いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

僕は愛息主義なので

2020-02-29 19:00:40 | この国の憂鬱
僕は子供たちに勉強を教える立場ですが、
「愛国心を養う」とか「愛国教育」だとかは、
まーったくやる気ないです。
やりたくない。

国を愛するなんてことは、
教育して一方的に刷り込むようなことじゃないと思うからです。
大人達ががんばって素敵な国をつくって、
子供たちがその中で健やかに育ち、結果として、
「この国に生まれて良かったなあ。僕らも将来もっといい国にしていきたいなあ」
と自発的に感じてもらえるようにするのが本来の在り様じゃないですか。

愛国なんて言葉はキレイだけど、
失策を情緒でごまかしたり、歴史を改竄捏造したり、
特定の対象に敬意を強要したり、軍事方面にばかり目を向けさせたり、
ロクなことないですよ。

そして行き着く先は外国人に対する不当なヘイトや差別、
あとは気に入らないヤツを片っ端から「反日」呼ばわりでしょう。
やたらに愛国を謳うような大人達にはロクなヤツがいない。
僕はかわいい息子や生徒たちに、そんな窮屈な大人に育って欲しくないんです。

昨今の社会情勢を受けて、またぞろ「心をひとつに」とか、
「国に文句を言っても始まらない、批判ばかりしてないで自分のできることをやろう」とか、
そういういかにももっともらしい言説が氾濫してますけど、
こういうときって、おおよそ世の中全体がマジでピンチなのに、
政府や公的機関がまるでダメダメなとき、と相場が決まってるんですよね。
震災後なんかも顕著でしたよね。
批判せずに堪えろ、ここは黙って従えなんて、
権力にとっての模範解答を、国民の側から率先して唱えてくれるんだから、
なんとまあマゾっ気の強い国民性であることでしょうか。
おめでたい国畜根性と言ってもいい。

権力への批判は控えろという割に、弱者への誹謗中傷は容赦なかったりしますよね。
相手が病人でも老人でも女性でも子供でも遠慮なく、
甘えてる、自己責任だ、ワガママ言うな、他人を頼るな…と。
パワハラ人間と「愛国」主義者って妙に重なるところもありますね。

そういう人たちに言っておきたいのは、
身の回りの人間、目の前のひとり愛せない人間に、
国なんか愛せるわけもないでしょ、ということ。
だいたい「国」って何のことですかね?
まさか政府とか役人とか日の丸とか天皇とか、そんなもんじゃないでしょう。
そんなもの、ムリヤリ愛せとか言われても、ねえ。

本当の意味で「国」が表すものって、
自分たちの安全で平和な暮らし、小さな幸せのことじゃないんですか?

だったら、漠然とした「国」なんかよりも、まずは自分自身を大切にしましょうよ。
家族を、同僚を、友人を大事にしましょうよ。
不幸にもウイルスで亡くなった方はそれでもまだ数名でしょ。
自殺者は毎年2万人ですよ。
別に話を逸らすつもりじゃないけれど、
なんかこの国で起きていることと人々の意識のズレというか、
社会の連帯を高らかに謳う高潔で陳腐で空虚な言葉に感じる違和感って、
そういうところにあるんじゃないかなあと僕は思っています。

だから僕は、どんなに「格好悪く」映っても、
変に我慢強くてリアリストぶって訳知り顔をしたがる、
物わかりのいい「大人」のフリはしませんし、そっちの側には立ちません。
これからも徹頭徹尾、生意気で蒼臭くてワガママで我慢がきかなくて、
夢みがちで文句言いの子供の側にいます。
そんな僕でも、家族や友人、生徒たちを愛することくらいは、
当たり前にできてますしね。

とりあえず、オムツまで買い占めるのはマジでやめてください(笑)。


弁護士に森や稲田がいるように

2020-02-28 23:51:27 | この国の憂鬱
政治関係の投稿をすれば当然予期された事態ではありますが、
僕があるところで安倍要請を批判したら、
敬虔な信者の方から、ありがた〜いご託宣をいただいてしまいました(笑)。

《僕の投稿》
全国一律にする必要がどこにあるんだ。
誰も感染者がいない町で2週間も休校して何の意味があるんだ。
こういう地域差の大きな問題こそ、自治体ごとに対応すべきでしょうが。
しゃしゃり出てきてカメラの前でええカッコしたいだけでしょうが。
この画さえ撮れたら、あとは数分で退出して今夜も会食でしょうが。
「政府として責任もって対応」って、どの口が言うかね。

《信者の方(同年代・医師)》
「休校については、日本医師会からも『地域の感染状況に応じて、休校や春休みの前倒しを弾力的に実施』との要望を出しております。」
「政権に対して批判的な考えをお持ちと想像しますが、この件に対しては首相は独断で決めてはいません。」
「マスコミ等に流れている情報だけでやたらと批判するのは、ものすごく格好悪いです。」

だってさ。
まあ、SNSだから言葉選んでるけど、典型的なネトウヨ論法だわね。
医師会が要望出したから、独断じゃない?
医師会の要望と安倍の発表と、肝心な所が食い違ってるじゃん。
医師会は「今すぐ全国一律」を要望したのかって。
しかも専門家会議は「何の相談もされてない」って言ってるし、
文科省も厚労省も寝耳に水で、自治体もパニックだよ。

