いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

「スピードはクオリティを超える」

2016-06-29 01:32:22 | 超・いぶたろう日記
不覚にも、お笑い番組の芸人のちょっとした一言に感銘を受けてしまった(笑)。
いわゆるネタフリへのリアクションについてのコメントだったのだが、
色んなところに通じるなあ、と。

そんな僕はといえばクオリティにこだわって(るつもりで)何かと遅滞がち。
逆に言えばクオリティを言い訳にして
スピード感のない仕事を正当化している面があるのも否めない。

うーむ、侮れんな、トレンディエンジェル齋藤(笑)。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

そんなことで威張られても

2016-06-28 01:31:21 | 超・いぶたろう日記
「知っている人」が「知らない人」にイラだつ気持ちは良くわかる。
「わかってる人」が「わかってない人」を見下す気持ちもわからないではない。
でも、その優越感だとか知的優位だとかをひけらかしたところで何になるだろうか。
せっかくの知識や思考力を、人を馬鹿にしたり自分がウットリしたりするのに使うのでは、
その蔑視している対象と(少なくとも品格においては)大して変わらないんじゃなかろうか。

「アタマはいいかもしれないけれどイヤミなおっさん」になんか、
なってもしょうがないよなあ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いわばですね、これはまさに、絶対権力者にしてはいけないタイプなのであります

2016-06-25 01:29:29 | 超・いぶたろう日記
僕自身、大きな側・強い側に居たことがほとんどなく、
常にそれらと闘う小さく弱い側にいたからだろうか、
大きく強い側がムキになって小さく弱い側を叩いたり、
ネガキャンに執心したりするのが本当に許せないんだよね。

あの総理大臣の何がキライってそういうとこですよ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

音楽は自由だ

2016-06-23 01:28:03 | 超・いぶたろう日記
音楽はあくまでも音を楽しむもの。
音楽を聴かないと、もしくは演らないといけないわけではないし、
聴いてはいけない、演ってはいけない音楽なんてのもない。
演りたい者が演りたいものを演りたいように演り、
聴きたい者が聴きたいものを聴けばいい。

だから少なくとも「体制」じゃない。あり得ない。
でも、だからといって「反体制」だと決め込むのもステレオタイプに過ぎる。
音楽はどこまでも自由なもので、ニュートラルなものだ。
創作者や演奏者がそこに何を溶かし込むか、
聴き手がそこから何を感じ取るか、
それも色々あっていい。

音楽はこうだ、なんて決めつけるヤツの方がどうかしている。
(おまえだって音楽は自由だと決めつけてるじゃないか、という反論は無視する)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

これでいいのだ

2016-06-17 01:26:10 | 超・いぶたろう日記
常識に欠けると言われ、
どこへ行っても少しはみ出る僕だけれど、
例えばジョブズのように突き抜けてるわけでもないし、
ホリエモンのように孤独を恐れぬ図太さがあるわけでもない。

個性がないわけではなさそうだけど、
天性の面倒くさがりと好き嫌いの強さとお人好しのせいで、
どうも大物にはなれそうにもない。
何かを成し得るような空気だけはまといつつ、
大したことは何も成し得ていない。

縁と幸運にだけは恵まれ、
あまり苦労らしいらしい苦労をしないまま、
器用貧乏に生きている。

付和雷同は大嫌いだが、孤独と争いはもっとキライだ。
貧乏暮らしはゴメンだが、金儲けにあくせくするのはもっとイヤだ。
橋下徹にはなれそうもないが、舛添にもならないで済むだろう。

本当に幸いなことに、
こんなどうしようもなく中途半端な僕を面白がって
家族や友達や同僚や生徒で居てくれる人がたくさんいる。

あなた幸せですかと聞かれたら、満面の笑みで幸せですと断言できる。
だからきっと、これでいいのだ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なにごともほどほど

2016-06-13 11:16:08 | 超・いぶたろう日記
「お金がありすぎて人間性を喪う」のは実にみっともないし、
「お金がなさ過ぎて人間性を喪う」のはあまりにみじめだ。
ちょうどいいから楽しいんだよな。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新記録

