いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

成功の3要素

2003-06-25 01:40:02 | 似非哲学の部屋
人生で事を為し遂げられるか否かは、
ひとえに「運」と「才能」と「努力」の掛け算にあると、俺は見ている。
どれがゼロであってもいけない。
何の苦労もなく、「持って生まれた才能」だけで、
万事うまいことやっているように見える人間もいる。
しかし彼もまたその才能をキープし、あるいは伸ばし、
最良の形で活かせるような「努力」をしているはずである。
また、例え溢れる才能を持って生まれたとしても、
「運」に恵まれなければそれは陽の目を見ないことにもなるだろう。
いわば、才能は努力によって磨かれ、
運によって最適の場所へ導かれるのである。

「運」は不確定な要素に過ぎない。
いつ振り向いてくれるかもわからない。
常に運気の流れを読み自分の所へ引き寄せる努力、
ひとたび運が向いたときにそれを十二分に活かせる才能、
これらがなければ例え一時的に運が向いてうまくいったとしても、
その後が続かない。何も残らない。

そしてみんな大好きな言葉が「努力」。
これはもっとも誰もが(特に日本人が)陥りやすいカンチガイなのだが、
努力だけですべてがかなうと思ったら大間違いだ。
才能のないものの努力は無駄と呼ぶ。
運に恵まれない努力は徒労というのである。
この点に目をつむり、運と才能とを無根拠に軽視し、
努力至上主義を精神主義と共に植えつけるのが日本の教育である。
アリとキリギリス、ウサギとカメ、使える題材はすべて使い、
結果の見えている者にまでいたずらに努力の万能とその美徳とを謳う。
愚かしいのを通り越えて寒々しくすらある。

世の中は言われているほど大して厳しくない。
電車内で携帯で大声で話すような、
見るからに無能のカタマリのような中年でも、
普通に会社勤めしてお給料が頂けちゃう。
無意味なモラトリアムに耽溺し、成人式をぶちこわすようなバカでも、
親のすねとバイトで食いつないでいける。
が、決して甘くもない。
ダメな奴はどんなに頑張ったってダメなのだ。
成功した奴以外、どんなに努力と苦労を訴えようとも、
すべては敗者の言い訳としか世間は聞かないのである。
せいぜいがネタに飢えた作家や記者のメシの種になるぐらいだ。
もちろん、だからといって頑張らなければよりいっそう、決定的にダメだ。

努力とは何か。
自分に足りない部分を補うために行うすべての思考と行動である。
これは強い意志で気力と体力と根気とをキープしていけば、誰にでも出来る。

運とは何か。
自分の力にも才能にもよらない、不可思議な物事の流れである。
これは誰にでも流れてくる可能性があるが、来ない人には来ない。

では才能とは。
一つには、持って生まれた天才的な能力である。
一つには、ある努力をしたときに得られるものの大きさである。
一つには、最小の労力で成果を得られる最短経路を見つけ出す要領のよさである。
これらはある人にしかない。無い人にはどうやったって身につけられない。

そしてもう一つ。
努力を苦にしない、自分の道に対する興味と愛情の深さである。
前の三つは天才と呼ぶべき、ほとんど例外的な人間だ。
しかし最後の一つについてはどうだろう。
必要な努力を重ねることが出来るというのも一つの立派な才能なのである。
努力は何をするに於いても不可欠な要素である。
それは誰もが知っている。しかし誰もが思うとおりには出来るものでもない。
運や才能だけでうまいことやっているように見える者が、
実は血の滲むような陰の努力に支えられているように、
運にも才能にも恵まれず、努力だけで這い上がった様に見える人間もまた、
実はそれだけの根性という才能を持っていたのである。
そして、努力が無事報われたという運も。

運と才能、そして努力。
成功の3要素と考えていい。
理想はこの3つのバランスがとれていることだろうが、人間そうはうまくいかない。
しかし、すべてを完璧に満たす必要はないのである。
3つのバロメーターのうち、足りないものを別のもので補えばいいのだ。

ここで我が身について考える。
俺はといえばまったくもって努力の少ない人間である。
運と才能に支えられてここまでやってきたと自覚している。
俺の備えた運とは人との出会いであり、恵まれた環境であり、
それらはいずれも必要とした時に現れたし、
時間を経てここぞというときに助けになったこともある。
色んな要素が絡み合って、それらが図ったかのようにぴたりとハマる、
そういったタイミングの良さにも恵まれた。
俺の備えた才能とは要領の良さに尽きる。
決して生まれついた天才的な能力があるとは思っていないが、
今までどんなことも常人の半分以下の労力で人並みにやってきた。
受験も、仕事も、バンドも、文筆も、ラジオも。

