いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

受験と麻布と僕の仕事。

2020-10-20 00:56:06 | 特選いぶたろう日記
ちょっと考える機会があったので、思うところをとりとめもなく書く。
書き出してみたら超絶に長くなった。

僕は仕事柄、友人知人やその場に居合わせた人などから、
勉強や進路、受験に関する相談を受けることが多い。
特に中学受験については、
親が関与する割合が高校や大学の受験よりもずっと高く、
「親の受験」と言われるだけあって悩みは深い。

万人に効果的な必勝法や唯一の正解などあるはずもない。
親御さんもそれは百も承知で、それでも藁をもすがる気持ちで、
何か少しでも得られるものがあれば…と、
僕なんかの話でも聞いてみたいと思われるのだろう。

僕も数多くの受験生や保護者と関わってきたし、その気持ちは痛いほどわかる。
まして自分が親の立場になったいまでは尚更だ。
だからあまり差し出がましくならない程度に、
求められる範囲でセカンドオピニオンを提供するが、
それもできるだけ誠実に応えようと心がけている。

さて、僕は塾で仕事を始めたときに、ひとつ腐心したことがある。
それは何かと言えば「麻布風を吹かさない」こと。

麻布出身であることを品質保証書のように利用し、
講師としての箔付けに使おうと思えば使えたかもしれない。
でも僕はそれをしなかった。
そしてそれは間違っていなかったと確信に到っている。

麻布出身ということで、好むと好まぬとにかかわらず、
中学受験では成功した部類にカテゴライズされてしまう。
すると教育業に就いてない門外漢であっても、
受験生を抱えた親御さんから、
「昔の経験からアドバイスを…」なんて求められる機会も少なくない。
でも僕はたぶんこの仕事をやっていなかったら、
面映ゆくてアドバイスなど到底できなかったと思う。

僕は勉強自体そんなに真面目にやらなかったし、
成績はずっと低空飛行で、東大でも官僚でもない、雑草系OBだ。
中学受験がうまくいったのは、
小学校が大嫌いでとにかくここから離れたい、
楽しい学校へ行きたいという一念が実ったものだったし、
竹刀片手の鬼のように恐ろしい先生の(でも授業はたまらなく魅力的な)塾で
鍛えに鍛えてもらったおかげだ。

だからあまり自分の知能だとか、
特殊能力の証明だとかみたいには捉えていない。
素直にただ、入れてもらえてラッキーだったなとは思う。

でも麻布が大したことないなんて、これっぽっちも思わない。
先輩後輩や同期にはもの凄い人たちが綺羅星の如くいて、
麻布のブランドみたいなものは彼らが担保しているものだ。
たまたま一時期在学したからといって、
僕なんかが謙遜でも母校を卑しめるようなことは言いたくない。
大したことないのは僕個人であって、麻布という学校はやはり凄いところだ。

もちろんいちOBとしても、麻布は素晴らしい学校だったと思う。
小学校で屈託して失望していた僕を蘇らせてくれたのは間違いなく麻布だった。
偏差値だとか知名度には関係なく、
あんなに楽しく素敵な学校で、
仲間達とこれ以上ない六年間を過ごせたという事実が、
僕にとってはいつまでも支えであり、ささやかな誇りなのだ。

でもそれは人と比較対照して、
どちらが上か下かみたいなくだらない競り合いをするためのものじゃない。
上から目線でものを言うための印籠でもない。そんなのじゃあり得ない。

当たり前のことを言うが、
麻布出身といってもそれだけで有能異才の証左にはなり得ないし、
ましてや全人格が肯定されるはずもない。

僕の認識では、33年前に行われたたった一度きりのペーパーテスト、
そこに集まった1000名弱の受験生の中で、
たまたま300番以内に入れた、ただそれだけのことだと思っている。

一年違えば問題も違うし、当然結果も違うだろう。
その日他校を受けた何人かが、
もし麻布を受けていたら僕も不合格だったかもしれない。

もちろんその「たった一度きり」の重みは承知しているが、
僕が言いたいのは、
それだけのことで麻布という学校が百年以上にわたって紡いできた歴史や伝統、
超が付くほど非凡な同門達の築き上げたものを、
すべて自分の能力の証明のように使うのは大いに憚られるということだ。

思えば、たった一度のテストの結果でしかないものを、
いつまでも振りかざして何らかの権威みたいに振る舞うのは、
とても恥ずかしいことではないか。
たとえば小学生時代に絵とかピアノとかで全国大会入賞した人が、
いつまでもそれを自慢するだろうか。
あまつさえ、美術や音楽について一端の顔をして語るだろうか。
それを人はどう思うだろうか。

