いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

引っ越しまーす

2020-05-28 22:38:18 | 超・いぶたろう日記

自粛警察みたいな人にごちゃごちゃ言われたらイヤだったんで黙ってたんですが、
もう緊急事態宣言も解除されたことだし、いいよね。

12年住んだいまの家を離れることとなりました。
次の住まいはもうちょっと千葉寄り。
僕はやたらに高くて人もクルマもごちゃごちゃした都内より、
道も物件もスペースに余裕のある郊外の住宅街の方が好き。
近くにでーっかい公園があって、園庭の広い保育園もあって、買い物も便利。
高速乗っちゃえば、通勤にかかる時間もあまり変わらず。
いいとこ見つけたわー。

いま住んでいるところはとても便利なんだけど、
バイパス沿いなんでトラックやら改造バイクやら救急車やら結構うるさい。
最近は上の階の住人が朝から晩まで走り回っててこれまたうるさい。
ここに入ったときは犬が二匹飼える&バイク可というのが決め手だったんだけど、
今回は自然と子供のことを考えた環境選びになりましたね。
人生のステージが変わるってこういうことなのね(笑)。

12年ぶりの引越なんで、家具や荷物の量も凄まじく、この2週間てんやわんや。
家じゅう段ボールに埋め尽くされてます。
ただ、残像が浮かぶほどに犬たちとの思い出が染み込んだ、
愛着ある我が家と街並みを離れるのは寂しいなあ。
土佐日記の心境だわ。


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皮膚科デビュー

2020-05-26 19:34:50 | 超・いぶたろう日記
加齢による皮膚トラブルの増加に悩むの巻。

・頭頂部に謎の大きなイボ
・首筋に加齢イボ
・足の裏にウイルス性の尋常性疣贅
・背中にめり込んだホクロみたいの→粉瘤と判明
・脇の下の脂漏性皮膚炎(超痒い)

心配だったとこ、まとめて診てもらった。
いずれもヤバイものはないそうで、よかったよかった。
ネットで見るとメラノーマとか名前はドラクエっぽいのに
超怖い病気ばっかヒットしてブルーだった。
足の裏のイボだけ、うつる可能性があるとかで、
液体窒素プシュープシュープシュー。

……超いてぇ、歩けねえ(泣)
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内省的な思考なるもの2020

2020-05-25 07:00:14 | 特選いぶたろう日記
昨年、44歳にして長男を授かったことをきっかけにして、
自分の人生について考えることが多くなった。
過去を振り返るばかりでなく、
いままではなるようにしかならん、としか考えていなかった、
「これから」のことについて、考えずにいられなくなった。

息子が20歳になったとき、僕は64歳だ。
息子がいまの僕の年齢になったとき、僕は89歳だ。
…生きてるかなあ。

そう、まさにこの「生きてるかなあ」がリアルになってきたのだ。
見渡す限りの大海原だったはずが、
気づけば水平線に浮かぶ島影を視界に収めるほどになっている。
平均寿命を80歳として、僕は既に56%ほどを消費した。
スマホの電池が残り44%と表示されているような感じだ。
野球で言えば6回表、夏休みで言えば8/12、1日で言えば午後1時半。
いますぐどうこうということではないけれど、
いつか来る「その日」を意識しないではいられない年齢になった。

僕はちゃんと息子を成人まで見守ってやれるだろうか。
嫁や孫を見ることはできるのだろうか。
死ぬまで生きればいいだけさ、と
若い頃はまるでリアルに考えたことのなかった「老後」や「余命」が、
息子というカメラを通じて鮮明に突きつけられている感じさえする。

子供の誕生をきっかけに価値観が一変したというのはよく聞く話だが、
まさか自分においてさえ、ここまで変わるものなのかとおどろいている。
若い頃はあれほど泥臭く「自己証明」を追い求めていたのに、
いまや自分が他人にどう見られるかなどどうでもよくなった。
息子さえ幸せになってくれれば、というその一念。
そのために家庭を守り、自分も節制する、という決意。

