いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

「塾の先生」になって

2024-04-05 05:16:56 | せんせいとよばれて
なんと今年で22年度目ですよ。
前職で11年務めて、独立してから11期目なので、ちょうど半々になる。
中日の涌井より長いよ。ヤクルト石川や西武中村には1年負けるか。
バンド活動の傍ら、とりあえず、キライじゃない仕事で食いつなぐか…
なんて思いながら気軽にバイト始めたのが、まさかこんなに続くとは。
あまつさえ独立して自分の教室まで構えていようとは。

「人生は第二希望でうまく行く」

そんな言葉をどこかで聴いたことがある。
大谷翔平や藤井聡太にあきらめざるを得なかった第一希望があるとは思えないが、
古くは馬場が(ホントに古いな!)巨人の投手だったのが、
風呂場での転倒事故をきっかけにプロレス入り。
猪木も移住先のブラジルで陸上選手だったのが、
そこで力道山にスカウトされ…と、それなりの説得力も感じられなくもない。

そういや、大むかし僕は関西在住で、灘が第一志望ということになっていた。
けれど、それは親父がそう言ったからであって、
僕の心はとうに、近所のとある大恩人のおかげで、120%麻布だった。
麻布に合格をもらった瞬間、もう東京に引っ越す気満々で、
ウキウキ荷造りなんか始めちゃってたし、
その後(当時は麻布が2月、灘は3月だった)の受験勉強にはまったく身が入らず、
灘は見事に落ちた。
それを完全に見越していた塾の恩師は、教室の空気を弛ませる僕を、
麻布合格のその日に「退塾」にしたが、慧眼だったとしか言いようがない(笑)。

考えてみれば、大袈裟ではなく僕の人生の転機は「塾」にあった。
窮屈な小学校に屈託していた僕を、
自由で寛容な最高にフィットした中高に送り出し、
大袈裟ではなく人生を啓いてくれたのは塾だった。
僕の塾講師としての原点はまさにここで、
「公立小中学校の、管理ありきで理不尽な環境にアジャストできずに苦しんでいる子に、環境さえ変えればいくらでも世界は開けることを教え、後押ししたい」
という思いはずっと変わらない。

ただ、始めたときはまさかこんなに続くなんて思ってもみなかった。
自分はメジャーなアーティストになるんだからと、
無理に自分に思いこませていたようなところもあった。
むしろそれを真面目なカタギ暮らしができないことの言い訳にして、
三十までは本当に無責任に好き勝手に生きていた。
そうなることを完全に見越していた大学時代の彼女は、
卒業とともに僕を「整理」したが、これまた慧眼だったと言うほかない(笑)。

そんな僕だけれど、塾の仕事は始めてみると実に楽しくて、真面目に勤めた。
もともと教育には興味があったし、子供の相手をするのも好きだった。
世話焼きで、子供を喜ばせるのが好きで、
子供と一緒になって大人の文句を言うのも好きで、
大人の振りかざす「あたりまえ」が嫌いで、それでいて妙に一本気だったりもして。

仕事が仕事に思えないほどに楽しく、生徒も保護者も喜んでくれてやりがいがあった。
ちょうどその頃、バンドではおよそ褒められる・認められるようなことがなくなり、
もう何かというと貶されてばかりだったので、モチベーションは逆転。
30歳を機に正式に転職を決める。
のちにいわゆる「会社の会社たる所以」に辟易して離職はするが、
現場のやりがいとはまったく別のこと。
なんせ飽きっぽいことでは人後に落ちない僕が、こんなに長く続けられているのだ。21年だ。バンドですら7年半で瓦解したというのに。

してみると、実は第二希望なんかではなかったのかもしれぬ、と思い至る。

第一希望はバンドでの成功…かのように「思いこんでいた」だけで、
自分でも気づかなかったけれど、実は自分の適性だとか得手不得手もコミで考えると、
こちらが真の第一希望だったのかもしれないという気さえしてくる。
自分で自分自身を見誤っていたのだろう。
実力や人気がということ以上に、自分が本当にそれを好きなのかどうかという点を。

人生はわからないもんだ。
結婚だって子供だって、自分には向いていないと思いこんでいた。
極めて平凡な、ごくあたりまえにある幸福が、
自分にとってこんなにも大切なものだなんて、まったく想像していなかった。

