いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

「面倒」は敵だ

2007-10-29 20:48:34 | 特選いぶたろう日記
希望や活力にあふれた生活、意義ある毎日、充実した人生。
そういうものを求めるのなら、「メンドクサイ」はテキだ。
なんでそんな細かいことまで、なんでそんなしょっちゅう、
いますぐですか、行かなきゃですか、話さなきゃいけませんか。
段取りきっちり考えて、細大漏らさず準備して、確認して、連絡して。
誰もが認める、物事を失敗させない必須条件なワケだけど、
誰もが感じる、「うへーめんどくせー」と「もーいーじゃんべつにー」。

そして一般的に、トシをとるごとにこの傾向は強くなっていく。
たしかに体力的な要因も大きいだろう。
でも、頭を回転させることも、心の動きさえも、
「面倒」に感じられて、次第に鈍くなっていくようなのである。
トシをとったからそうなるのか、そうなると人はトシをとるのか、
まだ僕には判らないけれど、
少なくともラクに思える方へ安易に流れていくことは避けようと心がけている。

気づくと、色んな物事が面倒で億劫に感じられるようにもなった。
アズキの散歩だって、正直メンドクサイ。
でも、アズキの訴えかけるような眼差し(感情的要因=心)と、
運動不足の強迫観念(論理的要因=頭)とが僕を衝き動かす。
そして出るまでは非常にメンドクサイのだが、
思い切って外へ飛び出してみると意外と気持ちよかったり(体感的要因)する。

これはいつでも何でもそうだ。
休日に朝寝を切り上げ、出掛けるのはメンドクサイ。
しかしえいっと目を覚まして顔を洗い、着替えて飛び出してしまえば、
その日1日をとても有意義に過ごせるのは約束されている。
ここでいう「意義」の有無は、客観的な尺度のあろうはずもなく、
要するに「自分でそう感じられるかどうか」というものにすぎない。

で、行動を起こした休日というのはきまって、1日の終わりに満足している。
もちろん疲れることもあるけれど、少なくとも、
家に1日中こもって、基本だらだら寝つぶして、夜の8時か9時頃に、
「あー、休日なんてあっというまだなー、何にもできなかったなー」
「でも、ま、1日じっくり休めたからいっかー」
なーんて、こぼしたりセルフでフォロー入れたりしているよりは、いい。

「メンドクサイ」が先立つのは、やはり心の老化であるような気がする。
とするなら、アンチエイジングは何か。
いつまでも自分のもっているものを全てとせずに、
アンテナを張りつづけることだろう。
決めつけない。思いこまない。とりあえず見てみる。聞いてみる。触ってみる。
ダメだったらダメで、無駄なことだとは思わない。
面白いと思ったら行動に移す。
よく考え、まとめ、感じたことは発言する、文字にする。
そのためにはもちろん頭も身体も鍛えておく必要がある。
メタボ予防で半ば強迫的に、義務的に運動するよりも、
やってみたら楽しいぞこりゃ、というアプローチの方がいい。
頭を鍛えるには書物だ。読みたい本は山ほどある。
今日も本屋で1万円ほど本を買い込んでしまったが、
やはり今以て思索のプロ達の文言に触れると感嘆する。
こういう見方、書き方があるのかと溜息が出る。
その感じがウマイ料理を味わっているようで、たまらなく好きだ。

そしてもう一つ、忘れちゃいけないのが心でしょう。
これはもうとにかく、人に会うこと。
人と話をすること。
これをめんどくさがってると人間、腐る。
メールじゃなくて、ネットじゃなくて、
そういう片側交互通行の、都合の良いコミュニケーションじゃなくて。
やはり顔を合わせること。
誰もがその重要性は認めるけれど、実際やるとなると面倒なもんだ。
でも、僕は積極的にやっていきたいと思う。
そうでないと、また人間観が「日本」「世間」「社会」という漠然とした対象に歪められ、
人間嫌いの芽が出てきてしまいそうだ。

ふと思う。
僕は親父を思い出す時がある。
かれこれ数年会っていないが。
今、何を考え、何を感じ、何をしているのか。
慕う気持ちはゼロだが、自分の原料として(笑)、興味は尽きない。
しかし、彼にはそういうことはあるのだろうか。
つまり、自分の分身とも言える僕のことを思い出すことが。
どうも、ないような気がする。
彼も実はメンドウクサガリだからである。
高校や大学の卒業、バンドの発展・解散、就職、
これら人生の節目において僕の親父はまるで僕に興味を示さなかった。
忘れてはいないだろうが、面倒なのだと思う。
僕という存在に関与することを通じて、
自分が過去に犯したあまり格好の良くない行いの数々を思い出すことが。
金額で言えば人並み以上のものを僕に投資はしただろう、
しかしそれだけじゃあ残念ながら親としてはアカ点だ。
強いて言えば彼の軌跡はまんま僕の反面教師として生きている。
それが遺伝子以外で彼が僕にくれた、親としての唯一の贈り物かもしれない。
なんだか、文章にしてみるとあまりに哀しい父子関係だ(笑)。

