いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

ダカラミルナッテ

2020-10-30 15:08:22 | 超・いぶたろう日記
僕は自他共に認める「恋愛もの」アレルギーで、
日本のドラマはまず見ないし、映画でもラブシーンは早送りするし、
他人の恋愛話にも関心ゼロ、
とにかく自己愛の強すぎる偽善者たちの繰り出す、
心にもないキレイゴト(に見えてしまうの)が大嫌いなのですゴメンナサイ。

そんな僕が絶対に観てはいけないと、
本能的に察して避けていたのが「バチェラー」シリーズ。
なのに、ああ、なのに。
昨夜、嫁さんに付き合ってついうっかり見てしまった「バチェロレッテ」。

感想ですか?
…やっぱり観るべきではなかった………。
もう、全身ジンマシン出る勢いで、悶え死ぬかと思った。

もちろんテレビのやることですから、
演出・台本・売名込みなのはわかっていますが、
それにしてもあれを正視できる度量の広さは僕にはない。
ただただ、キツイ。
カメラの前であれをやるってのは、
ほぼAVに等しいものがあるなあと思ったんですが、
世の中的には大人気らしく、
ますます社会からの疎外感を強めるに至った次第であります。

いやホントキツイ。
今日もまだイヤ〜な感触が残ってて、二日酔いってこんな感じなのかと。

愚羊

2020-10-24 14:04:59 | 超・いぶたろう日記

「安易で短絡的」なSNS歴史観。
歴史の定説をきちんと学ぶこともなく、
「個人的で心温まる」話ばかりをもてはやす。

「ごく一部の事例を普遍化して再評価を促す非常に危険な投稿」
は本当に多く見かけるようになった。

「影響力はフォロワー数で決まり、発信者のキャリアや研究歴は関係ない」
から、そもそも知性への敬意がない。
知ったかぶりと感情論だけが闊歩する、愚かな羊の群れ。

首がもげるほど肯ける専門家の警鐘、
ラストを締めるのは我が同期の畏友のコメント。
これまた我が意を得たり。

内輪の揉め事を嫌い、批判を避け、議論を厭い、
そして権力には従順で、外国と揉めるのは平気。
歴史を繰り返そうとする、本当に愚かな愚かな羊の群れ。

受験と麻布と僕の仕事。

2020-10-20 00:56:06 | 特選いぶたろう日記
ちょっと考える機会があったので、思うところをとりとめもなく書く。
書き出してみたら超絶に長くなった。

僕は仕事柄、友人知人やその場に居合わせた人などから、
勉強や進路、受験に関する相談を受けることが多い。
特に中学受験については、
親が関与する割合が高校や大学の受験よりもずっと高く、
「親の受験」と言われるだけあって悩みは深い。

万人に効果的な必勝法や唯一の正解などあるはずもない。
親御さんもそれは百も承知で、それでも藁をもすがる気持ちで、
何か少しでも得られるものがあれば…と、
僕なんかの話でも聞いてみたいと思われるのだろう。

僕も数多くの受験生や保護者と関わってきたし、その気持ちは痛いほどわかる。
まして自分が親の立場になったいまでは尚更だ。
だからあまり差し出がましくならない程度に、
求められる範囲でセカンドオピニオンを提供するが、
それもできるだけ誠実に応えようと心がけている。

さて、僕は塾で仕事を始めたときに、ひとつ腐心したことがある。
それは何かと言えば「麻布風を吹かさない」こと。

麻布出身であることを品質保証書のように利用し、
講師としての箔付けに使おうと思えば使えたかもしれない。
でも僕はそれをしなかった。
そしてそれは間違っていなかったと確信に到っている。

麻布出身ということで、好むと好まぬとにかかわらず、
中学受験では成功した部類にカテゴライズされてしまう。
すると教育業に就いてない門外漢であっても、
受験生を抱えた親御さんから、
「昔の経験からアドバイスを…」なんて求められる機会も少なくない。
でも僕はたぶんこの仕事をやっていなかったら、
面映ゆくてアドバイスなど到底できなかったと思う。

僕は勉強自体そんなに真面目にやらなかったし、
成績はずっと低空飛行で、東大でも官僚でもない、雑草系OBだ。
中学受験がうまくいったのは、
小学校が大嫌いでとにかくここから離れたい、
楽しい学校へ行きたいという一念が実ったものだったし、
竹刀片手の鬼のように恐ろしい先生の(でも授業はたまらなく魅力的な)塾で
鍛えに鍛えてもらったおかげだ。