仕事もただ自己実現というばかりでなく、
「家族と生きていくための安定的な収入の確保」という視点が加わった。
普通はそれが第一なんだろうけれど、
僕はいつも金銭的な見返りよりも、仕事そのものの充実感を優先してきた。
劇的な変化といっていい。
いざとなったら死ねばいい、なんてうそぶいていた自分が、
保険や年金についてこんなに真剣に考える日が来ようとは(笑)。

ふり返って僕の人生、いつでもなんでも遅かった。
受験勉強も、就職活動も、社会人デビューも、結婚も、子供も。
賢明なる周囲が前もって準備を始めても、
なんとなくピンと来ないまま同じ流れに乗るのがイヤで、
ギリギリ直前まで余裕をかましているんである。
それがいざ、にっちもさっちもいかなくなって、
時間も予算もない中で、慌ててドドーッと奇蹟的なつじつま合わせを始める。
運と要領と人間関係に恵まれていたおかげだろう、
それでも大概のことは何とかなってしまったのだった。
入試も、就職も、結婚も、独立起業も。
早い話が人生ナメてるんである。
それがいよいよ、年齢[=人生の時間切れ]という如何ともしがたい〆切に直面し、
初めて戦きを覚えているというのが正直なところだろうか。

実はいま転居を控えていて、連日荷物の整理に追われている。
引越あるあるなのだが、無数のアルバムやら写真やらが出てきて、
ついつい目を奪われ、時間をとられてしまう。
見ていてつくづく思うのは、
何と豊かな思い出に彩られた人生だったろうかという感慨と、
若い頃の自分はどうしてこんなに窮屈そうな生き方をしていたのだろうか、
という甘酸っぱいようなほろ苦いような感傷だ。

素直に思う。
なぜ自分はこんなにも格好つけて生きていたのだろうか。
なぜ自分は過剰防衛に思えるほど周囲に対して構えていたのだろうか。
ここ数年だろうか、もう別に格好つけなくていいやと開き直れるようになった。
そうしたら、ものすごくラクになったのだ。
ラクになったということは、つまりこれが自然体なのだろう。
あまり好きな表現じゃないが、「本当の自分」と呼べるものなのかもしれない。

僕はずっと自分を才能ある個性的な人間だと信じ、
鼻につくような言動と派手な実績で「自己証明」を図ってきた。
それが故に周囲から嫉妬され、疎んじられ、爪弾きにされ、
不遇をかこつハメとなり、さらなる証明のために闘い続けてもきた。
いわゆる多数派や主流派になじめず、異端の位置に自分を置き、
多くのアンチと少数のファンをつくって生きてきた。
あらゆる場で「自分の考え」にこだわり、批判層とは徹底して論争し、
さらに敵を増やしては孤立を深め、居場所を変えて生きてきた。

…というつもりでいたのだ。それも本気で。

これを自分の人間嫌いと反骨精神の故だと思い込み、
普通の組織の中では生きられないと決め込み、
表現への飢餓感と言うよりは、
ワガママを正当化できる手段として「バンド」を選び、
いつまでも「大人」にならなくていいネバーランドに安住し、
いかにも個性的に映るアマノジャクな発言や奇行を好み、
本当は臆病なくせに喧嘩上等のロッカー気取りで生きてきた。

でも、いま振り返って、本当にそれらはありのままの僕だったのだろうか。

45歳の僕は素直に思う。
僕はそんなに奇天烈な個性を備えた人間ではない。
雰囲気だけはあるかもしれないが、大した才能も持ち合わせてはいない。
争いごとも本当はニガテだ。堪えがたいストレスになる。
そもそも僕はストレス耐性が度を超えて低い。
我慢が利かない甘えん坊で、ワガママで、さびしがりで、
まるでロックなんてガラじゃない。
実は昭和の歌謡曲な人間なのかもしれない(笑)。

