いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

今年を表す漢字に…

2011-12-13 00:56:01 | 超・いぶたろう日記
予想されたこととはいえ、
今年の漢字に「絆」が選ばれたことには正直言って鼻白む。
言霊信仰が根強い日本の、ちょうどいい「落としドコロ」であるばかりか、
数々の犠牲にも現在進行形の苦難にも目をつぶり、
前向きなキレイゴトで括りたがる国民性が滲み出るチョイスだ。

何も後ろ向きで悲観的であればいいというわけじゃないが、
「今年一年を表す」には、あまりに上滑り感が強くないか。
「絆」はもはやマスコミによって、そして企業によっても、半ば商品化された言葉だ。
家を失い、職場を失い、学校を失い、
家族を仲間を友人を失った人々の哀しみも苦しみも、
この言葉で包含しようというのはあまりにも浅はかじゃないか。

僕の考える今年の漢字は、「壊」だ。
色んな建物が、町が、ふるさとが、
平穏が、生活が、常識が、神話が、
そして惰眠が、壊れた。
それこそが、事実だ。

だけど、壊れたからこそ、
そこに新しいものを生み出そうという力が起こる。
敗戦直後の焼け野原、瓦礫の山から立ち上がった日本は、
豊かになればなるほどがんじがらめにもなっていたはず。
政治的にも経済的にも、
震災がなくとも早晩立ちゆかなくなることは自明だった。
「壊」こそは、生まれ変わるための大前提。

そういう期待も、希望も込めて、
僕が推すのは、「壊」。

これかぁ。

2011-12-11 23:45:23 | 超・いぶたろう日記
今日は学生スタッフの慰労会。
普段、僕の教室で個別指導や事務の手伝いをしてくれている
大学生たちを連れて、近所で食事会。
これが、とても楽しかった。
あー、こういうことかー、と思った。

2ヶ月前に提案したら、みんなのってきてくれて、
楽しみにしていてくれたらしい。まずこれがいい。
当日は最初に声をかけた子を中心に大勢集まってくれて、
これまた嬉しい。
さらに時間も気にせず、帰りたい素振りも見せず(笑)、
実に楽しく気持ちよく過ごしてくれる。
しかもエライのは仕事の話なんかほっとんどしないこと。
よく解ってるなあ~と思う。
ムリして触れないようにしているのではなくて、
必要があれば話題にはのぼるけど、せっかくだからつまんない話にはしたくない、
という自然な空気感ね。
明日は一限で早いのに、それも意に介さない。
若いってこういうことだね。本当に素晴らしい。

社会人相手の集まりは、味気ないときが多いからねー。
まず、次の日の予定を考えながら「賢く」遊ぶ人ばかりでしょう。
誰かひとりが席を立つと、じゃあそろそろ…とお開きモードが蔓延しちゃう。
まるで帰るタイミングをずっと探っていたみたいだ。
なに、今までずっとガマンしてたの?って思えちゃう。
ムリに付き合わせたりするのは好きじゃないから、
それぞれ都合に合わせたタイミングで場を辞するのは一向に構わないけど、
どうしてみんな一斉に帰りたがるのか、わかんない。
仕方がないことなんだろうけど、白けることこの上ないよね。

僕は絶対に宴会を断らないし、自分から終わらせないし、
よほどの都合がない限り、いつでもとことん最後まで付き合うクチだ。
学生時代・バンド時代はそういう友達がたくさんいたなあ。
面白いヤツばかりだった。
僕はその「留年期間」が長かったせいか、今もってそういう感覚が根強くあって、
企業の中で20代を過ごした人よりも遊ぶこと・楽しむことにどん欲だ。
まあ、早い話が大人になりきれてないのだ。
結局こないだの話も同根で、
僕みたいな人間は、いまの日本的企業の旧世代的価値観からすれば、
非常識で生意気なスタンドプレーしかできない、社会人として失格人間なのだ。
何より僕自身がそういう中で評価されるような人間になることを拒んでいる。
わざわざ自分を不自由な枠内に押し込めて、ガマンできる自分ってエライ!みたいな。
何でそんなつまんない人間にならなきゃいけないのだろうと本気で思っている。
そうやって窮屈な生き方を自分に課しているからこそ、
早く自分だけの空間に帰りたいと思ってしまうんじゃないかな。

多分、僕くらいの年齢になると、
多くの社会人は学生相手に吞んだりするのなんて、苦手なんじゃないかな。
甘いな~、青いな~なんて括り方して、学生は元気だね~なんて年寄り臭いこと言って、
挙げ句ついつい先輩ヅラして説教したり、大人は大変なんだぞ、みたいな変な自慢して、
学生が盛り上がると、そのノリにはついて行けない、なんて格好つけちゃって。
僕が学生だったらこのオッサン鬱陶しいなーと思うようなの、ね。多いだろうな。