だからあまり自分の知能だとか、
特殊能力の証明だとかみたいには捉えていない。
素直にただ、入れてもらえてラッキーだったなとは思う。

でも麻布が大したことないなんて、これっぽっちも思わない。
先輩後輩や同期にはもの凄い人たちが綺羅星の如くいて、
麻布のブランドみたいなものは彼らが担保しているものだ。
たまたま一時期在学したからといって、
僕なんかが謙遜でも母校を卑しめるようなことは言いたくない。
大したことないのは僕個人であって、麻布という学校はやはり凄いところだ。

もちろんいちOBとしても、麻布は素晴らしい学校だったと思う。
小学校で屈託して失望していた僕を蘇らせてくれたのは間違いなく麻布だった。
偏差値だとか知名度には関係なく、
あんなに楽しく素敵な学校で、
仲間達とこれ以上ない六年間を過ごせたという事実が、
僕にとってはいつまでも支えであり、ささやかな誇りなのだ。

でもそれは人と比較対照して、
どちらが上か下かみたいなくだらない競り合いをするためのものじゃない。
上から目線でものを言うための印籠でもない。そんなのじゃあり得ない。

当たり前のことを言うが、
麻布出身といってもそれだけで有能異才の証左にはなり得ないし、
ましてや全人格が肯定されるはずもない。

僕の認識では、33年前に行われたたった一度きりのペーパーテスト、
そこに集まった1000名弱の受験生の中で、
たまたま300番以内に入れた、ただそれだけのことだと思っている。

一年違えば問題も違うし、当然結果も違うだろう。
その日他校を受けた何人かが、
もし麻布を受けていたら僕も不合格だったかもしれない。

もちろんその「たった一度きり」の重みは承知しているが、
僕が言いたいのは、
それだけのことで麻布という学校が百年以上にわたって紡いできた歴史や伝統、
超が付くほど非凡な同門達の築き上げたものを、
すべて自分の能力の証明のように使うのは大いに憚られるということだ。

思えば、たった一度のテストの結果でしかないものを、
いつまでも振りかざして何らかの権威みたいに振る舞うのは、
とても恥ずかしいことではないか。
たとえば小学生時代に絵とかピアノとかで全国大会入賞した人が、
いつまでもそれを自慢するだろうか。
あまつさえ、美術や音楽について一端の顔をして語るだろうか。
それを人はどう思うだろうか。

麻布生には、母校が本当にいつまでも大好きな人が多い。僕だってそうだ。
麻布生が麻布を語り出すと止まらない。
たとえ家族がまた始まったとイヤな顔をしていても(笑)。

おおよそ型にはまらない多種多様な、それでいてまったく遠慮のない、
雑多で鋭利で広大で深遠で早口で多弁でしつこくて、
そしてちょっと下品なトークや議論の応酬は、
他では味わえない刺激的なものだ。しかもたまらなく懐かしい。
数時間が経つと疲れてきて、
ああそうだこいつら最高に面白いけどメンドクサイんだった…と毎度思い出す。
そんな予定調和も含めて貴重なレガシーだ。

そしてみんなクチではボロカス言いながら、
心の中では世界一の学校、世界一の仲間だと思っている。
だからこそ、知人に、子供に、みんなに勧めたくなってしまうのだ。
まったくの善意100%で。

したがって、麻布生が受験にクチを出し始めると、
これはとても厄介なことになる。

同期の3分の1が東大に入り、
医者・弁護士が両手の指に足りないほどズラリ揃う麻布にあっては、
自然と「それが普通」かのような錯覚に囚われてしまう。
まして麻布は「偏差値的にまったく届いてなかった」受験生が、
なぜか受かってしまうことが少なくなく、
また入学後も勉強なんて全然しなくて、
模試判定なんかもドン底レベルで酷かったハズが、
なぜか気がつくと東大にいる…なんていうことが、
かなり頻繁に起こってたりする。

そして麻布生はそれらをまったく、本気も本気で、
「スゴイこと」だとは認識していない
あらゆることに対して「やりゃ何とかなるんじゃね?」を、
極めてナチュラルに信じ込んでいる。

