いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

丸山眞男に教えられる

2023-11-22 23:58:35 | 超・いぶたろう日記
たとえば、平和や減税や反原発、環境保護なんかを求める声に対し、
溜息とともに否定的な反論言辞としてよく用いられる、
「それは現実的でない」というアレ。
僕の周囲でも、大人になるにつれて使う人が増えていった実感があるのだけど、
僕にはどうも長年違和感…というより強い拒否感があったのよね。
エラそうに言う割に、その実ただの思考停止の匂いがしたからだ。

「現実」なんていうけど、それって本当にどうしようもないものなのか。
仕方ないと思わせてるだけなんじゃないか。
たとえ大勢がそうだとしても、
少数の例外を拡げていくことだってできるんじゃないか。
ひどい差別を受けたものたちが、
そんな「現実」を逆転していった闘いの歴史だっていくらでもあるじゃないか。

しかも「現実」なんて簡単に言うけど、
多重な要素が複雑に絡まり合って構成されているものなのに、
その人に都合のいい一面だけを切り取っているだけなんじゃないか。
さも「これだけ」が「当然」のような顔をして、
それ以外は「理想論だ・お花畑だ」と斬って捨てるやり方は、
おおよそ誠実な議論の態度とは言えないし、なんならファシズムじゃないか。

さらに言えば、世の中で「現実」とされているものって、
割と為政者とか知識人とか人気者とか、
権威的な存在が発するものを無批判に受け容れているだけじゃないのか。
自分が異端にされて、バカにされるのを恐れているだけなんじゃないのか。
まあ実際、こういうこと言うと、
たいてい蒼臭い・書生臭いと笑われるんだけどね。

でも、そんなことはとうの昔に丸山眞男が看破して、見事なまでに言語化してた。
日本人のいう「現実」とは何なのか、彼は3つの特徴を鮮やかに指摘した。

ひとつめは、現実の「所与性」。
いわく、現実は所与的なものであると同時に可塑的なものであるのに、
日本では後者を無視して、端的に「既成事実」として置換される。
つまり「現実的たれ」という言辞は即ち「既成事実に屈服せよ」という意味であり、
言われた側は「現実だから仕方がない」という諦観を強要される。

ふたつめは、現実の「一次元性」。
錯雑し矛盾した現実の多元的構造を簡単に無視して、
現実の一側面だけを切り取り、強調する。
現実のある面だけを「望ましい」と考え、
他を「望ましくない」と考える価値判断に立って都合良く「選択」している。
為政者は往々にしてそういうものだが、
マスコミがその片棒を担いでしまうと、
国民の視界に入る「現実」もひとつに統合され、
世の中の「現実」ということになってしまう。

みっつめに、「事大主義・権威主義的な現実認識」。
つまり、その時々の支配権力の選択こそが「現実的」で、
それに反対する者はすべて「観念的・非現実的」というレッテルを貼られる。

戦前戦後に日本がたどった道を例に挙げるまでもなく、
ジェンダーギャップ指数しかり、教育現場の上意下達ぶりしかり、
ブラック企業しかり、現代に至るまでの日本人の硬直した前時代的な価値観は、
すべてこの3つで説明できてしまう。

おまけに「知識人特有の弱点」として、
「なまじ理論をもっているだけに自己の意図に沿わない「現実」の進展に対して、合理化し正当化する理屈をこしらえて良心を満足させてしまう」
ときた。
痛快だ。
既成事実への屈服を屈服と認識せずに、
自ら歩み寄って「理解」を深めた末の思考の「発展」と思いこんでしまうわけだ。
いまの政権の太鼓持ちコメンテーターたち、みんなそうじゃないか。

さらには学者や政治家が必ず最後に言う、
「是非は国民が決めるべき問題だ」なんて便利な結び、
あれはただの煙幕じゃないか、と。
自分の立場をハッキリさせると危ういので、
権威的な何かによって方向性が定められるのを待とう、
あるいは日和見をきめて大勢につこうという保身だろと。

国民に議論や裁断を求めるなら大前提として
《情報の偏りがなく》
《異論もすべて公平に紹介され》
《それらを阻む法令がない》
ことが社会に必要であって、
まずはそれを整えろと声を大にして言うのが、
学者や政治家の道徳的義務じゃないか、と。

いや〜すごいよ丸山真男。
しかも1964年に。
昔、高校で扱ったときには寝ててゴメンよ。
こんな爽快な読後感、久しぶりだよ。

たしかに、知的なポジションにある(と自任する)人ほど、
現実現実と言いたがるよな、というのは感じていたなあ。
でもそれは知的優位にある(と自任する)からこその陥穽であって、
いやしくも「知識階級」ならそんな乱暴に異論を切り捨てることよりも、
他に成すべき誠実な努力があるということなんだね。

いや〜、いくつになっても、本は読むべきですね。
丸山真男「『現実』主義の陥穽」より。
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よく考えたら2023年だもんね、未来よね

2023-11-21 23:39:51 | 超・いぶたろう日記
イイか悪いはさておき。
先日、チェッカーズの『涙のリクエスト』は、
いつのまにやら早40年前という話をしたが、
時間や年齢の感覚が鈍化しているなあという件。

先ほどつらつらスマホを眺めていたら、
よくあるテレビ番組の内容そのままの記事で、
「ガクト(50)がダウンタウン松本(60)と中居正広(51)と…」
とあるのを見つけ、つい二度見。

50歳と60歳のトーク番組なんて、同世代以外に誰が見るんだろうか?

