いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

不意に

2008-03-21 05:27:57 | いぶたろう日記クラシック
やってくる古い友人のメールというのは嬉しいもんだ。
それが深夜の残業にひとり臨む、
くさくさなモチベーションの時であればなおさら。

先日もまた、もはや定時と化した深夜にそれは来た。
机の中で携帯がガジガジと震える。
僕は携帯にかかりきりになってしまうようなのがとてもキライで、
むしろ意識的に携帯のチェックをサボっているところがある。
携帯を置き忘れてどっかへ行ってしまうこともしょっちゅうだ。
自分の行動やスケジュール、意志決定に当たってはとことん自由でいたいので、
それがなんであれ正当な理由無く僕を束縛するものには拒否反応が出てしまう。

とはいっても無秩序・無節操・無分別に反抗する、
反社会的なマインドはとうに卒業できているので、
例えばそれが職務上やむをえないもの(朝の会議であるとか、深夜の残業であるとか)
については自ら納得の上で組み入れている。
職務については中途半端でありたくない。
それが生まれてこの方、何をするにも携えてきた、
「自分がそれをやる以上、その成果は人並み以上でなくてはならない」
という一種のプロ意識にも似た強い自負の表れであると自覚している。

とか何とか言ったところで、
やっていることとしては一般サラリーマンと同じワケで、
要は悔し紛れの屁理屈を並べているだけなのだなと受け取られることもしばしばだ。
かつてはそういう輩にもいちいち噛みついて、
それが自己証明の闘いであるかのように錯覚していたこともあった。

でも、33歳の僕は違う。
人がどう言おうが別に構わない。
別に、誰に認めて貰おうとも思わないし、
理解されないところで、かえって鬱陶しくなくていい。
自分勝手なシンパシーというものは、自分勝手な理想を対象に投影する。
ちょっとでもそれに違えるところがあれば、
味方や信者はたやすく敵に変わる。
そういうことをようく知ってる僕としては、
発信こそすれ受信を必ずしも求めないのだ。
それでいて、実生活に必ずしも表面化させるとは限らない。
そういうスタイルの方が、他人の干渉を免れ、本当の意味で自由でいられる。

Rebirthを離れて3年、僕が達したのはそういう境地だ。
他人の理解を心のどこかで渇望する芸術という自己表現ではなく、
生き方そのもので具現化する。
いつか、気が向いたらそれを捨象して、何らかのものにしてもいい。
そういう気ままさが、今の僕にはある。
プロ意識と同じく僕が生来持ち続けてきた、
「反骨精神」の極めて有効な昇華方法であるかも知れないのだ。

というわけで最近の僕は多忙ながらわりと心穏やかに過ごしている。
さりとて、連日に及ぶ深夜の残業は、
それが強制を伴わない自主的なものであったとしても、
そう愉快なことではない。
誰もいない事務所の中央で、お茶などすすってぼーっとしていることも多い。

そんな折、電話が震えた。
僕にとっては携帯電話も僕の意志によらず僕を拘束する要素の一つだ。
交際上、利便上、持たざるを得ないけれど、
それに振り回され、操られるのはゴメンだ。
特に、人といても平気で延々とメールを打ったり、
webを見ていたりゲームをやったりというような手合いが居るが、
ああいうものには辟易する。
友人には欲しくないタイプだ。
だから僕は人と居るときや仕事中は、
必要のない限り意図的に携帯を封印している。
鳴っても気づかないようにしている。
僕が滅多に電話に出ないのはそういうわけだ。
携帯メールも人前でめきめき打つ姿がみっともなくて、
急を要する場合以外にはまず滅多に打つことがない。
あるいはよっぽどヒマで手持ちぶさたな時くらいか、
気まぐれでも起こさなければ、ない。
まあ、メンドウクサガリということでかまわないけども。