麻布生には、母校が本当にいつまでも大好きな人が多い。僕だってそうだ。
麻布生が麻布を語り出すと止まらない。
たとえ家族がまた始まったとイヤな顔をしていても(笑)。

おおよそ型にはまらない多種多様な、それでいてまったく遠慮のない、
雑多で鋭利で広大で深遠で早口で多弁でしつこくて、
そしてちょっと下品なトークや議論の応酬は、
他では味わえない刺激的なものだ。しかもたまらなく懐かしい。
数時間が経つと疲れてきて、
ああそうだこいつら最高に面白いけどメンドクサイんだった…と毎度思い出す。
そんな予定調和も含めて貴重なレガシーだ。

そしてみんなクチではボロカス言いながら、
心の中では世界一の学校、世界一の仲間だと思っている。
だからこそ、知人に、子供に、みんなに勧めたくなってしまうのだ。
まったくの善意100%で。

したがって、麻布生が受験にクチを出し始めると、
これはとても厄介なことになる。

同期の3分の1が東大に入り、
医者・弁護士が両手の指に足りないほどズラリ揃う麻布にあっては、
自然と「それが普通」かのような錯覚に囚われてしまう。
まして麻布は「偏差値的にまったく届いてなかった」受験生が、
なぜか受かってしまうことが少なくなく、
また入学後も勉強なんて全然しなくて、
模試判定なんかもドン底レベルで酷かったハズが、
なぜか気がつくと東大にいる…なんていうことが、
かなり頻繁に起こってたりする。

そして麻布生はそれらをまったく、本気も本気で、
「スゴイこと」だとは認識していない
あらゆることに対して「やりゃ何とかなるんじゃね?」を、
極めてナチュラルに信じ込んでいる。

そう。ここまで読んで思われたであろう通り、
実は天然ですごくイヤミな人たちなのだ(笑)。
本人達はまったく、悪気もなければひけらかすつもりもない。
ましてやそれがイヤミに響くなんてことは夢にも思わない。
ただ良かれと思って、
「やりもしないで無理だと決めつけるのはおかしい」
ということを力説しているだけなのだ。

ただそれは、ある意味ではとても正しいことだと思うけれど、
ある意味では残酷な主張でもある。

これは運も才能もズバ抜けて、
人並ならぬ努力を重ねたようなプロ野球の一線級投手が、
「頑張れば誰でも150km/hくらい出せるだろ」と言うような話なのだ。
自分たちにとっての「当たり前」は、世間一般の当たり前では決してなく、
どんなに頑張ってもそれは叶えられない人がほとんどだ。
それはもちろん麻布に限った話ではなくて、
他の難関校でも、あるいは芸術でもスポーツでも、
みんなそういうものだろう。

それなのに嗚呼、我が麻布生は、
「勉強しかできないヤツは格好悪い」みたいな美学を敷衍して、
やりたいことをやり尽くし、遊びたいだけ遊び呆け、
「どれだけヒドイ状況から」
「当たり前のような顔で」
「リカバリーできるか」という、
極めて歪なチキンレースを伝統芸としてしまった。

そして一般社会では奇蹟と語られるような「底辺からの大逆転劇」が、
麻布生の身近ではあまりにも多すぎて、
その特殊さに無自覚になってしまった。
あるいは気づいていても無視するようになってもしまった。

種明かしをしてしまえば、
自分たちが言うほどに「底辺」などではなかったということだ。
気まぐれなサラブレッドの良血馬が、レースによって手を抜いていたのを、
天皇賞やダービーだけさらってくようなものだ。
実にイヤミな話だ。また当人が無自覚であればあるほどに。

それが僕がよくクチにするところの、「麻布生の奥さんは麻布が嫌い」や、
よく聞かれる「息子を麻布に入れようとしてぶつかってしまう」ことの、
大きな遠因ではないかと思っている。たぶんこれ核心。

だから僕は、塾で仕事を始めて1〜2年経った頃からだろうか、
徹底的にこの「臭み」を消すことを意識した。
麻布生が何ら悪びれもせずついクチにしてしまう、
「麻布受けてみろよ」
「東大だって入れるよ」
というアレは、ほぼ99.9%
「そりゃアンタだからでしょ」という反感しか買わない。

勉強というフィールドで我が子の限界が見えてしまう、
それは親としてはとても辛いことだ。
それでも、少しでも良いと思える進学先について、
相談したいとやってくる保護者に、
「麻布はイイですよ〜、僕なんかねぇ〜」なんていう話は、
神経を逆撫でするだけのものにしかならない。

