いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

なか卯の納豆うまいよね

2002-11-12 10:37:42 | 似非哲学の部屋
最近の俺の朝飯、なか卯の納豆定食。
これが実にウマイのだ。
なぜ朝しか納豆やってくんないんだろう。
絶対どこのよりもウマイのに。

ところで。
現場の思惑と本部や上層部の意志というものは、
何故にかくも乖離するものなのであろうか。
組織の最前線にいる人こそが、顧客の動向を肌で感じているし、
組織を運営するものはデータとして上がってくる数値だけを見るのでなく、
現場の声を欠かさず拾うべきなのに、
それを怠っている企業や組織体は非常に多いよね。
現場を知らない人間は、上に立つべきではないね。

例を挙げようか。
ファミリーマートの発注形式が変わった。
それまでは「MAT」という片手に収まるサイズの機械で、
売場の商品のバーコードをスキャンして、
それぞれ発注数量を入力すれば良かった。
それがこの度「SAT」という機械になった。
画面のついたレポート用紙大のサイズの機械で、
これはすべての商品のデータが入っているので、
いちいちスキャンする必要がない。
どころか、新商品や既存の商品でまだ扱っていない商品なども、
ボタン一つで画面に表示されるので商品の改廃も自由だ。

こうして言葉で説明されると、一見後者が便利に見えるでしょ?
ズバリ、それが本部の感覚なんだな。

実際に使ってみるととっても大変。
まず、バーコードをスキャンしなくていいと言うことは、
前もって自分の店のどこにどれが置いてあって、
それはどういう順序で、何を扱ってないかなど、
自店売場に関するデータをすべて入力しておく必要があるのだ。
これが死ぬほどめんどくさい。

コンビニは新商品が毎週必ず数十アイテム出る。
そのたんびにあっちこっちいじくり回して売場を登録しないといけないのだ。
しかもその登録方法が信じられないほど回りくどく、
しかも機械の操作も実に煩雑と来ている。
今までは新商品を棚に並べてさえおけば、
それをスキャンするだけで発注できたのだから手間の差は歴然だ。
案の定、多くの店から不平不満の声が挙がった。
しかし、本部はこれを「コンピュータアレルギーの年配者の声」としかとらえていない節がある。
「ホントは便利なのに、使う奴の頭が悪いとこれだからな~」
ぐらいにしか思ってないのだ。
つまり都合のいい解釈で現場の声を軽んじているわけだ。
実際は、何億円もかけて機械を導入したから引き下がれないだけなのだ。

人間は堕落する動物だ。
基本的にエラくなった奴というのはそれまでの苦労を下の人間に求め、自分は安楽を求める。
組織全体の効率的な運営を考えるのが首脳部や管理者の仕事なのに、
それをめんどくさいことは全部下に押しつけていいのだと勘違いするんだな。
崇高な理想や、理想的な論理や、論理的なシステムを好むが、
得てして現状にそぐわないことが実に多い。
売り上げや動員を増やすために次々色んなことを思いつくが、
そのために現場にどういうしわ寄せがいくかまで考えない。
コンビニは確かに便利だ。
買い物だけでなく、宅急便、写真現像、ギフト、ネットショッピング、
公共料金、ATM、その他実に多くの業務をこなすので、
コンビニ1軒あれば都市生活のおおよそについては事足りる。
しかしその陰で従業員はそれだけの数の業務に追われている。
従業員といってもほとんどはバイトだ。
数ヶ月から長くても数年で辞めてしまう人たちが主力なのだ。
入れ替わるたんびにイチから教育しなくてはならない、
その手間も半端でない。
業務が多いので育つまでは時間がかかるのに、
辞められると途端に戦力がダウンする。
これだけの業務量を人件費をケチってバイトに頼むところに無理がある。
そういう現場の事情を本部は全く考えない。
いつも言うことは同じだ。

「沢山発注してください。欠品させないでください」
(時間切れ廃棄は店舗の負担。欠品でイメージダウンをおそれるのは本部の都合)
「人件費を削ってください」
(店長の負担増は本部の知ったことじゃない)

