いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

「先生」なんてガラじゃないけど

2017-11-25 23:01:27 | せんせいとよばれて
振り返れば15年、
1000人くらいの生徒と一緒に勉強してきたことになる。

始めた当初は音楽活動の傍らアルバイト講師だったから
、まさかこんなにどっぷり浸かることになるとは、
ましてや自分の教室を開くことになろうとは、思いもしなかった。

これだけたくさんの生徒を教えていると、
中には僕なんかよりもずっとずっと優秀な人材になり、
大活躍している人も出てくる。
僕はいつも卒業学年の最後の授業で「出藍の誉れ」の言葉を引き、
最後の宿題とするのだけれど、
その宿題を立派に果たしてくれたわけだ。
そんなとき僕はただ嬉しいばかりでなく、
曲がりなりにも「先生」らしい職責を果たせたのかな、
とささやかに思う。

ただ、僕は
「自分が育てた」「自分が合格させてやった」
みたいなことは決して言わないし思ってもいない。
塾屋には割とこういう手合いも多いのだけど、僕はキライだ。
子供の頃、たまたま「先生と生徒」という関係で出会った、
ただそれだけのことを笠に着て、
大人になってもなおマウンティングして悦に入ろうだなんて、
ものすごく浅ましく、恥ずかしいことだ。
僕が昔お世話になり、
いまもって尊敬する先生方にそういう人はひとりもおられない。
その意味では今も恩師の方々はあるべき姿を
背中で見せてくださっているように思う。

思慮深く、知識と教養に満ち、
広く温かかった恩師の方々の薫陶を思い返すにつけ、
僕のような軽輩が同じく「先生」を名乗ることには、
今もっておこがましさを感じずにはいられない。
だが、そんな僕でも「先生」の役割を演じられるとしたなら、
その理想は「触媒」であることだろうと思っている。
生徒が自覚的に変化し成長する、その助けになれればいい。
僕が成長「させてやる」わけじゃない。

その意識が自然と
「自分が合格させた」という認識を遠ざけるのだろうなと思う。
生徒をみんな従えよう、自分色に染めようなどと恐ろしいことだ。
子供たちを前にした「全能感」の錯覚が、
教職にある者のすべての誤りの発端であるような気がしている。
そもそも生徒を自分よりも下に見て、枠をつくってしまっている限り、
自分以上の存在には育てられないだろう。

「先生」といえど所詮はひとりの人間、
まずは自分の限界を悟ること、これが大切じゃないだろうか。
学力・指導力の研鑽を欠かさないことはもちろんだけど、
それでも生徒の疑問にすべて完璧に答えられるなんていうのは
思い上がりに過ぎないだろう。

そうした自己満足的な狭い意味での絶対性を目指すのではなく、
あくまで主体は生徒の側において、
自分は彼らの成長にどう力を貸せるか、
役に立てるかを考えるべきだと思う。

くすぶっている子にはちょっとした視座の転換を、
混乱している子には状況の整理に手を貸し、
落ち込んでいる子には一緒にやらないかと手をさしのべる、
それくらいのことはできる。
目先しか見えていない子には
少し未来を語ってやるくらいのことはできる。
目標を示し、道筋を示し、
背中を押して共に歩いてやるくらいのことはできる。

でも、そこからゴールまでたどり着けるかは結局、
どうしようもなく本人の資質や努力、
そして運次第であることは、どうあっても動かせない。
だから勝ち取った成果も当然本人のもの。
触媒に過ぎない僕らがエラそうに横取りして良いようなものではない。

そして、反面では厳しいことながら、夢破れたときもまた、
結局は自分で背負っていくしかないんだよね。
僕らはその結果に、
もちろん職業的に大きな責任を感じないではいられないけれど、
でもだからといって金銭や何らかの無償奉仕くらいで、
彼らの人生に責任をとれるわけがない。
そんなに軽いものではないだろう。