だのに麻布生は、よせばいいのに、
そうじゃないんだとあれこれ理屈を並べて、

「麻布目指してみたら?」
「麻布はただの進学校じゃない」
「おれなんて偏差値○○から合格した」
「ある程度以上の学校に行かないと、価値ある人間関係が得られない」
「おれは実際、麻布でこんなに落ちこぼれていたが…同期との絆が…」

みたいな話を、相手の表情にも気づかず、しつっこく力説してしまう(笑)。
繰り返すがあくまでも善意で。

「おれは」という話が多いことにも要注意だ。
深夜の飲み屋ならそれでもいいが、塾という受験のプロの仕事場では、
個人の経験だけを元に何かを押しつけるのは絶対的なタブーだ。
これもまた、麻布出身の父親が子供にやってしまいがちなミステイクだと思う。
もちろん麻布に限った話ではなく、
一流と呼ばれる中高大を出た父親は、
多かれ少なかれ子供に有無を言わさぬ「圧」をかけてしまいがちな
(そして家庭内に無用な摩擦や軋轢を生む)のだが、
麻布生の場合は先述した「ちょっと捻れた価値観」があるために、
余計に面倒な部分があると思う。

小学生はまだ強制力を働かせることができるので、
それで成功したというケースもあるのだろうが、
仮に受験まではうまくいっても、
その後の親子関係に何らかの形で影を落とすこともある。
受験がきっかけで深刻な亀裂が生じることもある。
家庭内がそんなことになってしまったら、
一体何のための受験なんだろうと首を傾げたくなる。

クドイようだが、僕は学業面ではおおよそ大したことがない人間だ。
それこそ学問的な能力でいったら、
母校には僕なんかより遙かに優れた人はたくさんいる。
けれど、どんなに聡明な人であっても、
人はなかなか個人の経験を完全に離れて判断はできないし、
ましてや我が子のことともなれば盲目になってしまうものだ。

僕がひとつだけ彼らに長じているものがあるとしたら、
僕は自分の職業上の必要から、
「自分の経験でしかない麻布」を上手に脱いで、
対象化することができたということだろう。

平たくいえば要するに麻布は難しいのだ。
一般的な選択肢とするにはあまりに厳しすぎる。
自分のことは抜きにして、
まずはその客観的事実を正しく認識しなければならない。

宝くじとまでは言わないが、
自分がギャンブルで大当たりした資金で家を建てたようなことを、
そのまま子供にお前もそうしろとは言えないでしょう。
そういうことなんですよ。

あともうひとつ。
僕はいまの仕事をやる上で、何より大切にしていることがあって、
それは「子供の目線で考える」ということだ。

厳しい競争を勝ち抜いたタフな親御さんほど、こんなことを言ってしまう。

「偏差値○○以下の学校へは行く価値がない」
「○○中に落ちて下手な私立なんか行くくらいなら公立中に行けばいい」
「中学入試がダメでも、高校入試でリベンジすればいい」

それらはすべて大人の理屈でしかなくて、
子供の気持ちは完全に無視されている。

子供は「投資に見合った成果」で親を満足させるために、
遊びたいのも我慢して中学受験を「させられて」いるのだろうか?

いくらそれが正解なんだ、大人になればわかるなどと強弁しようとも、
子供の心が折れてしまったら、消えない傷を残してしまったら、
一体何のための苦行だったのだろうか?

中学受験の意義、中高6年一貫校に通う意味は、
何も第一志望校でしか得られないようなものなどではない。
人生の多感な6年間を、高校入試に中断されずに、
「同じ釜のメシを食い」ながら過ごすことの価値は、
そう簡単に公立中や高校受験でのリベンジに
置き換えられるようなものではない。

それを押しつけるのは、あたかも
「甲子園に行けないんだったら野球なんかやる意味がない」
と言うようなものだ。
野球が与えてくれるものはそれだけじゃないはずだ。

最終的にはどんな学校へ行くことになろうと、
そこで自分らしく思い出を刻んでいけるようになって欲しいし、
志望校に縁がなく、
たとえ「滑り止め校」だけであったとしても、
合格という形でひとつは報われて欲しい。
その上で進学するかどうかは後で考えればいいことだ。

僕は受験や進学を知ったかで語るどんな保護者よりも、
たくさんの受験生を、そしてその涙を見て来ている。
そんな僕が固く信じるところはただひとつ、
「子供の人生は子供のものだ」という当たり前過ぎる真理だけなのだ。
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