同じような事情に悩む人、多いんじゃないかな。
組織の首脳陣はなんだかんだと理屈をつけて自分たちの安楽な地位を正当化しているだけで、
実際はいかにして下をこき使うか、搾取するかしか考えてないのだ。
それが人間だからな。
なんかマルクスっぽいなあ。
でも事実だもんね。
今でこそ民主主義の世の中だから、
建前ではみんなのためにとか何とか言うけれど、
基本的には江戸時代と一緒。
「士農工商」って二番目にエラいみたいなこと言って持ち上げて、
実のところは「農民とごまの油は絞れば絞るほど出るものなり」なんつって。
サラリーマンは現代の農民だもんな。

北朝鮮はそれを国家レベルでやってる大バカの国だ。
共産主義という、今や子供でも信じていない幻想を掲げ、
窮乏に苦しむ国民から巻き上げ続けている。
金正日にとって国民なんてものは、
ただ大人しく働き、なるべく消費しないで、すべて自分に貢ぐ、
そういうものでさえあればいいのだ。
それをおおっぴらにやっている分だけすごいよな。
「アメリカと核戦争、どっちが勝つかやってみなければ解らない」
なんてよく言えるよな。
そりゃあ自分は安全なシェルターの中だもんな。
イラクにしたってそうだ。
フセインが強気なのは決して勇気があるからじゃなくて、
自分は安全なとこにいて、死ぬのは他人だから。
アメリカもこの点ではおんなじ。
政府の人間にしてみれば、自分の息子が戦場に行く訳じゃないからね。
政府や国家の勝手な都合で命を奪われるってのに、
愛国心なんて愚かな集団幻想を植え付けられて、
喜んで死にに行く奴がいるってんだから理解できない。
俺は金正日やフセインやブッシュや、
ましてや小泉のために戦うことが立派なことだとは思わないぞ。
そんな奴らに踊らされて人殺しに行くのが、
祖国を愛し、守ることだとは思えないぞ。

先日、石原都知事がテレビでエラそうにこう抜かした。

「北朝鮮と戦争したっていい」

それはもちろん、戦場へ君の息子を送り出す覚悟があっての上で、
威勢良く格好良く言ってのけているわけだろうな?
良純も伸晃もだ。
ついでだからおまえも行ってこい。
もちろん最前線だ。

死ぬ覚悟も、愛するものを失う覚悟もない奴が、
無責任なこと言うんじゃない。
国民はおまえの兵隊じゃない。

こんな奴が次の首相、日本という組織のトップに立つ、
一番人気の候補者だと言うからこの国の国民の気も知れない。

テレビがみんなをバカにした

2002-11-09 03:02:18 | 似非哲学の部屋
Rebirthのリハスケジュールが変更になり、
今までリハに入っていた水曜日の午後が自由になった。

平日の夕方に家にいるのは久しぶりだ。
さりとてするべきこともなく、何となく日は暮れて…
いや、ほんとはいっぱいあるんだけど。
今から12月のライブシリーズ突入まで、
残された創作時間はわずかだ。
何度か触れてはいるが新曲は目白押し。
イサキ君のが1曲、シュンスケのが4曲。
ここにさらにジュンイチも新作を持ってくるらしい。
それらに詞を書かねばならない。

詞というのは実にやっかいなもので、
うかつなことを書くと、そのうかつっぷりがもろに出てしまう。
そういう歌詞はあとあと死ぬほど後悔すること請け合いだし、
せっかくいいメロディやかっこいいバックが出来ていても、
歌いたくないな~なんてことにもなりかねないので、
歌詞はいつも時間をかけ、慎重に紡ぎ上げることにしているのだ。

テーマが決まれば早いのだが、これが決まるまでが大変。
本を読んだり、映画を観たり、CD聴きまくったり…。
みんなからメールで寄せられるあの作品が良かったとか、
そういうのを参考にすることも多いし、
直接のお悩み相談などから着想することも多い。
また、意外なトコに落ちていることも多いので、
何とも手につかないときはぼーっとテレビを眺めることも。
そんなわけで久々に平日の夕方、部屋でテレビをつけた。
こんな時間に家でテレビを見てることなんてほとんどなく、
大抵スタジオリハ後の深夜番組か、夜勤後の朝のワイドショーだったから、
ゴールデンタイムの番組を見られるのが楽しみだったのだ。

だが。しかし。
テレビってこんなつまんなかったっけ???