ただ、喜びも悲しみも、嬉しさも辛さも
シェアすることはできる。
関係性次第で喜びは倍に、
悲しみは半分にできるかもしれない。
たとえ入試では失敗したって、
その後の人生の糧にできる心の強さを持てるかもしれない。
そんな彼らの心に変化を与えられる触媒であれれば良いと思う。

管理に手を焼いた大人によって、
問題だとされる子のほとんどすべては、
一方的な烙印を拒んでいるだけで、理解と共感に飢えている。
大人はみんな忙しい。
年齢相応に幼く拙く身勝手な自分に
根気よく向き合ってくれる人はなかなかいない。
そして親だって一生懸命ながら、手探り。
実はどうしていいかわからない。

核家族・共働きが当たり前のいま、
繊細な年頃を迎えた子供たちにとって
「親以外の信頼できる大人」の存在がどれほど大きいだろうかと思う。
それに恥じない自分であろうとし続けることは、
ある意味「志望校合格」を確約することよりも難しいかもしれない。

でも、挑んでみるだけの価値はある、と思う。

タイムワープご褒美

2017-11-16 23:55:00 | 超・いぶたろう日記
授業を終えて教室を出ると、事務室にうら若き女性が。
遠目には分からなくとも、
近づけばくっきりとかつての面影を残すその人は、
果たして五年前に某私立中に進学した教え子のKさんだった。

あの学年の子たちはみんなまっすぐないい子たちばかりで、
クラスの仲も良く、とても印象に残っている。
結婚するんだと報告したら泣かれ、
合宿で一位を取れなかったと泣かれ、
最後は最後で泣かれ、
卒業してからも偶然出会うとまた泣かれ、
と涙涙に彩られた教え子たち。

今もってたまに近況を知らせてくれるのだけど、
今回は推薦で医学部に合格したとの嬉しい報告。
もとより才女の片鱗を感じさせる生徒、
その後も頑張ってくれていた様子。
思い出話に花が咲き、1時間以上も話し込んでしまった。

懐かしい話も沢山したのだが、
彼女の話してくれた「医学部の面接」のやりとりが実に興味深かった。
大学側が医師の道を志す人間に何を求めているのか、
伝わってくるようだった。

おそらくそれは、学力的な裏付けはもとより、
生命と向き合う倫理観、患者の気持ちに寄り添える人間性、
そして科学的な(スピリチュアルでない)思考であるだろう。
いまだからこんな読み取り方もできるけれど、
顧みて18の時の自分にそんなことができただろうか。

彼女は事前に丸暗記したような答えではダメだと見抜き、
その場で一つ一つ考えて答えたという。
そんな彼女から見てこの人は合格するなという人ばかりが受かっていたと。
的確な洞察力だと思う。
嬉しそうに語る彼女の姿には大きな成長も感じられてこちらも嬉しくなる。

他の同期の子たちの結果を待って、
春にお祝い会をしようと約束し、別れた。
これから本番の子たちも頑張ってほしい。

実に味わい深い時間だった。
この仕事のご褒美は、
こうしてかなりの時間差で届けられたりもして、
それがまた実に、イイんだよなあ。

悪魔は皆優しい

2017-11-12 07:40:34 | 超・いぶたろう日記
起きたことは大変恐ろしいことで、
犯人の残虐性や罪深さは否定すべくもないし、
また被害者を揶揄する気もないけれど、
安易にネット上で「死にたい」だなんて赤の他人に甘えると、
こんなに危険だということはもっと認知されていい。

辛い、苦しい、寂しい、痛い、逃げたい。
誰かに救いを求めたくなる気持ちはわかるけれど、
残念ながらそんなに都合よく、
自分だけを構ってくれる人などいるはずがない。
誰も皆、そんなに自分に興味なんかあるはずがない。
ましてや赤の他人が。
ただ自分の欲望に合致するときにだけ、
彼らは親身を装って近づいてくる。
「あなたのために」「私だけは」と。

