂っていれば無病息災・長生き間違いなし!」
みたいな万能サプリはないってことよね。
「だけ・しか・さえ」で語られるものは見落としの方が多いでしょ。

結局、マジで考えれば
「栄養のあるものを適量バランスよく食べて、適度な運動もして、睡眠もしっかりとって…」
なんていう当たり前の結論に至るわけで、
でもそれだと本にしても売れないし…ということなんだろうな。
牽強付会に唯一の最適解に導こうとするノウハウ本ってさ、
これだけ毎日喰え、このストレッチだけしてろ、このサプリ飲め、
果てはイベルメクチンでなんでも治るとか、テスラ缶とかハサル液とか、
ああいうのと同じ臭いを僕は感じ取っちゃうんだよなぁ…。

教育でもしかり。
過去のあるケースにおける原因・対応・結果について知見の蓄積はされても、
いま目の前の子供の問題を解決できる便利なツールにはなりにくい。
イジメの抑止に何が有効か、進学先はどこがベストかなんて問題も、
子供によって千差万別。結論は出ないね。
様々な境遇の子供について知ることで、
子供に接する大人の側の懐が広くなっていく分にはいいけれど、
これはあのパターンだ、なんて当てはめようとするとダメなのと同じだね。
最近では「発達障害」とか「ADHD」みたいな言葉が、
素人の勝手な解釈で安易に遣われているのを見て、つくづく思うよ。

連れションパパ

2021-11-29 23:50:00 | パパと呼ばれて〜親バカデレデレ日記
他の誰にも敷衍することなく、
あくまでも僕の個人的な感慨だけれども。
もしいま子供がいなかったら、
僕の場合は変わり映えのしない日々の繰り返しに、
屈託していたかもしれないなあ、と思う。

懐古趣味が強く、流行り物にもまったく興味ないし、
自分磨きとかそういう意識高い系の言動もすごく苦手だ。
ゴルフもしないしギャンブルもしない、タバコも酒もやらないし、
キャバクラなんかも行ったことない。

ただ、隙間の時間に好きな本を雑に読み、
たまの休みにどこともなく旅行に出かけるくらい。
幸せなことに仕事は楽しくやらせてもらっているけれど、
仕事以外での僕はなんだかまるで高齢者のような佇まいだ。

仕事にしても、僕はただ僕の教室に通ってくれている生徒たちが可愛くて、
彼らが少しでも楽しんで学べるようにと頑張っているだけで、
規模拡大とか売上倍増だとか、
はたまた有名難関校にバンバン合格独自メソッド!とか、
そういうのにはまるで魅力を感じない。
入会から卒業まで、生徒たちの笑顔が絶えない教室であってくれればいい。
その意味では経営的に安定してさえいればいいんだけれど、
同じことの繰り返しになってしまったらつまらない。

若い頃にあれほど肥大化していた自己顕示欲や自己承認欲求も、
最近は(これでも)ずいぶんと落ち着いてしまった。
いまや有名になろうとかこれっぽちも思わない。
ステイタスへの羨望なんて欠片もない。
僕にとっては地位や名声は意外なところで発言や行動を束縛するもの。
国民栄誉賞を打診された「世界の盗塁王」福本豊が、
受賞を辞退したときの名言、
「そんなんもろたら立ちションもようでけんようになる」
は正に我が意を得たりだ。

僕は何よりも自由でいることを喜ぶ。
自分を縛るルールは、すべて自分で納得ずくで決めていきたい。
服装や発言が社会人として失格でも、
ワガママ・非常識とされるスタイルが災いして高収入や名声に縁がなくとも、
僕は僕の自由を何より大事にしている。

でも、じゃあ自由に色んなことに積極的にチャレンジするかと言えば、
別にそんなこともない。
何か新しいことしなきゃと強迫観念に駆られたような挑戦に興味はない。
ただ心に波風を立たせず、
安穏と思索の日々にゆるりと絡め取られてゆく晴耕雨読の人生。
それが理想。
ロッカー気取りであらゆるものに噛みついて、
揉めなくてもイイところで、
揉めなくてもイイ相手とぶつかり続けてきた前半生が嘘のようだ。
我ながらなかなかに枯れてるよなあ、と思う。

でも、子どもが生まれたらこの辺りが根底から揺らぎだした。
毎日、毎週、毎月、成長という名の色鮮やかな変化を見せてくれる我が子たち。
同じ日が一日たりともない中で、見逃したくない瞬間がずっと続く。
自分の何を措いても彼らと一緒にいたい。
自由よりも優先したいものに初めて出会ってしまった。
彼らのために何かやりたいことができなくなっても、まったく不自由には感じない。
不思議でしょうがないけれど、自然とそうなってしまった。