僕が格好良かろうが悪かろうがどうでもいいけど、
僕を批判するのに引用した医師会の要請文書の文言と、
安倍首相の「要請」の差異すら正確に把握していないくせに、
マスコミ以外のどんな情報源をお持ちなのか知らないが、
大した根拠もなく「独断ではない」と断言する、
それでいて意見を異にする人間には情報弱者と決め込んで「格好悪い」と言い放つ。
そんな人に言われる筋合いないと思うんですがね。

まあ皆さんご承知の通り、僕は長年のへそ曲がり人生で、
みんなが何となくいいね〜と言ってる中で、
ひとりだけ「悪いもんは悪い!」「イヤなもんはイヤだ!」てはっきり言って、
後ろ指さされたり孤立しちゃったりとか、もう慣れっこなんで、
格好悪いとか空気読めないとか協調性ないとか子供っぽいとか言われても、
どうってこたーないですね。褒め言葉かと。
むしろこんな風にケンカ売られると、イキイキしてきます(笑)。

それはさておき、僕が批判しているのは、
「休校措置」そのものではないということを明言しておきたいと思います。
僕は
「いきなり」
「全国一律に」
「学校だけ」
「何の調整もなく」
「具体的な影響への配慮もなく」
「場当たり的に」
やろうとしていることに、極めて強い違和感を表明しているだけです。

「休校措置」がどれほど感染拡大に効果があるのかは、
専門家の間でも評価が分かれるところのようですし、
ましてや僕のような無学な素人が判断できるようなことではありません。

しかし安倍首相による今回のようなパフォーマンス主体のやり方が、
各地で混乱を生んでいることは誰の目にも明白です。
「休校措置」という単語だけをとらえて、
やろうとしている方向性さえよければ良いというのは乱暴な見方だと思います。

本当に感染症拡大への危惧があるなら、
もっと前々からこの状況に陥ることを想定しておくべきだったでしょう。
何も安倍がテレビ画面一杯にドヤ顔さらさなくても、
水面下で厚労省や文科省はじめ関係各機関や全国の自治体にしっかり根回しして、
混乱をできるだけ少なくできるように指示しておけばいいだけのことです。
よりリスクの高い高齢者への対応や、
検査態勢の改善策も喫緊の課題であるはずです。
これらをすっ飛ばして大々的にテレビの前で総理大臣が、
「全国一律休校要請!」なんてやり出すのには、
いつもの「やってる感」の演出だろうというほか、多くの邪推を禁じ得ません。

邪推1:これでたまたま感染拡大抑止につながったら、デカイ顔できる
邪推2:これで感染拡大に歯止めが利かなかったら、要請に従わなかった自治体や学校に責任転嫁できる
邪推3:どっちに転がっても安倍個人に損はない
邪推4:なによりこのトップダウン感がキモチイイ
邪推5:なんなら「やっぱり緊急事態条項」みたいなこじつけも可

ま、あくまで邪推なんで、バカにしたい方はご自由にどうぞ。
バカは風邪引かないっていいますしね、
そんなら僕はウイルスなんか平気なわけですしね。


全国一斉休校要請

2020-02-27 11:22:47 | この国の憂鬱
1)「先手先手」を揶揄された
2)動きが遅いとの批判を覆したい
3)ここは一発派手にやってる感

安倍)
そうだ!全国小中高一斉休校命令!
わーお、カ〜ッコイイ!オレ!ドヤ?
…あ、命令はできないのか…よし、じゃあ、要請!
これなら責任とらなくてイイ
ひゃっほ〜い、おれ、かっしこ〜い!

1)子供家に居て親はどうすんだよ
2)共働きだってシングルだっているぞ
3)全国一律に休みにする根拠は?

安倍)
・ボクしらな〜い
・とにかくすぐやろ〜、やっておいてね〜、ボク会食あるから〜
・あとしらな〜い

とまあ、こんなところでしょう。
そもそも総理大臣って休校措置なんか「要請」できる立場なの?
てかいったいどこの誰あてに要請してんの?
んでまた誰が言うこと聞くか聞かないか見て、出世させたり虐めたりすんの?
何かと手続き無視するのは前からだけど、
今回こんな大きな影響のあること言うのに、ぶっつけなの?
総理大臣のくせに事前の打ち合わせとか根回しさえできないの?
何より、周りに止めるヤツ誰も居ないの?

