いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

泳ぐ夢を見た

2011-06-27 17:09:38 | 特選いぶたろう日記
僕は泳いでいた。
どこかの室内プールだろうか。
一度、岸にたどりついて、そこで壁を蹴ってターンした気がする。
しかし、それ以降は泳げど泳げど果てがない。

水は深い紺色だった。
現実でもそうであるように、僕は平泳ぎしかできなかった。
泳げなかった子供の頃のトラウマか、
今でも水の中に顔をつけることが嫌いだ。
小学校低学年の頃、いやがる僕の頭を押さえつけて、
無理矢理プールの奥に沈めた先生の薄ら笑いの記憶。
冷たい水に顔をつけると、今でも心臓が止まるような錯覚に襲われる。

だから僕はいつも顔を上げたまま泳ぐ。
クロールは顔をつけざるを得ないし、息継ぎのたびに耳に水が入るので、イヤだ。
だからいつでも平泳ぎ。
のんびり、のんびり泳ぐ。

ところが夢の中では。
僕はちゃんと潜っている。
リズミカルに、潜っては吐き、顔を上げては吸い、
それはうまいこと泳ぐのだ。
ゴーグルをしている様子もないのに、水の中もよく見える。
ちょうどモーレアの海で生まれて初めて体験した、あのシュノーケルのようだ。

不思議と身体は疲れない。
潜る。吐く。上げる。吸う。
これをひたすら繰り返す。
繰り返すうちに僕は順序を間違える。
空気中で息を吐き、水中で思い切り吸い込んでしまった。

ヤバイ、と思った。

蘇る30年前の大阪の北の外れ、山間の小学校のプールでの悪夢。
鼻いっぱいに広がる塩素のにおい。
眼となく鼻となく喉となく広がる、独特の痛み。

…を覚悟したのだが…。

何ともない。
何ともないまま、身体は進んでゆく。
あれ?
水の中でも、呼吸ってできるんだ。。。

夢の中では理屈に合うかどうかなんて、まるで二の次だ。
起きてしまったことを実に抵抗なく受け容れてしまう。
いや、むしろこれこそが僕の本質なのかも知れない。
いつも理屈ばっかり並べているが、それは表層の鎧に過ぎず、
深層では、結局すべては受け容れざるを得ないのだ、
という諦念が支配しているような。

なんだ、じゃあ。
もう水の上に顔を上げる必要なんかないじゃないか。
このままずっと、紺碧の中に顔を埋めて身を沈めて、
どこまでもどこまでも・・・・・

と、手足を動かしている自分に気づいて、目が覚めた。

法事で帰った浜松の田舎の、草深い旧家での、午睡のひととき。
平日のこの時間帯はいつもなら繁忙の極みにあるところ。
ふと見回すと、眠る前に僕がたたき落とした蚊の死骸が、
いくつか畳の上に落ちている。
そのどれもに、小さな小さなアリがたかっていた。
縁側から続く、虫眼鏡でもないとその存在が確認できないような、
食べ物を一心に求める長い長いひとすじの列。
子供の頃と何ら変わらない光景と、
時の流れを思わずにはいられぬ祖父の遺影。

僕の生きる意味は。
僕の行く果ては。
この夢が象徴するものは。

それにしても、蚊が多いな。くそ。

飲んだくれてるぜ

2011-06-22 01:04:45 | 超・いぶたろう日記
どーもこのところの激務で(自分で言うな)、
体調を崩してしまい、微熱と頭痛に悩まされている。
こういうときは些細なことでイライラしてしまうし、
いつもだったら笑い飛ばせるようなことでも、
ものすごくストレスに感じてしまう。
まったく未熟なもので、子どものことは言えないよね。

だけど僕は酒も飲めないしタバコも吸わない、
世の中のおじさんたちが大好きな「女性とお酒を楽しむところ」にも、
まったく行く習慣がない。
ないどころか、かえってストレスになりそうだ。
いったいどこで憂さを晴らすのか、自分でもよく解らない。
解らないけども、たぶん授業じゃないかと思う。
仕事なのにね(笑)。
いや、生徒に当たり散らすということじゃないよ。
まちがっても生徒には八つ当たりしない。
というより、生徒に感情的になったらプロとして負けだと思ってる。

