非常に複雑な気持ちだが、
単純だなあ。
でもそうすると、ここ数年のタイガースの、
それにしても、セリーグはいまいち面白くない。
ソフトバンク→2003年シリーズの怨みが…(城島もだが)
しかしあれですね。
アップル、球団買収しないかな。
しかし今年はセもパも優勝争いはものすごい熱戦で、
大胆細心、豪気だけれど気配りの男、星野仙一。
彼の一本ぴんと筋の通った言動には、学びたいものだ。
阪神退団会見で、今後についての質問に、
「きょうはタイガースファンに感謝の意を込めた会見にしたい」
とやんわりシャットアウト。
新天地ばかりに目がいきがちなこのタイミングで、
きっちりと一線を画し、ここまでの感謝を述べる。
虎党がどういう目で今日の彼を見ているか、十二分に理解した、
誰もが気持ちよく送り出したくなるような心遣いだ。
うん、さすが。どっかのドラマーとは違う。
解散ライブで新バンドへの意気込みを語るようなマネはしないんだなー(笑)。
空手部の後輩が結婚するというので、二次会に出席した。
ここ5年間、ほぼ無欠勤で働き通しだった僕だったが、
今年はその鬱屈を晴らすかのごとく、新婚旅行だ結婚式だで休みまくっている。
特に土曜日は代講が集中してしまい、子供たちからはブーイングだ。
いや、きちんとした先生に代講をお願いしているし、
いざ当日になったらなったでその新鮮な空気を楽しめる彼らではあるのだが、
「また休みなの~!?」と言ってもらえるうちは華だ。
すまんすまんと言いながら、事情を説明して理解をもらえた。
思えば、ここまで結構な不義理をしたものだ。
僕は基本的には祝い事やみんなで集まるのは大好きだし、
欠かさず出席するのが美学でもあった。
それがバンドが終わってカタギになってからは、
なかなか果たせず
(会社がNGというのではなく、人員不足でどうしようもなかった)
大切な友人の結婚式や二次会をいくつも欠席せざるを得ず、悲しかった。
塾経営は人件費のコントロール(削減一辺倒ということではなく)が要諦であり、
ある程度の規模に至るまでは、人員配置にも余裕が無く、
講師はなかなか休めない。
しかし、僕は「休めない」仕事なんて絶対に異常だと思うし、
本当はそんなものありえないと思う。
安易に「休めない」と思い込んで言い聞かせてと言うのではなく、
休むために何が必要かを考えて、そのシステムを整えるために一生懸命仕事をする、
これが本当の在り方だと思っている。
日本人独特の、休みを白眼視するような価値観は下の下だ。
欧米人のように個人の権利を振りかざして、
自分の都合最優先というのもどうかと思うが。
「周囲の状況もわきまえずに平気で突然休む」
のがサイアクなのであり、そこだけ気をつけて上手に休むべきだと思う。
会社の都合で一方的に休日出勤を強いられるのは良くて、
社員の都合で一方的に平日休暇を申し出るのはダメというのは筋が通らない。
お互いに
「働いて戴いている」「働かせて戴いている」
という感謝の気持ちで業務に向かえるのであれば、
本当に気持ちの良い職場、強い組織になるだろう。
そうありたいものだ。
さておき、招待された先は船の上だった。
東京湾を2時間半ほどクルーズし、その間船内の会場でパーティをするという趣向だ。
実はこれ、僕も考えたことがある。
どころか、試しに乗ってみたこともある。
船内はキレイだし、食事もおいしいし、夜の東京湾は絶景だ。
船上パーティなんていうとお高いイメージだが、
個人利用でもパーティ利用でも、実はそう思うほど高くはない。
一般のパーティ会場と同じくらいだ。
僕が断念したのは、時間がタイトだったからだ。
僕のイベントは仕込みが多く、まず「おす」。
Rebirth時代を思い浮かべれば明らかだ。
せっかくのパーティで時間をせかされることほどイヤなことはない。
だから、僕は何よりも自由度の高い会場を優先した。
しかし本日の新郎は僕の直系の後輩と言うこともあり、
当然イベントに賭ける情熱は並々ならぬものを持っているのだが、
ちゃんと時間内に収める賢さも備えており、
この会場の選択に至ったようだ。
会場に着くと同期と後輩に迎えられた。
意外に思われたかも知れないが、僕は空手部の出身で、
野球部・器械体操部・スキー部・音楽部・写真部…と渡り歩いた僕が、
唯一、中2から高3の卒業までやり遂げた部活だ。
空手部は25年程度の歴史を持っていたが、
時代によって浮き沈みが激しく、当初こそ正統派の体育会系であったようだが、
あるときは最強の主将による恐怖政治がひかれたり、
あるときは学園中の武闘派が集う巣窟だったりして、