びっくりした。あまりのくだらなさに。
あまりの程度の低さに。
出演者が、発言の内容がどうこうというレベルじゃない。
企画自体からしてもう"childish trick"(子供だまし)以外の何でもないのだ。
前もってやらせで収録され、編集されたVTRを垂れ流すだけ。
その番組に誰が出てるかなんて関係なし。
無難なコメントやありきたりなボケをかますだけ。
しかもそのいちいちにご丁寧にも字幕がついてまわる。
みんな日本語喋ってんだぜ?
音消しても何言ってるかわかるほど、殆ど全ての発言に字幕付き。
何の必要があってそんなことしてんだ?
視聴者をバカにしてるか(まあ実際番組内容をいちいち真に受けてテレビ局にわざわざクレームつける奴はバカだけど)、
さあ、ここが笑うとこなんですよお、と指示されてるみたいで不愉快だ。

チャンネルを変える。
ドラマは学芸会みたいで白けるだけだから見ない。
だってどんな名作もキャスティングで台無しだもの。
日本のドラマは演技力や作品の世界観丸無視で、
人気と事務所の強さだけで配役されるからなあ。
それが素人にまで透けて見えちゃうところからしてダメだよな。
「アルジャーノンに花束を」なんて俺昔から大好きだったのに、
あんな安っぽいドラマにされちゃあ恥ずかしくて電車の中で読めないよ。
菅野美穂もユースケサンタマリアも別に嫌いじゃないけどさ、
所詮はタレントの域を出ない、本物の俳優じゃねえからな。
演技力のなさはどうしようもない。
何の役をやっても劇中の人物ではなくそのタレントにしか見えないというのがその証拠。
反町隆史のやった信長なんて寒すぎて凍死するかと思った。
その点ロビンウイリアムスなんてすごいぜ。
どんな役にもびしっとはまりこむもんな。
「レナードの朝」「いまを生きる」「ミセスダウト」「パッチアダムス」、
全部全く違うキャラだけど同じ人物が演じてるとは思えないもんな。
日本で言うと西田敏行とかがそうかな。
田村正和は持ちキャラ一つしかないけど、
それをどのドラマでも活かしてるからプロだと思う。

さて、チャンネルを変えていく。
出ました、俺の最も嫌いな恋愛企画もの。
それまでの波瀾万丈を超えていよいよ今夜は、
このカップルが成立するかどうかの瀬戸際だという。
イスラム過激派の連中に言っておきたいが、
アカの他人の恋愛の成否を固唾をのんで心配するような国、
テロ起こしてもしょうがねえぞ。

先週までの回想シーンが続く。
「ナオキの優しさに触れたあの時…」
画面ではキャンプ場だかどっかの野原で摘んできた花を女に渡す男。
みんなに問う。

それ、優しさか?

野で一生懸命に咲いている花を自分の都合でむしり取って、
惚れた女に手渡して悦に入っている男は優しいのか?
花といえども一つの命、摘まれる痛みを考えもしない、
そう言う男はきっと女の気持ちも解ろうともしないで、
てめえの勝手な理屈でやりたい放題やるぞきっと。
俺は寂しかったんだ、疲れたんだとか言いながら浮気するぜ。
酒飲んで暴れるぜ。
嫁入り道具売っ払って競馬行くぜ。

「君のためにニワトリしめてきたよ…」
「君のために牛一頭さばいてきたよ…」

そういってまだナマ暖かい死体を渡されたらどうだ?

「おいしそう!!私のために?!ありがとう!やさし~んだぁ~?」

とかって、コロッとまいっちゃうわけ?
同じ事なんだけどなあ。

やたらと陳腐な「優しさ」「感動」「愛」「勇気」を振りかざすのが本当に鼻につく。
安っぽいことこの上ない。
本当の「優しさ」ってのは、特定の相手だけじゃなくて、
周りの全てに思いやりをもつことだ。
本当の「感動」というのは心が自然に震えることだ。
本当の「愛」ってのは必ずついてまわる醜い面をも塗りつぶさない、ごまかさない。
本当の「勇気」というのは退くべき時に退けることだ。