来週も来月も来年も、いまと同じようなことをやっているんだろうな…と思う、
まるで農家のような人生になっていたのが、
気がつくと、来週が来月が来年が、
そして十年・二十年後が楽しみで仕方なく感じるようになった。
無理に趣味なんか探さなくてもいい、僕は我が子たちが何よりの生きがいだ。
もしも若い頃に子供たちを授かっていたら、また違ったんだろうとも思う。
僕はやりたいことをやり尽くしたこのタイミングがベストだった。

まさか自分がこんなに枯れようとは、
はたまたそこから自分の子供たちにこんなに潤されようとは。
若い頃の僕が何も知らずに凡庸だマンネリだとバカにしていた、
「どこにでもある普通の家庭」に、僕自身がここまで魅了されようとは。
十年・二十前には全く想像できなかった。

まったく、人生ってヤツは奥深いったらないよ。

糾うな

2021-11-07 01:52:10 | 超・いぶたろう日記
義父が亡くなった。
何の前触れもなく、入浴中の急逝ということだったようで、
僕も妻も本当に驚いた。

僕にとっては、いつも気遣ってくれる優しい義父だった。
愛娘に近づいてきたどこの馬の骨とも知れぬバンドマンだというのに、
昔から何の分け隔てもなくいつも温かく接してくれた。
イヤミだとか小言だとかも一切言われた記憶がない。
いつも美味しそうにお酒を飲み、ニコニコされていた。

何もしてあげられなかったが、結婚式をきちんとやって、
娘の晴れ姿を見せてあげられたのは良かったかもしれない。
披露宴で僕がRebirthの生演奏と共にバラードを歌ったときは、
酔っ払って気分が良くなったのか、義母とのチークダンスで応えてくれた。
新郎に負けず一曲披露ということになり、
「娘」をリクエストしたはずが、かかったのは「孫」。
会場が大爆笑に包まれたのも覚えている。

孫に会わせてあげられたのも本当に良かった。
義父母と妻と息子で旅行へ行ったこともあった。
少しはいい思い出を作ってあげられたろうか。

ただひとつ、先月生まれた娘をまだ抱かせてあげられていなかった。
あまりに不意のことで、間に合わなかった。
それだけが本当に心残りだ。

息子が生まれ、娘を授かり、幸福でいっぱいだったのに。
禍福は糾える縄のごとし、というのだろうか。
人ひとりの存在はあまりに重く、なのに命はあまりに儚く、
訃音に接するたびに、人生とは何なのかと考えずにはいられない。

お義父さん、
こんな僕を温かく迎え入れてくださって、本当にありがとうございました。
これからも、妻も子供達も大事にしますから、
どうぞ安らかにお休みください。

我が家もクライマックスシリーズ

2021-11-06 20:26:56 | パパと呼ばれて〜親バカデレデレ日記
「お兄ちゃん」になったとはいえ、
まだまだかまって欲しい盛りの2歳児。
目の放せない新生児との二刀流は、
大谷もかくやと思わされるほどの忙しさだ。

育児はなるべくママばかりに偏らないように…
と思ってはいるのだが、塾稼業の宿命で、
息子が保育園から帰ってくる夕方から夜の繁忙ピークタイムに、
父はどうしても家庭に居られない。
やむなくママは寝不足の体をおしてワンオペということになってしまう。

週末は少しでも休めればということで、
いまはママに少し仮眠を取ってもらって、
僕がワンオペなのだが、2時間おきに泣く新生児と、
ありとあらゆる飲食物をこぼし、
いたるところで危険な遊びにトライする2歳児との同時多発テロには、
睡眠充分な僕でもさすがに手を焼く。
わずかな暇を見てご飯をつくり、片づけをし、風呂に入れる。
平日ずっとこんな夜を過ごしているママの苦労がしのばれる。

色んなことができるようになった息子、当然できるとなれば見て欲しい。
何かとママ〜パパ〜と連呼する。
長男が寂しい思いをしないようにと、
なるべく相手しようと頑張ってはいても、体ひとつの悲しさ、
どうしたって間に合わないこともある。
いまは娘にミルクをやっている僕が動けないのが寂しくて、
ママ〜ママ〜と呼んでいるが、
昨夜は同じように動けないママの横で、
パパ〜パパ〜と連呼していたらしい。早く帰ってやらなきゃね。

それでも、さすがはお兄ちゃんで、
できることの中で助けてくれたりもするのが実に感慨深い。
例えばミルクを少しクチからこぼしたときに、
ティッシュを取ってきてくれたり、
使ったあとのはゴミ箱に棄てに行ってくれたり。
彼なりに一生懸命、泣いている妹に話しかけたり、
なでてやったりもしている。
哺乳瓶を含んだ妹には「おいしい?」と聞いていた。
娘が起きている間はじっとガマンしているのだろう、
娘を寝かしつけると代わりに膝に飛び乗ってくる。
夜はベッドで腕枕を求め、懐に潜り込んでくる。
あまりに健気で涙が出そうになる。