つくづく、自分を一番知るものは、いまの自分ではないのだなあ。
かといって誰に聞けばいいのかもわからないが。
「士は己を知るもののために死す」というが、
それだけ自分の適性を見抜いてくれる存在は貴重だということか。

いずれにせよ、数年あるいは数十年経てば、
自身でもしみじみと実感できるときが来るのよね。
あれは正解だった、これは誤りだった、
今さら何を言ってももう遅いけど、という時期になって。ああ人生。

幸いにも、なんとなく正解だったかな?と振り返れる程度には、
充実した塾講師人生だったと思う。
加えて最近で、良い意味で肩の力が抜けてきた感じもする。
かつては教え子たちに思い入れが強くて、よく言えば熱量高めの、
悪く言えば肩入れしすぎて独善的な傾向があったようにも思う。

昨年春に送り出した卒業生たちは傑物揃いで、
小4からずっと可愛がってきた、とても思い入れのある代だった。
才気にあふれ、慕ってもくれる彼らの目標を叶えたいと、
僕も全身全霊で取り組んだし、彼らも十二分に応えてくれた。
そして僕の教室史上最強といってもいいくらいの実績も出た。
そんな彼らを送り出したあと、燃え尽きたような感覚もありつつ、
それでもいつもと同じ春を迎えて、ふっと力が抜けた気がする。

別にその後の生徒たちがどうでもよくなったわけではなくて。
過程についても結果についても、ようやくフラットに受け止められるようになった。
変に他人に期待しすぎる悪い癖が抜けた。
期待なんてものは自分勝手なもので、百害あって一利なしだ。
それを表に出すまいと、いままではフラットにしなきゃしなきゃと、
意識して抑え込んでいたような感じがあった。
年齢のせいか、キャリアのせいかわからないけど、
自然と落ち着けたような境地にいま、僕はいる。

やはり、ベストよりもベター、
第一志望ではなく第二志望くらいの気の持ちようがいいのかもしれぬ。
力みまくって、期待して、落胆して、歯を食いしばって立ち上がって…
それもまた人間くさい熱量に溢れていて悪くはないけれど、
来年五十になる僕が、二十代・三十代の頃と同じ方法論でいいはずはない。

…なんて言いながら、ふと気がつくとまた入れ込んで熱くなっているのだろうなあ。
身に染みついたものはそう簡単に変わらないし、
自分で言うほど自分は自分をわかっちゃいない。
結局変わらずに、喜怒哀楽のわかりやすい、
「教師のガラじゃ〜ない〜、カネ〜のためだ〜と言いながら〜、子供相手に〜人の道〜、人生などを説く〜男」として、
一言も二言も多い塾講師のままかもしれない。
あっさりと辞めて、まったく別のことを始めてたりして。

よくコンサル的な文脈で「10年後の自分を思い描く」的なことがいわれるが、
僕はそれが何ひとつ当たったことがない。
生まれてこの方、まさかまさかの連続。
10年先などわかるわけないし、
当たり外れ以外の副次的な効果とされるものも含めて、
そんなこと考えるだけ無駄だとさえ思う。
むしろ先の読めない人生だったことを誇りに思うくらいだ。

大谷翔平の未来予想ツリーなんかも、案の定もてはやされているけれど、
稀に見る大成功者の手法を後付け気味に猿真似したって、
自己満足以外には何も得られない。
むしろ凡人は失敗に学ぶべきで、その点僕は反面教師たちのおかげで、
たとえば犯罪やら薬物やらといった、決定的に道を踏み外すようなことはなかった。

ベストでなくとも、その時々のベターの積み重ねでいい。
取り返しのつかないような、ワーストにさえならなければいい。
それくらいの気の持ちようがいい。
子供たちにもそう教えてやりたいと思う。

さて、僕の10年後は。
元気に家族と仲良く生きていられさえすれば、それで充分だけどね。
ベターな健康への小さな努力の積み重ね、これを目標にしようかな。

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今月のベスト珍質問は

2022-02-23 23:26:53 | せんせいとよばれて
本日の小4女子Xさんによる、

「先生、今日は誰の天皇誕生日なの〜?」

に決定です。おめでとうございます。
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受験オリンピック

2022-02-07 00:09:11 | せんせいとよばれて
テレビでね、オリンピックの結果を報じて、
メダルの数が何個…ってやるじゃないですか。
んでも最近は、出演者もメダルを称えつつ、
メダル圏外だった選手にも気遣ってコメントしますわね。