ちゃらちゃらと言葉だけで相手を褒めそやしてご機嫌をとるのは「優しさ」じゃないし、
病気の子供や戦災孤児に対する無力な形だけの同情に「感動」を覚えるのは難しい。
相手に対する単なる欲望を「愛」と言い換えていいのなら、
ストーカーの連中は実に「愛」の深い人種だし、
スポーツの感想代わりにとりあえずその場しのぎで言う「勇気」は商売道具だ。

はっきり言おう。使い古された表現ではあるが。

テレビばかり見てるとバカになるぞ。
ほんとのほんとにバカになるぞ。

まだゲームやってた方が頭使えるぞ。
よっぽどそこらのバンドの方が面白いことやってるぞ。

深いため息のあと、テレビのスイッチを切った。
こういうテレビ番組のような人間にはなりたくないなあと、
心から思った。

豊かさについて考える

2002-11-04 12:56:30 | 似非哲学の部屋
最近の俺は病的なまでに買い物が好きだ。
やばいくらいにとっても好きだ。
ここんとこ気分転換に買い物に行くことが多く、
この1~2週間だけでも買ったものを列挙すると、

牛柄ベッドシーツ&牛柄掛け布団&牛柄枕 ¥6000
牛柄パジャマ ¥2000
犬のくわえるような骨のカタチしたクッション ¥1500
毛布 ¥2000
1Lサイズの取っ手付き湯沸かしポット ¥3000
PCソフト「office v X」「ATOK15」 ¥38000
整理棚 ¥1000
MDラック ¥2000
服数着 ¥10000
ドライヤー ¥2000
洗濯物入れ ¥2000
いかした帽子 ¥2000
姿見鏡 ¥3000
寿司麻雀パイセット ¥4000
お香各種 ¥2000
眼鏡 ¥7000

とまあ、ざっと書き出してみただけでもゆうに9万円近い。
さらに今日、ヤフオクで10万円でiBOOKを落札したのだから、
もう要入院といっても過言ではない。

でもなあ。
買い物に行くと、世の中にはまだまだ俺の知らなかった素晴らしいものが、
こんなにいっぱいあったのかと目が覚めるような思いがするのだ。
ふと立ち寄った店内、さまようほどに瞳に飛び込んでくるあざやかなアイテムの数々。
これがあったら便利だなー、こんなの部屋に置きたいなー、
おーこんなもんしてったらかっこいーぞー、おおこれは盲点!
などなど、あられもなく甘い誘惑光線ががそこら中を飛び交うのである。
やがてその誘惑光線と、「所持金」及び「潜在的経済力(要はカードだな)」との壮絶な綱引きが始まる。
そして支出に見合う品物、
即ち「リアルに欲しい一品」が、いぶきの心をぐぐいとわし掴みにすると、
たちまち欲深い自分(ばい菌みたいなかっこしてフォーク持ってる)と、
出費を惜しむもう一人の自分(天使の羽はやしてアタマの上にドーナツが浮いてる)とが、
売場を前にしてしばし向き合うのである。

致命的なことに、俺は買い物にあって値段をさほど重視しない危険な傾向がある。
欲しいと思ってもちょっとこいつはきついかなあ、というものを普通は除いていくものだが、
俺ときたら「どれくらい欲しいか」が第一基準なのだから始末に負えない。
その結果が、やたらと物持ちがいいが借金が多いという現在の生活図式につながり、
それがやはり現在の多額の負債(よーするに借金だな)に直結してるわけで、
事情を知るメンバーや友人などからは、しばしば批判の的ともなっている。

しかしだ。

俺の考える買い物とは「生活を豊かにする」ための具体的な攻めの行為であって、
決して「様々な品物を見て歩き、将来の豊かな暮らしを思い描く」などといった、
半端な自慰では収まらないし、
「その中で本当に必要なものだけを買う」 などといった甘ちゃんな行為ではありえないのだ。
買う。とにかく買うのだ!
値段など関係あるか。これがロックだ。

値段などといったものはあくまで他者の価値の反映であり、
それが安いか高いかは自分がその商品に認めた価値との差でしかない。
つまり、どんなに高価なものであっても、
それが俺にとって本当に価値あるものなら、俺は、買う。
逆にどんなに世間が欲しがるものが相場よりかなり安く売られていても、
俺が何の魅力も感じないものであればビタイチ払わない。