そんな恥ずかしい自分を隠すために、理詰めで雄弁で好戦的なキャラを装い、
引っ込みがつかないまんま、カッコつけて生きてきたのではないかと思う。
そして、それは一部の身近な人間にはバレバレだったのではないか。
彼らが気づかないふりをしてくれたことで、僕は自己完結できていたのかもしれない。
弱い自分、甘えた自分、恥ずかしい自分を認めて受け容れることができて、
はじめて本物のカッコよさが身につくんだよと、
いまなら若い頃の自分に助言してやれるのだが。

母に言わせれば、3〜4歳頃までの僕は実に穏やかな性格だったそうだ。
泣きも喚きもせず、よく食べよく眠りよく笑い、ふんわりとしていたそうだ。
それが幼稚園に上がる頃からグッとキツくなり、
いつも他者の言動に身構えるような子供になったのだという。
背景には、この時期の異常に厳しかった父の存在があるのではないか、と母は言う。
父は軍人だった祖父のスパルタ教育のもとに育った。
そして祖母がまた強烈で、金銭トラブルが絶えず、
子供も放って好き勝手やっているような人だったから、
父は根深い母親不信に囚われ、母性愛にも飢えているところがあったようだ。

そんな父は、長男への力みもあったのだろう、
「こいつはおれに似ているから、おれと同じく厳しくしないと(祖母のような)とんでもない人間になる」
というようなことを錦の御旗にして、僕に随分辛く当たった。
殴られ蹴られは序の口で、夜中に物置に括りつけられたり、
山中に捨てられかけたこともあるのは以前書いたとおりだ。
そのどれもが取るに足りないようなことで、

「ウソをついた」
「箸の持ち方が悪い」
「いい加減な知識でものを言った」

というようなことで、僕はしょっちゅうボコボコにされていた。
いつ何時、どんな理不尽なことで責められるかわからない。
一時期の僕はクルマの音で親父が帰ってきたと知るやいなや、
慌てて2Fへ駆け上り、部屋に逃げ込んでいたような有様だった。
何かあると階下から僕を呼びつけるでっかい怒声が響いてくる。
やがて大きな足音が階段を上ってくる。
足音が終わると部屋の扉が開き、家中がきしむような声で怒鳴られ、
散々に打ち据えられるのだ。
あの震えるような思いはいまでも夢に見ることがある。

とにかく僕は、親父に褒められた、認められた、味方をしてもらった記憶がない。
いつだって貶され、ケチをつけられ、叱られ、お前が悪いと罵られた。
いまとなっては別に怨みもなく、もう幼少期の笑い話のつもりでいたが、
こうして文字に起こしてみると随分なもので、
我が事ながら苛酷な幼少期だったなあと思う。

そしていまこれを敢えて書いたのは、
自分の人格形成に、この時期が少なからず影響しているのではないか、
と思い始めたからだ。
自分の人格なんて自分でコントロールできるはずのものだし、
あんな一時期だけのことで、そんな大袈裟な…と思っていたが、
考えてみれば幼少期の人格形成は一生にわたって影響を及ぼすものだ。
何歳まで、というような専門知識は持ち合わせないが、
少なくとも幼稚園程度までには人格の根底部分は形成され、
親の接し方がそれに大きく影響するのは間違いないだろう。
僕は職業柄、多くの親子を目にする機会があり、
また多くの教育関連書籍を読んでいるが、
それらを通じて得た客観的な視点を、自分自身の来し方に向けたときにようやく、
そんな当たり前と言えば当たり前のことに気づけたというわけだ。

何も自分のダメなところをすべて親父のせいにしようというのではない。
僕の人生の不出来・不作為はすべて自分の責任だ。
僕は自分自身の、ヘンに曲折した、ある意味で不器用な、
人格のルーツへの純粋な興味でこれを書いている。
教育なのか遺伝なのかは知らないが、親父から得たものもたくさんある。
多くの本を読んだり、自分で文章を書いたり、人前に出て話すこと。
それらをおおよそ苦にしない「言葉の力」はそのひとつだろう。
それが苦境に立つ僕を救う武器や防具にもなったし、
いまもって生き抜いていく力のひとつになっている。