そう、メダル獲得は素晴らしいことなんだけれど、
みんながみんな獲れるわけじゃなくて、それぞれに苦労や葛藤があって、
運不運やメンタルや好不調もあって、その上での結果なんですよね。

選手の実像に迫れば迫るほど、「メダル確実!」なんて気安く言えなくなる。
知らないからこそ、遠くから無責任な他人が、
「メダル」というわかりやすい結果だけを褒めそやす。

受験もまったく同じなんですよ。
有名校や第1志望校にみんながみんな合格するわけじゃない。
努力や姿勢と結果は必ずしも一致しない。
それでもみんな不安やプレッシャーと闘いながら目標に向かって頑張った。
難関校合格はたしかに素晴らしい、誇っていい。
頑張ったお子さんは大いに誉めてあげてください。
でも周囲が、特に大人がやたらにハシャイで、そればっかりもてはやすのはちと違う。

まして、「偏差値●●以下の学校には通う価値がない」なんて、
いいですか、断言しますよ、アホの言うことですよ。
「メダル以外はオリンピックに出た意味がない」なんて言うのと同じですよ。
「おれは昔、偏差値●●の学校に受かった!」
だからどうしたと。おまえもやればできると?
メダリストがそんなこと言いますかね。

負けた痛みを知らない勝者は盲目。
僕自身もそうカテゴライズされちゃうのかもしれないけれど、
難関私立中高を出て、難関大学を出た人の教育観なんて、たかがしれたもの。
ものすごーーく視野が狭くなってると思っていた方がいいよ。

僕もこの仕事をやってなければ気づけなかったことがたくさんある。
数えきれないくらいの子供たちと、毎年真剣勝負に臨んで、
たくさんの涙も見て、やっと辿り着けた境地がある。

この春、厳しい入試に挑んだお子さんを持つ保護者の皆さんに、
ちょっと風変わりな(へそ曲がりな)進学塾代表からメッセージを。

結果は色々、お気持ちは重々わかります。
でも、どんな形であっても、お子さんの味方でいてあげてあげてくださいね。
「オリンピック」を目指して真剣に頑張った経験は、
けっしてメダルだけで報われるものではないし、
厳しい結果を突きつけられることで覚醒するものもあるでしょう。
逆に「メダリスト」がチヤホヤされているウチに、
調子に乗って転落して…なんて話だって少なくありません。
そう、お子さんの人生は入試なんかでは終わらないんです。
まだまだこれからなんです。

ずっと一番の応援団で、味方でいてあげましょう。
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温もりオンライン

2022-02-03 23:05:28 | せんせいとよばれて
感染急拡大のため、やむなくオンライン授業に全面代替して1週間。
技術の進歩著しく、スタッフの習熟もあり、
コンテンツ自体はリアルにも遜色ないレベルまで来られたと思う。

とはいえ、オンラインだとどうしても発言や顔出しに消極的になってしまうし、
クリックひとつで表情も音声も「オフ」にできてしまうのには、
いかんともし難い距離を感じてしまう。
リアル授業に優るものなし、僕らが教室でやりたいのはもちろんだが、
生徒のみんなはどう感じてるのだろうか。

「オンラインよりライブが良い」と言ってもらえるかどうかには、
普段から温もりのある雰囲気や関係を構築できているかどうかが如実に表れる。
塾なんて退屈な場所行きたくない、なんていうんじゃダメだ。
Miraizだけは嫌がらずに行く、塾なのにとても楽しそうに行く、
という声に支えられて僕らはここまでやってきた。
オンライン授業は僕らの在りようが問われるいい試金石でもある。



とりあえず、授業の終わりにこんなメッセージを書き残していってくれるというのは、わりと悪くない教室なんじゃないだろうか。
オンライン授業のもたらしてくれた思わぬ福音。
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ご褒美

