いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

セクハラ騒動に思う

2018-04-21 01:21:32 | 超・いぶたろう日記
何をしたらセクハラか、なんて議論に何の意味もないよなあ。
「何をしたか」より「誰がやったか」で
決まってしまう部分だってあるもんなあ。

「女性差別だ」なんて単純なアングルだけではなく、
問題はもっと根深いところにあるような。

そもそも、男女どちらにもあり得る錯誤ではないだろうか。
男性のそればかりが目立ってしまうけれど、
女性だって男性に対して容赦なく
「ハゲ」「デブ」「キモイ」とやることはあるはずだ。
それだって立派なセクハラだ。

結局、容姿とか若さとか、
性的魅力だけを異性の価値と捉える感覚が
「自覚なきセクハラ」を生むんだろうな。
「見た目年齢」だとか体型だとか、
空虚な「容れ物」の美しさばかりを無定見に追いかける世の風潮こそ、
その元凶であるように思えてならないよ。

中身がないもの同士、また必死に見た目を競い合う。
学歴や所属企業などのブランド、収入や偏差値などの数値、
役職や肩書きなどのステイタス、果てはSNSで必死のリア充アピール。
表面をどんなにキラキラ飾り立てても「中身がない」虚しさはごまかせない。
その満たされない寂しさと肥大した自己愛が行き場を喪い、
他者の気持ちを顧みない暴力性を生む。

セクハラもパワハラもいじめもヘイトスピーチも、
その意味では同根な気がするのよね。

天使突抜

2018-04-16 11:45:50 | 超・いぶたろう日記
昨日は古い友人のライブでした。
高田馬場・四谷天窓、松田 くばく氏率いる「アッコウ堂」のレコ発ライブ。

松田くんは大学時代に所属していたバンドサークルWFSの同期で、
当時から才気煥発、独特の世界観と言語感覚そしてパフォーマンスで
周囲から決して少なくないリスペクトと嫉妬を一身に集めていた人物。

思えば僕もまた、彼に嫉妬した人間の一人。
僕もヘンテコなバンドが好きで、彼らに憧れて、
「表現者」であろうと色々と奇抜なことをやろうとするんだけれど、
どうしても物まねとかフォロワーの域を出ない。
それはつまり自分の中に本当の意味での飢餓感とか、
一般社会での決定的な疎外感みたいなものがなかったからなんだけど、
そうと気づくのはおじさんになってからなんだよね(笑)。

思えば、僕にも(いまも引きずっているかも知れない)
マジョリティになりきれないアマノジャクというか、
センシティブな部分というのはあって、
それで大なり小なり摩擦を起こしてきたこともあるわけだけど、
僕の場合は幸か不幸か、ちょっと我慢さえすれば、
短期的には一般社会にアジャストできてしまう小器用さも持ち合わせていたが故に
(とはいえ長期的には破綻するんだけど・笑)
表現の世界を突き詰めていけなかったんだよね。

もっと正確に言えば、僕には胸の内のモヤモヤを
音楽という形で作品に昇華する才能も乏しかったし、
またそれを言語化して発散できてしまうがゆえに
その手段にこだわる必然性も薄かったというか。
そういうことに自ら気がついて、
僕は十数年前にバンドを辞めてしまったのだけれど。

20年ぶりに見た彼のライブは、
相変わらず独特の世界観と言語感覚だったけれど、
音楽的にも作品としても実に洗練されていて、
純粋にいい音楽をやっているなぁ、と感じさせてくれるものだった。
メロディがいい。歌詞も伝わってくる。演奏も素晴らしい。耳に残る。
いまや嫉妬する必要もなく、素直に喝采。
何より、ステージの上の彼はとても自由で楽しそうだ。
20年間も彼ならではの彼らしさを携えたまま、こうして熟成するなんて、
本物の才能とはこういうものなんだろうと思う。

若い頃は勝手にライバル視して、嫉妬して、
意地でも認めようとしなかった自分が、
こうして彼の才能を、在り様を素直に肯定的に受けとめられるようになったことで、
自分自身の人生をも肯定できているような気持ちがする。
とても味わい深い時間だった。

松田くん、がんばってください。

執着

2018-04-13 00:41:18 | 超・いぶたろう日記
人がそう簡単に為し得ないような何かを成し遂げるには、
相当の「執着」が必要なんだろうと思う。
一流のアスリートにしても、著名なアーティストにしても、
普通の人ならまあイイかで済ませるところをよしとせず、
あるべき形にとことん執着し、こだわり抜いて、
尋常ならぬ努力や研鑽を重ねればこその到達点だろう。
才能とはその強烈な執着を指していうのかもしれない。

でも、何に執着するかというのも大事なポイントで、
それが「売上」とか「収入」とか「得点」とか、
他人との比較において数値化されてしまうものである場合、
どこまでも終わりのない追求が飢餓感ばかりを煽って、
結局あまり幸福にはなれない…というか、
幸福そうに見えないような気がする。

または名声だったり、住む家だとかクルマだったり、
結局は他人への見栄でしかないものに執着する場合も、
物理的には華やかで幸せそうな生活に見えて、
実は精神的には砂上の楼閣ではないだろうかと思う。

充実しているはずなのに、何だかいつもガツガツしている。
豊かな生活を送れているはずなのに、何だかいつもトゲトゲしている。

そんな人を見かける度に、
ああ、なんて心が不自由な人だろう、と思う。

まあ、何が幸福かなんて自分自身が決めることだから、
誰がどんな生き方をしようと勝手ではあるんだけどね。
それにしてもずっとそれじゃあ、息苦しくはないですか?
…って、思っちゃうんだけどまあ、余計なお世話か。

たしかにお金があるのは幸せなことだけど、どれほどお金があっても、
心を病んでしまったり、友達が誰も居なかったりするんじゃあ、
とても割に合わないように思う。
いかにもSNS映えするようなキラキラ生活を送ってたって、
それを維持するのにキリキリしているようじゃあ、窮屈だよなあ。

じゃあ執着を断ち切るか。見栄を棄てるか。
うーん、仏教的には最高の境地だろうけれど、
あまり無味乾燥に過ぎるのも生きている実感に乏しい。

やはり他人の評価など気にせずに、
自分の軸として大事にしているもの、
目指す理想や目標に執着しているのがいいんだろうなあ。

僕の軸はといえば…「とことん自由」かな。
僕の理想はといえば…「ノーストレス」かな。

おお、そう考えるとしっかり執着した結果、充分実現できている。
厳しい世界に身を置いて、絶えず自分を磨くというのも格好いいんだけどね。
僕はやっぱり楽しい世界に身を置いて、
絶えず自分を甘やかしてのんびり生きていく方が幸せなんだよね。