僕は僕で、いまさら親父に「復讐・問責」するのは『面倒』なので(笑)、
いずれ僕が成功を収めた時にでも、孫でも連れて、
しれっと会いに行ってやろうかと思っている。

面倒くさがらずに。

君子危うきに…

2007-10-28 02:44:28 | 新・いぶたろう日記
広島市内で未明に起きた、米海兵隊員による19歳の婦女暴行事件について、
「午前3時に盛り場をうろつく未成年者もどうかと思う」
とコメントした広島県知事が、猛批判にさらされているそうだ。
「暴行された女が悪いというのか!」
「米兵だからかばうのか!」
前者は揚げ足取り。後者はうがちすぎ。
なんだかなー、と思う。

僕は、正論だと思うよ。
被害者はもちろん気の毒だし、海兵隊員を正当化する気はさらさらないが、
しかし危機管理ということでいえば、やはり問題があったんじゃないかな。
台風の日に荒れ狂う海や川へ出れば、そりゃあ事故に遭うでしょう。
盛り場の治安まで行政が厳重に管理すべきだというのだろうか。
それはそれで窮屈な社会だという文句が出るでしょう。
自由の担保には責任がある。
いつでもどこでも好き勝手にやって100%の安全保障なんて、
ムシのいい話だと思いませんか。

亀田興毅の記者会見も話題になっている。
今度は詰問調で「社会正義代表」の位置に酔ってしまった
テレ朝の記者に批判が集まっているそうな。
はあ。
僕もテレビで見ていて、たしかにいやらしい感じはしたけどね。
ある時のある人を思い出したよ。
こういう、自分が絶対に正しく、相手が絶対的に悪いという、
身勝手な位置設定を思いこんで疑わず、くってかかる人の醜さって、似てる。
ちょっと思い出し笑い。

しかし、こんなに引っ張るほどの問題かなあ。
亀田なんてさ、別に犯罪者ってワケじゃないでしょう。
ちょっと調子に乗りすぎてしまいましたスンマセン、で済む話じゃない。
試合相手の内藤はもういいって言ってるんだし、
何だかんだ言ってみんな楽しんだんだし。
これ、猪木だったら何の問題にもなってないよ(笑)。
沢尻エリカも朝青龍もそうだけど、
何もそこまでしつっこくねちっこく叩かなくても、いいじゃない。
イヤらしいよなあ。
誤解された個人主義と権利意識が蔓延する世の中だ。
いつ何がどう受け取られてどんな目に遭わされるかわからない。
発言に、行動に、社会的危機管理は必要だね。
僕も気をつけよっと(笑)。

ものの本によれば。

「バカに付ける薬はない」ので、
「バカは相手にしないのが一番」これが真理だそうです。
何を以てバカとするかは様々ですが、
何を言っても通じない人間、言い訳だけは無尽蔵に出てくる人間、
自分の落ち度に盲目な人間、自分の能力を過信する人間、
自分が如何に優れているかを吹聴しないと気が済まない人間、
自分の損害には著しく敏感で、
他人に与えている損害には著しく鈍感な人間、
周囲にどう評価されているかを正しく感じ取れない人間、
こういう人間は確かにいて、
少なからず周囲に害を及ぼしてくるのだと。
そういう人間に遭遇した時、決して相対してはいけない、
なぜならバカは自分への攻撃には常識外れに過敏で、しつこく、
それまで以上の害を及ぼすことがあるからだそうです。
なので、とにかく正面から否定せずに、
なだめすかしてゴキゲンとって、
そーっとお引き取り頂けるように取りはからうのが一番だとか。

なるほどなあ。
誰もがそれだけ大人なら、こんな日本ではなかったかもしれないなあ。

秋が好き

2007-10-21 23:53:55 | いぶライダー闘いの記録
いや、ライダーなんも闘ってないんだけども(笑)。

早いもんで2年が経ち、車検に行って参りました。
ついでだからと前後のタイヤとチェーンを総取っ替えしました。
したらモノスゴイ金額に・・・。
でもまあ、ケチって転んで死ぬよりはいいだろう、と思ってね。
えいっと払ってきました。

したらさあ、スゲー良いの。
もはやこれ、ほぼ新車感触。
お金をかけただけはあるよ。
クラッチとかブレーキも調整してくれてあるから、全然違うね。
また今日が絶好の秋晴れだったからね。
そのまま100キロほど走ってきました。
タイヤも一皮剥かないといけないしねー。
バイク乗らない人のために補足すると、
タイヤって新品だとカーブの時にめっちゃ滑るんだよ。
最初しばらくは気をつけないといけないの。
金かけて事故ったらアホみたいだからね。
のんびり走ってきました。

で、ついでに新居候補地を巡ってきました。
とりあえず賃貸でということにしたんだけども、
すんばらしい所を見つけてしまったんですよ、これが。
通勤に便利だけど家賃が高いマンションAか、
通勤にはちょっと不便だけど、家賃が安くて環境最高のテラスハウスBか。
悩んでおります。