僕は学生相手でも上から目線で話をしたりするのがキライだ。
完全に溶け込む。
何故わざわざ一線を画す必要があるのかも分からない。
まあ、そうしないといけないと言うよりも、そうでもしないとカッコがつかない、
あるいはそれ以外に接し方を知らないというだけじゃないかと思うけど。
僕には下らないメンツなんかないので、その場をとにかく楽しく過ごしたいと思う。
しかしどうも仕事を離れてその時間・空間を楽しく過ごすというのが苦手な人が、
いまの僕の周りには多くてちょっと閉口していた。
だから本当に久しぶりに余計な気遣いの要らない、純粋に楽しい空間が心地よかった。
彼らの若くみずみずしい感性にも触れられて、それもまたよかった。
彼らのほとんどが教え子だというのも大きかったろう。
こういう関係性で学生たちと語り合える立場ってあまりないんじゃないかな。
こればかりは今の仕事していて良かったな、と思えるね。
かつては教える立場と教わる立場で、いまは同じ仕事を共有する立場で、
そしてオフの場ではお互いに胸襟を開いて話せる健全な信頼感があって。
すごく貴重だと思うね。

そして何より、僕の提供する笑いは若い人にこそ受け容れて貰えるのだと知った(笑)。
大人はすぐ苦笑するから、キライ(笑)。
すぐ「よく思いつきますねそんなこと~」とか「そういう発想はどこから出てくるんですか」とか
分析始めるから、キライ(笑)。


何の権威もない、いち国語教師として。

2011-12-11 15:34:30 | 超・いぶたろう日記
国語文法を教える立場にあって、詳細に立ち入れば立ち入るほど、
日本語という言語に「文法」という西洋言語的な観点での分析・分類が
いかになじまないものであるかを思い知る。
日本語はイイ意味でいい加減というか、曖昧で包容力があるから、
文法で定義・分類しきれないというのが実情なんだと思う。

以下、最近の出題から。
矢印以下は一般的な解説。

1)「キリンは 首が 長い」の主語は?
 →「首が長い」という述部に対する主語はキリン。長いという述語に対する主語は首。

2)「どうか ペンを 貸して 下さい」の「どうか」がかかる文節は?
 →呼応の副詞として「下さい」にかかる。

3)わたしは向かいの部屋の窓を見た。すると「そこ」には白い大きな犬がいた。
 「そこ」が指す内容を文中から過不足なく書き抜け。
 →A:「窓」、B:「部屋の窓」、C:「向かいの部屋の窓」
  と考えられるが、「過不足なく」とあるのでCが正解。

まあ、それぞれ理屈は通ってるんだけど、違和感ない?

1)なんてさ、中学生以上ならこれでいいけど、
小4とかにどうやって教えるのこれ。
例外抜きに大原則「だれが?」「何が?」だけで範囲内に収めて、
しっかりマルを貰えるようにしてあげないと、キライになるだけだよね。

2)もさ、「どうか」は「貸して下さい」と連文節にかかると思うんだけど、
文節単位で答えさせるとこうなっちゃう。
補助動詞的な文節に係るなんて違和感アリアリ。
「下さい」は自立語だから単独で文節をとるんだけど、
そもそもが「下さる」の「変化した形」(=活用語ですらない)で、
成り立ちからして例外的。
この「どうか」は文全体にかかる印象だよね。

3)もね、出題意図からすればCが正解なのには異論がないとしても、
Aを×とするにはちょっと引っかかるよね。「過不足」の解釈も分かれる。
中高生ならいいと思うんだけど、小5の問題としてこの基準設定は適切かどうか。
「出題者の意図を汲んで答える」は試験対策の最有効技術だけど、
究極到達点でもあるわけで、10歳の子にはちょっと負担が重いかもしれない。
(何より、「窓」と書いて×にしてしまったら、その子はどう思うか。
ああそうか、しまった、今度は気をつけよう…と思うように誘導できる仕掛けはあるか。
何のためのテスト・出題なのかも気になるところだ)

他にもさ、形容動詞をどう扱うかにも議論があるし
(「こんな」「そんな」は連体詞?形容動詞? あるいはそもそも存在しない、など)
名詞を呼びかけの感動詞としちゃう場合もあるし、
日本語の多様性に対して、文法論の説明するそれはものすごく強引で一方的。
とにかく定義ありきでカテゴリーに押し込めないと気が済まないっていう狭量な感じを受ける。