だけど一方で、なんとややこしい性格になってしまったことか、という嘆息がある。
母親の言う、ふんわりとした穏やかな性格のままでいれば、
こんなにも敵をつくらず、学校でも会社でも孤立せず、麻布にもバンドにも縁がなく、
また全然違った人生があったかもしれない。
別に、そうだったらよかったとは、まったく思わないけれど。

とにかく子供の頃の僕は、どこへ行っても疎んじられた。
親父にコテンパンにやられるばかりか、
学校でも厄介者扱いされ、先生からもクラスメイトからも疎外されていた。
周囲の大人には煙たがられたり否定されたりするばかりで、
おおよそ褒められたり認められたりした記憶がほとんどない。
可愛がってくれたのは田舎の祖父母や叔父叔母くらいだろうか。

そして僕はそのイライラを、より弱く幼い弟や妹にぶつけていた。
親父が居なくなって、親父のように接することしか知らずに、
十代の頃は母にも随分居丈高に、冷たく当たったような気もする。
何もかも否定されるあまり、自己肯定感に飢えていたのだろう。
母親は大きな愛情で僕ら兄弟を包んでくれてはいたが、
この年頃では母親の言葉は素直に受け取れない。
ふり返り見て、少なくとも二十代くらいまでは、
「自分は愛されている」とか「自分は必要な人間だ」という自覚に乏しく、
常にそれを求めて、他者に要求していたようなところがあったのは否めない。
しかもそのやり方が素直じゃなく、毒舌や奇行で目を惹こうとするような幼さだ。

本当に、いまだったら当時の自分に気づかせてやれることができるのに、と思う。
僕自身は父性愛にも飢えているところがあり、
尊敬できる年長の男性と出会っては感化されてきたようなところもある。
惜しむらくは、それらが憧れの域を出ず、表面的な模倣に留まり、
内面から揺り動かされるまでに至らなかったというところだろうか。

そばに父親が居て、年齢に応じた軌道修正を施してくれていたなら、
こんなにも拗れなかったかもしれない。
親父は親父で、いずれそうするつもりはあったのだろうか。
何せほとんど家に居なかった上に、10歳からは別居状態だ。
普通は反抗期があって、父子でぶつかり合って、という経過をたどるのだろうが、
親父とまともにコミュニケーションできるようになったのは、ここ10年のこと。
定職に就き、結婚もしたことで、大人と大人の関係に成熟できたのか、
ここ最近の父子関係は極めて良好だ。
僕自身にも親父を許す…というのとはちょっと違うかな、
親父そのものというより、親子関係のねじれを「乗り越えた」という感慨がある。
四半世紀にも及ぶ親子の断絶、その修復はたぶん、親父にはできなかったろう。
それを僕からのアプローチで、自然な形でできたことが大きい。
そのことが多分、僕自身が自己像を修正できる心の余裕も生んだのだろう。
そしてそれは、これから自分が父親として、息子との関係構築を考えていく上で、
避けて通れないテーマでもあっただろう。

45歳にもなって親の影響がどうのなんて、言い訳めいた話だと思う。
「本当の自分は」だなんて、わざわざ言語化するようなことでもないし、
そもそも、人格なんてものは何とでも言うことができる。
自分語りは他人にこう見られたいという願望の投影でしかない。
だけど敢えてそれを語り、認めたくない、恥ずかしい自分を受け容れようと思う。

僕自身はいつでもどこでも同じ自分でいるつもりでいた。
けれど、人によって僕の人物評は180度違うこともある。
ある人は尖っているといい、怖いといい、ある人は温かくてやさしいという。
それは演じている「強い自分」への共感だったり反感だったり。
あるいは装いきれずに露呈している「弱い自分」への同情だったり嫌悪だったり。
僕はだいたいそんな風に理解していた。
ところが、ある日何気なく妻が呟いた一言で、
僕は頭を打ちのめされたような衝撃を受ける。

