いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

the road still goes...

2019-06-23 23:28:59 | 超・いぶたろう日記
中学生になって、もうだいぶ日が経ったはずなのに、
中学受験の傷が癒やされない子供や保護者がいる。
それは単に結果に恵まれなかったというだけのことでなく、
あまりのプレッシャーやストレスで荒れてしまった家族の関係性だったり、
近隣住民や同級生・その親たちとの軋轢だったり、いろいろだ。

親の嫉妬や虚栄心、自己承認欲求などがぶつかり合って、
実に辛辣な噂や誹謗中傷が飛び交ったりもする。
引くに引けなくなった親は子供にものすごい資金・時間・手間・労力をかけ、
同時に相当な圧力までも加えることになる。
子供が壊れかけて初めてその不毛さに気づき、
責任を一身に負って憔悴しきった親がいつまでも後悔に苛まれていたりもする。

いたずらに煽る者ばかりが目立つ受験業界だが、
これだけの影響の大きさを考えると、業界の端くれとしてつくづく、
罪深いことだと思わずにおれない。

人生で無数にある分かれ道のひとつに過ぎない入試くらいで、
なぜここまで傷つかなければならないのか。
特に、本人や保護者の悩みや苦しみも考えずに、
偏差値や合否だけで一方的に優劣や勝敗を云々するようなくだらない連中に、
なぜそこまで傷つけられなくてはならないのか。

たぶん、そんなこと何でもないようにスルーして、
親身にこれからのことだけを熱心に語ってくれる存在が必要なんじゃないか。
偏差値や学校名で人の価値を判断するような、
陳腐で狭量な見方を力一杯馬鹿にして笑い飛ばしてくれるような存在が必要なんじゃないか。

最近は半ば義務感さえ伴って、僕はそういうスタイルを守り続けている。

保護者会で

2019-06-20 23:24:47 | 超・いぶたろう日記
スライドの最後に使った写真は、なんと新年会のもの。
教室で酒盛りやってる写真を出すのには随分勇気が要ったが、
本当にわかって欲しいことを誤解なく伝える自信はあったし、
わかってくださる保護者がウチの教室を選んでくれているのだと信じて。

さすがにここには出せないけど(笑)、
その写真というのはお正月の特訓授業の後、毎年恒例で行っている新年会。
冬季講習から正月までの連続勤務で、先生たちのお疲れさま会をやっていたところに、
やがて卒業生が次々と参加するようになって、定番の大イベントに。

何より見て欲しいのは写真に写った面々の明るい笑顔。
2008年中学卒業の社会人から2014年中学卒業の新成人まで、
東大生や東工大生もいれば勉強や進学が思うに任せなかった人もいる。
勉強ということだけで言えばいろいろだ。

成績優秀できた人だって、それなりの苦労や悩みはもちろんある。
逆に受験の結果にかかわらず、楽しく力強く日々を送る人もいる。
だけどこうして年に一度こんなに明るい顔で一緒に写真に収まれるというのが素晴らしいじゃないか。

何が言いたいかと言えば、受験にも人生にも唯一絶対の正解なんかないし、
何が幸福に繋がるかなんてわかりませんよ、ということ。
何でも数値化して、他者との比較でしか自分の優位性を感じられないような人間になったところで、
しょせん自分の中に軸がなければ脆いもんじゃないかと。
世の中価値のない人間などいるわけなくて、
ただ人の価値がわからない、わかろうとしない人間がいるだけなんだよね。

だから「こうじゃなきゃいけない」とあくせくするのはやめましょう、と。
受験なんかで家庭内の関係が壊れたらもったいない。
一緒にじっくり考えていきましょう、と。

あとで生徒に聞いたところによれば、
保護者の方にはストレートに受け止めてもらえたようだ。よかった。
こういうことを言う塾は少ないと思うけど、
「○○校に入らないと意味がない!」とか「△△校より下はダメ!」とかなんて話は絶対したくないし、
無理に進学熱ばかり煽るのはそもそも僕のガラじゃないし、
子供達にとってもっと大事なことはたくさんあると本気で思っているしね。
別にイイよね。

価値ある読解

2019-06-19 23:53:20 | 超・いぶたろう日記
「プライドは他者との比較優劣において見いだされるものではない。なぜならそれは嫉妬や卑下の裏返しでもあるからだ。本当のプライドとは誰かに大事にされることで揺るぎない自分の価値を見つけ自覚するところにある」