強引に理屈つけて説明することは出来るし、
専門家に言わせれば諸説あるんだろうけど、
そんなの小中学生に教えなくてもいいと思うんだよね。
好きな人だけとことんやってればいいじゃない。
科目が何であれ、学習には段階というものがあって、
何も初歩から例外も含むすべてを覚える必要なんかないんだよ。
「おひさまが東から昇る」と覚えた幼児に、
「地球が西から東に自転しているからそう見える」と
理解させる必要がないのと同じ。
次に疑問を感じた段階で教えてあげればいいんだよ。
この「疑問」が大事で、自発的に知りたいと思ったときが最高の教え時。
巧みに仕掛けて、そう思わせることが大事。
「せる」なんて使役の助動詞を使っている時点で既にそれは厳密には自発ではないが)

教師ってのは教えたがりだから、
(既定のカリキュラムをこなすだけで、逸脱を嫌う公務員教師はこの限りでない)
ともすると例外についてもあますところなく教えようとする傾向あるよね。
それが教師の誠実さを示すとでも言わんばかりだ。
でもそれは重要な視点が欠け落ちてる。
教育って教師の自己満足のためにやってるんじゃない。
生徒が面白がって習得できるように「演出」するのがプロの教師じゃないか。
いくら精密正確な授業でも、四角四面に教えて生徒が興味を失ったら本末転倒。
単なる知識・データの集積ならば、いまやWebにかなうものはないし、
そもそも知識は教わるようなものじゃなくて自ら探求して得られるもの。
教師がすべてを教えようなんて、おこがましいことこの上ないんだよ。
その全知全能感が身分不相応な勘違いを引き起こして、
支配欲が高じた結果、子どもとの間に摩擦を生むんだから。

教師の仕事は3つ。
授業という演出で、面白い!もっと知りたい!と思わせ、知識への扉を開くこと。
範囲を限った出題のテストで、努力の成果を実感し、達成感が得られるようにすること。
学力には優しく、姿勢には厳しく、適切な評価と助言を与え、持続させること。

十年一日のごとくテキストをなぞるだけで面白みのない授業をくり返し、
テストになるとやたら張り切って難問奇問例外を出して「思い知らせ」、
学力に厳しく、姿勢には向き合わず、気分で叱ったり甘やかしたりする、
全国のダメ教師に気づいてもらいたい。
また、そういうのに限って学術論にはやたら細かくって、
テキストやテストの文言に噛みついたり、同僚に議論ふっかけたり、
そしてそれが自分の優秀さを示すと勘違いしてんだよね。
「自分以外みんなバカ教」の教祖様。
見透かせるから生徒にも保護者にも同僚にも疎んじられてるんだけど、気づかない。
人に嫌われてちゃ、教師なんて出来ませんよ。
子ども相手に威張ってたいから続けてるんだろうけど、さ。

重箱の隅っこばっかりほじくってないで、
教えるべきことも語るべきことも他にあるし、
もっと面白くできるはずだよ。

理不尽だな、と思うとき

2011-12-09 23:09:22 | 超・いぶたろう日記
今日は、まったく思いもよらぬことで「びっくり」されてしまった。
なぜこんなことで「びっくり」するのかわからない、と僕が言ったところ、
それにもまた「びっくり」されてしまった。
いつものことながら僕の感覚は理解されることなく、
その「非常識さ」を半ば呆れられながらたしなめられる。
仕方がないので分かったフリをする…のが賢い方法だとは思うが、
僕はどうにもやりきれない理不尽さを感じたときは、
たいへん正直に顔に出し、言葉に出してしまう。
つくづく、こういう中にいることが向いてないのだろうなと思う。

以下、一般論ね。

日本の学校や企業にありがちな減点法ありきの人物評価って、
本当にやり甲斐がないよね。
仕事の質よりも手順形式や一方的な印象が先行する。
つまり「何をやったか」よりも「誰がやったか」、
「どうやったか」という部分で評価が決まる。
「聞いてないよ」と「根回し不足」を指摘したり、
とにかく細部が気に入らないとスタンドプレーだと括りたがったり、
要はナマイキだってことをもっともらしく言い換えているに過ぎないと思うが、
正直、面倒だなあ、と思う。
信頼関係に影響するなんてのもよく言われることだが、
この程度のことで疑われるなら最初からそんなもの存在しないのでは。

言いたいことはまだまだあるけど、
具体的になってしまうのでここらでやめるの巻。

七面鳥

2011-12-04 23:17:57 | 超・いぶたろう日記
毎週月曜日はボウリングの日。
夜8時半から10時半まで、プロのコーチについてもらって、
3ゲームプラス時間内投げ放題の練習タイムです。

ど下手くそだった僕もさすがに毎週練習してると、
ちょっとはマシになってきたようです。
まだまだ投げてみないとわかんない感じでスコアは不安定ですが、
今日は119-96-181という山あり谷ありながら、
人生初の180越えに成功しました。
ハウスボールだから、なかなかでしょ?