「なによいぶたろう、そんなの当然だわ、私だってそうですわよ」
と呟きながらそこゆくマドモアゼルよ。
一見、当たり前のことのように見えるが、
これが実はそうでもないことが多いんである。
例えばあなたは心から欲しいわけでもないのに、
「え、こんなブランド品がこんなに安いなんて…」
「あれ、何だかお金、ある…買えちゃ~う」
などと言いつつ物を買った覚えはないかね。

或いはもっと日常的に、
「え、バナナひと房100円??やすっ!2~3房買っていこう!」
とかやって、1~2房腐らせた経験はないかね?

「これを買おう」と思い勇躍店に向かったが、値札を見て逆ギレ、
ボッタクリだ!とか呟きながら帰ってきたことはないかね??

俺は………いっぱいあるぞ!

人間の意志とはかくも脆きものなのだ。わかったか。

しかしだ。

ここで俺が言いたいのは、
物の価値とはそもそもどこに基準をおいて考えるべきであるか、ということ。
勿論、自分の所有物や探求物については自分の価値観が基準になる。
そして経済的な価値の序列を明らかにするには価格が基準となる。
これで基準は二つ。「(自分の)欲しい度」と「値段」だ。
しかし、そのどちらにも拠らない価値体系がさらに存在するのである。

それが最も如実に表れるのがプレゼントだ。
その時その人に一番必要な物を贈る。
その人自身ではなかなか気づかないような、でもその人にぴったりの物を贈る。
その人が自分ではなかなかお金を出してまで買わないだろう物を、贈る。
いずれにしてもその人に対する思いやりが必要であり、
普段からの接し方が重要なポイントになってくる。

この、「思いやり」である。
即ち、少なくともプレゼントにあっては、
金銭的な価値ではなく、貰う側の価値基準でもなく、
その品物に込められた「贈り手の気持ち」が、
どれくらい貰い手に伝わるかによって価値が定まるのである。

これは、怖い。

どんなに高価なモノを贈っても、
貰い手のことをロクに知りもしなかったがために、
例えば強い匂いを好まない女性に対して香水を贈るなど、
てんで的外れな場合もある。
あるいは無理して買った高価なブランド品を、
お約束的に差し出されるのをむしろ毛嫌いし、
贈り主手作りのグッズにこそ心動かされる人もいるだろう。
またどんなに貰い手のことを思って品物を用意したとしても、
贈り手に対して良い感情を持っていなければ、
或いは貰い手の心がとっても貧しければ、
この世でただ一つの手作りの一品は置き去りにされ、
「こんなもんで茶ぁ濁しやがって、ティファニーよこせよ~、ティファニー」

となる場合もあるのである。

豊かになりたいと願う、そのためにモノを求める。
ある時は自力で、ある時は親しい人の厚意により。
欲しいモノが何不自由なく手に入る、欠けることなく揃っている、
それは幸せなことではあるけれど、「豊かな暮らし」とは必ずしも一致しない。
というのは、やはり欲望の赴くままに品物をただ揃えたよりも、
持っているもののそれぞれに、裏付けというかドラマというか、
金銭に置き換えがたい価値が隠れていてこそ、
「豊さ」という潤いを生活に与えてくれるような気がするんである。

自分で買ったものならば、どれくらい苦労してそれを手に入れたか。
人に貰ったものならば、誰にいつどういう経緯で貰ったか。
他人にはさして価値のないように見えるモノでも、
自分にとってはどんな貴金属にも代え難い、思い出や愛着の詰まった品物。
貯金をはたいて買ったギター、好きな子に貰った古い腕時計、
何度も聴いたCD、素振りを繰り返したバット、大切だった人の形見。
これらただ一見しただけでは古ぼけたガラクタに過ぎないものが、
自分の人生の大切な一時期の残像を切り取って持ってくれている、
そんな風な価値を見出せる心こそが、真の豊かさの証ではないかと思うのだ。

金持ちになって、あるいは権力を握り、
望めば何でも新品が手に入る生活、そんな中に在っても、
そんな心を持ったままでいるのは難しいことなのだろうか?
豪勢に見える邸宅や高級車の陰には案外、何もないのではないか?
何の思い入れもない、無味乾燥なただの「物体」が多くある、それだけ。
そしてそんな環境こそが、金持ちや権力者をして、あらぬ方向へと向かわせしめる、
「豊かな生活に隠された貧しい心」を生むのではないか?
経済的にあらゆる不自由を極めた境遇の中で、モノなど何も伴わなかったとしても、
心を込めて贈られたたった一言の言葉が、
他の何よりも人を幸せな、豊かな気持ちにさせることすらあるのだ。
欲にまみれた生活はそんなことも、いつしか忘れさせてしまうのだろうか。

小室哲哉再々婚の報に触れ、
やれウン億円挙式だ、何人目の嫁だ、テレビ中継だ、
その派手な舞台の裏側にそんな思索を見つけてしまうのである。


【2005年追記】
…俺の親父も、再々婚してんだよなあ。
またタレントやってるくらいだからカネはあるんだろうけど、
ホントの意味での友達、何人くらいいるのかねえ。

愛しの松茸論

2002-11-01 11:49:45 | いぶたろう日記クラシック
こんばんは、松たけ子です。
わたくし、松茸に目がありませんの。
でもあの通り高価ざましょ?
なかなか好きなときに好きなだけというわけには参りませんわねえ。

わたくし、こう見えましても昔は金持ちのぼんぼんでございまして。
つーかオヤジがアナウンサーなんてやってたもんだから、
各地のファンから色んなもんが送られてくるわけなんですよ。
その中には松茸もございまして。
わたくし子供の頃は毎年飽きるほどむさぼり食っていたんですよ。
なんせ量がありますから、
松茸ご飯とかお吸い物とか土瓶蒸しとか、
せこい食べ方はいたしませんの。
もう丸ごと焼いて、ぴ~っと裂いて、ポン酢でぱくっと。
それしか知らなかったんだよね。マジで。
...やなガキ。

まあ、その後は順調に没落して今や立派な貧乏人。
子供の頃はタダのキノコくらいにしか思ってなかったのが、
そのありがたみを思い知った大人になってから縁のないこと。
ここ数年まともに食ってないんですよ。

でも俺、すんごい好きでさあ。
食べたいなあ、最近食べてないよなあ、
な~んてクルマの中でぶつぶつ言いながら帰ってきたら、
なんと食卓の上に夢か幻か麗しの松茸ちゃんが山盛り。
あまりの感激にあやうくキノコ星人になりかけた。
ほんとに、山盛りなんである。
おかしいなあ。
ウチにそんな経済的余裕あったか?
自動車税も保険料も家賃も滞納してしょっちゅう怒られてんのに。
松茸なんてみつかったら押収されてしまいそうだ。
どこから盗んできたのだ。
のり子の彼氏ぷれぜんつか?
さやかの彼氏貢ぎ物か?
ウチは女性陣のみやたら人気あるからなあ。
貢ぎ物で結構潤ってるからなあ。
待てよ。
さては身内に拉致られたやつが?!
北朝鮮のおみやげとやらが配られたらしいからなあ。

どれも、ちがった。当たり前だ。
何でものり子が優勝したらしい。
ちなみにのり子というのは俺を産んだ女だ。俺の原材料だ。
しかも、会社のカラオケ大会で...。
さすがと言おうか何と言おうか血は争えないと言うべきか。
たいしたもんである。

しかし会社のつきあいとやらで、半分は同僚に分けてやらんといかんのだという。
5ぶんの…いや、7分の1くらいでいいじゃないか!と何故か分母は素数にこだわりセコイ主張を展開する俺。
しかし半分のラインは崩せなかった。
会社のつきあいなんてくたばっちまえ!
いや、でもそれでもらえたわけなんだし。。。

そんなわけで明日の朝は松茸ご飯である。
しかし俺は何としてもこの夜のウチにざるから一本せしめて、
あの幼少期に楽しんだ「一本焼き」を再現しようと、
虎視眈々と今も目を光らせているところだ。
こんな自分の日記でキリ番ゲットしてる場合じゃないことだけは、たしかだ。