なんなの?バカなの?
知ってるけど。

とにかく、何の根拠も配慮も調整も準備もなしに、
突然こんなこと言い出す総理大臣が、
同じクチで憲法改正(緊急事態条項)謳ってるってことは、
絶対に忘れないでおいた方がいいと思うよ。
本当にみんなそろそろマジでこのバカ引きずり下ろさないと、
二度と立ち直れないくらいぶっ壊されるよ、日本。

"Broken Japan"

2020-02-26 17:35:11 | この国の憂鬱
自分の眼が正しかったことが、実社会の壊れっぷりで証明されていくのには、
何とも複雑な気持ちでいる。
ここまで来ないとわからないのかと。

以前は反安倍を表明すると、
無知で理想主義、お花畑の左巻き呼ばわりされたもんだった。
最近では反安倍を語ると、
いまなら誰でも言えるよな、とか言われてしまうのだろうか。

就任前から変わらない彼のあの人間性、語り口、語彙の乏しさ、学のなさを見れば、
彼に中身のないことは最初から誰でも解りそうなもんだと思うのだが。
いや、中身がなくたって人望があるとか優秀な人材を使いこなすとか、
そういう宰相としての器量があればいいわけだが、それさえないのだ。
とことん場当たりで、公私の別がなく、反知性的で、感情も抑制できない。
もっとも権力を握らせてはいけない人物。
それは既に政権の発足直後から顕著だった強引な手法や、
高圧的でご都合主義的な物言いにも表れていたはずだ。

無学な層に支持の厚いことで有名な現政権だが、
結構な学のある人でも一時は随分もちあげて賛美していた気がする。
なんだろう、
学のある人ほど自分の感情的な好き嫌いを別にして論理構築できるからなのか、
それとも一周回って肯定的な意味を見いだすことに長けているからなのか。

僕は単純に彼の人間性が嫌いで信頼できないという極めて感覚的な理由だったが、
女性の間でもともと支持が薄かったことと合わせて考えると、
意外にそういった非論理的に見える部分での印象や評価が、
正鵠を射るということがあるのかもしれない。

情理のバランスはかくも奥深い。

ググる嗜み

2020-02-26 11:06:19 | 超・いぶたろう日記
PCR検査についての解説Twitter。

例えばここに書かれているようなことを、
医療関係者以外でどれくらいの人が知っているだろうか?
僕は恥ずかしながらまったく知らなかった。勉強になった。
考えてみればこの程度の基礎知識(高校生物でも習うことだそうだ)もないのに、
感染症についてさもわかっているかのような言説を振りまくなんて恥ずかしいことだ。
僕にはちとできない。

さてそんな素人の僕でも、検査はあくまでも検査であって、
予防にも治療にもならないことくらいは予想がつく。
みんながみんな病院に殺到すればえらいことになるのだって簡単に察しはつく。
タダでさえ待合室であれだけ待たされるのだ。
不安なだけの人を相手にしていて、
重症者の対応に手が回らないなんてあってはならないことだ。

この点、別に医療の専門知識がなくたって、
ちょっと落ち着いて考える、調べてみるという「知的謙虚」の姿勢さえあれば、
こんな集団ヒステリーみたいなことにはならないのにな、と残念に思う。
僕は幸いにして、医療に従事する畏友たちの冷静な分析や説明に触れる機会が多いけれど、
もし周りがみんなヒステリックな反射人間だらけだったら、
やはり我を見失ってしまっていたかもしれない。
畏友たちの論理的な言説に触れるにつけ、
自分が浮き足立って不勉強なことを言い散らかしてたら、
彼らに対して恥ずかしいという思いが生まれる。
物言いも慎重になる。つくづく環境とか人間関係は大事だ。

そしてこの問題、医療の問題という以外に、
政治的にも社会的にも経済的にも文化的にも捉えられるから厄介だ。
政治で言えばこれまでに積み重ねた不法や不作為、
姑息でいい加減な答弁、改竄隠蔽体質、反知性主義、
それらの「実績」を考えると、
今回のウイルス対策にだけ適切な対応ができているなんてとても考えにくい。
少なくとも政治的不信感が社会不安を増幅していることは間違いない。

さらには国際的な批判、インバウンドの激減、オリンピックとの兼ね合いなど、
「陰謀論」かどうかスレスレの言説が紛れ込む余地もたくさんある。
僕はなんでもかんでも「陰謀論」と切って捨てるのは好きじゃないし、
逆に何でも訳知り顔でうがった見方をすればいいとも思わない。
あらゆる可能性を排除せずに、慎重な議論を望む。
ただ権力に対してはとことん懐疑的であっていいと思う。
政治の問題とごっちゃにするななんていう声もあるけれど、
いやそれはそれ、切り分けた上で、
キッチリ政府の無為失策はただされなければならない。

ともあれ、個人でできることは知れている。
そして本当に深刻な(それこそペストクラスの)社会を崩壊させるような疾患ならば、
マスクしようがアルコール消毒しようが逃れる術はない。
今回の場合、不幸にして亡くなる人はあっても、
致死率という点ではそれほど深刻なものではないし、
罹ったとしても通常の風邪やインフルエンザと同じ程度、
対策も同様で充分だと複数の専門家が教えてくれているのだから、
素人が大騒ぎせずに、正しく恐れて、
できることをやっておこうじゃないか。

ていうか騒ぐ前に、デマを撒き散らす前に、
ちょっとググるくらいはしようじゃないか。


「正しいこと」くらいで傷ついてられるか

2020-02-26 09:24:37 | 特選いぶたろう日記
コロナウイルスをめぐるネット上の一連の言動に思う。
なかでもヒステリックな反応や、逆に根拠のない「大丈夫論」の跋扈に思う。
君たちはもっと「正しいこと」にこだわる必要がある。
それは簡単には見つからない。わかりやすいとも限らない。
「正しいこと」を見つけるためには、慎重であることだ。
すぐに答を見つけた気にならないことだ。
そして謙虚であることだ。
専門家の重みを知り、人の意見に耳を傾けることだ。
最後に、柔軟であることだ。
いまは正解に見えてもあとで間違っていることがわかるかもしれない。
逆にいまは間違っているようでも、あとで正しいと証明されるかもしれない。