僕が中学生の頃(1989年)に置き換えてみよう。
当時50歳の有名人といえば…(調べる)
…五月みどり、山本晋也、鈴々舎馬風、なべおさみ。
わーお。15歳は見ないな。

さらに60歳となると、
藤山寛美、フランキー堺、仲谷昇、庄司歌江、前田武彦。
うわーお。先輩が2人も。
仲谷さんの『カノッサの屈辱』くらいしか見てないな。
前武さんは昔、親父と朝の番組一緒にやってたな。

どうですかこの世代感。
これをもってテレビはオールドメディアだ、若者は見てないんだー!
…なんて強弁するのも短絡だよなあと思うけど。
ただ、ダウンタウンだ、中居だ、なんてキャスティングは、
たぶん四半世紀ほど変わってないように映るわけで、
それがウケると思っているのだとしたら、
制作側と若者との乖離は大きいのではないかと。
とすれば、制作側が寄り添う「テレビを見てくれる視聴者」が、
高齢化してるのは間違いないかなと。

ジャニーズ目当てとされる若者も、本当にそんな沢山いるのか知らないけど、
ジャニーズがああなって紅白からも排除され、テレビから遠ざけられて、
ますますテレビ見なくなるのかな。
そもそも、僕なんかからするとキャスティング以前に、
どの番組も低予算かつ同工異曲で、見る気がしないのだが。
あれでも若い人は面白く見られるのだろか。
やはり僕(というおっさん)の極度に狭いストライクゾーンのせいなのか。
それとも若者だったらアレくらいの薄味でも楽しめちゃうのか。
僕が若い頃はもっと濃厚でドギツイやつが好きだったけど。

はたまた、キャスティングの不変ぶりは後進の人材不足なのか、
先達のアンデッドなのか、アンチエイジング礼賛的な世相の反映なのか、
そのへんようわからんけども。
いずれも若き日のダウンタウンとかとんねるずなんかだったら、
鬱陶しいお決まりの閉塞感に反発剥き出しで、
ぶっ壊しにいってたんじゃないかなあ…なんてノスタルジー。
それもまあプロレス的な予定調和だったと、
わかってしまう程度にはつまらない大人になった。
そんな彼らもいまやすっかり安楽な大御所ですしね。

まあ、かくいう私も程なく五十。
生徒から見たらそれくらいの距離感。
それなりの温度差とか視界・価値観の違い、気をつけないとね。

ブラウン管(という表現も死語になりましたね)の中にいた、
若き日のヒーローたちと同じく、僕らも歳をとりましたなという話ですわ。
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涙のノスタルジー

2023-11-19 22:38:14 | 超・いぶたろう日記
保育園で教わったのか、息子が『涙のリクエスト』を歌い、
あやふやなところは一緒に歌ってくれと言う。
ただ、父だって世代ではあるけれど歌詞を諳んじるほどくわしくはない。

というわけで一緒に動画を見たら、
当然のことなれど「1984年リリース」との表記にビックリ。
なんともう40年も経っていたのか……。

そりゃあ、いまの中学生から見れば、
僕らの聴いていた音楽なんて化石だろうなあ。
僕が中学生の頃から40年前というと1949年。
つまり『青い山脈』だ。
息子の年齢に重ね、自分が4歳の頃から40年前となると…1939年。
戦前ですよ。第二次大戦スタートの年。
ヒット曲の面々ほとんどわからない。
かろうじて淡谷のり子とか笠置シヅ子とか…名前しか知らない。
もはや歴史だ。

自分の通った音楽やアニメや漫画を、
当然のように若い子の前で語っちゃいけませんね。
え?知らない?とか言われても。そら知らんわな。

♪な〜み〜だぁ〜のぉ〜、り〜く〜えぇ〜〜す♪
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見ちゃったんだもん

2023-11-14 10:34:57 | 超・いぶたろう日記
娘が結婚するといって相手を紹介してくる夢を見た。
見てしまった。まだ2歳だってーのに、どんだけ親バカなんだ。

成人した娘も、相手の顔もおぼろげで覚えていないが、
ハライチの片割れや虎舞竜の人ではなかったことに一抹の安堵を覚えている。

夢の中とはいえ、「とうとうこの日が来たか…」と胸にズシッと来た。
実質まだ娘のパパ歴は2年なのに。
パパ、パパとひたすらに慕ってくれるいまから、
いつか来るその日に怯えている深層心理の表れだろうか。

周りからは
「お父さん、娘ちゃん可愛がってたから、奪られちゃうのはツライでしょう…」
なんて慰められちゃったりしてた。ああ、してた。

果たして、将来そういう局面を迎えたとき、
僕は何を言うのだろうかと思っていたが、
夢の中の未来の僕は驚くほど躊躇せず、ハッキリとこう言った。

「別に僕はね、娘を独占したいわけじゃなくて、世界でただひとりの憩惟の父親であることが幸せなわけで、その座は何をどうしようと誰にも奪われないんだから、『奪られる』というのは違うよ」