「あなたは自分を慕う人間にはものすごく優しいし愛情も注ぐけれど、
  自分を嫌う人間や裏切った人間にはものすごく頑なで冷たい」

ぐうの根も出なかった。
シンプルに、核心を衝かれた思いだった。
この僕評はおそらく、僕に関わったすべての人が一致するところだろう。
そしてそれはまさに、母性愛に飢え、
自己肯定感に渇いていただろう親父の性格そのものでもある。

教育か、遺伝かはわからない。
僕はおそらく、お袋のお人好しなまでの情の深さをも受け継いだおかげで、
親父のアクが薄まって、親父ほど良くも悪くも極端な人間にはならなかった。
僕の血も親父の血も、そしてお袋や妻の血も受け継いだ息子が、
これからどんな人間に育っていくのか、興味は尽きない。
ただ、僕は少なくとも息子に寂しい思いは絶対にさせたくないし、
父性愛にも母性愛にも飢えることなく、
自己肯定感たっぷりに育ててやりたいと思っている。
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おっさんトーンポリシング

2020-05-25 06:24:30 | 特選いぶたろう日記
「何を言うか」よりも、
「誰が言うか」「どう言うか」ばかりを問題視して、
やれ表情がどうの言い方がどうの言葉選びがどうの…と
ネチネチとケチをつけるのは、いかにもおっさんぽくって好きじゃない。
もっとも、この話題自体「おっさん」が「どう言うか」を問題にしているので、
いささか自家撞着のキライもあるわけだが。
ここではそれは都合よく無視する(笑)。

若者が一生懸命発したメッセージを正面から受け止めず、
すぐそのスタイルだけを上から目線で批判したがる。
そして「もっとこういう言い方をすれば…」みたいな、
ありがた〜い「アドバイス」を与えたがる。
それで「鍛えてやってる」だの「期待してるからこそ厳しく」とか言っちゃって、
肝心の「相手の言いたかったこと」については極めて鈍感だったりする。
そしてそんな自身への反省や自覚はてんでなかったりもする。

特におっさんから若者へ、
それも女性に対してはかなり多い気がするんだが、
あれは一体何なんだろう。

自身が若い頃から組織の中で強いられてきた自制や、
その積み重ねで老獪に変質したことを、
正当化するにはそれしかないのだろうか。
我慢したり、遠回しに言い換えたり、
根回ししたりするばかりが正しいスキルなんだろうか。
思うままに怒りや悲しみを発露することがあってもいいんじゃないのか。
評価しないのは勝手だが、わざわざ批判するようなことなんだろうか。
しかも半ば冷笑的に。
いかにも自分はモノが分かっているとでも言いたげに。

前半生を振り返って、僕は何度も組織の中で悶着を起こしては飛び出してきた人間だ。あんまり偉そうなことは言えないな、という自虐もあって、
僕はまず若い子たちと話すときに、よく聴くようにしている。
そりゃあ言葉が足りなかったり、
言い方がキツかったりすることはよくある…てかほぼデフォでそうだ。
でも僕は話の内容に優先して、そのことに一方的なダメ出しなんかしない。
ストレートな物言いはそれだけ本気でものを言っているということだし、
本気でモノが言える相手だと信頼を寄せてくれているということでもある。

無論、状況にもよる。
言いたいように言わせることも大切だし、
行き過ぎや勘違いに気づかせることも大切だ。
でもそれはダメ出しや説教じゃなくてもできる。
否定じゃなくて、疑問をぶつけて、黙って耳を傾けてればいいのだ。

「それはさ、こういう意味かな?」
「それはこうともとれるけど、君はどんな意味で言ってるの?」

そう、「聴く」ということにもう少しウェイトを置いていいと思うのだ。
僕の知る限り、賢い人は聞き上手だなという印象がある。
言い方やら言葉選びやらにゴチャゴチャ言いたがる人は、
相互理解よりも上位にマウンティングがある気がする。
要は俺の方が上だと示したいだけ。