で、今日はBを見てきたんだけど、もう、ほんとすばらしい。
俺、住宅地にしか住んだことないから、
道幅が狭かったり、商店街や往来の激しい通りに面してるの、
ちょっと抵抗あるんだよ。
都心というよりはむしろ郊外の、
あんまりゴミゴミしてない静かなところが良い。
3才~12才の頃、大阪の箕面っていう山の中に住んでてね。
きっとそのころの原風景が俺の中に生きてるんだろうなと思う。
迷ってるんだけど、たぶんこっちにします。

にしても秋、いいよなあ。大好き。
空気が澄んでるような、光がシャープなような、
この独特の感じが好き。
昼夜の寒暖差がニクイけど(笑)。
日が暮れてめっちゃ寒くなったので、
通りがかりの「しまむら」で、安いインナーを買いました(笑)。
あったけー。

中日、すげえなあ。
5連勝だよ。
阪神はもう、ケガ人続出で勝ち目なかったし、
巨人戦は監督の差がもろに出たね。
落合は勝ちにいったけど、原は勝ちを待ってた感じだね。
原って、どーもキレイゴト並べてツボをはずれてばっかりの感じするなー。
2年連続の組み合わせになった日本シリーズ、楽しみだね。
去年は珍しいから日本ハム応援してたけど、
今年は中日だな。日本一になったら53年ぶりだって言ったかな。
ヒルマンのこのタイミングの渡米は凶なんじゃないかな~。
4勝2敗で中日と見ます。
2敗はダルビッシュね。

でもそれより面白そうなのがレッドソックス!
どえらいところで回って来ちゃいましたね、松阪。
1億ドル右腕の真価が問われる一戦だな。
俺が松坂だったらプレッシャーで死にそうだなー。
松坂に生まれなくて良かった(笑)。

あ、そうだ、F1見なきゃ。
ではまた。

右下がりの夜空に

2007-10-21 01:45:41 | 似非哲学の部屋
僕らは、80年代に小中学生だった。
そのころの日本を一言で言えば、「爛熟」であったろうか。
高度成長期を通じてそれはそれは一生懸命働いて、
家が狭くても、休みがなくても、
電車が満員でも、家族と過ごせなくても、
急な出張にも単身赴任にも、過労で死んでも文句を言わず、
文字通り命を削るようにして蓄えた莫大な実りを、
堰を切ったかのように一気に吐き出した、
そんな時代だったように思う。

とにかく世の中全体が本気で浮かれていた。
ジャパン・アズ・ナンバーワン。
マルキンだ、マルビだ、ハナキンだ、新人類だ。
社会性だとか自覚だとかもういいじゃん。
大人だって好きにやりたいよ。
いや、大人になったんだからこそ勝手にやらせてよ。
マンガもアニメもゲームもおもちゃもアイドルも、
好きなものは好きだ。大人が好きで何が悪い。
女子大生だ、女子高生だ、チャイドルだ。日本人総ロリコンだ。
カネで買えない物はない。
株と土地はどこまでも上がる。ほっといても金持ちになれる。
日本はそう言う国。努力なんか必要ない。
みんなが何となくその場しのぎで流れに乗っていけば、
全自動でそれなりにお金が入ってくるんだ。
バブル崩壊はそんな幻想や思い上がりごとたたきつぶした、
日本人の心の崩壊でもあっただろう。

そんな大人達を見て育った僕ら。
心のどこかで、大人になったらあんな贅沢が出来るんだと憧れた。
心のどこかで、大人のあまりの欲深さに呆れた。

大人はいつまでも子供だった。
大人が子供たちそっちのけで、
子供のままで好き勝手にやってるもんだから、
子供は孤独になった。
子供は大人になれなくなった。
心のどこかに、曖昧と楽観と無責任の美徳を刻み込まれた。
心のどこかに、タダのワガママを個性や自由と言い換える術を仕込まれた。
心のどこかに、右上がりの幻想を焼き付けられた。
つまりは、汗水垂らして必死に頑張らなくても、
物事を広く知り、深く考え、本当の意味で学ばずにいても、
自分の行く先について真剣に悩まなくても、何とかなる。
そういう世界一甘い世界観・人生観を植え付けられてしまったのだ。

誰も飢えて死なない。
誰ものたれ死にはしない。
自ら命を絶つ者や、実の親に殺される子供の方が多かったりする。
困ったら親だ、親を吸い尽くせ。
自立できない子供を叱るまっとうな親は
「子供の気持ちをわかってない」「親の責任を果たしていない」
などと、的はずれな罵声を浴びせられ、
望むだけのカネと待遇を用意しなければ、
あまつさえ実の子に殺されたりもする。

一生懸命働くのなんてバカらしい。
組織に貢献することより、自分は自分、呑気に行こうよ。
家は広くなきゃイヤだ。休みは多くなきゃイヤだ。
満員電車はイヤだ。家族なんて面倒くさい。
急な出張は着服の、単身赴任は不倫のチャンス、
過労で死ぬのは真面目な貧乏人、
そんな時代が何を作り出すというのだ。