むしろ逆に、気持ちがふさいでいるようなときこそ、
教室でどっかんどっかん笑わせて、
自分もその流れに乗って復活しようとする、そんな感じかな。
ライブに似てる。
かつてライブは僕にとってかけがえのない発散の場だった。
リハが辛かったことはあるけど(特に後期は…)
ライブが辛かったことはない。
ライブをやると元気になれたし、前向きになれた。
人を楽しませようと一生懸命やる内に、自分が楽しくなる。
人に夢や勇気や感動やパワーやエネルギーを与え…
…なんていうのはおこがましくて自分で言いたくないけれど、
(言えちゃう人はスゴイと思う…その厚かましさが…)
結果として、
もしも僕のライブで、あるいは授業で元気になってくれる人がいたとしたら、
それはこの上なく嬉しいし光栄なことだ。
とすれば、ライブや授業を通じて、
出力エネルギーが入力エネルギーを越えてしまうことになる。
物理的には大変不思議な現象なのだね。

さて、そんな僕だけども、授業のない日はどうしたらよいだろう。
休日になるとドーっと疲れて、一日中寝ているケースも多い。
前日までは、休みになったらあれしよう、これしようと考えるのだが、
いざ休みに入るともう体が重くてダメだ。
そして僕は家でダラダラと過ごしながら、時にイライラするのだ。
毎週、嫁さんには申し訳無いなあと思う。
多分疲れて家にいる僕は、
ここを読んで下さっているどなたにも想像し得ぬ僕だ。
完全にスイッチがオフになっているときが多い。
本を読むかネットで調べ物をする以外、何もしたくなくなるのだ。
たまに睡眠、どころか呼吸すら面倒に思えるときがある。

さらに僕は極端にお人好しで、小心者な面がある。
おそらく小学生の時に徹底的に仲間はずれにされたトラウマだろう、
自分に対する周囲の感情の変化に異常に敏感なところがある。
自分が周囲に寄せるのと同等の信頼が自分に寄せられていないと不安でたまらなくなり、
かといってそれを周囲に要求することの惨めたらしさもよく解っているので、
わずかでも不信や不興を感じ取ると、距離を置こうとする悪癖がある。
人を信じたがっている人間不信とでも言おうか。

だから僕はたいていの相手とは一緒に生活していくのは難しいだろうと思っていた。
なんとかかんとか理解者に恵まれたようなもんだ。
まあ愛想尽かされなければ、の話だけどね。
どうも僕は理屈で判断し感情で行動し、矛盾も多く、
様々な不条理を呑み込んで割り切っているかと思えば、
突如不満の塊を激情に任せて吐き出したりして、
厄介なことこの上ないのだ。

実は昨日も嫁さんに、
「お前は思いやりってもんがないのか」
とやってしまったのだが、
よく考えたら思いやりが欠けているのは僕だ。
いや、正確に言えば
「思っただけで行動の伴わない」状態は思いやりがあるとは言えないだろう。
そんな自分を棚上げしているだけなのだ。

疲れに任せて感情を吐きだしたあとは、
時間さえ経てばこうして自分なりに消化できてくる。
でもその頃には鋭利な言葉のナイフで沢山傷つけたあとだろう。
言った方は気持ちが良くても、言われた方はたまらない。
それが解っているからこそ、なんだか気まずく、そして帰りづらいのだろう。
ちょっと罪滅ぼしにここでこっそり、
いや公開の場だからこそ、謝っておこう。

・・・すまん。

まったく私的な謝罪に付き合わされた読者諸兄にもスンマセン。
でも私的な話ばっかだからなあ、ここ。

そんなこんなでくたびれた僕は、
家に帰って何をするかと言えば飲んだくれるのだ。
以前は甘いものとお茶だったが、
最近はもっぱらこれだ。
画像のとおり、ジンジャーエールだ。
僕は子どもの頃からジンジャーエール党なのだ。
昔、子どもの頃、ウチにいつも出入りの酒屋さんがいて、
キリンレモンとキリンオレンジ、それに時々ジンジャーエールを持ってきてくれた。
親父が好きだったんだと思う。
親父も酒が飲めなくて、中学生か高校生くらいの時に会いに行ったとき、
バーで注文したのは「サラトガ・クーラ」だったことを覚えている。
まだネットもなかったのでそれが何だか解らず、
でも「下戸の親父でも飲める酒」だとばかり思ってこっそりメモして帰り、
ひょっとしたらド下戸の僕でも飲めるんじゃないか、と、
酒の席に出る度にしたり顔で「さらとが、くーら、ください!」
とかカッコつけて言ってみるのだが、どこにもないなんてことをくり返した。
当時の僕にとって幻の酒みたいに思えていたわけだが、
そりゃまあ、学生の僕が友達と出入りしていた飲み屋なんて、
せいぜいが北の家族とか庄屋とか天狗とか安い居酒屋ばかりだから、
出会えるわけもないのだ。