2021-10-15 02:46:46 | せんせいとよばれて
10年前(前職時代)の卒業生たちが、相次いで僕の教室を訪ねてくれた。
こちらのMさんは就職が決まってその報告に。
小学2年から中学受験まで5年間担当した子なんだけど、
とても素直で明るくて昔のまま。
今回は娘のお祝いも持ってきてくれた。
高校卒業の時も大学進学の報告に来てくれて、
そのときは、成績票を持参してくれて、
「高校3年間オール5をとってこんぶに見せよう!」
という目標を立てて見事クリアした、と。これには感動したよね。
大学生活もコロナ禍がありつつも充実した模様で、
早くも来春は社会人、彼女らしくのびのび頑張って欲しい。

こちらの写真のHくんは10年前に高校進学、
いまは夢を叶えてなんと電車の運転士。
彼のお姉さんも担当してたんだけど、
僕が塾の先生になって最初に受け持った小6生も、
いまや一児の母だという。

同じく右の写真のYさんは院に進んで、来春から研究職に。
彼女も兄妹で担当してたんだけど、
お兄ちゃんの変貌ぶりにイイ意味でビックリ(笑)。

こういう、教え子たちの「その後」も聞かせてもらえるのも、
この仕事の醍醐味のひとつだね。
小中学生の一時期のご縁でも、
みんなすごく楽しかったと言ってくれるし、
あまつさえあの時のことが原点になって今があるとまで言ってくれる。
リップサービスだとしても嬉しいし、
さまざまな人生に決して小さくない関わり方をしてきたんだという実感は、
これからの仕事にも大きな励みになる。
何より、教え子たちがそれぞれの道で輝こうとしているのを観るのは、
とても感慨深いし、
それをこうしてわざわざ報告に来てくれるなんて、
最高のご褒美だよな、としみじみ思う。

僕の教室は、いつでもいつまでも卒業生たちが訪ねてきてくれる、
そんな場であり続けたい。
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できてないじゃん

2021-03-31 12:17:03 | せんせいとよばれて
日本に欠けているものは数あれど、致命的なのが、

「できないことをできないと言う」
「できなかったときは正直に言う」

ことではないかと思われ、してみると、

「何が何でも学校へ行く」
「宿題は何があっても必ず仕上げる」

という従前の良識とされてきた指導は、これを悪化させこそすれ、
将来的な改善にはつながらないのではないか。

「人として当たり前、できないのは恥ずかしいこと」

だなんて圧をかけて追い込んでみたところで、

「不登校を恥じ、無理して通学させた結果のイジメや自殺」
「宿題は答を写すかノートを忘れて、やったことにする」

という展開しか生まない。
考えてみりゃ当たり前なんだけど。

「なぜ行きたくないのかを考え、原因を解決する、あるいは他の選択肢を考える」
「できないときはできるだけでいいし、できない理由を考える」

でイイと思うの。
犯罪行為でもあるかのように糾弾しなくてもイイと思うの。

そういう基本的なレベルのところで、
「できたことにする」ばかりがまかり通るから、
後々大きなところで犯罪的な社会的損失につながると思うの。

原発もオリンピックも統計偽装も公文書改竄もパワハラも過労死も、
みんなここに通じると思うの。
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おまゆう

2021-02-18 23:11:04 | せんせいとよばれて
いまや立場が立場だけに、仕方ないのだが。
よもやこの僕が、
寝過ごして授業に穴をあけかけた学生講師を説諭する日が来ようとは。

くり返す、この僕がだ。

僕に時間守れとか勉強しろよとか言われるのって、
菅や二階から会食控えろとか、橋本聖子からセクハラやめろとか、
アブラゼミからうるさいとか言われるようなもんよね。

自分でも思うよ、どの口が言うかと。
でも言う。しかないじゃん。

てやんで。
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画面に収まらない魅力ってヤツかな

2021-02-15 23:13:30 | せんせいとよばれて
例年この時期に教室の新年度説明会をやるんだけど、
今年は緊急事態宣言下ということもあって、教室開催は断念。
代わってオンライン説明会をやろうかと思ったけれど、
2時間近くの内容をZoomでやってもなぁ…と二の足踏み踏み。