そう。ここまで読んで思われたであろう通り、
実は天然ですごくイヤミな人たちなのだ(笑)。
本人達はまったく、悪気もなければひけらかすつもりもない。
ましてやそれがイヤミに響くなんてことは夢にも思わない。
ただ良かれと思って、
「やりもしないで無理だと決めつけるのはおかしい」
ということを力説しているだけなのだ。

ただそれは、ある意味ではとても正しいことだと思うけれど、
ある意味では残酷な主張でもある。

これは運も才能もズバ抜けて、
人並ならぬ努力を重ねたようなプロ野球の一線級投手が、
「頑張れば誰でも150km/hくらい出せるだろ」と言うような話なのだ。
自分たちにとっての「当たり前」は、世間一般の当たり前では決してなく、
どんなに頑張ってもそれは叶えられない人がほとんどだ。
それはもちろん麻布に限った話ではなくて、
他の難関校でも、あるいは芸術でもスポーツでも、
みんなそういうものだろう。

それなのに嗚呼、我が麻布生は、
「勉強しかできないヤツは格好悪い」みたいな美学を敷衍して、
やりたいことをやり尽くし、遊びたいだけ遊び呆け、
「どれだけヒドイ状況から」
「当たり前のような顔で」
「リカバリーできるか」という、
極めて歪なチキンレースを伝統芸としてしまった。

そして一般社会では奇蹟と語られるような「底辺からの大逆転劇」が、
麻布生の身近ではあまりにも多すぎて、
その特殊さに無自覚になってしまった。
あるいは気づいていても無視するようになってもしまった。

種明かしをしてしまえば、
自分たちが言うほどに「底辺」などではなかったということだ。
気まぐれなサラブレッドの良血馬が、レースによって手を抜いていたのを、
天皇賞やダービーだけさらってくようなものだ。
実にイヤミな話だ。また当人が無自覚であればあるほどに。

それが僕がよくクチにするところの、「麻布生の奥さんは麻布が嫌い」や、
よく聞かれる「息子を麻布に入れようとしてぶつかってしまう」ことの、
大きな遠因ではないかと思っている。たぶんこれ核心。

だから僕は、塾で仕事を始めて1〜2年経った頃からだろうか、
徹底的にこの「臭み」を消すことを意識した。
麻布生が何ら悪びれもせずついクチにしてしまう、
「麻布受けてみろよ」
「東大だって入れるよ」
というアレは、ほぼ99.9%
「そりゃアンタだからでしょ」という反感しか買わない。

勉強というフィールドで我が子の限界が見えてしまう、
それは親としてはとても辛いことだ。
それでも、少しでも良いと思える進学先について、
相談したいとやってくる保護者に、
「麻布はイイですよ〜、僕なんかねぇ〜」なんていう話は、
神経を逆撫でするだけのものにしかならない。

だのに麻布生は、よせばいいのに、
そうじゃないんだとあれこれ理屈を並べて、

「麻布目指してみたら?」
「麻布はただの進学校じゃない」
「おれなんて偏差値○○から合格した」
「ある程度以上の学校に行かないと、価値ある人間関係が得られない」
「おれは実際、麻布でこんなに落ちこぼれていたが…同期との絆が…」

みたいな話を、相手の表情にも気づかず、しつっこく力説してしまう(笑)。
繰り返すがあくまでも善意で。

「おれは」という話が多いことにも要注意だ。
深夜の飲み屋ならそれでもいいが、塾という受験のプロの仕事場では、
個人の経験だけを元に何かを押しつけるのは絶対的なタブーだ。
これもまた、麻布出身の父親が子供にやってしまいがちなミステイクだと思う。
もちろん麻布に限った話ではなく、
一流と呼ばれる中高大を出た父親は、
多かれ少なかれ子供に有無を言わさぬ「圧」をかけてしまいがちな
(そして家庭内に無用な摩擦や軋轢を生む)のだが、
麻布生の場合は先述した「ちょっと捻れた価値観」があるために、
余計に面倒な部分があると思う。

小学生はまだ強制力を働かせることができるので、
それで成功したというケースもあるのだろうが、
仮に受験まではうまくいっても、
その後の親子関係に何らかの形で影を落とすこともある。
受験がきっかけで深刻な亀裂が生じることもある。
家庭内がそんなことになってしまったら、
一体何のための受験なんだろうと首を傾げたくなる。