しかも、お酒じゃないしね。

バーなんかにちょこっと置いてあるときがある。
ノンアルコールカクテルなんだよね。
ジンジャーエールとライムシロップ。
でもうまいんだよ、これ。

あと、僕のこだわりをもう一つ書かせてもらえば、WILKINSON。
カナダドライよりもずっとショウガが濃くて、辛口でさ。
うまいんだよ。飲みごたえがあってさ。
緑色の独特の形した瓶に入ってるんだけど、なかなか置いてあるところ少なくてね。
結婚式の時には沢山置いてあって、二次会でがぶ飲みしたなあ。
で、なんとこれがこの度ペットボトルで出たんですよ。
贅沢を言えばあの瓶で飲みたいけれど、
(あの瓶だからまたウマイのだけども)
市販されるというので喜んで、ついつい箱買いしてしまいました。
到着3日でもう5本飲んで、あと19本です。
三十路後半で炭酸なんて、糖尿一直線かと思いきや、
意外にカロリーフリーというすばらしさ。
まあ、人工甘味料とかドカドカだろうけど。。。(笑)
いいんだよ、同じくらいハマってるのが隣に写ってる「午後ティ無糖」だから。
いままで紅茶飲料で取ってた糖分も合わせて、差し引きゼロだ。
もうひとケース買っちゃおうかなあ。

だってなんかしばらくクチ聞いてもらえそうにないし、
これから毎日ひとりで飲んだくれるんだもん、おれ。
ははは。
頼られるばかりで頼れるものもないし、理不尽なことばっかだし、
大人になるとずーっと素面でいるってのもなかなか酷だよね。
一度くらい俺も理性吹き飛ぶくらい、しこたま酔っ払ってみたいよ。

やっぱり6月は

2011-06-19 13:55:31 | 超・いぶたろう日記
毎年怒濤のような仕事に追われ、必ず体調を崩す。
一昨日あたりから微熱と頭痛でくたくただ。
「転職」が頭をちらつくのも毎年6月なんだけど、
「賞与」(といっても大した額ではないが)が出るのも6月で(笑)、
物欲にまみれた僕は福沢さんの群れ(というほどでもないが)にほだされ、
人生の転機というやつを逃し続けている(笑)。

ま、何を夢想したところでこの硬直日本、
今さらどこへ行けるわけでもなし。
でももし次に仕事を選べるなら、
ちゃんと休める仕事がいいなあと、
梅雨空の下見えない星に願いをかけるのであった。

そもそも僕はお金よりも名誉よりも、
「自分が必要とされているか」
「仕事に見合ったリスペクトを受けているか」
「自分流を貫けるか」
「そもそも仕事が楽しいか」
という条件が最優先なので、
まあたいていの職場は性に合わないわけだ。
特に僕が苦手なのは単調作業で、
レジとかコンベアとか封入作業とか気が狂いそうになる。
いや、決して見下しているワケじゃないよ。
単に僕にこらえ性がないので、すぐ飽きてたまらない苦痛になり、
まったくパフォーマンスを発揮できなくなるというだけのこと。
淡々と、粛々と、速く正確にこなしていく人を見ると、尊敬しちゃう。

そして僕が嫌いなのが、いわゆる「ビジネス書的」価値観。
時間とお金をとことん突き詰めて、数値的に満足しうる成果を追求する、
要するにケチんぼうのお金儲けだ。
ただそれだけのことに何じゃかんじゃとエラそうな理屈をつけて、
なぜか人間性にまで土足で踏み込んでお説教する。
すべてを勝ちと負けでしか判断できない。
話を聞いてみても、一生懸命話すのは
どこの会社はこういう方法でこんな成果を上げた、
どこの経営者はこういう理念でこんな手法をとった、
こんなことばかり夢中になって追いかけている。
果ては戦国武将のたとえから、幕末雄藩の内政・経営までを例に引き、
それを強引に現況に当てはめた都合のいい受け売りばかりだ。
またそれを鵜呑みにして本気で信じているヤツまでいるから始末に負えない。
僕はビジネス書とダイエット書と占いと宗教の本は一緒だと思っている。
だからそれらを信じる人も同類だと思っている。
要は自分に核がない。