そして、結婚相手と思しき青年に向かって、

「だからね、君にも娘にとって世界でただひとりの素敵な旦那さんになって欲しいんだ。そしてその座を誰にも譲らないで欲しい。僕がここまで、どれだけこの子を可愛がってきたか、わかる?その僕の思いを踏みにじって、娘を裏切ったり辛い目に遭わせたりしたら、僕は君に何するかわからないよ?覚悟はいいね?」

だってよ。すごい。おれ。オトコマエ。
自分でもこんなこと言うとは思ってなかった。
でもそうだ、言語化されてみると、
たしかに僕ならそんなこと言いそうな気がする。

目覚めてなお一言一句明確に記憶しているほどの鮮やかな衝撃。
たしかに内なる自分を見た。
さだまさしを超えた気がする秋の夜。
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やった!日本一!!

2023-11-05 21:45:18 | 超・いぶたろう日記
とうとうやった!!
史上最高のタイガース、
万歳!!万歳!!万歳!!

38年ぶりの日本一を、浜松の築56年の旧宅で味わう。
父の歓喜の姿に訳もわからず一緒に喜んでくれる娘を胴上げする。

思えば本っ当〜に長かった。
前回の日本一は真弓・バース・掛布・岡田の豪打爆裂、
伝説の「あの」1985年のタイガースだ。
僕は小学五年生、まだランドセルを背負っていた。
何点差だろうがホームラン連発でひっくり返す猛虎にすっかり魅了され、
この歳から野球を見始めた僕はそのまま虎党に。
こんな強いチームこれから何度も優勝して、
日本シリーズも楽しめるんだろうと思ってた。

ところがどっこい、優勝どころかやってきたのは暗黒時代。
18年の暗いトンネルを抜けた先に星野が導いてくれた日本シリーズでは惜敗。
2年後に雪辱を期した2005年の岡田タイガースは、
ロッテ相手に自慢のJFKを繰り出す間もなく惨敗。
そこからは優勝争いには絡むものの、ここ一番で勝ちきれず、
優勝も短期決戦もことごとく逃す、期待とため息を繰り返すシーズンが続く。
気づけば僕も48歳、2児の父になっていた。
選手の中にも38年前の歓喜を知るものはない。

とにかく、どういうわけか勝負弱い。
秋に怒涛の連勝で追いついたかと思えば、優勝争いの天王山で連敗する。
シーズン序盤から独走したかと思えば、夏を過ぎたあたりから大失速する。
2008年の悪夢は言うに及ばず、2021年の屈辱も記憶に新しい。
短期決戦にもとことん弱い。
CS5回出て4回負けてる。
唯一、巨人4タテでわずかに溜飲を下げた年があったけど、
シリーズでソフトバンクにコテンパン、
最後はまさかの西岡守備妨害なんてのもあった。

期待しちゃダメなチーム。
長い虎党はみんな、どうせダメだろう…という癖がついている。
期待すると負けるという呪いに苛まれ、
健気にも期待しないフリをして涙目で期待する。そして破れる。

そんな、タイガースの呪いをすべて解いてくれたのが、今年の岡田阪神だった。
秋に失速どころか、9月に11連勝であっという間に優勝。
CSも圧倒的に全勝。
シリーズもあの強いバファローズ相手に互角以上に渡り合い、
とうとう栄冠に辿り着く。
期待するとそれ以上に輝く、新しいタイガースを見た。

それも、かつてのように金満補強に依存せず、
選りすぐりのドラフトと育成で鍛えた若手の生え抜き中心に、
MVP選出に悩むほど誰もが活躍するチームだ。
歴史や伝統の呪縛もない。
岡田の重厚な戦略と計算と演出のもと、
目の前の勝ちに邁進し躍動する選手たち。
ずっと見たかったタイガースがある。ああもう夢みたいだ。

来年も見たい。再来年も見たい。
本当に素晴らしいシーズンだった。
そのうち息子や娘も一緒に応援してくれるだろうか。
いつか一緒に甲子園行けるだろうか。
道頓堀には飛び込まない程度に、虎党に育て上げたいものだ。

自他共に認める、幼い頃からの徹底したアンチ巨人。
それはナベツネ時代に決定的に膨れ上がり、いつのまにか、
大昔の阪神や仰木近鉄に象徴されるような
「弱いものが強さに驕る(ように映る)ものを倒す」
構図ばかりを好むようになっていたのは否めない。

そんな僕の偏狭な野球観を、今回の日本シリーズはひっくり返してくれた。
王者同士の緊張感溢れる正々堂々の戦いって素晴らしい。
勝っても負けても贔屓チームのことは誇れるし、
相手チームも素直に讃えられる。
悪役の要らない野球観戦って実に爽やか。

…とか言えるのも勝てたからだろな…。
ああなんてゲンキンなタイガースファン。自覚あり。

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