誰も身に迫らなければ危険を危険と見なさない。
誰かのせいでこうなったんだから、誰かがナントカしてくれる。
だからとりあえず悪そうなヤツはたたいとけ。
政治家、スポーツ選手、芸能人、
ラクして稼いでるヤツ、なんだか生意気なヤツ、みんなたたいとけたたいとけ。
こちとら主権者だ消費者だお客さまだ。民主主義万歳。
メンバーの心がバラバラで、チームがうまくいくわけがない。
日本の栄光なんて二度と戻るものか。
いまのサエない日本がずっと続くだけだ。

老人がどんどん増えて、けれど生活は保障されず、
ただじっと死ぬのを待つ。
これまで散々自分を犠牲にして日本のために働いてきたのに、
これからが自分だけの人生をわずかでも楽しめるはずなのに、
遠回しな表現でいつもいつも邪魔者扱いされ、
孤独に死んでゆく。
ソレモオレニハカンケイナイ。
いつか行く道だぞ。

子供がどんどん減って、まずます甘やかされ、
これから日本を支えていかねばならない彼らは、
レールの上を走るだけで実は何も学べず、
脱線したら最後、動けない。
ソレモワタシニハカンケイナイ。
いつか来た道だぞ。

甘美な孤独に溺れて、構って解ってをくり返す。
そのまま大人になる。
「誰もホントウノワタシを解ってくれない」から、
職なんか転々、友達はネット上、
家族も恋人も自分を無条件で認めてくれる人だけ、
きわめてムシのいい社会性。

それでもどうにかなるさ。
そんな気がしてませんか。
食糧自給率が40%を切ろうという、
資源も労働力もないわが日本が、
唯一のよりどころであった技術すらも、
ゆとり教育と理系離れとで失いつつあるというのに。
隣に日本にないものを全て具えた巨大で横暴な国があるというのに。
どうなるってんだ。

土地もマンションももう、上がりはしないさ。
住む人間が減ってくのに、どうして上がるってんだ。
・・・もう、何にも上がりはしないんだよ。
消費税くらいしか、さ。

斜陽。

山を越えてしまった放物線の傾き。
ジェットコースターの加速。
そういや、安全に走らせるだけの技術すら、なくしちゃったんだよなあ。

あちこちに病巣を抱えていながら、何の検査も経ず、
まるで自分の体調を把握していない人間は、どうなるでしょう。
あまりにも多くの人が日本の今を知らなすぎる。
見たことのない日本がこれから見られるぞ。
知らなきゃ、学ばなきゃ、感じなきゃ、考えなきゃ。
それとも、僕の言うことなんて、カンケイナイですか。

てかさ、ポテトが少ないとかそんなことで、キレんなよなー。
哀しくなるよ。

鉄道少年の憩

2007-10-19 02:14:53 | favorite songs
長い間、意味がわからなかった詩が、
ふっと心の隙間に入り込んできて、
その隠された真意を明かしてくれる瞬間が、ある。
それはもちろん僕の解釈が成立するというだけに過ぎないのだが、
作者の意図を越えたところで、
詩の世界とつながりを持てる瞬間が気持ちいい。
これが詩の面白さだし、深さだ。
しかし、本当にものすごい詩を書く人がいるもんだ。

ーーーー

『鉄道少年の憩』   /まんが道(大槻ケンヂ)

少年鉄ちゃんの正体は、
鉄道病患者なのである。
現実逃避願望の強さのあまり、
肉体はここにありながら、
心だけがレールの上を汽車となって走り回るという、
幻の病だ。

ダメだよ鉄ちゃん、
鉄道は終点ってもんがあるんだよ。
どんなに遠くへ行ったって、
足がぺたりとくっついている。
君の嫌いなこの土地と、
そこだって地続きだ。

鉄ちゃん、鉄ちゃん、ダメ鉄ちゃん。
それじゃあダメだ、とっつかまるぞ。
レールたどって追いかけられて、
君の肉体にとっつかまるぞ。
ヨタリヨタリと遅くとも、
肉体は君に追いつくぞ。
いつか必ず、追いつくぞ。

心は再び箱の中、
薄桃色の肉の檻、
心はまたまた肉の奴隷
精神性など午睡の夢だ。
どちらを向いても肉肉肉肉……四方八方肉肉肉…二×九=十八。
えっ! 鉄ちゃん、来年で十八かい?
大きくなったなあ、おとうちゃんにヨロシクな、じゃ、またな。

なんだい先生もう行っちまった。
へっ、先生もわかってねえなあ。
オレは御覧の通りの「ピーッ」だから、
心と肉体を二つに分けて、
自分同士で恋をするのさ。
イカシタ恋をエンジョイするのさ!

それじゃあ出発ヨウッポッポウ!