じゃあ、話す内容をテーマごとに区切って、
10分くらいの動画をいくつか作ってyoutubeにあげようか、と思いつく。
Keynoteにナレーション入れてみたり、
あるいはZoomのレコーディング使って顔入りで話してみたり、
動画編集のスキルがないので一発録り。

最初の1〜2本、割とうまいこと録れたので、非公開で挙げて自分で見てみる。
自分だからだろか、なーんか違和感ありあり。
どこがおかしいのかな、と、
参考にいくつか塾の説明会の動画を見てまわってみる。

…うーむ…どれもこれもうさんくさい……

なぜだろう、同じ業界ながら、どうしようもなく胡散臭い。
僕もまた、見事に同類のように胡散臭く映ってしまう。
よそ行きで喋っちゃってるからなのか、単なる照れなのか。

僕の見たところ、塾動画は大別して2種類。

Type A:やり手コンサル系
・高偏差値・学歴偏重
・講師の学歴これでもか
・独自メソッド的なものガン押し

Type B:金八先生系
・学歴・偏差値が全てじゃない
・入試だけじゃなくて、人間教育を語る
・子供たちが楽しく学べるように…

多いのは圧倒的にType A。
派手なアピールと極端な断言の仕方でグイグイ来る。
YouTubeにはどうもこの手のがウケるのか、
どの業種も似たような感じの動画が多い気がする。
関連広告にも、短期東大合格スキルだの、投資のウラワザだの、
数分で人生を変える動画だの…なんだかなあ…という感じ。
だんだんウンザリしてきた。

そう、僕はこの手のものがとにかくニガテなのだ。
お金だったり、異性だったり、地位だったり、サクセスとかステイタスとか、
そういう「結局は欲望でしかないもの」を、
夢だの可能性だのとキレイな言葉に言い換えて、
いかにもラクな裏技でそれが手に入るかの如く煽ってくる。
商売だから仕方ないんだけど、アレがどうも僕はダメなのだ。

そんな僕は自他共に認めるType Bではあるのだが、
これは実に「商品化」が難しい。
よく見えてお人好しの甘ちゃん、
下手したら「言い訳」染みても映るだろうし、
悪くすると逆に何かの自己啓発セミナーとか宗教っぽくもなる。

きちんとライブで時間をかけて考えを丁寧に伝えて、
初めて誤解なく受け取ってもらえるものが、
動画で短くおいしいところを切り取ってやろうとすると、
逆に胡散臭くなってしまうのだ。

ダメだ。めんどくせ。やめた。

ということで、今年は説明会なしになるか。
どうだろうなあ…元々、ほとんどがクチコミか紹介で来てくれるし、
別にそんなに拡大したいわけでもないしなあ。
ウチの良さって、自ら宣伝しないところにあるような気もしてるんだよねえ。
説明して売り物にしちゃうと途端に嘘くさくなるというか。

僕が言葉で話すより、
普段の授業の様子とか撮ってあげた方が余程いいような気がする。
となると編集・ボカシ必須なので、僕のスキル…てか、稼働時間ではなあ。
うーむ。
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あなたが通うわけじゃないのに

2020-11-17 23:12:29 | せんせいとよばれて
根強い偏差値信仰。
学校ブランド信仰。

「ある一定レベル以下の私立校には行く意味がない」

「難関校一本、ダメなら公立中でよし」

「中学受験がダメでも、高校受験も大学受験もある」

本当になくならない、保護者のこの手の思い込み。

「ある一定レベル」って何?
どうせ模試の偏差値表とか、大学合格実績しか見てないでしょ?
「ダメなら公立」って、簡単に言い切っちゃってるけど、
それ本当に子供とよく話し合って、子供は納得してんの?
口さがない子供は、アイツ全滅だぜ、なんて陰口たたくよ?
そもそも、私立と公立では全然環境違うんだけど?

「中学受験が全てじゃない」のはその通りだけど、
だからといって高校受験や大学受験がそれに代えられるかといったら、
そういういうもんじゃないでしょ?
それは全ての試練をひととおり、
痛みも喜びも両方十二分に経験した大人だから言えることであって、
子供は最初の経験なんだよ?

