いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

括纏

2014-09-04 04:47:50 | 超・いぶたろう日記
人は観察や思考の果てに、ある程度共通点が認められると、
何でも「くくって」「まとめ」たくなるんだよね。

「くくって」「まとめる」と、
何だかわかったような気がするんだよね。

でも、「くくって」「まとめる」過程では、
無意識のうちに、少なからぬ相違点に目をつぶってしまうはず。
もはや「くくって」「まとめて」、
こうだ!と言い切ってしまうことが気持ちいいから、
そのこと自体が目的化してしまうんだね。

だから、個別の具体的な相違点に注意を払うことが面倒になる。
せっかく「くくって」「まとめた」気持ちのいい公式に、
例外は認めたくないからね。
一度「くくって」「まとめた」ことに拘れば拘るほど、
どんどん本質からは遠ざかるんだよね。

自分の思考・主張・論理が、
自分勝手で一方的な思い込みに陥っていないか。
自分で自分をチェックすることが、とても大事。
それができないウチは、説得力も共感を呼ぶ力も伴わないから、
「誰も自分を理解してくれな」くて当然。

言いたいことを言いたいだけ、言いたいように言うだけじゃ、
自分は気持ちよくなれる分だけ、人を不快にする。
自分は正しいことを言っているつもりでも、
周囲は「聞いてやっている」だけ。
つまり、相手の気持ちや都合をも考えず、
子供のようにどこまでもワガママ勝手を押しつけて、甘えてるだけ。
それを無条件で聞いてくれる人だけが、
「数少ない」「選ばれた」「真の」「自分の理解者」
ということになり得るのだろうか?

行き過ぎた自分、アンバランスな自分、視野の狭まった自分、
それをたしなめたり、諭したり、
叱ったり、怒ったりしてくれないとしたら、
彼らは決して誠実だとは言えないし、
それは友情でも優しさでもない。
何か別の目的があって、ご機嫌を取りにすり寄ってきているだけ。
お金か、権威か、権力か、セックスか。
エサが欲しくて懐いてくる野良犬と同じ。

そんな、邪な下心に満ちた取り巻きにチヤホヤごまかされて、
自分を見失ってばかりいては、いつまでも同じ過ちをくり返すだけ。

自分に都合よくねじ曲げて、何でも公式に当てはめて、
事情は千差万別の森羅万象を「くくって」「まとめて」、
何でもわかってる気になって、
本当の思考の苦しみから逃げ回っていては、
進歩は望めない。

虚心坦懐に、自分の弱さを受け容れること。
他者の心を、他者の身になって慮ること。
「気分」に負けないこと。

独り言、だけどね。