それがなんだってんだ

2007-10-17 10:47:20 | 似非哲学の部屋
僕は、箸の持ち方がオカシイ。
鉛筆の持ち方もオカシイ。
ここでいう「オカシイ」は「大多数の人と違う」というだけだ。
別にそのことで手が痛いわけでもないし、
食事に困っているわけでもない。
ぽろぽろこぼしてしまうなんてことも、うまくつまめないなんてこともない。

なのに、世の中にはそれをとやかく言う人というのがいる。
僕はその手合いがとても嫌いだ。
僕にとってみれば、正しいとされる持ち方こそが窮屈で仕方ない。
なぜその持ち方が正しいのかもよくわからないし、根拠がない。
自分の好きなように、食べやすいように持てばいいじゃないかと思う。
それが自分の美意識に合わないからと言って、
ことさらに見下した口調でたしなめる、そういう奴が嫌いだ。

彼らは言う。
「恥ずかしくて一緒に食事したくない」
僕は思う。
「気分が悪いからお前なんかとメシ喰いたくない」

ことは箸や鉛筆にとどまらない。
パスタの食べ方、そばの食べ方、寿司の食べ方。
お好み焼きの焼き方、もんじゃ焼きの焼き方、及び食べ方。
冠婚葬祭のマナーとタブー、文字の書き順、言葉のアクセント、英語の発音。
いずれも特に根拠もなく形式をでっち上げただけの様に思うし、
そもそも日常の関係の中でそんなことをとやかく言うことでしか
コミュニケーションがとれない人を不憫に思う。
食い物は食べやすいように美味しいように食べればいいと思うし、
その際、人の食欲を失わせない程度に音や見栄えに気をつければいいだけの話だ。
文字は書きやすいように書けばいいし、しゃべり方はその人の個性だ。
書き崩す文化がなければひらがなもカタカナも生まれなかったし、
同じ日本の中で味わいのある方言が多くあるように、
英語圏でも国の数だけ英語が存在する。
文化だ何だと大げさな話に発展することもあるが、
文化なんてものは人の数だけ存在していい。
どこかの誰かが勝手に決めたひとつの方法の元に、
個々人の自由な発想を塗りつぶしてしまおうというのは何とも恐ろしい。

価値基準がその人の中にないというのは、哀れなことだ。
誰彼がこう言ってたからとか、本に書いてあったとか、これが常識だとか、
そういうことでしか価値が計れない人の言うことに僕は説得力を感じない。
結局、感じること、考えることを放棄して、
大多数の人の流れに乗って思考停止を重ねた結果に過ぎないからだ。
世の中と自分とを絶えず比較して、悩んで悩んで悩み抜いて、
そうして辿り着いた結論と、それに基づくその人のスタイルというもの、
それが一番自然だしカッコいい。

野茂やイチローが最高にカッコいいところは、
あの封建的な日本野球界の中で、
いずれも従来の指導の枠の中では異端とされたスタイルを貫き通し、
そうして結果を出したことだ。
いまや誰も彼らにフォームをどうこうとは言えまい。
しかし、彼らが箸の持ち方が「オカシ」かったらどうなるんだろうか。
やっぱりそこは言われちゃうんだろうか。
それとも
「さすがイチロー、箸の持ち方も個性的」
とかになっちゃうのだろうか。
むしろ逆に、
「これだけの人が箸もちゃんと持てないなんてミットモナイ」
なんて言われちゃうんだろうか。

「しょこたん」は「ブログの女王」として位置づけられた今や、
つづる言葉がいちいち「個性的だ」「斬新だ」ともてはやされる。
『アサッテの人』の諏訪哲史もそうだ。
しかし、発信源がその辺の女子高生ということになると
昨今の若者は言葉が乱れて…ということになる。
この差異はいったい。

要するに、権威ということだと思う。
あとひとつは「世間様」かな。
権威や世間様の前には思考停止あるのみなのだ。
品位も格調も実用性も関係ないのだ。
だからきっと僕はそれがイヤで仕方ないのだと思う。

イチローや野茂が実績で自分のスタイルを認めさせたように、
箸界や鉛筆界でも実績を認めてもらえないだろうか。
「日本新:6211つまみ機会連続無失策」とか、
「世界新:10356文字筆記機会消しゴム使用なし」とか。

そうすると僕が権威になってしまうのだろうか。

どうしたらいいんだろう

2007-10-16 11:17:52 | いぶたろう日記クラシック
少子化の問題が指摘されて久しい。
まあ、僕らの世代(団塊ジュニア)のせいみたいなんだけど(笑)。
(国家百年のために)産めよ増やせよの時代は遠く去り、
いまや自己実現・個人主義が何より大事なご時世だ。
一度しかない自分の人生、やりたいことは無数にある。
子供に「浪費」する時間を思うと二の足を踏んでしまう、
そんな感覚がなんとなく共有されているような気もする。

ましてや教育・育児には途方もない金がかかり、
行政の支援も手厚いとはとても言えない状況だ。
僕らの世代はバブル崩壊と「失われた十年」の煽りをもろに喰らい、
就職は「氷河期」と呼ばれるほどに激戦…というより荒涼だった。
まあ、当時Rebirth真っ最中の僕は何ら関係していないわけだが(笑)。
証券会社に就職したはいいが、それが倒産したなんて話も身近に多くあったし、
完全買い手市場の中で、会うたびに職を転々としている人も多かった。
おおよそ、自分の人生設計なんて考える余裕はなかっただろう。
僕の世代は人口が多く、大概どこへ行っても同い年に会えるものだが、
いわゆる収入的な「勝ち組」(嫌な言葉だ)でもなければ、
子供どころか結婚すら考えられないという人は多い。
大変にシビアな世代なのである。