これらを探っていく上で、必要なものは2つ。
できるだけ広く深く知識を求める姿勢と、他者と思考を交換するための論理だ。
知識とは何も難しい専門的なものだけとは限らない。
素人でも理解できる範囲で、きちんと根拠が示されているものを選べばいい。
論理とは何も冷たく機械的なものではない。
自分ひとりの思索には限界がある。視点を変えないと解らないこともある。
そこで他者と知識や意見を交換し、共有し、
さらに思考を深めていくための共通の形式・手法が論理だ。
いわば、相互理解のために必要なものだ。

「正しいことは人を傷つける」という言辞がある。
僕は正直、この表現が好きになれない。
いや、厳密に言うと、
したり顔でこういうことをしれっと言える人の感覚が理解できない。

多くの場合において、この言葉は、

「あなたの言っていることは論理的には正しいようだけれど、人の気持ちが分かってないよ」
「いくら知識があっても、論理的に正しくても、それだけじゃわからないこともあるよ」

という意味合いで(しかもなぜか上から目線で)遣われている印象がある。
それも、たいてい知識が乏しく、論理的な思考ができず、
不確かで曖昧な自分の感覚や気分を価値判断の中心に据えている人が好んで遣う。
さらに言えば、自分よりも知識がある人や言語化に長けている人に対して、
否定的な意味で、自分が論理的に抗弁できない場合に、
いわば「負け惜しみ」として遣われていることが多い。

元は吉野弘の『祝婚歌』らしい。
しかし彼は果たしてそんな意味合いでこの言葉を残したのだろうか。
抜粋して引用すると、たしかに、

「正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい」

とある。
ただし、一行目には

「二人が睦まじくいるためには」

とある。
つまり、あくまでもこれは新婚の二人に向けて、
夫婦仲を円満に保つ秘訣として語られたものであって、
いつでもどんなときでも人間はこうあるべきだ、
なんていう趣旨ではないことは明らかだ。

夫婦の間とか友人の間とかで関係をうまく保つために、
主義主張を抑えてある程度妥協して、仲良く気分良くやる工夫は必要だろう。
でも、それが議論の場に持ち込まれたら、何らの建設的な意味を持たなくなる。

「まあまあ考え方は色々、みんなお互いにガマンしましょう」
「一生懸命やってくれているんだからその言い方はどうか」
「傷つく人もいるのだから正しいデータを出さないで」

なんてことを言い出したら、そもそも議論も科学も成り立たない。
政治や経済や社会問題、医療などを論じる場で、
情緒的な言葉ばかりがひとり歩きして、批判や異論反論を封じ込めたり、
科学的な知見を無視して、都合のいい解釈を重ねていくとどうなるか。
現政権の無為・失策・無責任、不法、改竄隠蔽体質、反知性主義、
これらが7年間に亘って日本に与えたダメージの大きさを考えて欲しい。
国のトップが無知・無学・無能で恥じるところもないから、国中に似たようなのが跋扈する。
情緒的・感動的な同調圧力は、思考を停止させる。
一時の感情や好悪に左右されない冷静な論理こそが、安定と改善の礎となる。

何でもかんでも卑近な友人関係や男女関係に置きかえて理解し、
ことの本質を見ようとせず、
自分の経験や感覚の範疇でだけ捉えようとする人がいる。
そしてこの「経験」に基づく「感覚」が、さも絶対的なものであるかのように過信する。
そこに大した根拠はないし、他者に説明できる論理さえもない。
論理や根拠がないということは、他者が理解できないということだ。
似たような体験をした者同士で偶然「共感」することはできても、
それを捨象して言語で説明できないのだから「共有」はできない。

だから、
「これは言葉ではうまく言えない」とか、
「なんていうか、とにかく何かが違うんだよ」とか、
「もっと大事な何かが見えてない気がする」とか、
そんな安直な言葉に頼るし、「共感したフリ」をして差し上げないと、
「わかんない人には言っても無駄だ」「わかってくれないならもういいよ」となる。
身の回りに居ません?このタイプの人(笑)。

「自分にしか解らない感覚」を、
ひと足飛びに「共感してくれる」相手ばかりを求めているから、
人間関係も自分に都合良く使い捨てにする。
「この人は自分をわかってくれる!」と簡単に飛びついてしまう。
しばらくすると自分の思惑と違うところも出てくるから、
そうすると「やっぱりなんか違う!」と簡単に切り捨ててしまう。
全肯定と全否定の間で続けられる終わりなき反復横跳び。

なぜこんなことになるかと言えば、論理による相互理解を怠って、
一時の感情や不確かな感覚だけで判断してしまうからだ。

「だって人間はそういうものだからしょうがないでしょう?」
「人間はそんなに強くなれないよ」

などという言い訳にもよく出くわすが、努力を放棄しているだけだ。
甘えた自分を正当化しているだけだ。
生きていたら誰だって辛く厳しいことにもぶち当たるのは当たり前だ。
癒やしを求める気持ちも解るが、
いつまでも肩寄せ合って慰め合っていて、何になるのだろうか。
生きていくためには少しずつ強くなることだって必要なのだ。
そのためには耳の痛いことでも耳を傾けなければならない局面もあるし、
目を背けたくなるような事実にも目を向けなければならないことだってある。