僕が入部した時は顧問も愛想を尽かしてしまうなど、廃部寸前の状況だった。
そこからHさんというたいへん人柄のいいまじめな先輩が少しずつ立て直し、
続いてMさんとUさんという人を惹きつける魅力をもった先輩が引き継いで、
空手部にも正常な運営と部員とが戻り始めたあたりで、僕が継ぐことになる。
僕はといえばその頃、時を同じくして文化祭実行委員長に当選しており、
40年ほど前の学園紛争の後遺症でいまだ生徒会の存在しない麻布学園において、
それは生徒会長の代わりという位置づけであったため、
入学式でスピーチをするなんていう立場にあった。
もちろん、ただ挨拶をして終わりなんていうわけにいかなかったが(笑)。
何をしゃべったかはもう忘れたが、
壇上で空手着で試割りのパフォーマンスをやったのは覚えている。
あとは窓から人生ゲームの札束をばらまいたりしたこともあった。
そんなこんなで僕の代には入部希望の新入生がたくさん集まってくれ、
空手部は大いに盛り上がったのである。
ちょうど、その時の新入生の代が、本日の新郎というわけだ。
だから僕は彼らの代には有名らしい。
船内でもたいへん失礼ながらあまり面識のない後輩たちが、
「イブキさんですか!?」「握手してもらってイイですか?!」
「写真撮ってイイですか?!」
なんて、もうこちらが恐縮するほどに再会を歓んでくれる。
嬉しいやら照れくさいやらだが、まあ、嬉しい(笑)。
「イブキさんは僕らの代では特別な存在ですよ」
いやもうほんとにそんなたいした人間ではないのですが………。
そう言われるまではまったく意識もしていなかったが、
彼らにしてみたらそうかもしれない。
生まれたてのヒヨコの刷り込み効果と言うべきか、
厳しい受験競争をくぐり抜けて、胸一杯に希望をふくらませて臨んだ入学式で、
アレを見せられちゃあなあ(笑)。
僕が思う麻布学園像というのは、
一般に偏差値だとか東大入学者数だとか、いわば「サンデー毎日」的な、
下世話な視点でのみもって語られがちな進学校のイメージではあり得ず、
「勉強しかできないヤツはカッコ悪い」という美学と、
強烈な自意識に支えられた個人主義集団であった。
だから、確かに勉強させればものすごいヤツはいっぱいいるのだが、
それは彼らが持ちうる能力の発現の一片に過ぎず、
その才能をいかに世間の評価とか価値観に関係なく、
自分の好きな分野に応用し発揮できるかと言うことにあった。
だから、優秀な頭脳を持ちながら、その使い方を間違っているヤツはたくさんいる(笑)。
そこに何より誇りを感じる偏屈集団でもあるのだ。
麻布生が何よりいやがるのは、
「へぇ~、御三家の、あのめちゃくちゃアタマのいい学校でしょ~」
的なコメントである。
あれは何だか、逆説的にバカにされている気がする。
出身校の名前を出すのも憚られるときがある。
訊かれたから応えただけなのに、
「エリート」扱いされたり、「天才」呼ばわりされたり、
はたまた「中学お受験の犠牲者」として勘ぐられたり、
現在の職種と比較したり(「なんで大企業とか行かないの?」だの)、
強引にこじつけたり、まったくもって下世話きわまりない。珍獣扱いである。
「『だから』アタマがいいんだ」とか、「『じゃあ』本当はアタマいいんだ」とか、
もうこういう無神経なヤツとはクチも聞きたくなくなる。
訊いておきながらあとで余所で「鼻にかけている」「イヤミなヤツだ」等々、
後ろ指を指すようなのもいる。
これは僕だけかと思っていたら、やはりどこでも同じようで、
いわゆる進学校出身者は少なからず体験する「逆差別」であるらしいが、
僕は受け流さずについつい、皮肉っぽく反論してしまうことがしばしばだ。
1987年2月1日に行われた、たった一回のペーパーテストの結果だけで、
入学後はろくに勉強もしてないし、医者でも弁護士でもなけりゃ学者でも政治家でもない、
大企業にもいなければ起業家でもなんでもない、
ただ一個の僕でしかない僕を買いかぶるのはバカげている。
僕を評価してくれるのであれば、その根拠は、
僕の弁舌だったり歌だったり、パフォーマンスだったり、
そして作品や仕事であって欲しい。
学歴なんて誉められてもちっとも嬉しくない。
それは、今の自分を作り上げた重要な要素のひとつではあっても、
何らかを成し遂げた結果だとか、能力の証明だとかの勲章たりえないものだ。
むしろ、そういう歪んだ価値観が子供たちをして受験戦争に向かいしめ、
多くの悲劇を生む親のエゴに直結しているような気がする。
バカバカしい。その一言である。
閑話休題。
で、当時の僕はそこまで悟っていたわけではなかった(目立つことにただ一生懸命だった)が、