少なくとも買う側じゃダメだ。
こういう本を書ける、売れる側にまわって初めてナンボなのだ。
彼らの言い分は都合がいい、けれども突き抜けている。
もう自分の方法や価値観をアタマから確信しちゃっているのだ。
そこまで行き着いてればもう好きにやって稼げばいいと思う。
それだけの自信と覚悟と研鑽をもってことにあたるなら、
まあたいていのことはある程度うまくいく。
コンサルタントとか、こういう人ばかりじゃない?
なんだか計算ずくな感じでやらしいよね。
一緒に飲み食いしながら話してても、気を許せない感じ。
誰もが気づかない、あるいは気づいてもスルーしちゃう些細なことに目をつけ、
理屈をかぶせちゃうことで「デキる人」をやりたがる。
まあ、僕は友達になろうと思わないし、
先方も僕みたいのは一番バカにしているだろうから、
接点がなくてありがたいと思うけれども。

会社や商売ごときに人生を規定されてどうする?と思う。
人生があって、どう生きるかがあって、仕事があるんじゃないか。
本質的な「仕事」ってもっと重厚な気がする。
ビジネスなんて臭みのある言葉に置き換えちゃ鼻白む感じだ。
その意味を肌で感じる人の言葉は、
経営者であってもコンサルであっても重みがある。
「仕事」は生き方に関わるプライドの結晶だが、
「ビジネス」は生き方を支配する論理と形式に過ぎない。
そんな気がしているのだ。

いずれにしても「いくら稼いだか」だけで成否を測れる仕事には、
僕はまったく向いていそうもない。
だからこそバンドであり、今の仕事なんだろう。

ここ2週間はタイヘンだった。
保護者会を3つ抱え、資料を7種類とパワポを3種類作り、
そこに人事考課、広告の原稿と校正、夏の人事配置、労務処理、
職場での調整、全社での調整、そしていつもの授業と面談。
朝までかかることも多く、床で寝てしまったこともあり、
案の定風邪を引く。さらにパフォが落ちる。
いつもなら精神的キャパも小さくなり、もう辞める~!が始まるのだが、
今年は3つのことが僕を安定させてくれた。
「とめる」「ひやす」「とじこめる」…じゃなくて(笑)。
まあ、おかげでメルトダウンしなくて済んだということではあるのだが。

ひとつ。
自宅に仕事できるスペースを作った。
転居してから、自宅に仕事を持ち込みたくなくて、
ずっと簡便なパソコンデスクしかなかったのだが、
さすがに作業スペースに困り、また長時間やってると疲れて仕方ないので、
デスクとチェアを思い切って買った。
これが、いい。
環境って大事だ。
いつまでも職場に残っていてもウダウダとしてしまうので、
さっさと切り上げてまずは帰宅する。
やるべきことだけを自宅で片付ける。
すると余計なことにも気が向かなくて、スッキリする。
終わったらすぐ寝られるし。
これも大事だよね。
夜中の3時とか4時に職場で仕事終わっても、
これから帰るというのがもうおっくうで、だらだらしてしまう。

ふたつ。
職場のスタッフが充実し、僕がすべて一手に抱えなくても良くなったこと。
これは実に助かっている。
ひとりは僕の先輩なのだが、そんなこと関係なしに僕をもり立ててくれるし、
二人三脚で教室を盛り上げてくれようとしているパワフルな人。
ひとりは僕のサブとして、実に高い能力と見識を備えていながら、
たいへん謙虚でさわやかな人。
他にも生徒や保護者に熱意を持ってあたれるスタッフが数人いて、
なんでもかんでも室長サマに上げておけ(=おしつけちゃえ)、
という状況じゃなくなった。
これは素晴らしいことだ。
おかげで僕も死ななくて済み、もっと別の新しいことにも取りかかれるようになった。

