たとえば、平和や減税や反原発、環境保護なんかを求める声に対し、
溜息とともに否定的な反論言辞としてよく用いられる、
「それは現実的でない」というアレ。
僕の周囲でも、大人になるにつれて使う人が増えていった実感があるのだけど、
僕にはどうも長年違和感…というより強い拒否感があったのよね。
エラそうに言う割に、その実ただの思考停止の匂いがしたからだ。
「現実」なんていうけど、それって本当にどうしようもないものなのか。
仕方ないと思わせてるだけなんじゃないか。
たとえ大勢がそうだとしても、
少数の例外を拡げていくことだってできるんじゃないか。
ひどい差別を受けたものたちが、
そんな「現実」を逆転していった闘いの歴史だっていくらでもあるじゃないか。
しかも「現実」なんて簡単に言うけど、
多重な要素が複雑に絡まり合って構成されているものなのに、
その人に都合のいい一面だけを切り取っているだけなんじゃないか。
さも「これだけ」が「当然」のような顔をして、
それ以外は「理想論だ・お花畑だ」と斬って捨てるやり方は、
おおよそ誠実な議論の態度とは言えないし、なんならファシズムじゃないか。
さらに言えば、世の中で「現実」とされているものって、
割と為政者とか知識人とか人気者とか、
権威的な存在が発するものを無批判に受け容れているだけじゃないのか。
自分が異端にされて、バカにされるのを恐れているだけなんじゃないのか。
まあ実際、こういうこと言うと、
たいてい蒼臭い・書生臭いと笑われるんだけどね。
でも、そんなことはとうの昔に丸山眞男が看破して、見事なまでに言語化してた。
日本人のいう「現実」とは何なのか、彼は3つの特徴を鮮やかに指摘した。
ひとつめは、現実の「所与性」。
いわく、現実は所与的なものであると同時に可塑的なものであるのに、
日本では後者を無視して、端的に「既成事実」として置換される。
つまり「現実的たれ」という言辞は即ち「既成事実に屈服せよ」という意味であり、
言われた側は「現実だから仕方がない」という諦観を強要される。
ふたつめは、現実の「一次元性」。
錯雑し矛盾した現実の多元的構造を簡単に無視して、
現実の一側面だけを切り取り、強調する。
現実のある面だけを「望ましい」と考え、
他を「望ましくない」と考える価値判断に立って都合良く「選択」している。
為政者は往々にしてそういうものだが、
マスコミがその片棒を担いでしまうと、
国民の視界に入る「現実」もひとつに統合され、
世の中の「現実」ということになってしまう。
みっつめに、「事大主義・権威主義的な現実認識」。
つまり、その時々の支配権力の選択こそが「現実的」で、
それに反対する者はすべて「観念的・非現実的」というレッテルを貼られる。
戦前戦後に日本がたどった道を例に挙げるまでもなく、
ジェンダーギャップ指数しかり、教育現場の上意下達ぶりしかり、
ブラック企業しかり、現代に至るまでの日本人の硬直した前時代的な価値観は、
すべてこの3つで説明できてしまう。
おまけに「知識人特有の弱点」として、
「なまじ理論をもっているだけに自己の意図に沿わない「現実」の進展に対して、合理化し正当化する理屈をこしらえて良心を満足させてしまう」
ときた。
痛快だ。
既成事実への屈服を屈服と認識せずに、
自ら歩み寄って「理解」を深めた末の思考の「発展」と思いこんでしまうわけだ。
いまの政権の太鼓持ちコメンテーターたち、みんなそうじゃないか。
さらには学者や政治家が必ず最後に言う、
「是非は国民が決めるべき問題だ」なんて便利な結び、
あれはただの煙幕じゃないか、と。
自分の立場をハッキリさせると危ういので、
権威的な何かによって方向性が定められるのを待とう、
あるいは日和見をきめて大勢につこうという保身だろと。
国民に議論や裁断を求めるなら大前提として
《情報の偏りがなく》
《異論もすべて公平に紹介され》
《それらを阻む法令がない》
ことが社会に必要であって、
まずはそれを整えろと声を大にして言うのが、
学者や政治家の道徳的義務じゃないか、と。
いや〜すごいよ丸山真男。
しかも1964年に。
昔、高校で扱ったときには寝ててゴメンよ。
こんな爽快な読後感、久しぶりだよ。
たしかに、知的なポジションにある(と自任する)人ほど、
現実現実と言いたがるよな、というのは感じていたなあ。
でもそれは知的優位にある(と自任する)からこその陥穽であって、
いやしくも「知識階級」ならそんな乱暴に異論を切り捨てることよりも、
他に成すべき誠実な努力があるということなんだね。
いや〜、いくつになっても、本は読むべきですね。
丸山真男「『現実』主義の陥穽」より。