念のために繰り返すけど、そりゃもちろん、状況や場所によりますよ。
専門性の高い分野では議論の余地なく先達が圧倒的な場合もあるし、
組織において緊急性の高い案件を扱う場合なんかもあるでしょう。
あくまで僕は僕のいるフィールドでしか語れないので、
教室、家庭、飲み屋程度の範囲にしか適用されないかもね。
あとは温暖化問題とか(笑)。

でもおっさんは、みんな気をつけた方がいいと思う。
上から気持ちよくダメ出ししてケチつけてもの言って、
みんなそれをおとなしく納得・感心しながら聴いているように見えるでしょ?
内心、ビックリするくらい嫌われてるからね。
だって僕から見たってウザい、メンドクサイ、感じ悪いおっさん、いっぱいいるもん。

自分は違う、って思うでしょ?
若い子らから見たら変わりないんだよね。
もちろん若い子ともスマートに付き合えるおっさんもいるので、
お手本にさせてもらおうとは思うけど。
僕はもう自分がおっさんであることは受け容れながら、
少しでも「ヤナおっさん」にならないようにするので精一杯だわ。

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stayhome末期症状

2020-05-23 10:21:15 | 超・いぶたろう日記
朝晩3日間カレーを喰い続けたら、さっきカレー味のう○こ出た。
味見はしてない。
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冷静な怒りを

2020-05-22 09:22:56 | この国の憂鬱
「辞任じゃダメだ、退職金が出る!懲戒免職だ!」
的な(ヒステリックな)声をチラホラ見かける。
黒川氏だけが諸悪の根源で、
彼だけを徹底的にやっつけることが目的ならば、それでもいいだろう。
お金も渡らず、庶民の溜飲は下がるのかもしれない。

しかし、内閣の都合で法をねじ曲げてまで留任させた検事長を、
今度は違法行為があったからと、
すんなり(人事院の規定以上の処分である)懲戒免職させるというのでは、
「法律がどうあれ内閣の都合で検察の定年延長を左右できる」という、
今回の問題の本質が理解されていないことになる。
そこはぼやかされてはいけない。

公職の懲戒処分は、特定の誰かの意思や都合で左右されるべきではなく、
不正行為があれば規定に沿って粛々となされるべきことだろう。
このタイミングで表沙汰にされたことも合わせて慎重に考えたい。
この急展開では、まだ何かを断定するに充分な情報がない。
不可思議な点がいくつかある。
検察官の賭け麻雀が良い悪いとかいうだけのことでは済まない。

巷間言われているように、
黒川氏の下で検察が常に政権に忖度してきたことが、
客観的にも事実ならば、そちらの方が遥かに問題が多い。
個人的には一検事なんかより、これほど法をねじ曲げ、
三権分立などの民主主義の根本を歪ませる現政権をこそ、
総辞職に追い込むべきだと思う。

あとはマスコミが取材源とのコミュニケーションを言い訳に、
政府関係者や警察・検察との付き合いを、
さも当然の如く言うのにも極めて強い違和感がある。
おそらく社内にも高官に私的に「喰い込んだ」記者を礼賛する空気があるのだろう。
そんなズブズブの関係で、批判に力がこもるわけがない。
この業界はそういうもんなんだから、みたいな開き直りは見苦しいことこの上ない。
何なら記者の側に権力者との関係の近さを自慢するような風潮さえある。
ジャーナリズムの何たるかをまるで理解していない。

この国を滅ぼすのは、怠惰な主権者。
そしてそれを大量生産したのは、マスメディア。
安倍政権はそれらの生み出した国家の「生活習慣病」に過ぎない。

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責任はあるけどとらないのが安倍だからな

2020-05-21 21:29:45 | この国の憂鬱
「退職により公務の運営に著しい支障が生ずる」ほどの「余人をもっては代え難い有能検事長」が、賭け麻雀で失職することをどう説明するのか見ものだよねえ。
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若い世代の死因の