クドイようだが、僕は学業面ではおおよそ大したことがない人間だ。
それこそ学問的な能力でいったら、
母校には僕なんかより遙かに優れた人はたくさんいる。
けれど、どんなに聡明な人であっても、
人はなかなか個人の経験を完全に離れて判断はできないし、
ましてや我が子のことともなれば盲目になってしまうものだ。

僕がひとつだけ彼らに長じているものがあるとしたら、
僕は自分の職業上の必要から、
「自分の経験でしかない麻布」を上手に脱いで、
対象化することができたということだろう。

平たくいえば要するに麻布は難しいのだ。
一般的な選択肢とするにはあまりに厳しすぎる。
自分のことは抜きにして、
まずはその客観的事実を正しく認識しなければならない。

宝くじとまでは言わないが、
自分がギャンブルで大当たりした資金で家を建てたようなことを、
そのまま子供にお前もそうしろとは言えないでしょう。
そういうことなんですよ。

あともうひとつ。
僕はいまの仕事をやる上で、何より大切にしていることがあって、
それは「子供の目線で考える」ということだ。

厳しい競争を勝ち抜いたタフな親御さんほど、こんなことを言ってしまう。

「偏差値○○以下の学校へは行く価値がない」
「○○中に落ちて下手な私立なんか行くくらいなら公立中に行けばいい」
「中学入試がダメでも、高校入試でリベンジすればいい」

それらはすべて大人の理屈でしかなくて、
子供の気持ちは完全に無視されている。

子供は「投資に見合った成果」で親を満足させるために、
遊びたいのも我慢して中学受験を「させられて」いるのだろうか?

いくらそれが正解なんだ、大人になればわかるなどと強弁しようとも、
子供の心が折れてしまったら、消えない傷を残してしまったら、
一体何のための苦行だったのだろうか?

中学受験の意義、中高6年一貫校に通う意味は、
何も第一志望校でしか得られないようなものなどではない。
人生の多感な6年間を、高校入試に中断されずに、
「同じ釜のメシを食い」ながら過ごすことの価値は、
そう簡単に公立中や高校受験でのリベンジに
置き換えられるようなものではない。

それを押しつけるのは、あたかも
「甲子園に行けないんだったら野球なんかやる意味がない」
と言うようなものだ。
野球が与えてくれるものはそれだけじゃないはずだ。

最終的にはどんな学校へ行くことになろうと、
そこで自分らしく思い出を刻んでいけるようになって欲しいし、
志望校に縁がなく、
たとえ「滑り止め校」だけであったとしても、
合格という形でひとつは報われて欲しい。
その上で進学するかどうかは後で考えればいいことだ。

僕は受験や進学を知ったかで語るどんな保護者よりも、
たくさんの受験生を、そしてその涙を見て来ている。
そんな僕が固く信じるところはただひとつ、
「子供の人生は子供のものだ」という当たり前過ぎる真理だけなのだ。

未成年だからな

2020-10-18 10:54:30 | せんせいとよばれて
子供は、未熟で無知であるが故のデリケートな、
その年齢ならではの繊細な感性をもっている。

大人は、成熟したが故のタフな、
大概のことは飲み込むか流すかしてしまえる、
ある意味での鈍感さをもっている。

例えば、

「豚さんも牛さんも殺されてお肉にされちゃう、かわいそう」

と、

「家畜というのはそういうもので、肉を食べないわけにもいかないし、考えても仕方ない」

という対比。

思えば、原発も環境問題も戦争も差別も、
あるいは政治の無体や会社組織内の理不尽な諸々も、
みんなこうして「考えても仕方ない」で、
思考を停止させてしまうことが「大人しぐさ」かのようだ。

どんな疑問も不満も屈託も鬱屈も「知識」と「理屈」にすり替えて、
「わかった気」になってしまう。
自分はそうして呑み込んでいるのだからと他人にも、
そしてもちろん子供にも無意識にそれを強要する。
それは「常識」でしょ、と言いながら。

でも、子供たちにはただの同調圧力でしかない。
なぜ黙らなければならないのか、承服できない。

何も大人だけが悪者だと言うわけではない。
大人だって、思うところがないわけじゃない。
でも大人は、わかってはいても生き延びていくために、
心を殺さなくてはならない時がある。

