いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

ここ最近ジワっときた3歳息子のセリフ

2023-07-29 22:55:40 | パパと呼ばれて〜親バカデレデレ日記
#1 おもちゃのお札を腕一杯に抱えながら
「おかねもちって、たのしいなぁぁ」
(…わるかったな)

#2 トイレから出てきて、遠い目で
「はぁぁ、うんちしたんだよなぁ、おれぇ…」
(ホメてほしいらしい)

#3 二つのおもちゃでどっちにするか散々悩んだ挙句
「パパ、○っくんこっちにするから、パパはこっちにするといいよ!○っくん、パパだいすきだから!ねっ!パパはこっちをかって!○っくんはこっちにするから!パパは○っくんと、なかよしだから!ねっ!パパ!」
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恩送り

2023-07-28 22:53:36 | 超・いぶたろう日記
人の才能や適性、潜在力や将来的な可能性など、
的確に見抜くのは至難の業よね。
相当にその道を極めたはずの人でも、見誤る。
10年前、今日の大谷翔平の姿を、
果たして何人の専門家や評論家が予想したろうか。
わずかに落合だけが理解を示した程度で、
あとは異口同音に無理だ無謀だ舐めてる思い上がるなの大合唱だったかと。
プロ中のプロでさえ、自分の経験を超えては判断できない。
野茂やイチローも通用しないとかボロクソ言われてた。

そう、人は自分の器を超えて正しく他者を評価することなどできない。
挑戦するものを批判したがるのは、
挑戦しなかった自分を正当化するためかもしれない。
超一流の経験と実績を持つ専門家や評論家ですら、
そうした人間のサガ、バイアスから逃れられない。
いわんや、たかが一介の塾講師が(学校の教員が、部活の顧問が、会社の上司が、親が)、
子供や生徒や部下の将来性を見抜くことなどとてもとても。
偉そうに人物評価なんか語ってるの見ると、恥ずかしくなっちゃう。
見誤ったところで責任を取るわけでなし、
ていうか取ることなどできないのだから、
指導者としては可能性を限定したり、本人の意欲を削る方向ではなく、
応援することをデフォとした方が良い…というか無難なんだろうなあ。

思えば僕は割とそういう大人たちとの出会いに恵まれていたかもしれない。
父は不在だったが母はそうだったし、高校の担任もそうだった。
過不足は指摘しつつ、僕の向かおうとする方向を否定することはしなかった。
いつでも背中を押してくれた。
まあ、その成れの果てがこの体たらくなので、
なんだか申し訳ないような気持ちもするが。

僕もまた、夢を語る子供たちを前に、
「なんでも誰でも、やりたければとことんやればいいよ、ガンバレ!」
…と気持ちよく言える先生であり父親でありたい。
恩送りのようなものだろうか。

しかし、メジャーのダブルヘッダーで、
1試合目完封の後、2試合目で二発だってよ。
規格外すぎるわ。
こんなん、予想できるか!

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札幌の件

2023-07-27 22:51:52 | 超・いぶたろう日記
擁護もしないし正当化もできない。
犯罪であることに違いはないし、その猟奇性については理解の余地もない。
ただ、娘を持つ身となったいま、父としての気持ちだけは痛いほどわかる。
溺愛だの甘やかしだの片手落ちだの言われたって、
僕もまた娘に危害を及ぼすものがあれば、正気を保っていられるかわからない。

当たり前のことだけど、すべての人には親がある。
災害で泥に埋まり、津波に飲まれた人にも。
戦場で機関銃の的になり、堕ちた戦闘機や沈んだ軍艦に乗っていた兵士にも。
いじめられた人、事故に遭った人、理不尽なテロや犯罪の犠牲になった人にも。
お酒や薬を飲まされて乱暴された人、パワハラで消耗して自ら命を絶った人、
歩道に突っ込んだ暴走車の犠牲になった人、バスに置き去りにされた子供にも。

もしそのうちの1人が自分の子供だったら。
いずれも我が身に置き換えて考えると、とても堪えられない。
それを思うだけで、なんとも言えない気持ちになる。
我が子の無事を祈る気持ちが、
ひいては世の中の人すべてを思いやる優しい気持ちにつながる。

でも、ビッグモーターは容赦なくやっちまっていいと思う。

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野球観ながら仕事できんのか

2023-07-26 22:50:00 | 超・いぶたろう日記
合宿準備と塾内模試の講評書きで、夏場は隔日在宅業務。
作業の傍ら、テレビでやってた高校野球・千葉県大会に目を奪われる。
専大松戸対志学館戦(昨日ね)。
地方大会とはいえ、高校野球、やっぱり面白い。
プレーはともかく、投球の合間といい選手交代といい、
何やかやと時間のかかるダラダラしたプロの試合よりテンポがいい。
負けたら終わり、という緊張感もいい。
投手や守備にもメンタルの動揺が見てとれるのが実にいじらしい。
よく打つし、点入るし…って、それは僕が阪神ファンだからか(笑)。

大阪生まれの東京育ち、果ては千葉で学習塾…と根無し草の僕だけど、
20年も千葉で塾やってると教え子の通っている学校も増えて、
そこはかとなく地元感出てくるなあ。
専松なんて学校説明会でもよくお邪魔するし、つい応援しちゃう。
…と思ってたら爆打ちし始めた。こりゃすごい。
この酷暑の中、熱戦に次ぐ熱戦。体に気をつけて頑張ってほしい。