何となくそこら辺を解ってほしいなという気持ちは持っていて、
入学式で
「勉強しかできないヤツになるなよ」「好きなこと見つけて思い切りやれよ」
というメッセージを送ったつもりだった。
果たして、それは彼らの代に必要以上に浸透してしまったらしく、
「勉強『すら』できないヤツ」=「自分の好きなこと『しか』しないヤツ」、
つまり僕自身の在り方を正当化したような、
たいへん自由奔放な層をも生んでしまったようだった(笑)。
僕が卒業後、学校を訪ねると決まって、
「お前がスピーチしたあの代な、ヤンチャだらけだぞ、どうにかしてくれ」
と言われたもんである。シメたもんだとニヤニヤ聞いていたが(笑)。
そのヤンチャくれの、勉強しない代表格が本日の新郎だったのである。
彼はまっすぐ空手部の部室にやってきて入部を希望し、
その後はまあ僕に輪をかけてと言うと失礼かも知れないが、とにかく勉強はしなかったようである。
授業をいかに妨害するか、どんないたずらで周囲を唖然とさせるか、
そんなことばかりに血道を上げて6年を過ごしたようである。
もちろん、毎年進級査定会議に呼ばれるのはおきまりであった。
だからまあ、僕にしてみればカワイイヤツなのだ。
そんな彼もすっかり立派になった。
一般企業に勤めた後、思い立ってロースクールに通い始め、
勉強の合間に東南アジア各国を旅しながら、あらゆることに挑戦し、
見事司法試験も突破してしまったのである。
いまではれっきとした弁護士だ。
こういうヤツは頼りになる(笑)。
今もって彼が僕を先輩として立ててくれるのをいいことに、
今後何かややこしいことが起きたら全部彼に面倒見てもらおうと目論んでいる(笑)。
彼に限らず、後輩には弁護士、会計士、医者がゴロゴロいた。
社会的には立派な立場にある彼らだが、ことさらにそれを言うのは、
先述の「麻布出身だから…」という見方と同レベルだ。
僕が面白いのは、今どういう立場にあれ、
集まるとごく自然に昔に戻る、自然体で先輩後輩になってしまうということだ。
僕は僕で、昔の関係を持ち出して威張り散らすなんて言うのは恥ずかしすぎるので、
失礼の無いよう心がけてはいるのだが(それが「先輩の品格」とも言うべきものだろう)、
彼らは皆一様に、こちらが恐縮するほどに最敬礼なのである(笑)。
食べ物はとってくる、グラスが空く前に飲み物はつぐ、オーダーはする、
もうここに至ってはお互いイイ大人じゃないか、と思うのだが、
後輩にしてみればそういうもんでもないらしい。
でも、自分も先輩に対してはそうかもしれないな、とも思う。
考えてみれば、不思議なことだ。
彼らとは先輩後輩だったとはいえ、実質2年ほどのことだ。
社会人になってから出会った人と、
1-2年のつきあいがあったとしても、まあ大したことはない。
他人行儀のままだろうし、しばらくで忘れてしまうだろうし、
10年経って再会しても話題に困る(笑)。
それが中高時代の1年間というのは密度が違うというのか、
心身に染みついているような感じがある。
だからそのときのメンバーで集まると、あっという間に、戻る。
18年前の、スラムのような生徒会館の、ベニヤで仕切られただけの部室、
天井からはサンドバッグがぶら下がり、壁は品のない落書きだらけ、
なぜか冷蔵庫・電子レンジ・ガスコンロ・テレビ・ファミコン完備、
ベンチプレスやマットレスに座り込んで、カップ麺や菓子パン片手に、
何をどうするでもなく、ただみんなで一緒に暗くなるまでだべってた、
あの時代、あの空気に。
時は流れ、場所は竹芝桟橋から船出するクルーザーだったり、
浜松町の居酒屋だったりするけれど、
皮膚感覚は当時のまま蘇る。
これは何ものにも代え難い、僕の財産だ。
あの場に同席したみんなが同じ気持ちでいてくれたとしたら、僕は嬉しい。
世の中は不条理だから、理不尽な要求を重ねられ、不毛な闘いを続けているうちに、
「世の中バカばっかり病」や「俺は実はひとりぼっちなんだ病」なんて、
恐ろしい病が影を落とすこともある。
特効薬はないかも知れないが、昔の仲間に会うことで、それは必ず改善される。
自分が自分でないことを要求される企業組織、実社会というのは冷たいものだ。
自分が自分であることを思い出させてくれる昔の仲間は、だからこそ貴重だ。
目の前の慌ただしさ、忙殺される日々の中で、
ついつい昔の仲間との連絡はおろそかになってしまいがちだ。
つながる手段はいくらでもある。
こういう機会が自然と増えてくれれば、誰しも心を病んだりすることもないのだろう。
T君に感謝したい。
そして、おめでとう。
これからも奇天烈な人生を謳歌して下さい。