@中2国語の問題文から要約。

たまにはエエこと言うやないか鷲田清一。
自己肯定感の低い日本の子供には、こういう考え方をもっと紹介したいもんだね。

私のソウルは70’s

2019-06-18 11:21:28 | 超・いぶたろう日記
どうも好み的に70年代のコンテンツが合うみたいで、
必殺とか座頭市とかルパンの1stシリーズとか
他に古いドラマやらアニメやらそんなんばっか見てる。
音楽もそう。

これは元々の趣味がそうなのか、単におっさんになったからなのか…。
でもなぜかリアルタイムで経験している80年代には
あまり食指が動かないところを見ると単なるノスタルジーではないようだ。

なんかあの80年代ほど商業化されきってない、ウブなハードボイルド感が好き。
予定調和もなくはないんだけど、行間を読ませるというか、
説明し尽くさない美学を感じるつくりがなんとも味わい深く。

やっぱ言ってることおっさんだな。
でも昔からこうっちゃあこうだもんなあ。

年金問題を受験に置き換えてみる

2019-06-12 09:18:07 | 超・いぶたろう日記
「志望校合格の可能性は20%未満です、合格するにはあとこれだけ成績を上げてください」

という模試の判定を

「受験生ごとに成績の上がり方は異なる」
「判定として出すには無理がある」
「合格はムリだという風に聞こえる」

ので

「成績表は受け取らない」

とドヤる受験生がもしいたとしたら、そいつは間違いなくアホウだと思うの。

「受験生に誤解を与えるばかりでなく不安を招いており大変憂慮している」
「不合格の不安を煽るような判定は罪深い」
「判定撤回を含め厳重に抗議する、模試センターには猛省を促したい」
「極めて杜撰なものでまともな受験勉強に役立つものではない」
「模試の成績と合格の可能性はまったく別の議論だ」

とか何とか言ってる塾や予備校も、潰れると思うの。

あるいは寂しいのかもね

2019-06-11 04:02:01 | 超・いぶたろう日記
人に対して妙に攻撃的な人、トゲトゲしい人、イヤミな人、強い態度や言葉を好む人というのは、
ストレスやら体調不良やらを除けばほとんどの場合、その奥底に嫉妬やコンプレックスがあるようだ。
それは自分自身がそうなってしまっている時の心理を客観的に考えるとわかる気がする。

振り返るとそんな人に出遭うたびに、僕はどうもいちいち真に受けて腹を立て、
無駄に相手をして不毛な時間を過ごしてしまったように思う。
同じ人として生を受けて、誰もみな幸せになりたくて一生懸命生きているだけなのに、
必ずしも努力や善悪とは関係なく運命は分かれ、酷いほどに人生を塗り分ける。

人はもっと我が身の幸運・幸福に自覚的であるべきで、
たとえどんなに腹が立つ相手でも、自分より不幸な人間と争うべきではない。

生きる上で最も難しく大切なことは「人を赦すこと」だと誰かが言った。
それはつまりこういうことなのかもしれないと思う。

アタマじゃわかるけど難しい。
いや難しいよ、ほんと。

そんな解説おれでもできるぞ

2019-06-09 23:59:04 | 超・いぶたろう日記
野球の勝敗に「流れ」なんてものが本当に影響するのかどうか、
プロのグラウンドに立ったこともない僕にはわからないが、
ただプロの解説者が安易にそういう非科学的な言辞ばかりに頼っているのを聴かされると、
不勉強をごまかしてるようにしか見えない。
試合の展開に合わせて「気持ち」とか「勢い」とか適当なこと言って、
形勢が変わると後付けで「流れが変わりましたね」とかなんとか。
ラクな仕事してるなあ…という印象を禁じ得ない。

まあ、ギャラの安い奴が使われてるんだろうけど、
もっとちゃんと戦術とか配球とか守備隊形とか技術面とか、プロならではの「解説」して欲しいもんだよなあ。

行雲流水

2019-06-07 03:54:38 | 超・いぶたろう日記
恋愛至上主義、あるいは仕事至上、お金至上、子供至上、健康至上。
価値観は様々だけど、同じ人物でも年齢によって変わることは普通によくある。

…としたら、若い頃の価値観で結婚した夫婦が熟年期に差し掛かって不仲になるのも無理はないし、
一生仲良くできるような伴侶を見つけるなんて、どの年代であっても至難の業だ。

なら、結婚も一生を前提としたものではなく、いっそ年契約とかにしたらいいんじゃなかろうか。
その方がお互い気楽だし、夫婦関係を維持しようと思ったら、もうちょっと謙虚になる人も増えるよね。

現状では子育ての問題、親権や財産分与もあるので簡単には変更できないかもしれないけど、
そもそも家制度や家族幻想に強く懐疑的な僕としては、もう21世紀だし、
そんなつまんない呪縛からもっと自由に合理的になればいいのにな、という感想はある。