それに対してこんな批判が加えられることがある。
いわく、今の30代は昔に比べて幼い、ワガママだ、身勝手だ、贅沢だ。
一人前の大人として、かつて旧世代がそうであったように、
貧しくともじっと耐えて家庭を築くべきだ。
そうして未来の日本を作るのに少しでも貢献すべきだ。
社会のことなんて、日本の未来なんて、知ったことかよ、
こういう姿勢が根本にあるからダメなんだ。

そうだろうか。

僕は自分の子供というヤツに非常に興味がある。
是非一度、お会いしてみたい。
男版と女版の2バージョンあればさらにいい。
家庭というヤツを築き、そこで父親という役割を演じてみるのも面白そうだ。
やってみなければそのまま人生は終了してしまうのだから、
どうせなら一度はやってみたいと思うじゃないか。

しかし、こんな僕をして、
所帯樹立適齢期とも言うべき30過ぎてなお、
なんだかまだまだ先のことのように思わせてしまうものは何だ。

僕の場合の答は簡単、一言で言えば敷居が高すぎるのだ。
人生は自由と安定、身勝手と束縛、権利と責任の交換だ。
就職でひとつ、分譲でひとつ、結婚でひとつ、出産でひとつ。
そうしてだんだんレールに固定されていく。
もう脱線は許されなくなっていく。
それが、コワイのだ。
先の見える人生がコワイ、というのもあるけれど、
そもそもこのレールの導く先に自分の望む未来はあるのだろうかという不安もある。
崖っぷちとは言わないけれど、
このまま大勢の乗り合わせた乗客達と共に、
駅という名の人生が集約されたゴールで、
最大公約数的な幸福をなんとなく自分の来し方に当てはめて死んでゆく、
それがコワイのだ。
切符代も高いしね(笑)。
脱線にこそ本当の生がある。
脚本や地図が生む予定調和は本当の意味で生きてはいない。
それが僕の哲学だ。
それを根こそぎ奪われるような気がどうしてもしてしまうのだ。

こういった一連の思索はやはり幼く、ワガママで、贅沢だろうか。
とりあえずこう考えている間は結婚なんてすべきじゃないような気もする。
あんまり理屈で悩まずにすっと入り込んでしまえば、
ああ、まあこんなもんかと呑み込んでしまえるものなのかもしれない。
脱線できる自由を失うという大きな代償を払っても、
それだけの価値があったと自足できるものなのかもしれない。
いずれにしてもかつての世代の価値観を押しつけられても納得できないし、
社会全体のことを考えろと言われても、自分のことで精一杯だ。
どうしたらいいんだろう。

環境問題とリンクする。
今日、「NEWS23」の特集を見て、
中国の環境汚染の想像を遙かに上回る惨状に言葉を失った。
あれは、酷い。
人間の住む環境じゃない。
高度成長期の日本を凌駕している。
しかし現地に住む人々は実にたくましい。
哀しいまでにたくましいのだ。
彼らは一様に語る。

「生活のため、仕方ない。環境のことまでは考えられない。」

筑紫哲也は語る。
中国には自制が求められる、しかし。
地球温暖化は、かつて先進国が行った資源の大量消費の結果であって、
いまその事実が明らかになったからと言って、
時差的に同じ発展の道をたどろうとしている発展途上国に対して、
一方的にその道を封じることは出来ない。
先進国は途上国を、途上国は先進国を互いに批判し、責任を転嫁する。
だが問題は放置しておけば人類全体の共倒れを招く。
どうしたらいいんだろう。

ふと、思う。
資源もなく、食糧自給率も乏しく、
少子高齢化で生産力を失い、国家として斜陽の時期を迎える日本。
人口が爆発し、資源や食糧の枯渇と奪い合いが激化し、
もめ事の種は尽きないのに、いったん揉めると全滅の危険をはらむ兵器がひしめく世界。
こんな未来に子供を残す意味ってあるのだろうか。
我々は生まれてきたことに感謝しろと教えられた。
少なくとも今の時代の日本や欧米であれば、それは理解が及ぶ。
しかし北朝鮮であったり、アフリカの最貧国の子供達はどうか。
本当に、生まれてきたことに感謝したいと思えるだろうか。
無条件に生命とは尊く、素晴らしいものだろうか。
環境によってはこの世界ほど地獄に思える場所もないのじゃないか。
そして少しずつ幸福の保障された場所を失っていく今後の日本に、地球に、
子孫を残す意味はあるのだろうか。
毒物と戦争と災厄の詰め合わせのような未来に。

生物が種を残そうとするのは本能だ。
だが、人類はこの地球上で初めて、
ある種の理性によってそれを抑えてしまうかもしれない。
このまま、自分の子供をこの荒涼たる世界に産み落としたくない。
そんな風に考えてもおかしくないし、
それはひょっとしたら、
地球が人類という細胞に誘発したアポトーシスかもしれないのだ。