「不合格でも別にいい」は「絶対合格しろ」と対照的なようで、ほぼ同質。
前者は自分が悪者になりたくないだけ。
後者は自分の考える正解を押しつけたいだけ。
両方とも親の自己満足で、子供の気持ちなんか少しも汲めていない。

そういう親子関係、遠くない将来、不幸になるよ…………。
いっぱい見てきたからね………。
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未成年だからな

2020-10-18 10:54:30 | せんせいとよばれて
子供は、未熟で無知であるが故のデリケートな、
その年齢ならではの繊細な感性をもっている。

大人は、成熟したが故のタフな、
大概のことは飲み込むか流すかしてしまえる、
ある意味での鈍感さをもっている。

例えば、

「豚さんも牛さんも殺されてお肉にされちゃう、かわいそう」

と、

「家畜というのはそういうもので、肉を食べないわけにもいかないし、考えても仕方ない」

という対比。

思えば、原発も環境問題も戦争も差別も、
あるいは政治の無体や会社組織内の理不尽な諸々も、
みんなこうして「考えても仕方ない」で、
思考を停止させてしまうことが「大人しぐさ」かのようだ。

どんな疑問も不満も屈託も鬱屈も「知識」と「理屈」にすり替えて、
「わかった気」になってしまう。
自分はそうして呑み込んでいるのだからと他人にも、
そしてもちろん子供にも無意識にそれを強要する。
それは「常識」でしょ、と言いながら。

でも、子供たちにはただの同調圧力でしかない。
なぜ黙らなければならないのか、承服できない。

何も大人だけが悪者だと言うわけではない。
大人だって、思うところがないわけじゃない。
でも大人は、わかってはいても生き延びていくために、
心を殺さなくてはならない時がある。

生きるというのは悩むということだ。
生老病死に四苦八苦、怨憎会苦から求不得苦、
愚痴も逃避も許されず、ありとあらゆる責任にがんじがらめにされて、
悩み苦しみ迷い考えなきゃいけないことが山ほどある。

とるに足りない小さなことや、
個人の手に負えないような大きすぎることで、
いちいち喜んだり怒ったり悲しんだり傷ついたりしていられない。
自分に直接影響しない他人事に、
同情したり首を突っ込んだりしている暇も余裕もない。

大人がそうしてタフに生き延びて、家族を守っているからこそ、
子供は些細なことに感じ入ったり傷ついたり、
誰かに同情を寄せる余裕があるのかもしれないよね。

授業で扱った国語の文章題に付随して、そんな話をしていたら、
「じゃあ大人と子供の中間が居ればいいんだね」
という声が挙がった。
「子供の心を持ったまま大人になれば、両方の気持ちがわかるんじゃない?」
という声も。

そうだね。
まったくそう思う。
教育業にはそんな大人がたくさんいて欲しいよな。
そう思いながら聴いていると不意に、別の子がポツリと呟いた。

「子供と大人の中間…先生(僕のこと)じゃん?」
「ああー!そーだねー!こんな感じかー!」
「学校に先生いたら全然違うよねー」

45歳の理屈っぽいふざけたおっさんが、
まさかそんな風に言ってもらえるとは思ってもみなかったので、
柄にもなく照れちゃって、気の利いた返しができなかったんだけど、
ありがとう、たいへん光栄です(^^)

何を隠そう、僕は成人式出ていない(起きたら終わってた)ので、
まだ未成年なのです(キリッ

大人たちには青臭いと言われ続けた僕の酸味は、
子供たちにはイイ感じのスパイスになるようで、
僕にとっては最上級の褒め言葉です。
尊敬するとか言われるとむず痒いけど、
味方になってくれると言われたらすごく嬉しい。

…でも、残念ながらたぶん学校では生きていけないと思います。
……校長とか他の先生とかとすぐケンカになっちゃうから…。
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一寸の僕にも五分の矜持

2020-08-29 00:54:38 | せんせいとよばれて
偏差値や学歴、学校の勉強だけが全てではないし、
子供にもいろんな個性があるし、
知識をいたずらに詰め込むことよりも、
自分で考えて表現する本質的な学びこそが大事。

子供が自分の足で立ち、生き抜く力を身につけるためにも、
大人が過度に干渉するのはよくない。
どんな子供も得手不得手、長短両所があるので、
成績だけじゃなく長い目で見ましょうよ。