みっつ。
これが一番大きいのだけど。
どの保護者の方と面談しても、生徒の信頼を語って下さる。
これが僕には最高の報酬なのだが、
生徒たちはただ面白いというだけじゃなくて、
それ以上のものを感じてくれているようだ。
中でも、中学受験を控えた小6の子で、
なかなか志望校が決まらないというところで、
「先生(僕)のような先生がいる学校がいい」
と言ってくれていた子がいたということ。
僕にはそんなこと言ったこともないのに、家ではそんな風に言ってくれていた。
これは大切に心にしまっておこうと思った…のだが、
嬉しすぎてつい書いてしまった(笑)。
他に、親も学校も周囲の大人がみんな信じられなかった時期に、
あの先生のことだけは信頼してた、
なんて話を人づてに聞けると、もうたまらない。
そんなそぶりも特になく、面と向かっては何を言うこともなかった子が、
周囲にそっと漏らした感想。ここにウソはないだろう。
僕自身も特別その子にだけ何かをしたというわけじゃない。
他の子と同じように相談があれば応え、
誠実に、だけど自然体で接してきただけだ。
だから、嬉しい。
この仕事をやっていて良かったと実感する。
しかも彼らとの関係は一生ものだ。
今後どう成長していくのか、将来どんな形で彼らと交差できるのか、
それが楽しみでしょうがない。

売上や株価ばかりを気にしている人たちには、決してわからない情動だろう。
それでいい、と思う。
この仕事は何物にも代え難い。
これを「ビジネス」ととらえたらこんな歓びは得られなくなるだろうし、
これを「労働」ととらえれば、あまりにも不釣り合いな時間や労力と賃金のバランスに、
お前そんな安い給料でこき使われてるのか、ということになるだろう。
これは僕の「仕事」だ。
僕の仕事は、誰にも換えのきかないものだ。
この揺るがない誇りの前には、勝ち組も負け組もどうでもいいのだ。
「お前たちとは話にならない」のだ(笑)。

僕の仕事は、僕なのだ。

久しぶりに2

2011-06-06 19:04:27 | 超・いぶたろう日記
カラオケに行ってきた(笑)。
しかもおそらく史上初の家族カラオケ。
一緒に住んでいるときはこんなこと考えられなかったのだが、
家族それぞれに居を構えて普段なかなか会えないでいると、
こういうコミュニケーションも成り立つのか、と笑えてくる。

弟の歌は昔、
ファミリーマートで一緒にバイトしてた時代によく打ち上げで聞いていた。
僕と対照的にパンク系をバカっぽく歌うのが実にうまい(笑)。

妹の歌もこれまた昔、
大学のサークルが一緒だったので、ヤツのバンドのライブを何度も見ている。
ちなみにここでギターを弾いていたのがシュンスケだ(笑)。
兄弟で最もキーが低いというおもしろ設定。
得意はバラード系だね。

そして母の歌というのは初めて聞いた。
いや鼻歌レベルならしょっちゅう聞いてはいたが、
マイクを通してとなるとこれが何と初。
元女子アナウンサーにして、
いまの職場でもカラオケ大会で営業所の準優勝を勝ち取ったという美声。

というわけで、
けっこう素人にしては完成度の高いカラオケ大会になっているのだ(笑)。

僕は今回、本当に久しぶりに歌った。結婚式以来じゃないかな。
2月に会社の送別会で1曲歌ったか。
こんどRebirthのリハが再開することになって、再来週にその第1回が待っているのだけど、
それに向けてのリハビリもかねて、大いに歌ってみました。

そしてなんだか書きたくなる何歌ったかリスト。
本当に私的の極みでどうでもいい情報なんだけども。

・勝手にしやがれ/沢田研二
・ダンシング・オールナイト/もんたよしのり
・cat's eye/杏里
・シングル・アゲイン/竹内まりや
・シルエット・ロマンス/大橋純子
・わたしの城下町/小柳ルミ子
・夏をあきらめて/研ナオコ
・あの日に帰りたい/松任谷由実
・時の過ぎゆくままに/沢田研二

なんと90年代以降が1曲もないという徹底したアナクロぶり(笑)。
そう、僕は平成に入ってからの日本の音楽シーンをほとんど評価していないのだ。
ガンコオヤジぶりも極まれりと言ったところか。

久しぶりのカラオケは実に気持ちが良かった。
やっぱり歌うのはいいね。
しかし僕が歌うと、どんな名曲もメタルになってしまう(笑)というのは相変わらずで、
もうちょっと年齢にあった抽斗の拾い感じにならんかなと嘆く。
まあ練習も何もしてないんだからどうしょうもないが。