決勝は地元習志野VS専大松戸らしい。
これはどっちも応援しちゃうなあ。
習志野と言えば掛布。
とまあ、高校野球を散々持ち上げつつ、
夜は夜で劇的な阪神巨人戦に溜飲を下げるの巻。
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一歳と三歳の夏

2023-07-17 22:43:01 | パパと呼ばれて〜親バカデレデレ日記
この先何度も来るかのようで、実はもう二度とはこない今年の夏。
四年前の夏には、想像もできなかった夏。
たった四年のうちにこの世に生を受け、笑い、泣き、
元気に走り回り、カタコトで喋るようにまでなった、我が家の天使たち。
早いなあ。早すぎるくらいだよ。

親となった者はみなきっと同じ想いに囚われるのだろうなあ。
いわく「ずっとこのまま大きくならなければいいのに」。
本当にそう思う。
手がかかって仕方ないけれど、かわいくてたまらない。
その一方で、立派に成長してくれることも願う。
大人になった彼らを楽しみにも思う。
なんとまあ欲深い生き物だろうか、親。
それでいて、彼らのためなら惜しみなくなんだって投げ出せる。
なんとまあ矛盾した生き物であることだろうか。

まったく説明し難い親の気持ち。
こればかりは、自分がその立場になってみなければ理解できなかった。
いろんな親に話を聞いて、わかったつもりでいただけだった。
親となってまもなく四年。
これほど価値観がひっくり返った時間は他にない。
人生の主役が完全に入れ替わってしまった。

彼らが生まれたその日から、望むのは二つだけ。
ただただ彼らが元気に健康に、事故や犯罪や病気や戦争などに巻き込まれず、
無事に生きていってほしい。
そして、それを少しでも長い時間、観ていたい。
いつまでも、可愛くて仕方ないこのままでいてくれたらと思う親のエゴ。
それを超えて、そんなのとんでもない、
親に寿命が来た時にこの子らどうすんだ、と思い直す親心。

生意気にもなるんだろうなあ。
口答えもするだろうなあ。
それもおれの子だからハンパないよなあ。
怒れるかなあ、怒っちゃうこともあるだろうなあ。
でも可愛いから全部許しちゃうんだろうなあ。

この子たちがいなかったら、今ごろ僕なんか屈託しきってたかもしれないなあ。
間違いなく人生の新たなステージをくれたよなあ。
一秒でも長生きしたいよ。
たまらんなあ。親。
このまま残りの人生、死ぬまでこの子たちの親、やれるんだぜ。
最高じゃないか。

おれの人生、最高じゃないか(当社比)。

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賞味期限

2023-07-04 13:21:41 | 超・いぶたろう日記
誰しも、天に与えられたものを武器にして生きていくしかないのだろうけれど。

見た目・外見・容姿に恵まれ、
それを磨き上げること『だけ』に全フリしてきたであろう人が歳を重ねると、
悲しいくらいに中身の乏しさが強調されてしまうのだなあ…
と思わされる例を、いくつか続けて見かけてしまったのであった。

タレントさんやら女優さんやらは、
それが商品なんだからそれでいいのかもしれない。
アスリートが体を鍛えるのと同じだろう。
でもなあ。
一般人がみんなそういうのにかぶれて、
社会に広くルッキズムが浸透してしまっているのだとしたら、
それは精神の幼児化としか形容できない。
誰もが皆、思春期に永住したがっているかのような。
文字通りのピーターパン症候群。

歳を取ってもなお、
見た目の若さや容姿の美しさ『だけ』を殊更に訴えかけてくる人
(まだまだあなたはイケてるよと言って欲しくて仕方ない感じがほとばしっている人)は、
老いることが即ち自分の価値の摩耗なのだろうから、
やはり怖くてたまらないんだろうなあ。
私こう見えてこんな難しそうな本読んでるんですよ、
こんな知的活動してるんですよ的な「中身」アピールもまた、
ひとつの外見アクセサリーにしかなっていないのだろうし。
とってつけたような知性のアピールはとりもなおさず品性の欠如。
知性なんてこれ見よがしにひけらかすもんじゃなくて、
そこはかとなく滲み出るもんだよ。

歳をとって見た目の若さや美しさを喪い、
でも実はそれらは単なる「性的魅力市場価値」でしかなかったのだと気づき、
その呪縛から自由になることって、
実はけっこう大事な「第二成人式」なんじゃないだろうか。
その上でなお、外見を磨きたければ磨けば良いし、
内面を豊かに埋めたければ埋めれば良い。
結果としては同じように見えても、
過程が違うとそれなりに人格の深みというのか、
異なる味わいが生まれると思うんだよなー。

…なに言ってるか伝わりますかね?(笑)

年をとっても若々しく見える人や、見た目の麗しい人が、
必ずしも中身がないと言っている訳ではけっしてないのだが。
うまく言うの難しいなあ。
正確に言おうとしてかえって誤解の余地を生んでいるような気さえする。

でもさ、なんか昔の友達で久しぶりに集まっても、
えんえん肥ったの痩せたのハゲたの老けたのと、
そんな話題ばっかりだったりすると、
それしか話すことないのかよ、と思うよね。
だいたい四十もとうに過ぎたオヤジとおばはんの集まりで、
外見なんかでマウント取り合って何が楽しいのかと。
若い子から見たら、目くそハナクソ・五十歩百歩、大差ないしね。

ざくっとまとめてしまえば、
「賞味期限」のない人間になりたいもんですね、
というところだろうか。
あ、イイこと言えた気がする。
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