…というのも年代的に、最近あちこちで夫婦関係とかに由来する面倒な話を聞く機会が増えまして。
なんか、みんなムリしてるなあ…と。

「大人」って理不尽な窮屈をやせ我慢して、
改善したり戦ったり脱出したりしない自分を言葉巧みに正当化するの、得意よね。

ひとつ減量区あたりから

2019-06-06 03:48:54 | 超・いぶたろう日記
何かってーとその話か、って感じだけど。
体型とか健康状態の話題ってさ、

1)暴飲暴食愛好者が自虐的に語る
2)健康管理愛好者が1)に説教する
3)体型維持に成功してるヤツがドヤる
4)3)が自らの成功体験を他者に妙に上から勧める
5)あまつさえなんか買わそうとする
6)ただのハラスメント

の6類型じゃないかと思うんだが、通底しているのは自己承認欲求の正当化(要は自慢話)ではないかと。
もうどうしようもない不毛さだ。
1)は僕もやるし、他人のそれもまだ笑えるんだけど、2)以下はマジで鬱陶しいときありません?
体重とか体脂肪率に始まり、血圧とか血糖値とか尿酸値とか、みんな不安なのはわかるけど、
自慢のタネに使ったり他者を揶揄したりするのは間違ってるしみっともないよなあ。
イイ歳して数値だけで優越感を得ようだなんて、偏差値追いかけてる受験ママと変わらないよ。

他者の体型を揶揄するのはやめましょう。
自分の健康や体型を自慢するのもやめましょう。
エビデンスを伴った医者以外のアドバイスは無視しましょう。

…というあたりを主張して参院選でも出ようかな。

メンタル安全保障

2019-06-04 00:19:02 | 超・いぶたろう日記
「結婚してから人づきあいが変わった」
「昔の仲間と疎遠・音信不通になった」

という話を、このところ続けて何件も耳にする機会があった。
もちろん事情は色々だし、
ライフステージにより友人関係よりも家族を優先するという価値観へのシフトがあっても、
それは決して否定されるようなものではない。

ただ、寂しい話だよなあとは思っている。
そもそも「友人か、家族か」なんて二者択一じゃないだろうと。
家族との時間を尊重してくれるのが本当の友人だろうし、
家族以外に友人付き合いや旧交を温める機会があるのを、
ごく自然なこととして認め合うのが理想の家族だろうと思う(僕の言わんとするところは「配偶者」とした方が適切かな)。

どうも聞いた話によれば、配偶者が自分の友人関係を疎んじたり嫌ったりすることが原因で、
昔の仲間に会いづらくなったり、連絡も取らなくなったりすることが多いのだそうだ。
あんまりイイ顔しない程度で済むならまだしも、出入禁止・交際禁止となると穏やかじゃない。
「私が気に入らないからもうあの人たちとは会わないで」ということらしいが、
個人的にはものすごく違和感がある。配偶者とはいえ、そんな権利あるんだろうか。

結婚を理由に相手の全てを自分に都合よく塗りかえよう、コントロールしようだなんて、ゾッとする話。
お互いに都合の悪い部分をも認め合ってこそ、長くイイ関係が築けるんじゃないだろうか。
自分がよく知らない「あの人たち」の気に入らない言動や見た目を、
さも非常識であるかのようにあげつらったりもするらしい。
嫉妬なんだか独占欲なんだか知らないが、それって単に自分の器量が小さいだけなんじゃなかろうか。

そして、特に結婚が遅かったり、自己肯定感が低かったりして、
相手への依存心が高いと「とにかく棄てられたくない」と思うのか、
配偶者を過剰に忖度して自己抑制してしまう傾向もあるようだ。
(しかもそれはなぜか男性について聴くことが多い…本当は男女共通だろうけど)

そうなると純粋な愛情というよりは強迫観念だ。
宗教やセミナーなんかと大差ない。
もちろん夫婦のスタイルは自由だし、他人が口を挟む余地などないが、
僕自身は自分たちの型としてそれを夫婦と呼ぶことに抵抗がある。

だが周囲を見渡すと、結婚した、家庭を持ったというだけで、
随分不自由を強いられているケースが多いようにも映る。
しかもそれは「それが常識・当然」というよくわからない家族観・夫婦観の押しつけや刷り込みによるものだったりするのだ。
なんて窮屈そうな…と同情することもしばしば。

頻度や程度にもよるだろうけど、お互いたまには解放してやらにゃ。
たとえ育児や介護なんかの都合で、それまでのような友達づきあいが難しくなったとしても、
負担のないようにアレンジして接点を保つことくらいはできる。
そうでなきゃお互い寂しいじゃないか。