事の本質から目を背け、甘いささやきに身を委ねてはいけない。
そう、「ここぞという時、悪魔は、みな優しい」のだ。

正論ではあっても

2017-11-11 11:11:11 | せんせいとよばれて
子供は親の思う通りになんかならない。
でもそれはごく自然なことで、悪いことでもなんでもない。

いくら気に入らなくとも、
いまの子供の姿は遺伝でもあり環境や親の接し方の累積でもある。
つまり原因は親にある。

その自覚なく、自分のできなかったことを子供に押し付け、
それができていないからと他責的に子供に原因を求めるのはあまりに身勝手。

逆にウチは違うちゃんと思い通りになってる、
と思ってる親はもっと危険。
そう見えてもそれはどこかに必ず不自然な何かが隠れてる。
見逃しているだけ。

どちらにしても子供の内部にはマグマが溜まってる。
それが噴火した時に原因がわからず慌てふためく。
それくらい子供が見えていなかったということなのに、
父母で責任を押し付けあったりする。

親はどうして自分のことを棚に上げて、
子供のことばかり一方的に言うんだろう?大人はアンフェアだ。
そんな気持ちはかつて自分が子供だった頃に散々感じたはず。
それを思い出せばいいだけ。

大人の自分がいくら理不尽な環境に堪えているからといって、
子供に同じように要求するのはおかしい。

都合の悪い時だけ「まだ子供」。
都合のいい時だけ「もう大人」。
そんなズルさは子供だけじゃない。
親の常套句でもある。

何でもかんでも管理して抑圧して、親がいなくなった時に、
自分でどうすればいいのかわからなくなるような子供を育てて、
何か意味あるのかな。

以上、とりとめのない独り言。
言うに言えない正論を、どう言い換えて伝えていくべきか。
(親だってツライ)

先生ってうざいよね

2017-11-08 23:55:41 | 超・いぶたろう日記
学校教育に言いたいことは色々あるけど、
もうちょっと肩の力抜けばいいのに、と思うことは多々。
誰か1人(親でも担任でも)だけでその子のすべてを背負えるなんて
妄想だし錯覚だし思い上がりだし、できることには限界がある。

だからシェアして周囲の大人が連携すべきなんだけど、
なんだかんだ「僕だけはわかっているよ」をやりたがる
自己満足・自己完結な人が多いし、
また逆に悲しいくらい子供自体にそもそも興味関心のない人も
(なんでこの仕事選んだのと疑問に思うほど)多い。

生徒のためにと騒ぎたがる人も、
実のところは自分に都合良く評価の対象にしてるだけだったり。
みんな子供の視点に立てていない。

あるべき教育・教員の形なんて、
実はものすごくシンプルなものであるはずなんだけど。

日本シリーズ2017雑感

2017-11-04 23:49:38 | 超・いぶたろう日記
うーん、強いなホークス。
ベイスターズもよく頑張ったと思うけど、
総合的なチーム力に差がある以上、
肝心なとこでミスが出ちゃうと勝てないね。
今永が好投しただけに残念。

山崎が内川に打たれた9回の本塁打より、
8回のみすみす献上した1点が痛かった。
さらには最後の決勝タイムリーより、
その前のゲッツー崩れが痛かった。

にしても、ファンの方には申し訳ないんだけど、
個人的にはあのホークスのニヤニヤしながらプレーする
チームカラーがどうにも好きになれない。
明るくやろう、という方針なのかもしれないけど、
ミスしても打たれてもヘラヘラ笑ってるように見えて、
なーんか感じ悪くてやだな。
松田のケンケンとか見ててムカムカする(笑。

とはいえ、誰も倒せなかったんだからしゃーない。
強いのは強い。
タイガースだったら1つ勝てたかどうか。
ホークスの投手陣はみんなエース級だし、
ベイのあのクリーンナップくらいの攻撃力がないと太刀打ちできないね。
筒香は硬かったかなー。

そしてやはり思うのは、
カープが出てたらどうだったか…見たかったなー。
CSの是非はよく言われるところだし、ベイの奮闘は認めるけれど、
やっぱどうもなー。モヤモヤ残るよなー。