そして人生初のターキーも^^
今までどうしても3回続けて出せなかったんだよね。
思わずエディばりのジャンプで歓びを表現してしまいました。

いやー、ハマってきたな。
これはマイボール買ってしまうかもしれん。
年明けからはジムも通うし、
歌も練習するし(こないだカラオケ誘われて、あまりの鈍り具合に衝撃だった)、
忙しくなりそうだな~。
後は如何にして仕事の手を抜くか、だが…^^
質は下げないけど、量は減らしたいんだよね、さすがに。
今まで仕事以外のことをしなさ過ぎた。
生き方をちょっと修正しよう。
何も責任をやたら背負い込むこともない。
僕の人生は、つまるところ僕のものだ。

そんな当たり前のことを思う、冬の夜。
夕方犬の散歩ついでによったサイゼリヤで、
あろうことか注文していたデザートが来る前に退店してしまったので、
ボウリングの後再び寄って、ちゃっかり食べながら。

ドーム参拝効果絶大だな

2011-12-02 23:46:32 | 超・いぶたろう日記
参拝以来、AEROSMITHヘビロテです(笑)。
僕はライブ前に目一杯聴いていく、んじゃなくて、
ライブで観るとまた曲の違った魅力とか、新しい解釈の仕方も出来て、
また改めてたまらなく聴きたくなる、という方です。

そしてここ最近の自分自身に対する、やるせなくふがいない想いを、
この歌が慰めてくれます。
昔は特に思い入れもなかった曲だけど、最近はかなりズシっと、
リアルな質感を伴って心に響いてきます。

ベタ過ぎるけど(笑)。

Every time I look in the mirror
All these lines on my face getting clearer
The past is gone
It went by, like dusk to dawn
Isn't that the way
Everybody's got their dues in life to pay

Yeah, I know nobody knows
where it comes and where it goes
I know it's everybody's sin
You got to lose to know how to win

Half my life's in books' written pages
Lived and learned from fools and from sages
You know it's true
All the things come back to you

Sing with me, sing for the year
Sing for the laughter, sing for the tear
Sing with me, if it's just for today
Maybe tomorrow, the good lord will take you away

Dream On...
Dream yourself a dream comes true
Dream On...
Dream until your dream comes through
Dream On ...

Sing with me, sing for the year
sing for the laughter, sing for the tear
sing with me, if it's just for today
Maybe tomorrow, the good Lord will take you away


エエ詩やなあ(涙)

僕も気がつけば36歳。
AEROSMITHがどん底から電撃復活した1984年、
その当時のStevenの年齢に並びました。
ここから僕に何か出来るだろうか。
angelを、young lustを、elevatorを、what it takesを、
eat the richを、cryin'を、livin' on the edgeを、
nine livesを、just push playを、生み出せるだろうか。

amazingを聴いて、また勇気を貰うんだ。
勇気を貰うって、こういうことだよ本当はきっと。

かつては

2011-12-01 05:09:01 | 超・いぶたろう日記
旺盛な批判精神と溢れんばかりの反骨心を以て、
思いつく限りの言葉の弾丸を撃ちまくり、
あらゆるものをボコボコにしたもんだ。

もちろん、敵は多かったし、手痛い反撃を喰らうこともあった。
僕独りならどうってことはないのだが、
やはりどこかに属し、何か守るものが出来ると、
なかなかそうもいかなくなる。

時々、何もかも棄てて自由になりたいと思うことがあるけれど、
棄てられないものが多くなりすぎていることに気づく。
いや、自由なんてそもそもが、
若かったが故の幻想であったかもしれない。

無限の自由は安定した不自由の中にこそ、あるのかもしれない。
そんな風に考えられれば、本当の意味でこだわらない境地に至れるのかな。
誰にも認められない、お金も稼げない、社会の何とも噛み合ってない中で、
自分は自由だ、孤高だ、世の中はおかしい、と喚いたところで虚しいだけだろう。
理論武装すればするほど、みっともなさが増す。
ここ数年の反面教師たちが、僕にもうひとつ大きな世界観をくれた感じだ。

僕はいつでも撃てる。
だけど撃たない。
なぜならばいま僕が持っている銃はこれだからだ。
少なくとも、いまのポジションで生きていく限りは、
こういうつもりでいなければならない。
そんな気持ちを込めて、プロフィール写真を改めた。


ただ、bulletは棄てないでおこう。
僕にとっては最後の、最大の武器だ。
再びどこかでまた違う銃を手にする日が、来るかもしれないし。