閑話休題。
で、それがなぜ珍しく手元にあったかと言えば。
最近、「nanaco」を始めたのだ。
勤務先の近くのコンビニに連日通うのだが、
いちいちロッカーまで行ってカギを外して、
財布を取り出して買い物に行くのが面倒で、
何か良い方法はないかと思っていたところに、
顔なじみの店員から提案されたのだ。
防犯上、財布はおいそれとは置けないが、
携帯くらいなら机の中にあったっていい。
盗られたところで被害もたかが知れている。
というわけで、最近は財布代わりに机の中に入れているのだ。

で、それが鳴った。
ちょうど手も空いていたので、開いてみる。
いくつかメールが入っている。
次々開く。
大学以来の友人からのメールが2通。
こういう久しぶりなのは嬉しいもんだ。
開いてみると・・・

いぶきちゃん、結婚するってほんとー?きゃっほーう


・・・はあぁ??

もう一通。別の友人だ。既に人妻だ。
ヤツに「人妻」という表現はそれこそ角砂糖をスイーツと呼ぶがごとき違和感があるが、
そこはそれ、仕方のない事実だ。
で、届いた文面がこれ。


いぶきちゃーん、結婚するってほんとー?ひゃっほーう




初耳だ。


いつ、誰と、俺は結婚しなければならないというのか。
戦慄だ。
他人に行動を強制されるのはイヤだとこれほどクドクド語ったあとに。
よりによって結婚を強制されるとは。

知らん、俺は知らんぞ。
誰だ、誰が俺を罠にはめようとしているんだ。
結婚だと。ふざけるな。
俺が不自由に感じない結婚生活を保障してくれる人間が、
この世のどこにいるというのか。
そいつは無理だ。

酔っている。間違いなくこいつらは一緒にいる。
そして、酔っている。
間違いない。

俺はたった一言、返信してやった。

「寝言は、寝てから」

やがて、返信がきた。

「ばっちり起きてますぅ。イブキちゃん、報告がないですよ・・・」



ダメだ。
まっっっっったく話が通じていない。

とりあえず、面白いので放っておくことにした。
何日かすればまた珍妙なリアクションが来るだろう。


それにしてもこういう突飛なメール、
思いつくまではともかくとして、
疑いなく実行に移してしまえるこの行動力とチームワーク。
さすがだ。
俺の友人にはやっぱヘンなヤツが多い。
それが嬉しい。

いずれにしてもこういうの、俺はキライじゃない。


独眼竜は眼帯の裏に何を見た

2008-03-05 00:02:04 | いぶたろう日記クラシック
仁が過ぎれば弱くなる。
義が過ぎれば固くなる。
礼が過ぎればへつらいとなる。
智が過ぎれば嘘をつく。
信が過ぎれば損をする。

人間が生きていく上で大切とされる「徳」も、
程度が過ぎれば害を及ぼすという、
仙台藩主伊達政宗の言葉だ。
見事に達観している。
ビタミンが体に良いからと摂りすぎれば害になるように、
何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」なのだが、
ことこういう「善」とされることに関しては、
どうにも鈍かったりでやんなっちゃう。
こういう心のもやもやを一掃してくれるような見事な表現に出会えるのは実に爽快だ。
それが自分よりも数百年も昔の人物の言葉であるところがまた趣深い。
思えば、文字が書物がなかったら到底触れることも叶わないわけだ。
そこもまた古代のタイムカプセルを開封したかのような高揚感を呼ぶ。

この言葉に出合ったきっかけは、意外にも読売新聞。
大嫌いなヨミウリだが、1面下のコラム「編集手帳」は例外。
職場においてあるので読むようになったのだが、
このコラムは本当に毎度すばらしいと思う。
何がすばらしいって、流れるような文脈や豊富な語彙、博識ぶりはもちろんのこと、
何よりお高くとまっていないところ。
つまり「聖人君子」に収まらずに、書きたいことを書いている、
にも関わらず品性を失わない高潔な文体であるところだ。
ここ数年どうも薄味で面白みのない「天声人語」にも優る。
手本としたいところだ。

ナベツネのヨミウリだからと食わず嫌いで居ては、
これを知ることもなかったと思うと、
つくづく何事も見て聞いてやってみるものだと思う。