もちろん弱い者にだって生きていく権利はあるし、守るべき弱者への配慮も必要だ。
しかし、それを楯に自分の思考的怠惰を正当化しようなどと、姑息にも程がある。
百歩譲って、どうしても「正しいこと(=自分に都合の悪い指摘)」に背を向けていたいならば、それでもいい。
しかし「正しいことを言う」こと自体を否定するのは愚かなことだ。
賛成できなくてもいい、納得できなくてもいい、
でもそれは正しいことを言う者の責任ではない。
理解するに十分な知識と思考が自分に備わっていないだけのことだ。
分かった風なことを言いたい、知ったような顔をしていたい、
自分の無知を認めたくない、何より単純に「負けたくない」。
そんな自分の幼児性を開き直ってないで、
成年には成年相応に知的謙虚であることを求めたい。

何より、不勉強な人間が大きな顔して、自分の不確かな感覚を盲信して、
誠実に勉強や思索を重ねた人の言葉を軽々しく馬鹿にすんなよな、と言いたい。

無邪気にハマってる知人も多いので言いにくいのだが

2020-02-11 10:29:08 | 超・いぶたろう日記
サプリだのハーブだのオーガニックだのってね、
そらまあ信仰は自由なんで、個人が好きでやってる分にはイイけどさ。
このご時世にウイルス対策効果を謳うのはさすがにどうかと思うよ。
責任とれるの?

美容だとか健康気分みたいな、ふわふわしたものを楽しむだけならいざ知らず、
生死に関わるような案件について、医学的知識もないのに、
無責任に「抗ウイルス効果があります〜♪」なんて寝言言うんじゃないよ。

「医学的にも証明されてます〜♪」
なら、ちゃんとそのエビデンス示して説明してみろよって。
「医学では測れない不思議な力が〜♪」
それを信仰というのだ、宗教というのだ。

善意の無知ほど恐ろしく有害なものはない、ね。

名将逝く

2020-02-11 09:46:00 | 超・いぶたろう日記
なんと…僕の最も敬愛する野村監督が…。
幾多の名試合、観察と理論に裏付けられた奇策、名言・名著の数々、
実に多くの遺産を野球界に遺していかれた。

彼の解説や野球論には何度となく目から鱗が落ちた。
ひと目見ただけで本質を見抜く眼力。
相手の心理を鋭く読む洞察力。
野球というものを知り尽くした本物の名将だった。
生涯にわたって反骨を貫いたところも格好よかった。
相手が誰だろうと、遠慮なくユーモアたっぷりに毒づくところも魅力的だった。
もうあの含蓄深いボヤキが聞けないとは、実に寂しい限り。

野球の深みを素人にもわかるように教えてくれた、
野球をずっと面白くしてくれた野村監督、
いち野球ファンとして心から感謝と哀悼の気持ちを表したい。
ありがとうございました。
最愛の奥様と共に、ご冥福をお祈りします。

子供と向かい合う

2020-02-07 15:24:10 | 特選いぶたろう日記
僕は昔、気合も足りなければ意気地も根性もない子供だった。
特に、自分がやりたいわけでもないことを他人から無理に強制されると、
ケタ外れの拒否反応を示して、
テコでも動かなかった(その意味では根性座ってる・笑)。

持久走も嫌い、筋トレも嫌い、宿題も嫌い、
単調な漢字や計算のドリルも嫌い、宿題も嫌い、
意味不明なルールやマナーも嫌い、集団行動大嫌い、
わかりきった話を黙って聞いてるフリするのも嫌い。
だから小学校なんか嫌いなことだらけ。
好きなことだけは熱心にやるけれど、
嫌いとなると手もつけないし見向きもしない。
そのくせ妙に弁は立つから、
周囲の大人達にしてみれば、実に扱いづらい子供だったと思う。

イヤなことがあると逃げたし、ごまかしたし、ウソもついた。
そのせいで親父からも小学校の教師からも随分怒られたし殴られもした。
でもそれで僕はどうなったか。
ますます逃げて、ごまかして、ウソをつくことを覚えただけだった。

怖い大人に力で屈服させられても、反省なんかしなかったし、
具体的な改善にも結びつかなかった。
毛の先ほども納得できていないからだ。
従ってるフリをして、バレないように隠れてやったし、
自分を守るためならウソもついた。
小6の担任(自称「問題児のプロ」)には「ロクな人間にならない」と断言された。

でも、反論も許されない一方的な説教や暴力には、
理不尽な思いこそすれ、心服はできない。
強権的・高圧的な手法では心までは屈服させられない。
できたように見えても、それは子供の心を殺しただけなのだ。