無理してでも家庭を持ち、子孫を残そう。
各国が少しずつ出来る範囲で努力して、温暖化ガスを減らそう。
総論賛成、各論反対。
言ってはみるけどなかなかやれない。
結局、解決しないのが環境問題と少子化問題。

どうしたら、いいんだろうねえ。

終戦

2007-10-15 14:08:23 | トラ、トラ、トラ。
らしいといえば、あまりにらしい幕切れ。
まことにあっけなく、今季の虎の闘いが終わりました。
まあ、最後は故障者続出で満身創痍だったから、
あまり期待もしなかったんだけどもね。
それにしても短期決戦に弱いなあ。
桧山のいるうちに日本一とって欲しかったなあ。

勝つ時にはハラハラさせて、
負ける時には実にあっけなく。
強いのか弱いのか本当に不思議なチームです。
10連勝で12.5ゲーム差から首位を奪う離れ業を見せるけれど、
そこから泥沼の8連敗で3位終戦。
他のチームでこういうトコありますかって。
昔の近鉄がそうだったかな。

なんとまあ人間くさいチームだろうと思います。
こういうところがあるから、虎党やめられないんだよね。
勝ち負けを越えた価値を見いだしてる部分がある。
負け惜しみでもなくて、本当にそうなんだよね。
多分、本当のタイガースファンなら、
あの10連勝の首位奪回としびれるような巨人3タテで満足してる。
いや、「満足」じゃないな、「納得」か。
結局、「東京」「権威」を象徴する巨人にさえ勝ちゃいいみたいな(笑)。
けが人も多いし、また来年も楽しませて貰うために、
ここは早めに切り上げてゆっくり休んで貰いましょう。

それにしても。
今年は巨人が強かったんで、面白かった。
そこに中日がかき回しに来て、これまた面白かった。
やっぱりね、阪神・巨人が強くないと。
ここまでは巨人が強かったら阪神が弱くて、
阪神が強くなったら巨人がダメだったでしょう。
2002年の最終戦、巨人の優勝がかかった試合でタイガースがサヨナラ勝ちして、
そこから始まったここ数年。
「巨人をこてんぱんにたたきのめすタイガース」という、
もう人生で初めての貴重なシーンが沢山見られて、
それはそれで気持ちよかったんだけども、
やっぱり拮抗しなきゃね。
それで、倒して欲しい。

しかもできればFAなしで。
打線は確かに頼りないけれど、福留なんてとって欲しくない。
林、桜井、狩野、この辺に奮起して欲しい。
かつての弱小球団から脱皮するために、
片岡・金本・下柳・シーツ・伊良部らは必要だったし、
果たした役割も大きかったけれど、
これからは自前の選手で伸ばしていかなきゃダメだ。
他のチームとは違う、それこそ金満巨人へのアンチテーゼとして、
生え抜きの強力チームを是非とも作って欲しい、
そう期待するわけです。

2007年、優勝は逃したけれど、面白かった。
優勝以外にも価値を見いだすファンがきちんといる球団なんだから、
どうか見失わないようにいてもらいたい。

復活の日

2007-10-10 02:30:22 | 新・いぶたろう日記
どもども。
お久しぶりです。
口は禍の元、とにかく皆様お騒がせ致しました。
まあ、元気にやっております。

この間、多くのメールを戴きました。
書いちゃったこと、是正すべきこと、
それはそれとして、
閉鎖するのはもったいない、ガンバって続けろ、
という励ましの言葉を本当に沢山戴いてしまいました。

実際、閉鎖もしくは移転しようかと思ってたんですけどね。
色々考えたんです。

言いたいことを、言う。
好かれよう、愛されようとして、
「イイヒト」を演じたり「ウソ」を言ったりしない。
どんなにマイナスの情動でも、正直に本音を言う。
これはもはや私の生き方で、誰にどう否定されても、
変えられるものじゃありません。

しかし。

愛されようとしないまでも、
何もわざわざ好き好んで、
嫌われる、憎まれる道を邁進しなくても良いんじゃないかと。
理想としては間違っていなかったけれど、
実践の方法が間違っていたんじゃないかと、
そう思ったわけです。

好きなものをただ「好き」とだけ書く記事がつまらないように、
嫌いなものをただ思いつく限りの罵詈雑言で、
徹底的にこき下ろすだけの記事もまた空虚でしょう。
絵画に喩えて言えば、せっかく多くの色と筆を揃えたのに、
キャンバスに絵の具で「バカ」「クソ」と描くようなもんでね。
マイナスの情動を表現するならするで、
もうちょっと何らかの「作品」レベルに昇華させなきゃダメだよね。
テーマはなんであれ、
読む者をニヤッとさせるか、うならせるような。

で、この間。
いぶろぐの記事を全て読み返したんですが、
自分でも意図しないうちに、
消化不良のまま吐き出してる記事を結構書いてますね。
余裕がない。
特にここ1~2年くらいの記事は非常に鬱屈したものを感じます。

