いぶろぐ

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親の一念

2020-07-07 16:48:46 | 特選いぶたろう日記
想像はできても、経験しなければわからないことというのは確かにある。
第三者の立場で理解したつもりでいても、当事者としての実感はさらにその上をいく。

僕には、一つ上の姉がいた。
ただ彼女は先天性の病気があって、かわいそうに2年も生きられなかった。
僕はわずかな時間だけど姉と共に過ごした時間があったはずで、
その記憶はいまや数葉の写真でしか確かめることはできないけれど、
何かにつけて父母が語る姉の思い出は、
子供の頃の僕に「確かにいたはずの人がいない」という不思議な感覚をもたらした。

我が家には物心ついた頃から黒枠の赤ちゃんの写真があって、
仏壇があってお墓参りがあって、
その厳粛さはなんとなく子供ながらに受け止めていたように思う。

情の深い母は今でもよく姉の話をする。
とはいえ、2年にも満たない日々の思い出だ。何度も何度も同じ話を繰り返す。
「またその話か〜」と普段なら母の昔話に茶々を入れる僕も、
姉の話題だけは黙って何度でも耳を傾ける。

父はどうだったろうか。
多忙な売れっ子アナウンサーだったから仕方ない面もあるとはいえ、
僕の記憶にある限りほとんど家庭を顧みず、
しかも途中で家庭を捨ててしまった父親だ。
ここ最近はすっかり関係も修復できているが、
10年前くらいまでは、何せ直接話す機会がないので、
きっと昔のことなどどうでもよくなっているんだろうなあと思っていた。

それが氷解したのは数年前のこと。
親父のマンションを訪ねたとき、僕は和室に招かれて驚いた。
立派な仏壇があり、そこに姉の位牌があった。
親父と生き別れてから30年、その間彼は外国へ移住し、
また帰国し、三度の結婚があり、相当な変転があった。
僕ら家族との連絡はほとんど途絶していた。
それでも親父は姉のことだけは忘れなかった。
何だか胸いっぱいになってしまった。

毎日そうするのだと言って、親父はお線香をあげ、般若心経を唱え出した。
僕にも多少の心得があったので、合わせてお経をあげた。
親父は驚いて、おまえ般若心経ができるのか、と言った。
僕は短く、まあね、と答えた。

その後、30年ぶりに親子でお墓参りに行くこともできた。
お互いに憎まれ口を聞きながら急な坂を登り、
墓前に揃って手を合わせた似た者父子の姿には、
泉下の姉も祖父も目を細めてくれたに違いない。

昨年のこと。
妻の妊娠を報告しに帰阪し、長男の名付けに苦労しているという話題になったとき、
僕は、
「親父がつけてくれた自分の名前を僕はすごく気に入っている。すぐに覚えてもらえるし、忘れられないし、名前ですごく得をしたと思う。息子には同じくらいイイ名前をつけてやりたいが、何せ息吹という名前はハードルが高過ぎる」
と冗談まじりに話した。

親父は一言、「お前の名前はな、親の一念だ」と応じた。
そこから親父は姉の話をポツポツと語り出した。
生まれたその時から命が危うく、奇跡的に生後すぐの危機は免れたものの、
その後も何度も何度も大手術をして小さな命を繋いできたこと。
成功の見込みは薄いと告げられながら、か弱く小さな体にメスが入るその都度、
身を削られるような思いでいたこと。
そんな中、僕が生まれてきたこと。
とにかく生きてくれという一念だったこと。
やがて、姉が力尽きてしまったこと。

息子を授かった今になってやっと、父母の気持ちがわかる。
今までも決してわからないというわけではなかったが、
もし息子が…と考えられるようになって、言葉にならないくらいの痛みがわかる。

親になるということ。
子供が健康に育ってくれるということ。
当たり前のように錯覚してしまうことの中にある深い深い幸せ。

決して比較優劣の話ではないし、
あくまでも僕個人に限っての感想に過ぎないのだが、
不特定多数が閲覧する場でこういう話題を、
文字だけで誤解なく続けるのは非常に難しい。
この辺で止めようと思うが、
とにかく僕は息子のおかげで世界の見え方が大きく変わった。
まったく想像もつかないことだった。
親となってみて初めて身に染みて理解できたこともあるし、
これからも父や母の思いを改めて知ることになるだろう。
人生って深い。深過ぎるぜ。

僕もまた息子に願うのはただひとつ、元気で育って欲しい。
親の一念。
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