2020-05-18 10:31:41 | 超・いぶたろう日記
1位が自殺なんだそうだ。
そしてそれは先進国では日本だけの異常なことなのだそうだ。

理由は様々だろうから、断定的なことは言えないけれど、
「もし」若者が自殺に至る原因の多くが、
彼らが「行かねばならない」学校にあるのだ「としたら」、
昨今よく聞かれる「子供たちの生命と安全を守るための休校」が、
また全然違った響きをもってくるように思えないだろうか。
大人は会社でそんな建前さえも言ってもらえないわけだが。

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たとえ法律がどうであろうと

2020-05-16 22:33:59 | 超・いぶたろう日記
安倍「恣意的な人事が行われることはない」
泥棒「盗みなんてするわけない」
詐欺師「ウソなんてつくわけない」
痴漢「他人の体なんてさわるわけがない」
石田純一「夫婦円満の秘訣は悪くなくてもゴメンなさい、何もなくてもありがとう」


安倍「これは恣意的な人事には当たらない」
泥棒「これは無断で借りただけで盗みには当たらない」
詐欺師「ご飯ではなくパンを食べたのでウソではない」
痴漢「これは相手も抵抗しなかったので合意の上」
石田純一「不倫は文化」

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「男三十過ぎていい格好しようなんざ、落ち目になった証拠よ」

2020-05-15 01:43:51 | 超・いぶたろう日記
人に向かって
「知らないくせにもの言うな」と宣う人は、
いったい何を知っているというのでしょうね。

人に向かって
「マスコミに騙されてる」と宣う人は、
いったい誰に騙されているのでしょうね。

人に向かって
「よく考えろ」と宣う人は、
その発言がどう受け止められるかよく考えてみたんですかね。

マウントしたい、「論破」したい、知的優位を見せびらかしたい。
事情通・情報通を気取りたい。

イイ歳して
「自分は頭がイイけど、他人はバカ」
なんていう恥ずかしい思い上がりが透けて見えるほど、
格好悪いこともないと思うんですがね。

少なくとも、先生としては子供に一番嫌われるタイプですね。
父親としても、そうかもね。

いやいや、自戒ですよ自戒。
やだなあ、もう。

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スマホを尋ねてさらに44時間

2020-05-14 23:48:46 | 超・いぶたろう日記
僕はよくスマホを探す。
日に2回は探す。
年に730回は探している計算になるだろうか。
1回探すのに3分かけるとして、年に44時間はスマホ探しに費やしている。
つまり僕の1年はさらに減って実質361日ということだ。

(中略)

生まれ変わったら鳥になりたい。

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眼鏡を尋ねて50時間

2020-05-14 23:36:38 | 超・いぶたろう日記
僕はよくメガネを探す。
日に3回は探す。
年に1000回は探している計算になるだろうか。
1回探すのに3分かけるとして、年に50時間はメガネに費やしている。
つまり僕の1年は実質363日ということだ。

時にはベッドのどこか、時には洗面所、
時にはテーブルの片隅、時には玄関口、時には本棚。
シャツの胸ポケットもよくある。
捜索難航に拍車をかける、
「メガネを探すときには、人はメガネをかけていない」
というパラドックスがまたもどかしい。

今日もまた風呂上がりにメガネの捜索を始めた。
どこにもない。
なかなか見つからない。

爪の先までテキトー人間の僕は、
行動の99.75%くらいが無意識で、
直前の行動をまるで覚えていないのだ。

しかもこれほど苦しめられているというのに、
毎度懲りずにテキトーな所に置き、案の定忘れ、捜し求めるハメになる。
なんだか、象徴的ですらある。

今回はここで発見された。



盲点。初のケースだ。
もちろん、全く覚えていない。
うすぼんやりと、
「いつも洗面所とかに置いて忘れるから、今日はどうせ後で仕事するんだしここに置こう!」
とか小賢しい思考が脳裏をかすめた気がする。