…というのは17年間この世界でメシ喰ってきた僕の、
多くの生徒や卒業生のその後を見てきた上での偽らざる本音。
実感に満ち満ちた、本音中の本音。

こう言うと、不特定多数への一般論としては、
ほとんどの親御さんに賛成してもらえるんだけど、
それでも我が子のこととなると難しいようで、
よほど聡明な保護者でも、どうしても近視眼的になってしまいがち。
言葉の上ではオブラートに包んでいても、
とにかくひとつでも「上」の学校に入れてくれ、
いますぐ成績を上げてくれ、なんていうのもヒシヒシと感じる。

親というのはそういうもの、かもしれないが、そればかりとも言えず。
親たちがかつてそういう価値観の下に育ってきたからでもあるだろう。
自分の経験を完全に離れて価値判断することは至難の業だ。

いよいよ切羽詰まってくると、
「理想論はいいから」
「目の前の結果に繋がる話を」
ということにもなる。
んで、満足のいく回答(即効性のあるドーピング)が得られないと、
じゃあよそへ行きますねということにも。

こういうとき僕は、過剰なサービスやナイショの特約を提示してまで、
顧客を引き留めるべきかということをいつも考える。
営業優先・売上維持なら、一も二もなくそうすべきなんだろう。
でも僕は、これまでずっと正論を歪めずに、阿ることもせず、
去る者は追わずでやって来た。
それでも何とか喰ってこられてるところを見ると、
間違った判断でもなかったようだ。

そりゃあもちろん学力向上を請け負う学習塾として、
顧客の期待、即ち成績を上げて志望校に受かるように持っていくべきなのは、
ゴマカしようのないところだ。

でもねえ…。
大人の都合や損得勘定だけで、一度しかない子供の大事な時期を、
不毛な点とり競争だけに費やさせていいものかどうか。
どうしても僕はここが引っかかってしまう。

まあ、こういう蒼臭いこと言ってると、大きくはなれないかもね。
ビジネスとしては甘いとか言われるんだろうな。
でも、あんまりそこには価値を置いてないんだよね…。
僕らは僕らで矜持を持ってベストの仕事をしてるんで、
見る人が見ていてくれて、共感した人が来てくれて、
生徒たちが明るい表情で教室に通ってくれて、
それでいて職員みんながちゃんとメシ食える程度にやれてれば、
それでいいんだよね。

人はパンのみにて生くるものに非ず。
雇ってもらいさえすればどこでもできる塾屋商売を、
敢えて自分で旗揚げしたんだから、
創業当時の理想とか理念というのは色あせないよう大事にもっていたいよな。
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教育業に17年間携わってみて

2020-08-09 00:34:45 | せんせいとよばれて
教育ほど「個人の成功体験」を押し付けてはいけないものはない、
と確信に至っている。
父親になる前に、職業としてこれだけ多くのサンプルに触れ、
「反面教師」もあまた目にし、この知見が得られたのは実に大きいと思う。

「自分がこうだったから」
「あの凄い人がこうしてたから」

は、子供にとって迷惑でしかないのよね。

とにかく子供をよーく見て、耳を傾けよう。

いまのところ、
よーく見て……うーん今日もすごくかわいい。
耳を傾け……あー、うー、きゃっ、しか言わない。

よし。OK。
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知的謙虚のすすめ

2019-12-13 11:03:10 | せんせいとよばれて
僕は一介の塾講師に過ぎなくて、
知識も教養も大したことはないんだけれど、
そんな僕だからこそ、子供たちに明らかに間違ったことを教えたり、
自分の勘違いや固定観念を押しつけたりしないように、とても気をつけている。

方法はいたってシンプル。
事前に確認し、諸説あれば諸説あると伝える。
こうだと決めつけるよりも、多角的なものの見方や様々な可能性について、
自分で考える姿勢を伝えられた方が有益だからだ。

そしてすべてを教えようとしない。
学問的に明らかに答がひとつに絞られるものを除いては、あとは自分でも色々調べて考えて欲しいと投げることも多い。
僕のことも本当かなあと疑うくらいでちょうどいい、とも。

僕は自他共に認める勉強嫌いで、自分の学力的限界もよく自覚している。
アタマの良し悪しはわからないけれど、少なくとも「学ぶ力」は大したことない。
とにかく面倒くさがりだからねー。
でもそんな自覚が「適度に教える」立場としては奏功しているような気がする。