「代償行為なんじゃないか」

そういう指摘をくれた人がいました。
妙に納得してしまいました。
人生で初めて「やりたいこと」が特になくなって2年ちょい、
どーもこの間、私は人生に屈託していたようです。
今の仕事に対する不安や不満と言うよりも、
「やりたいこと」よりも遙かに多くの、
「やらなければならないこと」をあまりに抱えすぎて、
心の天秤が完全に破綻した感じ。

だって、ここんとこアズキのこともバイクのことも、
あれだけドラマチックなタイガースのことも、
まるで書いてないでしょ。
やっぱ、バランス欠けてたんだな、と思います。
どこにもやり場のない疲労と不満や鬱屈を猛毒の言葉に凝縮して、
しかも場所を選ばず吐きたい放題吐くもんだから、
実際俺がどういう人物かを知らない人にしてみれば、
ここ最近の俺はYoutubeの
「キーボードクラッシャー」と大差ないイメージでしょうね(笑)。

(これね↓)
あばれいぶたろう(イメージ)

てなわけで。
いやほんと、みんなゴメン。

てかさ、なんであんなにムキになって怒ってんだろ、おれ。
普通にサムイよね。
脱力したポジションから、巧妙に突っ込んで、
結果笑いに昇華しちゃうのが俺の本来のスタイルでさ。
それを知っている人々だけが、長く深い眼で観て、
短絡と安直に沈むいぶろぐを見捨てずに見守っててくれたんだろうね。
寄せられた多くのメールからそれを感じました。

私は、忘れてました。
心配して連絡くれた高校や大学の同期たちが見ていることを。
Rebirthに夢を描いてくれたリバっ娘たちが見ていることを。
私ごときの言を大切に守ってくれる教え子達が見ていることを。
あんなに人の良いバイク屋の店長さんも、
あちこちで知り合った様々な友人知人も、
記事を読んで共感してくれた多くの見知らぬ人々も見ていることを。
ガッカリさせちゃってたよなー。
期待に応えにゃいかんなー。

心の孤独に沈んでいたかのように錯覚していた私ですが、
実は多くの素晴らしい人々に囲まれていました。
危うく巻き込みかけた職場の人々も、私の心の隙間を理解してくれました。
この間に会った友人達はみんなここでの経緯を知っていて、
でも何事もないごとく、いつもの素敵な時間をくれました。
生徒達もまた、揺るがぬ信頼を寄せてくれました。

私は何も羨むことなどなかったのです。
この素晴らしい人々が認めてくれる私というものを、
期待に外れないように一生懸命やるだけでよかったのです。

友人がくれたセリフ、
「道ばたの石ころに躓いたくらいで、道を変えたりするなよ」
には心打たれました。

喩えて言うなら。
今年バイクで初めて事故やって、
やっと辿り着いた安全運転最優先の境地。
だからもうバイクには乗らない、ということじゃないんだよね。
事故は辛かったけど、おかげで学べたことがあるからね。
同じことだなー。

今までのいぶろぐは時に周囲も自分自身をも省みず、
セルフの空虚な爽快感だけを追い求めた、
まさに暴走そのものでしたよ。
あまりに露骨で生々しい一部記事は修正・削除しましたが、
たとえ見苦しくてもそれもまた未熟な俺の足跡だから、
基本的には自戒の念を込めて大半を残しました。

偶然眼にした朝日新聞天声人語(9/16付)によれば。

永井荷風という作家は生前、
死の前日まで42年間にわたり、
公表を想定して「断腸亭日記」という日記を書いていたそうです。
歪んだ愛国心と全体主義の洗脳に染まり、
日中戦争の泥沼に沈む祖国を憂い、
「長期戦争に窮し果て、俄かに名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用いだした」
無謀なアメリカとの戦争に突入した折には、
「米国よ。速やかに起こってこの凶暴なる民族に改悛の機会を与えしめよ」
天皇の玉音放送に、
「あたかも好し……祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」
と、当時としてはまったく規格外の言論をつづったと。
しかし、正論。見事に看破しています。
戦争美化一色の当時の社会状況にあって、
周囲の誰の理解をも前提とはしていず、
それでいて毅然と持論を述べ、拗ねていない。
しかも周囲の人物に対する誹謗中傷は、ついぞ一文も見られず、
その高潔な作品世界を完成させたという。

尊敬します。
言うのはカンタンだが、出来ることじゃない。
彼の高みに達することは至難の業でしょう。
実際、今の私には口にするのもおこがましい。
しかし、目標は高ければ高いほどいい。

肝に銘ず。

過ちて改めざる、之を過ちと謂う。
過ちは好む所にあり。
小人の過ちは、必ず文る。
過ちては則ち改むるに憚ること勿れ。


というわけで、いぶろぐはしぶとく存続します。
正直者が吊される、その怖さを知りましたので、賢く行きたいと思います。
でも、ここでウソはついたことないし。
てか全部ホントのことだし。
だからムキになって怒る人もいるんだろうし。

ま、さておき。
あらためて、よろしく。
へっへっへ。