もちろん、僕は別に「男の付き合い」を理由に夫婦や家庭を軽んじていいとは思わない。
むしろ配偶者や家族は人生の大部分を共に過ごすのだから大切にすべきだと思う。
でも、同様に友人関係だってとても大事なはずだ。
このバランスが不自然に偏っているように感じることがある、という話だ。

たとえば食べ物が偏っていると健康を損なうように、人間関係が偏っていると価値観が硬直してしまう。
人間関係もバランスが大切だ。絶対的な尺度の上では肯定か否定、捨てるか拾うかしかない。
なんと息苦しいことか。
まさに宗教やら自己啓発セミナーやらの問題点はここにある。
そんなに特異な話じゃなくとも、ブラック企業とか、DVだとか、
ある種のマインドコントロールには共通して見られることだ。

ただでさえストレスの多い現代日本、
メンタルヘルスも注目されるこのご時世にあって、
気を許せる友人の存在がどれほど貴重なことか。
あるひとつの価値観に縛られて苦しんでいるとき、適切な距離と温度で、
いい具合に無責任に、多様な見方をくれる。そして力を抜いて笑い合える。
メンタル安全保障と呼んでもいいくらいだ。

どうも「いいトシした大人」になると、職場というごく建前じみた人間関係だったり、
あるいは逆に身内のごくドメスティックな関係構築ばかりが偏重されて、
「友人」というほどよい心の緩衝材というか防波堤のようなものが、下位の方に置かれてしまうようだ。
うまい人は実にうまくやっているのに、ほとんどの人があきらめているようにも映る。
もっとも、伴侶や友人に恵まれてこそという、運の部分も大きいが。

で、あきらめてしまった人はどうするかと言えば自分を殺す。
職場でも家庭でも求められる役割を演じようとする。
それで行き場のない自分のフラストレーションは、
カネ儲けとか、風俗とかキャバクラとかギャンブルとか、
短絡的で即物的な方向へ向かう。
欲望を満たすことにしか関心がなくなり、そのことでのみ心の隙間を埋めようとする。
いずれ間違いなく孤独に陥るのはわかっているのに。

まあそこまで極端ではなくとも、ある特定の環境や価値観にのみアジャストしていると、
急な変化があったときに自分の軸を流失させてしまわないかと心配になる。

たとえば定年を迎えたら。配偶者が突然亡くなったら。子供が独立したら。
それらのもたらす孤独や絶望から自然な形で救い出してくれるものといえば、多様な趣味や交友関係しかない。
さもなくば出家でもして悟りを開くか。前者の方がはるかに前向きだと思うがなあ。

…というわけで、たとえ理解のない配偶者に何を言われようと、
うまいことごまかしてでも友人は大事にしないと、気がつけば孤独の底だよ。
もっとも、逆に自分が遊んでばかりで家庭を顧みなくても、同じような報いは受けるだろうけど。
だからバランスが大事という話なんだが。

しかしつくづく思うけど、昔からの友人、変わらない仲間というのは、
歳を経る毎にものすごくありがたみを増してゆくね。
自分もまた誰かにとってのそんな存在でありたいと思うね。

5年後の世界だ

2019-06-02 00:57:57 | 超・いぶたろう日記
想像してたかなあ、5年後の世界。
僕は僕の持ち場に戻り、やれることをやり、怒りを反骨エネルギーに換え、明るく燃やし尽くしてきた。
いつの間にか怒りなどキレイに消え失せて、笑いあり涙ありのドラマで、やり甲斐ある毎日。

「あんな身勝手な《裏切り者》が、あんな青臭い考え方でうまくいくわけがない」
「どこまで続くか見ものだな」

そんな風に言われたこともあったっけな。
思い出すと半笑いになってしまう。
反論の必要などなく、行動と結果がすべて。
そう、結果がすべてだと彼は言った。
いまこそ言おう、僕もそう思う。

お題目ばかり唱えて、人を大切にしなかった報い。
ゼロから始まった僕らとは対照的に、彼らの方がゼロになってしまった(笑)。
だからあとはどうせやっかみだけ。
もはや誰に何を言われようとも一切気になりません。

5年経ったということは、それだけ歳をとったということで。
今後はいままでと全く同じようにはできなくなることもあるのかもなあ。
でもそれならそれで上等。どんどんアレンジしていけばいい。
飽きっぽい僕には毎年変化があるくらいでちょうどいい。
もっとみんなが楽しくできるにはどうしたらいいか、それだけ考えてやっていこう。