2016-06-12 21:15:04 | 超・いぶたろう日記
日本最速の163キロを連発され、愛する虎が沈黙したその日。
生涯最重の8Xキロを何度量り直しても連発され、
沈黙するしかなかった愛すべきわたし。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

経験上、割と間違いのない採用基準

2016-06-10 23:08:52 | 超・いぶたろう日記
1)自慢するヤツはダメ。とにかくダメ。
  
2)謝れないヤツはダメ。デキてもモメるからダメ。
 
3)モテないやつはダメ。何かとダメ。


…うん。まちがいない。
たとえどんな「自称高知能者」でも、「詐称学歴者」でも、
明確に3つとも当てはまってちゃ、てんでダメなんだよね(笑)。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

交流失敗の結果としての借金生活に

2016-06-09 22:05:07 | トラ、トラ、トラ。
弱すぎて 仕事はかどる 木曜日
平日休みに さまよえる虎
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おれに言われちゃあな

2016-06-09 14:09:07 | 超・いぶたろう日記
恥ずかしながら、僕にも大いに経験があることなので、
自戒を込めて書くが、

「仕事がかなり忙しいとき」
「仕事しすぎて疲れているとき」

は、SNSやブログの類を「一切書かない」に限る。

どんなに自分が忙しくしているか、だけど頑張っているか、
またどんなに自分が身体壊しているか、だけど頑張っているか、
書き方をどんなに工夫したつもりでも、
「忙しい自慢」と「かまってちゃん」が滲み出てしまうからだ。

これは書いているときには気づかないが、
あとあと心の平穏をとり戻したときに
読み返してみるとかなり恥ずかしい。
かくいう僕も消したくなるような過去のエントリがいくつかある。

忙し過ぎてストレスたまると、ついつい書きたくなってしまうのだ。
それはわかる。
でも、よく考えたら
「そんなに忙しいなら夜中にこんな余計なこと書いてないで早く寝ろよ」
が大正解なのだ。

身体のあちこちが痛い、変な咳が出た、いつも熱っぽい、
そういうのも「不治の持病」気取って自己演出してないで、
さっさと病院行けよって話なのよね。
「身体はボロボロだけど、それでもガンバル私の責任感」
なんて痛々しいだけ。
治す気ないくせに心配だけはして欲しいのかな?
あるいは結局単なる自己アピールなのか?…と勘ぐりたくなる。

「公共の場だから明るく前向きなことだけ書け」だなんて
くだらないことを言うつもりではない。
かなり主観的で微妙な境界線だけど、

「仕事に不満があるときその愚痴を書く」
「体調不良、病気診断の不安を書く」

のは個人的にアリだと思う。
書くことで不安やストレスを整理して緩和できる、
明らかな効用があると思われるから。
もちろん頻度にもよるけど。

なんだろね、素直に不安や不満を書いたり、
SOSを求めるのは人間らしくていいと思うんだけど、
「苦しんでるフリをして実はただの自慢」
とか
「困ってる体だけど誰の助言も聞かない」
  ≒「みんなに構って貰えるそのシチュエーションだけが欲しい」
というのに抵抗があるのかな。

まあ、あくまで感覚的なもので、線引きは難しいのは言うまでもないけど。

そもそも「仕事が忙しすぎて何もできない」なんてのは
タダの思い込みなんだよね。
人間にはそれぞれキャパってもんがあって、
それを越えたら絶対うまくいかないしどこかに迷惑かけるんだから、
そうならないように人を増やしてシェアするとか、
そういう工夫も仕事のうち。

「私じゃないとできない(からシェアしない)」なんてのも、
単なる思い込み。
人を育てる手間を面倒がっているか、
そんな自分に酔っているかのどちらか。

一種の共依存だと思うんだよね。
「自分にしかできない仕事」は確かにあると思うけど、
それだらけなんてのは明らかにおかしい。
「全部私がやらなきゃ」という強い思い込み、
それ自体がアイデンティティになってしまっていて、
また一種の快感にも連なっているというか。

依存されることに依存する。
依存されないともの足りないから、自分でわざわざそういう状況をつくる。
もしくは敢えて改善しない。
自分が自分を依存する。

だから、SNSとかに書いちゃうんだよ。
本当にやむを得ず忙しい人は、
その状況を何とか変えたいと思っているはずだから、
あまり人に話したいような場面ではないはずなんだよね。
そこを敢えて人目にさらすんだから、やはり目的はそこだよね。