大人になったいまも、
多少は表面的に世の中と折り合いをつけられるようになっただけで、
僕は相変わらず気合も根性もなく、自分に甘く、イヤなことからは逃げ回る。
そのせいで何かと努力に欠け、詰めは甘く、
実際、社会的なステイタスという意味では大した人間にはなれなかった。
若い頃からの不摂生で自堕落な生活習慣も相変わらずだし、
体型にもそれは表れている(笑)。
いまの僕を見たら、エラそうなことを言ってた割にほら見たことか、と
小6時の担任氏なんかは、ほくそ笑むのかもしれない。

でも、僕はこれでいいと思っている。
僕は僕の心を殺さずにここまで生きてこられた。
勝手気ままな性格と無駄に能弁なのが災いして、
周囲と軋轢が生じる度に苦労はしたけれど、
その都度ちゃんと新たな僕の居場所を見つけてこられた。
納得ずくで自分の人生を生きてこられた。

ここに至るまで「自己肯定感」がどれほど大切なものだったかと思う。
僕が自分の価値を信じて生きてこられたのは、
それを認めてくれる人々が居てくれたからだ。
それがなかったら、
あるいは暴力や威圧や脅迫で無理矢理従わせられていたら、
とうに僕はこの世に居ない。

僕ひとり、この世に居ようが居なかろうが、
世の中に大した影響はないかもしれない。
だけど、少なくとも僕が居なかったら息子はこの世に生を受けていないし、
ウチの嫁の人生もまた違っただろうし、
そしてバンドや職場を通じて出会った多くの人々の運命も、
また様々に変わっていたに違いない。

そう信じさせてもらえる程度には、
僕の作品や仕事を評価してくれる人もいたし、
僕が話したことや書いたことなどの影響を語ってくれる人もいた。
僕が繋げた人々だっている。
少なくない人々に存在価値を認めてもらえているという自負、
それが僕の生きる自信になっている。

大人の都合に合わない子供だからといって、どうってことはない。
どんなに優等生に見えたって、
心に闇を抱えていたら犯罪に手を染める日が来るかもしれない。
いまは力で屈服できたって、
将来体力的に逆転したときにどんな復讐が待っているかしれない。
寝込みか、金属バットか、放火か、それは明日にでも来るのかもしれない。
もしそんなことになったら、悲劇以外の何ものでもないじゃないか。
実行には至らなくても、子供が心に思い描いただけでも、
それだけでもう充分に悲劇じゃないか。
大人は大人で本気で子供のためと信じていたのなら尚更だ。

子供が大人の言うことを聞かないのは、信頼していないからだ。
これまでの積み重ねで、
この人には何を言っても無駄だ、どうせ決めつけられるんだ、抑え込まれるんだ、
とあきらめているからだ。
つまりは、近視眼的にその場その場で、
自分に都合良く片付けてきた大人の側に責任があるのだ。

子供を相手にするときは、いかに未熟であっても、
人間を相手にしているのだということを忘れてはいけない。
きちんと手間と時間をかけて納得させるというプロセスを省略してはいけない。
そのひとつひとつの丁寧な積み重ねが揺るぎない信頼を築く。
それさえできたら、ウソもごまかしも暴力も必要なくなる。
どんな厳しい話もお互いに落ちついてできるようになる。
そんな大人を、子供だって求めている。

自己肯定感の最後の拠り所であるべき両親が、
日々それを削ってくるばかりなんて、考えただけでも切なくなる。
受験がそのきっかけとなるケースがとても多いのがとても残念だ。
偏差値とか進学先とか、受験勉強なんて、
人生のいち場面・いちジャンルに過ぎないのに、といつも思う。
僕がこの仕事をしているのは、少しでも子供の味方になってやりたいからだ。
いまだから僕も理不尽な思いを言語化できるが、
それができないで追い詰められてる子供たちの弁護士になってやりたいからだ。

一般に「子供のために」と極端なことをしてしまう大人は、
自分の知識と経験という二重の牢獄に囚われている。
「親(教師)はこういうものだ」
「子供はこうあるべきだ」
「人生で必要なものはこれとこれ、それは無駄だ」
…等々、大人が自分の知識と経験だけを根拠に正解だと信じ込んで、
子供に押しつけるそれらは、論理的ではあっても客観的ではなかったりする。

だとしたらそれは、ただの「信仰」でしかない。
第三者の立場からいくら話しても埒があかないことがあるのは、
それが極めて強い「信仰」に他ならないことを示している。
選択の余地なく生まれついた家庭で、親と同じ「信仰」に染め上げたとして、
それは理想と呼べるのか。
「洗脳」と呼ぶべき行為ではないのか。

親として子供に希望や願望を抱くことは自然なことだが、
行き過ぎてしまっては子供の人格も人生も否定してしまうことになる。
何より、子供は親のクローンじゃないし、
子供の人生は親のリターンマッチなんかじゃないのだ。

そう、子供は子供であって、自分ではないのだ。

45歳の地図

2020-02-06 11:11:11 | 超・いぶたろう日記

45回目にして初めて息子と迎えた誕生日。
今年も多くの皆様からお祝いのメッセージを頂戴しました。
恐縮です、ありがとうございます。

45歳という年齢が自分のものだとはまるで実感なく、
鏡に写る我が身には嘆息をもらすばかりですが、
私がかつて子供の頃に周囲にいらした「45歳の方々」は、
もうちょっと落ち着いた大人で、重厚で渋かったような気が。
省みて私、相変わらずの軽佻浮薄・浅学非才・巧言令色、申し訳ないくらいです。