これは自惚れ屋の愚かしい自慢話に聞こえてしまうだろうか?
実は大いなる反省なのである。
もし常人と同じだけ、あるいはそれ以上の努力を重ねていたならば。
そう考えると今までいったいどれだけのものを無駄にしたのだろうかと悔やまれる。
まったく努力というものをしていなかった訳ではない。
嫌いなものは徹底してやらないが、好きなものは徹底してやるので、
好きなものに関していえば、気が付くと相当なやり込みようであったりもする。

大学浪人の頃の話だ。
ふと手にした政治経済のテキストが面白くてつい読みふけってしまった。
あんまり面白かったので、夏も終わりだというのに、
受験科目をあまりのマニアックさに飽きてきた日本史から政治経済にころっと変えた。
それで、受かってしまった。
別に天才だからとか言うつもりは毛頭無い。
実は私はものすごいノートを作成したのである。
政経のテキスト数冊を買いあさり、自分なりに要所をまとめたもので、
コピーの切り貼りやらでぎっちりと埋まっている。
しかし、自分ではコレを努力と認識していなかった。
イヤなのに、苦しいのに無理してやった訳ではないからだ。
元来凝り性なので、徹底的にやりたくなって、自己満足のためだけにやり続けたものだ。
いわば、感覚的にはドラクエでレベル99を目指して戦い続けた、
あるいはアイテムのコンプリートを目指した、
そういった気分なのである。

それらを努力と呼ぶことが許されるなら俺にも努力はあっただろう。
しかし、日々地道な反復をして、
その結果ついに何かを成し遂げたという記憶が俺にはあんまり無い。
半分遊びみたいな気分で、夢中でやり込み始めて、
気が付くといつの間にかどさくさ紛れに手に入れていたというものばっかりだ。
本質的にはダメ人間だと思う。

閑話休題。
才能の有無というのはどこで線引きが出来るだろうか。
理論的に立証することは難しい。「におい」のようなものだと思う。
本人の思いこみと、周囲の評価がずれているケースも多い。
ならば、実力でもって認めさせる他はない。
そのために努力を重ね……となると、やはり才能だけを語れなくなる。
努力の定義というのもまた微妙である。
本人は努力しているつもりだが、その内容があさっての方向を向いたものだったり、
客観的に見て意味のない努力だったり、
努力してますというポーズだったり、単なる自己PRに過ぎなかったりもする。
努力も才能も、自分の思いこみは必ずしもその証明にならない。
結局、他人に認めて貰うには結果しかないのだ。

自分の才能を高らかに喧伝する人間は嫌われる傾向にあるが、
俺の場合、本当に才能のある人間のそれは嫌いではない。
才能がある者は誰もが認めずにいられない成果を携えている、あるいは携えるはずで、
それのない偽物は遠からず馬脚を表すだろうから、
その後の凋落は見ていて笑える。
それに本物と呼ばれる人は、
自分が才能だけで成功した訳ではないことを知っているから、
言葉に重みがある。学べるところも多くある。

むしろ、俺が一番嫌いなのは、
センスも才能もない人間が努力を盾に自己を正当化することである。
自分には才能はないけど努力してるんだ、
自分は不器用だからすぐには出来ない(こういう人間はいつまで待っても出来ない)、
これだけ頑張ってるんだからいいじゃないか、
これらは口に出す事じゃないし、出したら言い訳でしかない。
言い訳は聞いているだけ時間の無駄だ。
どれだけ頑張ろうと結果が伴わなければそれは一切認められないのがプロの世界だ。
こちとらアマチュアスポーツやってんじゃないのだ。
甘っちょろいスポーツマンシップみたいなものをプロの現場に持ち込んで、
ごまかせている気になっているカンチガイさんは実に多い。

こういうヤツが友人知人ならまだいいが、仕事の同僚であったりすると実に苦痛だ。
しかも大概、そういうヤツに限って、言うほどにはやってなかったりもする。
本当に努力をしているのであれば、それは必ず結果に反映されるはずだ。
人にわざわざ口でアピールする必要もない。
それがないというのであれば、努力の方法が間違ってるか、才能がない証拠だ。
つまり、向いてないのだ。

そういうくだらない人間の愚痴にふれるたび、
そんなにイヤならとっととお辞めなさい、と俺はいつも心の内で思う。
たまに口に出す。
だから、嫌われる人には嫌われるのだろう。
俺を嫌いな奴というのは、大概俺の嫌いな奴でもあるから別に構わないけれど。
俺は本当のことを言ってるだけだ。
フォローと慰めと傷口の舐め合いがお好きなら、アマチュアでやっていて貰いたい。
プロフェッショナルは結果が伴わなければ、ぼろくそにこき下ろされて当たり前なのだ。

自戒を込めて。

果たして、6月29日、
Rebirthの運と才能と努力は奇蹟を生むか?