なんでもわかってる、なんでも知っているというような思い上がりは、
たいていロクなことにならない。
知的自信過剰とも呼ぶべき人が、先生としては実に不人気なのもよく知っている。
生徒からしたら自慢とイヤミでマウントされ続けるからだろうなあ。

畏友の言動に触れるにつけ思うことだが、
本物の知性は実に謙虚で余裕があるものだなあと感嘆する。
彼らのおかげで「知」を観る目も自然と養われる。
中途半端に知性を気取って、何でも簡単に断じてしまう人は、
結局他人を見下したり自分の優位性をアピールしたいだけだったりする。
その薄っぺらさや乱暴ぶりが相対的に浮き彫りになる。

自分の頭でちゃんとものを考えたり、
人と本気で議論したりといったことをせずに歳を重ねると、
実に厄介なパワハラ中年や老害になる。
あるいは似非科学やスピリチュアル方面にストンとハマったりもする。
それが同年代だったり旧知の人物だったりすると無性に哀しくなる。

本当の意味で謙虚に学ばなければ、同じ論法や思考パターンにこだわり、
自分に都合のいい情報にしか触れようとせず、どんどん硬直してゆくのみ。
アップデートを怠って、凝り固まった思い込みに囚われ、
根拠のない「常識」を当たり前のごとく振りかざし、
無思慮・無節操にマウントを仕掛け、言いたいことだけ言い逃げする。
そんなのはとても「議論」の名には値しないし、カッコ悪いことだ。

そのカッコ悪さをよく見て反面教師としよう。
もっとしなやかになれるように、
もっと上手に子供たちに伝えられるように、僕はまだまだ学んでいこう。
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教育という名の幻想

2019-05-17 23:56:17 | せんせいとよばれて
いまは「効果がない・意味がない・むしろ逆効果」とされている
昔の教育法・指導法はあまたあるが、それらに無防備に曝されてきた中でも、
それなりに真っ当な人間がちゃんと一定数育っているところを見ると、
人間やっぱりなるようにしかならないのかな、
と教育の限界点を悟る…というか謙虚な気持ちになる。

もちろん、子供達へのアプローチがより多様に柔軟に洗練されていくことは
歓迎すべきことなんだけども。
教える側の小手先の方法論じゃなくて、
教わる側が安心できる環境だよなあ、と思う。

門前の小僧、孟母三遷、薫陶。
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失敗させてやれよ

2019-04-08 03:19:46 | せんせいとよばれて
ウチの教室でもよく議論になるんだけど、ちょっとナマイキ言わせてもらうとさ、
「厳格なルールづくり」なんてものは教育でも何でもないんだよね。
そんなの、ただの管理。先生というより「管理者」がラクしたいだけ。

「ルールに書いてある」ということで思考停止させ、
問題を起こしたらペナルティを与えるだけなんて、いかにもラクだよなあ、と思う。
その実、指導の名目で大人の側の都合や責任の一端を子供に押しつけているだけ。
「前から厳しく言ってたんですけどねえ…」なんて逃げ口上ね。

そもそも、どんなにうるさく言ったって子供は聞いてないし覚えてない。
やっちゃダメだと言われれば言われるほど、やってみたくもなる。
どうしてマズイのかがわからないから、やってみてとんでもないことになって、その痛みを知る。
この失敗の過程を「どう安全に経験させるか」が教育の本質じゃないのかな。

つまり、ルールでがんじがらめにして問題を「起こさせない」のではなく、
問題を「起こしてから」が本当の教育だろ、と思うけどね。

真に教えるべきはルールではなくマナーとモラル。
それは単に言ってわかるようなもんじゃなくて、
若いからこその恥や失敗などの経験を通じた感覚であり、美学。
ルールなんかなくたって、自分で判断できなければ意味がないわけ。

それを「失敗させない」ようにしていては、
いまは従順にしていても、いつかどこかで大きな陥穽にはまる。
挫折に極端に脆かったりもして、引きこもりとか薬物とかもそうかもね。
保障と安定を至上の価値に据え冒険しない国民性、同調圧力や懲罰感情の強い社会、
みんなここにルーツがあるような気がする。
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