いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

言いたいことを上手に言うんだ

2007-09-17 01:51:02 | 似非哲学の部屋
僕にとって言葉は芸術品の素材であり、
敵をたたく武器であり、身を守る防具でもある。
強力な武器は慢心を生み、頑丈な防具は油断を生む。
核兵器がそうであるように、
自分の制御を離れて暴走してしまったが最後、
自らをも滅ぼす諸刃の刃ともなりうる。

攻撃に濃縮特化された言葉は、
尋常でなく辛辣だし、残酷だ。
容赦なく、そして的確に相手の核心を衝くそれは、
計り知れないダメージを与えるだろう。
その分、反感もすさまじい。
ムキになって反論したり否定したりするその姿こそが、
僕の言葉が的確であったことの証明になる。

僕は考える。
何を言われようと、自分に信ずるものがあるのなら、
自分の言葉で対抗すべきではないのか。
言論には言論で対抗すべきではないのか。

しかし、この世の中には妙な手段が存在する。
「先生に言いつけるぞ」である。
絶対権力にすり寄って、自らの正当性を騙るのだ。
自らの力で論陣を張って、対抗しようとはしない。
ハナから「社会正義」を装って(あるいは盲信して)、
権力を利用した邪魔者封じにかかるのだ。

大人の世界で「名誉毀損訴訟」と呼ばれるもの。
使いようによっては実に卑怯な手段にもなる。
反論があるならして、堂々否定すればいいし、
非を鳴らして削除を要求すればいい。
それでもらちがあかなければ、
初めて訴訟という形で第三者を介するべきだろう。
ひと足飛びに国家権力にすがる。
自分に自信のない、小心者のやり口だ。

防具としての言葉。
苦境に立たされた僕を救ってくれたのもまた、言葉だった。
支えてくれる人々から寄せられた言葉。
自分を守るためにさまざまに紡ぎ出す言葉。
迫真の演技を以て、虎口を逃れながら、
いまもなお、是々非々の姿勢を崩してはいない。

僕は本当のことを、正直に、ありのままに述べただけだ。
表現が稚拙だったという批判は甘んじて受けよう。
読者層の広さを考慮しない安直さも。
その非は自分でも認めている。
僕はあまりにも拙すぎた。幼すぎた。

たしかに、方法は誤った。
けれど、言おうとしたことは決して間違っていない。

事実は曲げられない。
犬は狂っている。
噛まれた誰もが認めることだ。
認めないのはその犬と飼い主だけ。
飼い主は、自分には牙を剥かないという理由だけで、
狂ってなんかいないと言い張った。
被害者面という最強の武器を手に、加害者になった。

絶対的な優位を手にした者は実に厭らしい。
権力を背景に、法を楯に、事実上の脅迫を重ね、
クチを封じられた相手をここぞとばかりに責め立て、
じわじわと嬲るように愉しむ。
汚職の政治家や不倫の芸能人に迫る記者のごとく、
キレイゴトを並べて、社会正義を実現したかのような自分の姿に陶酔する。
言い返すことを許されない者を相手に、
絶対的な優越感の快楽に耽溺する。
なんて浅ましい姿だろう。
深夜の醜悪なSHOWはいま思い出しても吐き気がする。

自分に都合の悪いことはすべて伏せ、
事実を歪めて言いたい放題、
こういうのは誰に限った話でもない。
無意識なのだろうか、なら余計にタチ悪いな。

ただ、暴いた者をいくら糾弾したとて、事実は変わらない。
あの愚かな人間の愚かな言動は、
今後も行く先々で必ず繰り返されるはずだ。
どこへ行っても、どんなに言いつくろっても、
絶対にうまくいくわけがない。
だから、本当は憐れむべき対象なのだろう。
憎むほどの価値もないのだ、きっと。

たらふく吞まされた煮え湯ではあったが、
貴重な機会というべきかもしれない。
あのまま僕が何につけても単調な正面突破を繰り返していたら、
もっと狡猾で冷徹な相手に嵌められて、
高い代償を払わされていたかも知れない。
遅かれ早かれ、脱皮すべき時期ではあったのだ。
むしろ、あの程度の敵で幸運だったと言うべきだろう。
他山の石としよう。

名誉毀損は具体的事実を摘示しない限り、適用されない。
脅迫罪における害悪の内容は、
告知者の左右しうるものであることが必要であり、
天罰が当たる、天災に遭うなどの吉凶禍福を説く行為は
告知者の左右できない害悪の告知であり、
脅迫罪とはならない。

かの行く手に落雷あれ。