ともかく小さな子どもが二人もいると、
自分のことなどまずできやしない。
これまで繁忙期には徹夜作業でどうにか間に合わせてきた仕事も、
今年は職員ひとりに育児休暇を取らせたこともあって何かと遅滞気味だ。
僕も育児休暇が欲しいくらいだが、無い物ねだりをしても始まらない、
仕事の仕方を考え直さなければならない。
とはいえ明日は保護者会。
プレゼンの最終チェックに、今夜もまんじりナイトになりそうだ。

というわけで、体がひとつではとても足りない育児Climaxのなか、
野球など見ている暇はないのだ。ないったらないのだ。
ないって言ってるだろう、もうちっと打たんかい!

子供ってスゴイ

2021-11-06 20:24:15 | パパと呼ばれて〜親バカデレデレ日記
本当に早いもので、娘が生まれてまもなく1ヶ月。
言葉の定義の上のことでしかないが、「新生児」が終わる。
わずか30日ばかりのこととはいえ、
生まれた直後から見ていると、たしかな成長の跡がわかる。
目がちゃんとこちらを見ている。
指を握る手の力も、哺乳瓶に吸い付く力も強くなった。
小さな小さな一歩を重ねて、着実に大きくなろうとしているのがわかる。

思えば息子が生まれてからも、はや2年。
本当にあっという間だった。
ベビーベッドで、ずっと見てないと停まっちゃうんじゃないか、
と思わせるような、弱くか細い呼吸だった赤ちゃんが、
いまでは僕らのベッドに大の字で高いびきかいて寝ている。
2年前の今頃は寝返りさえうてなかったのに、
いまじゃ家中走り回っている。
2年経てばきっと娘もそうなっているのだろう。
4歳の息子はどうだろう。そして48歳の僕は。

何も変わっていないかのように思える自分自身にも、
確実に2年の加齢が、老いがあったわけで、
もはやそれは肉体的な「成長」とは呼べない。
今後は「保持」が大事になる。
子供たちにいつまでも元気なおもしろパパでいたい。
そのためにも、健康でいたい。
もはや我が身に願うのはそれだけだ。

それにしても子供ってスゴイ。
僕は子供たちを授かったおかげで、人生観が確実に変わった。
もはや僕の人生の中心に僕はいない。
子供たちの人生の外郭を包み込み、必死に守っているのが僕、
そんな感じさえする。
あんなに自己中心的だった前半生を思うと、
世界の見え方が天動説と地動説くらい違う。
まさか自分がこんな風になるなんて、なあ。
いまは僕の何を犠牲にしても、子供たちには健康に育って欲しいと思う。

居眠り運転に轢かれるために、
電車内で理不尽な蛮行の被害に遭うために、
ましてや戦争で殺し合いをするために、
会社や学校で虐められるために、僕らは子供を育てるわけじゃない。
ひとりひとりの生命に、自由に、心に、
もっと優しい社会であってくれと切に願う。

そんなことさえ、親になる前は考えたことがなかった。
子供のおかげで僕もまた、成長できたのかもしれない。
肉体は衰えようとも、精神は。

やはり、子供ってスゴイ。とにかくスゴイ。

絶望の国の幇間

2021-11-01 14:17:36 | 超・いぶたろう日記
結果をどうこう言っても仕方ないけれど、
やはりこの国には弱い人を叩くのが好きな割に、
権力者に対しては従順でやけに辛抱強い人たちが多いんだなと、
改めて感じました。

意地悪な担任にも、いじめっ子にも、パワハラ上司にも、
陰湿な取引先にも、ワガママ家族にも、
我慢した人が一番エライ…と褒められる国だから、
仕方ないっちゃ仕方ないっすね。

ただ僕はこれからも、たとえ眉を顰められようと、
イヤなことには文句を、イヤな奴には皮肉を言い続けようと思いました。

あと、TBSが選挙特番の看板に据えた三流芸人は酷すぎた。
ジャーナリズムへの冒涜…というか自殺だろう。
TBSは二度死ぬ、ってか。

悪いのはキャスティングした方だけれど、
笑えもしなければ何の毒も効いてない、
ただただ無知・無学・無礼・無神経のないないづくし。
芸にすらなっていないイキリの極致ともいうべきで、
僕が文句言いとして生きる上でも充分すぎる反面教師になりました。

言うべきことを言う覚悟や矜持と、
無知無学を開き直ったり、嫌がらせだけが目的のような言辞を弄したり、
相手の話を遮って捲し立てたりする無神経ぶりとは、本質的に違う。
反骨と下品とは違う。

ところで僕は、彼には一度も「爆笑」なんかさせられたことないんだけど、
今回もまた視聴者の大半は笑えなかったと思うんだよね。
彼の指摘する何よりも、そちらの方がよほど「問題」じゃないのかな。