生きるというのは悩むということだ。
生老病死に四苦八苦、怨憎会苦から求不得苦、
愚痴も逃避も許されず、ありとあらゆる責任にがんじがらめにされて、
悩み苦しみ迷い考えなきゃいけないことが山ほどある。

とるに足りない小さなことや、
個人の手に負えないような大きすぎることで、
いちいち喜んだり怒ったり悲しんだり傷ついたりしていられない。
自分に直接影響しない他人事に、
同情したり首を突っ込んだりしている暇も余裕もない。

大人がそうしてタフに生き延びて、家族を守っているからこそ、
子供は些細なことに感じ入ったり傷ついたり、
誰かに同情を寄せる余裕があるのかもしれないよね。

授業で扱った国語の文章題に付随して、そんな話をしていたら、
「じゃあ大人と子供の中間が居ればいいんだね」
という声が挙がった。
「子供の心を持ったまま大人になれば、両方の気持ちがわかるんじゃない?」
という声も。

そうだね。
まったくそう思う。
教育業にはそんな大人がたくさんいて欲しいよな。
そう思いながら聴いていると不意に、別の子がポツリと呟いた。

「子供と大人の中間…先生(僕のこと)じゃん?」
「ああー!そーだねー!こんな感じかー!」
「学校に先生いたら全然違うよねー」

45歳の理屈っぽいふざけたおっさんが、
まさかそんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかったので、
柄にもなく照れちゃって、気の利いた返しができなかったんだけど、
ありがとう、たいへん光栄です(^^)

何を隠そう、僕は成人式出ていない(起きたら終わってた)ので、
まだ未成年なのです(キリッ

大人たちには青臭いと言われ続けた僕の酸味は、
子供たちにはイイ感じのスパイスになるようで、
僕にとっては最上級の褒め言葉です。
尊敬するとか言われるとむず痒いけど、
味方になってくれると言われたらすごく嬉しい。

…でも、残念ながらたぶん学校では生きていけないと思います。
……校長とか他の先生とかとすぐケンカになっちゃうから…。

10月16日

2020-10-16 23:41:39 | パパと呼ばれて〜親バカデレデレ日記
我が愛息、めでたく1歳になりました。


ママ手作りのバースデーケーキ。


まだキャンドルの火は消せないけれど、
それは美味そうに手づかみで平らげておりました。

去年から10/16は特別な日。
時計を見ては、1年前の今頃はこうだったなあ…
なんてことを思い出しながら1日を過ごす。
職場の仲間の気遣いで、遅出にしてもらったので、
夕方の出勤までゆっくりとお祝いできました。

プチイベントとして「一升餅」をやってみる。


「一生」食べ物に困らないように、との願いを込めて、
1歳児に1升=1.8kgのお餅を背負わせて立たせるという、
一歩間違えばギャクタイ案件(笑)。
どうも東日本中心の風習だそうで、
関西出身の僕は恥ずかしながら知りませんでした。

愛息くん、ママお手製のバッグに1升のお餅を詰め込んで、
さあ立ちあが……………れない(笑)。そりゃそうだ。
ひっくり返った亀のように仰向けになったまま。
身動きとれなくなり、泣いておりました(笑)。

あっという間の一年で、
これをあと十数回やったら成人になっちゃうのかあ…と不思議な思い。
命名に込めたように、形に囚われずに自由気ままに生きていって欲しい。
とにかく病気やケガに悩まされませんように、
災害や犯罪などに巻き込まれませんように。
本当にそれだけ。親の一念。




イイヤツほどハマる落とし穴

2020-10-13 10:41:21 | 超・いぶたろう日記
昔の知り合いが何人も、

オーラとか波動とかバイオリズムとかデトックスとかホメオパシーとかアンチ現代医療とか満月とか地震兵器とか予言とか闇の組織とか陰謀とか極秘情報とか

言い出してて、本当に凹む。

結構なお勉強したはずでしょうに。
所詮は大卒なんていっても、
科学的リテラシーを担保するようなものではないんだなあ。

…とすると、高等教育って何なんでしょう。虚しくなるね。

不治の病

2020-10-11 01:59:18 | 超・いぶたろう日記

中高のひとつ先輩であり、
教育ジャーナリストのおおたとしまさ氏の新著、
『麻布という不治の病』面白く読みました。

もちろん僕も含め、
過剰なまでの母校愛には変わりないのに、
なんとしても人とは違う、
自分の言葉で表現しないと気が済まないOBたちによる、
メンドクサ〜イ議論(笑)もそこかしこで始まっておりまして、
やはり不治の病だなとの認識及び自覚を改めて深くいたしました。