策士策に溺れる。
いや、百舌鳥の速贄か。


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かわいくてやりきれない

2020-05-06 23:33:47 | パパと呼ばれて〜親バカデレデレ日記
胸にしみる 寝顔のかがやき
今日も腕に眺め 涙がにじむ
かわいくて かわいくて
とてもやりきれない
このやるせない いとしさを
だれかに告げようか

悠か雲は 流れ流れて
今日も未来を描き まぶしくゆれる
かわいくて かわいくて
とてもやりきれない
この限りない いとしさの
おわりはないだろうか

深い夢の世界に抱かれ
今日も寝息の唄に しみじみ聴き入る
かわいくて かわいくて
とてもやりきれない
この燃えたぎる いとしさは
明日も続くのか


(原曲:ザ・フォーククルセダーズ『かなしくてやりきれない』/原詞:サトウハチロー)

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コロナ後の世界

2020-05-05 04:54:19 | 超・いぶたろう日記
「コロナ後の世界」を予測しようたって、無理だよね。
あんまり地味な予想だと注目されないもんで、耳目を惹くためなんだろうけど、
やたら派手にポジティブかネガティブかの両極端ばかり。
思いつく限りを口にして、どれかひとつでも当たれば、
鋭い感性だの先見性だのがあったなんてことにするんだろうなあ。
自分の箔付けを目的としたハッタリ未来予測なんかより、
地に足ついたレベルでこういう未来が来ると好いなあという
個人的願望を集めた方が、案外に当たるんじゃないだろうか。

僕個人としては、とにかくこれで
「別に無理にやらなくてもまったく害がなかった形式的なあれやこれ」
への認識が深まるといいなあと思っている。
別に会社に行かなくても、満員電車に揺られなくても、
都心近くに居を構えなくても、対面営業やリアル会議にこだわらなくても、
ハンコなんかなくても、学校なんかいつからいつまで行こうと行くまいと、
全然OKじゃん。

やりたいことはやろうと思えばできるし、
遅いとか遅れてるとかいうことは全然ないし、
別にメンドクサイ何かを省略したところで、
いうほど相手は失礼だなんて思ってないし、
(むしろ自分に対して失礼だと喚くヤツの方がずっと失礼だ)、
もっと個人にアジャストした色んなスタイルがあっていい、というところ。

まあ、そういうと集団指導の学習塾なんて、真っ先に切られちゃうかもしれないんだけど(笑)。

反面で「アナログでリアルだからこその良さ」も見直されるとバランスいいね。
どちらかに偏るのではなく、個人の感覚や嗜好で柔軟に使い分けられないものかと。

2ヶ月というのはこれまでの当たり前を色々と見直すには充分な時間に思う。
「こうでなきゃいけない」という思考停止を問答無用で一律に強いられる、
その圧力が強すぎることが日本社会の抱えた根深いストレスのような気がするよ。
それを「大人だから」「社会人だから」なんて誤魔化して、
みんなでやせ我慢しちゃってる。
時にそれをさも社会的良識でもあるかのように押しつけ合ったりもしている
(自分だけがガマンするのはシャクだ、というだけなのにね)。
そこにみんなが気がついて、
ちょっとずつ「理不尽な当たり前」をズルズルとなし崩しにしていけるといいなあと思う。

改革は苦手でも、なし崩しなら得意じゃないか、日本。

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除草剤にもめげず

2020-05-04 23:31:11 | 超・いぶたろう日記
まあ人間エラクなっちゃったらお終いだな、といつも思う。
特定の職種だとか地位を言っているのではなく、
叱られたり注意されたりする機会がないまんま権威を笠に増長しちゃって、
傲岸不遜ぶりが意図するとせざるとに関わらず、言動ににじみ出ちゃう感じね。
僕は生涯いち雑草でいたい。
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