人の親にもなり、もうちょっと謙虚さというか、良識というか、慎ましさというか、
心の余裕を持ちたいものだなあと思いつつ、
一向にそういったものに縁がございません。
私の心の中ではいまだにキライなものはキライだ、
納得のいかないものはいかない、やせガマンなんかしない、
同調圧力も予定調和も排泄物召し上がれ!(精一杯自主規制)
…という蒼臭くて我が儘なROCKの炎が燃え盛っているのかもしれません。

…そんなに燃えているのなら、
ついでにこの油田のような内臓脂肪も燃やし尽くして欲しい今日この頃でもあります。

ともあれ、私の「45歳の地図」には、「青春を返せ」の文字はございません!
ただただ『憎まれっ子世にはばかる』あるのみです!
てなわけで何の進歩も成長もなく齢を重ねてますが、
変わらぬご愛顧の程、よろしくお願いしまーす!


この時期思い出すこと

2020-02-03 05:54:06 | 超・いぶたろう日記
Twitterで見かけたあるスレッドから。
優秀な人材に相応の待遇を示せず、みすみす流出させてしまう日本企業について。
時代錯誤な「愛社精神(滅私奉公)」と、
みんな長時間労働・低賃金が当たり前の悪平等主義。
「仕事はゼニカネじゃない、やり甲斐だ、自分の成長だ、達成感だ」
なんて言い訳がましい勝手な美意識を押しつけて、要するに人件費が惜しい。
若く有望な人材が組織にとってどれほど重要なものかを認識せず、
ただ古株たちの既得権(低生産性・高賃金)をキープするためだけに、
従順で賃金や待遇を要求しない「清廉で誠実な」奴隷を要求する。
まあ本当にありがちな日本企業の姿。
しかし、いまの時代、そんな企業に未来はない。

亡びの一途をたどっている古巣を見るにつけ、つくづく実感する。
6年前の今頃、僕は頑迷な日本企業の典型ともいうべき窮屈な古巣を飛び出した。
それからずっと負けたくないと思って頑張ってきたのだが、
順調に少しずつ結果を残してきた僕らとは対照的に、
無責任な運営で不振を極めたあの場所は、
とうとうこの春、閉鎖にまで追い込まれてしまった。
人材の流出も続き、全社的にも規模は3分の1ほどに縮小したと聞く。
まあ、自業自得としか言いようがないが。

「公平性が保たれない」
「君ばかり特別扱いもできない」
「社会人・組織人として常識」
「いつまでもピーターパンでいたいのかね」
「君のことを快く思わない人もいる」

思えば、いろんなことを言われたっけなあ。
でもこれ、いま見てみると全部、
我が社の社員たる者こうあるべし、という固定観念から離れられない、
単なる社畜の思考停止だよね。

自身の無謬性を毛の先ほどにも疑わない、尊大な経営者。
彼が口癖のように言ってた「結果がすべて」。
その割に、自分の判断ミスで失敗しても絶対に認めないし、
他人の失敗は大なり小なりあげつらって、まあ卑怯な人だった。
僕が出ていったときもそう。
「自分のミスで貴重な人材を流出させ、業績が傾いた」なんて、絶対認められない。
わざわざ会議で時間を取ってあいつなんか絶対に失敗すると吹聴し、
「結果がすべて」だから今に見てろとうそぶいていたそうな。

うん、でも本当にそうだよね。
僕も結果がすべてだと思います、はい(笑)。

考えてみれば、僕は一度も給与に不平不満を言わなかった。
休日手当も超勤手当も社保も福利厚生も、
有休さえもないブラック企業だったのに、だ。
まあ純情きわまりないことに、若き日の僕は、
僕を評価してくれていた当時の経営陣を信頼してしまっていた。
彼らが評価した数字なら受け入れようと思っていた。
きっと残っていても就労環境も賃金も何ら変わっていなかったとは思うが、
それでも精神的に裏切られさえしなかったら、僕はあのままでいただろう。

独立する前に、ひととおり転職も検討して、いくつか面接も受けた。
そこで聞かれた実績と給与を正直に答えたらどこでも驚かれた。
安すぎる、ウチだったら倍は出してる…と。
そこで初めて自分の市場価値というやつを知った。
社内ではあれほど揚げ足取りとダメ出しばかりされていたのに、と驚いた。
なかでも一番評価してくれた千葉の某学習塾。
そこの社長さんの言葉が忘れられない。

「あなたを採用するのはウチにとっても賭けだと思う。物凄い戦力にも、内部に抱えた爆弾にもなり得る。経営者としては怖い。でも敢えて賭けてみたいと思わせるものがあなたにはある」

この上なく光栄な、それでいてとても正直なご評価だった。
バンドを辞めて前職に就いたときの僕だったら、迷わずお世話になっただろう。
評価してくれた人のために精一杯頑張ろうと思っただろう。
実際、バンドで孤立して不遇を託っていた僕は、評価に飢えていた面がある。
新たに学習塾という活躍の場を得て、何をやっても評価され、
水を得た魚のように僕はイキイキと頑張った。
結果、差がつき過ぎて浮いた。
様々な人から嫉妬を買い、それを巧くやり過ごせない僕は真に受けて孤立した。
どこへ行っても、同じことの繰り返しだ。