(物理的に不可能という意味で)
できもしないことを反省点としてつらつら書き連ねてみたって、
何の進歩も期待できない。
ちゃんと休んで、心に余裕を持って、
人も育てて、うまくシェアして、イイ仕事しようぜ。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

こういう感覚の人たちとどう向き合うか

2016-06-01 23:54:54 | 超・いぶたろう日記
三流タレントが「母の遺骸とのツーショット」をfacebookに投稿したとかで、物議を醸している。

橋本志穂、FBに「母の亡骸」写真が大批判 その行動は「言語道断」なのか?

「亡骸を囲む遺族の写真」に象徴されるのは、
何でもかんでもSNSに載っけて「感動」「感情」を共有しなきゃ、
という一種の無意識な強迫観念だろう。
「遺骸との自撮り写真」にこびりつくのは、
ごまかしようのない自己愛の腐臭と言うべきだろう。
「こんなに〇〇な私」を過剰演出して、
大好きな自分を見せびらかしたくてたまらない。

いずれも思いついたらブレーキがかからない。
それが毎日の当たり前の営みとなると、
載せるべきものと載せるべきでないものの境目が、
だんだん麻痺して自覚されなくなるのだろうか。
怖いことだ。
この人も何が問題なのか、実のところはわかってないはずだ。

僕も親しい人が亡くなったときに、
その悲しい気持ちをSNSやブログに書くことはある。
書かずには気持ちの整理ができないからだ。

でもそのときはものすごく慎重に言葉を選ぶ。
人の死にかこつけて、感動的なキレイゴトを並べて、
「自分をいい人に見せたい」「自分の生活をドラマチックに見せたい」という、
品性の下劣なものに映らないかどうか、細心の注意を払う。
人の生死というのはそれほど厳粛なものだ。
然るべき重みをもって受け止めるべきだ。

葬儀での遺骸の撮影は、賛否両論あるだろうけど、
これは論理というよりも感覚的なものだ。
わからないひとにはわからない。
それでも、まだ家族や近親者がというならまだ話はわかる。
でもそれは見せびらかしていいようなものでは決してない。

僕も大好きな祖父が亡くなったとき、
本当に別れがたくて、撮りたいと思った。
が、控えた。
何だか祖父の尊厳を冒してしまうような気がしたからだ。
でもお通夜の晩、長年連れ添った祖父を心から愛していた祖母が、
最後に一緒に寝てやるんだと、祖父の横たわる隣に潜り込んで寝た。
そしたら何だかもうたまらない気持ちになって、
どうしても二人の姿を自分の手元にとっておきたくて、
一枚だけ撮ったことがある。
もちろん誰にも見せるようなものじゃない。
祖父に心の中で謝りながら一枚だけ許してもらった。
それでも逡巡した。

ましてや、それをSNSで公開しようなどとは微塵も思わなかった。
本当に故人を偲ぶ気持ちがあるのなら、
元気だった頃に一緒に撮った写真とか、
そういうものを選ぶのが自然だろう。

かつて、ある知人が、
彼の祖母が亡くなったことをブログで書き、
加えて病室で撮ったと思しき「脳波計・心電図」の写真を
「最後の証」などという陳腐なキャプションと共に載せたのを見かけ、
絶句したことがある。
意味がわからなかった。
長い付き合いだったが、正直人格を疑った。
「祖母が生きていた目に見える最後の証を掲載することで、これから先は、僕の思い出の中で祖母の生きた証を消さぬよう大切にしていこうという、それだけの思いです。」
というコメントからもうかがえるとおり、
やはり本人にはこの何が問題なのかは、まるで自覚できないのだ。

いい悪いとか、どうしてとかいう問題じゃない。
何の疑問もなくそれをやれる感覚は、やはりちょっとどうかしている。
SNSが日常に深く食いこむ社会では、
これからこんなことも当たり前になっていくのだろうか。
歯止めの利かない自己愛に、公共心や人間性が蝕まれていくようで、ちょっと怖い。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする