いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

故意のから騒ぎ

2012-04-28 02:04:06 | 超・いぶたろう日記
忌まわしいほどくり返される「小学生の列にクルマが…」事故。
何とも痛ましい限りで言葉もない。
自分もクルマに乗る一人として、
決して事故など起こさぬよう、重い戒めとするばかりだ。

一方で「子供が犠牲になった!!」とただ感情的に繰り返し、
わめき散らすテレビの騒ぎ方には、やはり嫌悪感を覚える。
震災以降も相変わらずだ。

道路行政に問題はなかったのか、集団下校の是非は、管理責任は…
と至る所に飛び火する。
いや、どう考えてもドライバーが悪いでしょう。
他に何があるというのか。

むしろ論ずるべきは形骸化している免許の交付制度のあり方じゃないの。
さらに言えば危険性に全く関係なく、
取り締まりやすいところから取り締まって、
合法カツアゲのノルマ達成に専心し、
事故防止に何の寄与もしていない警察のあり方でしょうよ。
クルマも少ない夜中の大通りの駐禁や、
標識の見えにくいポイントでの一時停止や、
高速やバイパスの速度違反にはご執心なくせに、
無免許や狭い生活道路の暴走車は看過してるんだから。

自分の映り以外何も考えてないタレントのコメント垂れ流すのも辞めて欲しい。
全国の思考停止おばちゃんが真に受ける。
「ガードレールを全国の道路に整備しろ」、
「クルマの衝突回避技術を進化させろ」、
「登下校時に学校周辺の道路は自動車進入禁止にしろ」
…アホかと言いたい。

こういう発想が何もかも禁止・規制という日本の過保護文化につながっているのだろう。
事故もうんざりだが、こういうテレビの採り上げ方にもうんざりだ。

この、は抜けが

2012-04-26 20:44:36 | 超・いぶたろう日記
ここ半年ほど悩まされてきた右奥歯のさらに奥、
時に腫れて、ひどくなると口を開けるコトすらままならなくなる痛み。
最近ではもう痛みのない日がなく、
ついにたまりかねて、さしもの病院嫌いの僕もカンネンした。
8年ぶりに歯医者通いを決意。
8年前、人生初の歯医者としてお世話になった、練馬の名医。
自宅からは1時間以上かかるので、
毎週木曜の会議の後を利用することに。
休日潰すのはイヤだが、世田谷まで出張った後なら行ける。
「メディカルさーずでー」と位置づけた。

やはり「親知らず」が原因らしく、抜歯しなくてはならないのだが、
腫れが引いてからの方がイイでしょうとのことで、患部の診察と消毒を続けてきた。
一度行くとしばらくは納まるのだが、また腫れ出し、消毒というくり返しを2ヶ月。
そしてついに今日。
まだちょっと痛いので今回も大丈夫だろうと思っていたら、
予想に反して「今日はもう、抜いちゃいましょう!」と先生。

はわわわわ。

痛み、及び痛みを想起させるあらゆるシチュエーションに極度に弱い僕は、
歯茎に麻酔を打つのを想像しただけで子犬のように怯えている。
それをよそに、先生はテキパキと準備を進め、
ゴリゴリとわたくしの歯をお抜きになった。
麻酔のおかげで痛みはないが、想像しただけで全身の骨がでろでろになりそうだ。
時間にして5分くらいであったろうか。
僕には永遠にも思える時間であった。

…しかし、当たり前っちゃあ当たり前だけど、
こんなものすごいこと、先生は毎日事も無げにやられているんだよね。
スゴイことだ。
医者ってスゴイ。
僕の人間的限界とも言うべき地平の遥か向こうに悠々とたゆたう感じだ。

僕もこんなことで、来るべき中高年時代の様々な病の手術に耐えられるんだらうか。
痛みもさることながら、豊かな想像力がいかん。
手術室に入れられただけでショック死しかねん。
レーシックもたぶんムリだな…。
なんせ歯医者ですら、怖くてよその歯医者さん行けないんだから…。

歯の穴に挟まるんじゃないかとおびえつつ、ココイチを完食して帰ってきた、
小心なんだか大胆なんだかよくわからない僕ではあったが。

醜悪な正義

2012-04-24 11:39:26 | 超・いぶたろう日記
京都で小学生の列に無免許運転のクルマが突っ込んだ痛ましい事件について、
またしてもというべきか、その後のマスコミの取材姿勢が問題視されている。
ずっと昔から言われてきたことだが、
以前と違って最近では「ネット」という暴露と反論の手段を手にした一般人は、
マスコミにやられるがままでは居ない。

【報道記者に怒り】京都・小学生死傷事故で救命救急センターが怒りの声「マスコミの人間に心はあるのか」

TECCMC's BLOG(但馬救命救急センターのブログ)

出る杭はことごとく打ち砕かれる日本において、
これだけ姿勢を明確にしたのは立派だと思う。

センターの公式ブログを見ると、ものすごいコメント数。
しかし、どれもが一面的にマスコミを悪とみなし、
「マスゴミ」「クズ」「不買運動だ」とヒステリックに叩くだけ。
これはこれで気持ちのよくない現象だ。

中にはこんなコメントも。
「悲しんでいる家族の様子を放送することで事件に対する世間の関心を惹くという効果もありますよ。
すぐに『マスコミの人間の心は腐っている』などと言い出すのはガキと同じです。」


そして案の定これがボロクソに叩かれている。
「新聞至上主義を振りかざし、人として最低」
「替わりに、あなたが犠牲になればよかった」
「自己擁護か、どこの三流記者?」
「今の新聞記者なんて、Fランク私大でも出ていれば誰でも成れる」
「心の腐った人間」
「死ね、クズ」

などなど、酷いもんだ。

確かに、マスコミの姿勢には疑問があるし、
このコメントも的外れな感はあるから、批判されて然るべきだと僕も思う。
しかし、物事は多様な視点から見るべきだし、
意見は様々にあっていいはずだ。
それをとにかく一元的に「悪者」を仕立て上げ、
みんなで言葉も選ばず袋だたき、というのでは、
実は自分たちが批判しているマスコミと同類なのでは。

「絶対的な正義」を暴力的に振りかざす者の醜悪さを、
マスコミに見出だしているのならば、それくらい解ってもいいはずだが。
得意になって叩いている彼らにこそ、
同じく頭書のコメントに対し、
批判的に寄せられた下記のコメントをそのまま返したい。

「もう自分がおかしいって気づかないんだよこの人。
フグが自分の毒で死なないのと一緒。
どう考えても心の病気だよこの人。
こういう人が今の日本をおかしくしてるのね。」


神はドーナツの穴である

2012-04-16 23:23:22 | 似非哲学の部屋
昔、高校の頃、漠然とだけど、
神様は「ドーナツの穴」のようなもんだな、と思ったことがある。
何も「ない」ところを指して、穴が「ある」と言うところからね。

輪(=自分・人間)を食べてしまうと何も残らないし、
穴を埋めてしまうとそれはもはやドーナツとは呼べないし、
けれど「あんドーナツ」という生き方もありだし、
果たして穴なしのそれがドーナツらしいかどうかも含め、
穴をどれくらいの大きさで持つか、
あるいは持たないかは自分次第、自由だな、と。

穴という形で対象化している「無」について、
存在・非存在を論じてもしょうがないかな、ということだね。

穴の形は人間の在り方によって変化するだろうし、
倫理や道徳の基準としてもだけど、
時に盲目的な背徳や不正義の原動力にもなるから、
まさしく宗教の有り様は人間そのもの。

神や宗教というわかりやすい形でなくとも、
替わりうる「信じる何か」は人それぞれ必ずあるしね。

まあ、これくらいのことは高校生ぐらいまでに、
考えてみてもイイテーマではあるね。