だから僕はこんな評価をいただけて本当に嬉しかったが、
だけにもう迷惑はかけたくないと思った。
こんな短時間でこれだけの人にここまで言わせるくらいなんだから、
僕もまあよっぽどなんだろうと。
僕の悪いクセで、決して悪気はないんだけれど、
思考は止められないし、同調圧力には反発するし、
既成のルールに必ずしも従順ではいられない。
だったら自分でゼロから創り上るしかないよな、と肚が決まった。
前職よりもはるかに魅力的な条件提示を受け、整った就業環境もあって迷ったが、
僕は結局、自由であることを優先し、挑戦したいという意志をもって独立した。

あれから6年、幸い軌道に乗り、前職での全盛期の半分の規模まで持ってこられた。
収入も前職に比べ、倍とまではいかないが、その間くらいまでは増やせた。
何より自分で自分を査定するこのやりがいが良い。
一切のノイズなく、ごまかしもまやかしもなく、
等身大の自分で毎年真剣勝負できる喜び。
これがいい。

僕は仕事をゼニカネだけで選ばない。
やりたいか、やりたくないかが一番。
次に人を喜ばせられるかどうか。
金銭は目的ではなく、あくまでも結果として考えている。
悩みに悩んで決めた道。
そこでがむしゃらにやってきた結果として、3つとも叶えることができた。
天の時、地の利、人の和。すべてに恵まれた。
僕ほど幸運で幸せな人間もそうはいないだろうと信じる。

不自由な安定か、不安定な自由か。
こう言うとまるで十代のような蒼臭さだが、
僕は迷いながらも結局、いつだって後者を選び続けてきた。
ワガママ勝手で大人になれない、社会不適合人間と言いたければ言えばいい。
もはや、やっかみとしか聞こえない(笑)。

安定した収入、先の見える安心感というものは、
理不尽な不自由への我慢と引き換えなのだろうなと思う。
先頃生まれた長男のかわいらしい寝顔を見ていると、
安定を求めたくなる気持ちもわかるようになってきた。
それでも、鳥が地上に降りて暮らせないように、
僕には譲れない生き方というものがある。
だったら、実力で自由と安定を両立するしかない。
そう信じてこれからもやっていくのみだ。
誰に何を言われようと、堂々と自分の信じる道で結果を出し続けていけば、
何も気にならないし、僕の幸せも揺るがない。
それが確信に変わったいまは、もう迷うこともない。

僕もまもなく45。人生もすっかり後半戦だ。
決して成功ばかりではなかったけれど、
悔いのない人生ということで言えば、前半戦は満点をつけてもいい。
後半戦もまた、自由に楽しく生きていく。
そんな父ちゃんの楽しそうな姿を、息子にも存分に見せてやりたいと思う。

この時期思い出すことといえば、もうひとつ。
僕に転職を決意させてくれた人のことだ。
なんせ30歳までミュージシャンだった僕、
常識外れの世間知らずというコンプレックスはあった。
なんせネクタイひとつまともに締められなかったのだ(笑)。
スーツも革靴も嫌い、どこにでもゆる〜いファッションで出ていく。
企業組織的な価値観ではおおよそ評価されにくいという自覚はあった。
そんな僕を見た目や派手な言動だけで疎外せず、
仕事で勝負するチャンスをくれたのは間違いなくかつての古巣だった。
だから経営陣との関係が険悪になっても、
ここを出たら僕なんかはどこにも受け容れてもらえないだろうなと、
言われ続けてもいたし、自分でもそう思いこんでしまっていた。

そんな僕の思い込みをキレイに払って、自信を取り戻させてくれ、
思い切って飛び出してみようという気にさせてくれた人がいる。
おそらく本人にはそんな気はなかっただろうと思う。
自身の目で僕という人間や僕の仕事ぶりを見て、
率直に思っているところを伝えてくれただけなのだろう。
でも、当時の僕にとっては本当に大きなことだったし、ありがたかった。
いまはどこでどうしているかもわからないし、
ここを見ているかどうかもわからないが、ありがとうと書いておきたい。
お互いに頑張っていきましょう、とも。

旅立ちの日

2020-02-01 09:17:12 | 超・いぶたろう日記
今年もこの日がやって来た。
都内私立中学の入試初日。
2月1日は僕にとっても特別な日。
あの日の僕と同じように希望と不安を抱いて試験場に向かう子供たちを見送る。
特別な言葉はこれといってない。
必要なことは授業ですべて伝えてある。
「これが終わったら遊べるぞー!」くらいかな(^^)。

毎年、早朝に教え子の受験生たちを都合5回送り出す。
見慣れたこの風景もはや17年目だ。
毎年思う、生徒たちと言うより、ソワソワしてしまう自分を落ち着かせるためにやってるのではないかと。

そして毎年思う、朝の駅に眠そうなおっさんが立ってるだけのことなのだが、と。
それでも少しでも受験生たちの表情が和らぐのを見ると、
やっぱり来ないわけにはいかんよな、と思い直す。
これも毎年。