人は観察や思考の果てに、ある程度共通点が認められると、
何でも「くくって」「まとめ」たくなるんだよね。
「くくって」「まとめる」と、
何だかわかったような気がするんだよね。
でも、「くくって」「まとめる」過程では、
無意識のうちに、少なからぬ相違点に目をつぶってしまうはず。
もはや「くくって」「まとめて」、
こうだ!と言い切ってしまうことが気持ちいいから、
そのこと自体が目的化してしまうんだね。
だから、個別の具体的な相違点に注意を払うことが面倒になる。
せっかく「くくって」「まとめた」気持ちのいい公式に、
例外は認めたくないからね。
一度「くくって」「まとめた」ことに拘れば拘るほど、
どんどん本質からは遠ざかるんだよね。
自分の思考・主張・論理が、
自分勝手で一方的な思い込みに陥っていないか。
自分で自分をチェックすることが、とても大事。
それができないウチは、説得力も共感を呼ぶ力も伴わないから、
「誰も自分を理解してくれな」くて当然。
言いたいことを言いたいだけ、言いたいように言うだけじゃ、
自分は気持ちよくなれる分だけ、人を不快にする。
自分は正しいことを言っているつもりでも、
周囲は「聞いてやっている」だけ。
つまり、相手の気持ちや都合をも考えず、
子供のようにどこまでもワガママ勝手を押しつけて、甘えてるだけ。
それを無条件で聞いてくれる人だけが、
「数少ない」「選ばれた」「真の」「自分の理解者」
ということになり得るのだろうか?
行き過ぎた自分、アンバランスな自分、視野の狭まった自分、
それをたしなめたり、諭したり、
叱ったり、怒ったりしてくれないとしたら、
彼らは決して誠実だとは言えないし、
それは友情でも優しさでもない。
何か別の目的があって、ご機嫌を取りにすり寄ってきているだけ。
お金か、権威か、権力か、セックスか。
エサが欲しくて懐いてくる野良犬と同じ。
そんな、邪な下心に満ちた取り巻きにチヤホヤごまかされて、
自分を見失ってばかりいては、いつまでも同じ過ちをくり返すだけ。
自分に都合よくねじ曲げて、何でも公式に当てはめて、
事情は千差万別の森羅万象を「くくって」「まとめて」、
何でもわかってる気になって、
本当の思考の苦しみから逃げ回っていては、
進歩は望めない。
虚心坦懐に、自分の弱さを受け容れること。
他者の心を、他者の身になって慮ること。
「気分」に負けないこと。
独り言、だけどね。
何でも「くくって」「まとめ」たくなるんだよね。
「くくって」「まとめる」と、
何だかわかったような気がするんだよね。
でも、「くくって」「まとめる」過程では、
無意識のうちに、少なからぬ相違点に目をつぶってしまうはず。
もはや「くくって」「まとめて」、
こうだ!と言い切ってしまうことが気持ちいいから、
そのこと自体が目的化してしまうんだね。
だから、個別の具体的な相違点に注意を払うことが面倒になる。
せっかく「くくって」「まとめた」気持ちのいい公式に、
例外は認めたくないからね。
一度「くくって」「まとめた」ことに拘れば拘るほど、
どんどん本質からは遠ざかるんだよね。
自分の思考・主張・論理が、
自分勝手で一方的な思い込みに陥っていないか。
自分で自分をチェックすることが、とても大事。
それができないウチは、説得力も共感を呼ぶ力も伴わないから、
「誰も自分を理解してくれな」くて当然。
言いたいことを言いたいだけ、言いたいように言うだけじゃ、
自分は気持ちよくなれる分だけ、人を不快にする。
自分は正しいことを言っているつもりでも、
周囲は「聞いてやっている」だけ。
つまり、相手の気持ちや都合をも考えず、
子供のようにどこまでもワガママ勝手を押しつけて、甘えてるだけ。
それを無条件で聞いてくれる人だけが、
「数少ない」「選ばれた」「真の」「自分の理解者」
ということになり得るのだろうか?
行き過ぎた自分、アンバランスな自分、視野の狭まった自分、
それをたしなめたり、諭したり、
叱ったり、怒ったりしてくれないとしたら、
彼らは決して誠実だとは言えないし、
それは友情でも優しさでもない。
何か別の目的があって、ご機嫌を取りにすり寄ってきているだけ。
お金か、権威か、権力か、セックスか。
エサが欲しくて懐いてくる野良犬と同じ。
そんな、邪な下心に満ちた取り巻きにチヤホヤごまかされて、
自分を見失ってばかりいては、いつまでも同じ過ちをくり返すだけ。
自分に都合よくねじ曲げて、何でも公式に当てはめて、
事情は千差万別の森羅万象を「くくって」「まとめて」、
何でもわかってる気になって、
本当の思考の苦しみから逃げ回っていては、
進歩は望めない。
虚心坦懐に、自分の弱さを受け容れること。
他者の心を、他者の身になって慮ること。
「気分」に負けないこと。
独り言、だけどね。