別に麻布が進学校だからとか、自由な学校だからといって、
ナンバーワンやオンリーワンを声高に主張するわけじゃないのです。
おそらくはどこの学校にでもあるだろう「ならでは」の魅力が、
比較的わかりやすく面白おかしく語れるということなんだろうと思います。
ただ、どんな学校もそうであるように、
麻布の真の魅力もまた、わかりにくいところに詰まっていて、
それは同じ空気を吸った人間じゃないとシェアしにくいというのは、
大いにあるでしょう。
当の麻布生や、子息を麻布に通わせている保護者でさえも、
誤解しているところが多くある学校です。
そんな難しいテーマに切り込んだだけでも凄い一冊だと思います。

同期の千葉くんを初め、空手部の大先輩である宮台真司氏をはじめ、
前川喜平氏や谷垣禎一氏など、錚々たるメンバーが並び、まさに壮観です。

ただ、東大でも官僚でも医者でもない雑草系OBの僕が言うのも何ですが、
個人的には、麻布の魅力って、
「弁護士・検察官・裁判官ばかりか、被告人までもが人材豊かに揃う」
っていうところにあると思っているのです。
そして何より、少なくとも僕の知る範囲の麻布のいいところは、
知名度や社会的ステイタスに関係なく、
いつまでも同門の仲間をイーブンに受け容れるところ。
結婚式や同期会で再会したら、
医者・弁護士から検事、元被告人、政治家も芸人も怪しげな自営業者も、
みんな何の垣根もなく肩組んで、
いつでもサンタルチアを原語で熱唱できてしまう(笑)。

そしてもうひとつ、麻布卒には既定のレールを外れる人が凄く多い。
絵に描いたようなエリート街道を驀進するヒトも多いけれど、
その先で変わり者として異端視されていたり、
突然別のことがやりたくなっていとも簡単に放り投げちゃったり、
ある日突然医者や弁護士を志して三十代や四十代で叶えちゃったりもする。

だから「おれ麻布なんだぞ凄いだろう」みたいなことじゃなく、
自分がどんな窮地にあろうと、どんな運に見放されていようと、
「ああ、おれ麻布だった、あの中にいたんだから何とかなるだろ」
というタフな美学を思い出させてくれる人生の軸なんでしょうね。

その意味では、いわゆる著名人や成功者ばかりでなく、
一般には「底辺」としか認識されないようなフィールドで自分の流儀を貫き、
独特の異能と「野蛮な集中力」をもって奇跡的に生き延びている、
そんな麻布OBも少なからずいるはずなので、
今度はそこにスポットを当てたものも読んでみたいなあと。
受験ママのムシのいい夢を無惨に打ち砕く一冊。
誰得なんだという気もするし、まあ売れないだろうけど…。

「なんだかんだ成功してるから言えるんだよね」
なんていう予定調和も許さず、
「結局実家が太いから好き勝手やれたってだけだよね」
なんていう短絡も差し挟めず、
「それって麻布に限った話じゃないよね」
なんていうコメントも憚られるような、ぶっちぎりの一冊。

ある意味ではそっちの方が勇気と誇り、
後は根拠のない自信を蘇らせてくれるかもしれません。
大して勉強もせず、好きなことしかやってこなかった僕ですが、
思えばどんな窮地にあっても、
母校はいつもある種の矜持を思い出させてくれました。
数々の伝説に彩られた母校ですが、
僕を奮い立たせてくれたのはいつも、
名もなき豪傑の人知れぬ活躍だったような気もします。

長い人生で、たった6年ほどのことが、
こんなにも大きな支えになろうとは。
つくづく、思春期の過ごし方って大切なんだと思わされますね。

必然性の美学

2020-10-10 12:50:21 | 特選いぶたろう日記
イカ天世代の我々の青春の1ページに、
燦然とその名を残すJITTERIN'JINN。
後にWhiteberryがカバーしたことで知られる
「夏祭り」を筆頭に、名曲は数多あれど、
リアルタイムで最も彼らの名を世に知らしめたのは
「プレゼント」ではなかろうか。

♪あなたが私にくれたもの〜♪

をひたすら引っ張る、アレだ。
男が散々プレゼントよこしてきて、気があるのかなと思わせておきながら、

♪大好きだったけど〜彼女が〜いた〜なんて〜♪

という壮絶なオチでサクッと終わる、
ツッコミがいのある曲としても知られている。

「彼女いるのにこんなに物あげるかなぁ?」
という十代の無垢なツッコミから、
「ああ、要はパラレル狙い失敗ね…」
とわかってしまう程に我々は年輪を重ねた。

さて、一曲仕上がるほどの数々のプレゼントの中に、

♪キリンが逆立ちしたピアス〜♪

がある。
替え歌の魔術師として知られる、
僕の尊敬してやまない嘉門達夫師匠はテレビでこれを、

♪あなたが私にくれたもの〜、
♪麒麟児・逆鉾・北天佑〜♪

と歌い上げ、僕のハートを鷲掴みにした。
こともあろうに力士三体のプレゼントである。
想像しただけで今夜あなたとハッケヨイだ。

その後、音源化にあたって、
相撲協会所属の固有名詞がマズかったのか、
あるいは「伝わらなくなる」ことへの配慮か、
歌詞は以下に作り替えられた。

♪あなたが私にくれたもの〜、
♪キリンが食べ残したピラフ〜♪

絶句した。本物の天才だと思った。
つけて加えて

♪大助だったけど〜、花子が〜いた〜なんて〜♪

である。
力士ネタを惜しみなく棄てられるのも納得のクオリティである。

だいたいコレは面白い!と思ったものを作り替えるのはイヤなものだ。
これ以上は思いつかないよ…と思えてしまう。
だけどそれはこだわりというより単に億劫がっているだけだったりする。
人にダメ出しされて渋々ながらも、何とか苦し紛れに捻り出したものが、
初回作のクオリティを遥かに上回る…なんてことは、
おおよそ創り手と呼ばれる立場に立ったことのある人なら、
誰しも経験があることだろう。
プロは個人の思い入れを超えて、
求められるままに次から次へと作品を生み出してゆく。
そのタフさがプロと呼ばれる所以だ。

自分の創りたいものを創るだけだったらどんなにラクなことか。
かと言って売らんかなと割り切り過ぎてしまっても、
作り手としての味や個性は喪われる。

日本のエンタメは作り込まれたキャライメージと、
手垢に塗れたマーケティング結果ばかりに偏り、
右を見ても左を見ても、
「言われた通りにやってまーす」が巧いマリオネットばかりだ。
そこには主義も主張も体温さえもなく、
その人でなければならない必然性らしきものは感じ取れない。

僕は若い頃、エンタメ界の末端で、
ずっとこの「必然性」に憧れて来たが、
それは残念ながら世間に認められるところまではいけなかった。
いま思うとまだまだそのずっと手前のところで、
スクラップとビルドを当たり前に繰り返す、
創り手としてのタフさを身につけなければならない過程でもがき苦しみ、
あまりの苦しさに逃げ出してしまったのだとわかる。
だから僕はオンリーワンの創り手に敬意を惜しまない。

「僕でなければならない必然性」、言い換えるとそれは
「自分の仕事への妥協なきプライド」でもあるかもしれない。
かつて狂おしいばかりに追い求めたそれは、実は求めるものではなく、
与えられるものなのだと今ならわかる。
教育というフィールドで、はたまた父親というポジションで、
ささやかながらもそれが叶うといいなと思って、
なるべく自然体で今日を頑張っている。



あと1週間で

2020-10-09 11:41:06 | 超・いぶたろう日記
1歳になっちまう…早いもんだ。
ついこないだまで寝返りも打てない新生児だったのに。
いまや高速ハイハイで家中を荒らし回り、
もうまもなく歩き出しそうな雰囲気。

初めての誕生日お祝いは何がイイかな…オモチャかな…服かな…
と、色々考えた挙げ句…

ソファになりました(笑)


だってショールームでソファ見つけて載せてみたら、
あんなに楽しそうにはしゃぐんだもんよ…。
息子くん好みの、いかにも噛み心地の良さそうな、
歯ごたえのありそうな本革モデルにしましたよ。

来週末納品でござる。