次のRebirthではなんかカバーしようかな。
幸い、声はまだまだ出るので大事にしていこうと思う。
それにしてはリハの頻度が少なすぎるので、
誰かホントに、一緒にカラオケ行ってくんない?
サークル立ち上げようぜまじで。

久しぶりに

2011-06-06 06:34:42 | 超・いぶたろう日記
家族の集まりで銀座へ向かった。
母、弟、妹と中華を楽しむ。
最近、ずっと東北の惨状を伝えるニュースばかり見てきたから、
こうしてごく当たり前に家族揃って食事などできることの幸福を思わずにはいられない。

既存マスコミが大衆受けする「首相叩き」ばかりに奔走する中、
一方では政府による情報の隠蔽や操作が次々と明るみに出て、
この国は国民を守ろうという意志や責任感が皆無であることが確認された。
無責任・無節操な議員・閣僚・官僚は口を揃えて
「パニックを避けた」「混乱があった」と言い逃れ、
あまつさえ
「隠蔽の意図はなかったが、公開する発想がなかった」
という世紀の詭弁を生み出した。

呆れてものも言えないが、言わないのもシャクなのでやはり言うが、
情報は人を生かしも殺しもする。
ましてや放射能の漏出・拡散状況など、言わずもがなだ。
「安全だけど念のため」「直ちに害はない」をくり返して避難を遅らせ、
助かる命も見殺しにしたのは誰なのか。
巨額の税金を投入したSPEEDIによる拡散予測も肝心なときにひた隠しにされ、
「予測」を後から公開するという意味のなさ。
何らの情報も与えられないまま、
放射能帯が色濃く伸びる北西方面に避難した妊婦や若い母親はいなかったのだろうか。

政府がどんな言い訳をしようとも、
国民の命を救うための情報を提供しなかったのだから、
そこには未必の故意があると言うべきだ。

つまり、日本政府は関係閣僚も省庁もひとり残らず人殺しだ。
東電や菅首相にだけ責任をフォーカスするのは、目くらましだ。

いますぐに死者が出るわけではないのをいいことに、
放射能に害はない、むしろ健康にいい、原発も安全だ、
などと妄言を吐く手合いが出てきたことには辟易する。
彼らの目的はいったい。
回復不可能な汚染を許容してまで、原発利権にまつわる金が欲しいのか。
今回の事故でどれほどのものが失われたか、
そもそも、事故は過去形ですらないのだ。
いまだに、何ら収束に向かっての道筋は描けていないのだ。
いまやチェルノブイリとの比較すら憚られるような、最悪の事態じゃないか。
この状況下で政権を争おうというのだから、本当にどうかしている。
もはやこの国の統治機構の何も信じるわけにはいかなくなった。
自分の身は自分で守るしか、ない。
そのためにも情報はあらゆる手段で集めなければならない。

自民党門前仲町で都営線に乗り換える。
ホームは「節電」で薄暗い。
そして、僕は奇妙な光景を目にする。
冒頭の写真だ。

・・・あれ? 開いてる。

これは…転落防止用の開閉扉ではなかったか。
まさかこれすらも「節電」で止めたというのか。
ということはつまりあれか。
「人命よりも節電を優先した」ということか?

何も僕はここで人命第一なんて安直なヒューマニズムを振りかざそうというのではない。
日本の建前文化のいやらしさの根底を見た気がしたのだ。
「ああ、やっぱりその程度の覚悟だったわけね」と。

日本人は「安全」が大好きだ。
しかも自分が注意するということ以上に、他人に保護を要求するという面において。
公園の遊具は点検しろ、山奥のフェンスも確認しろ、
回転ドアは動かすな、こんにゃくゼリーは売るな、刃物も売るな。
どうかしている。
危険を自覚して、あるいは察知して、身を守ろうという発想がない。
すべて他人のせいにするのだ。
だから、公共物を扱う企業や自治体は戦々恐々だ。

で、そんな流れでこんなものができたりする。
普通、ホームから落ちるか???
線路があって、電車が通るなら、危険なのは決まっている。
でも、ホームの端には近寄らないというだけで防げることだ。
それを馬鹿丁寧に電車の扉に連動して開閉するフェンスまでつけちゃって、
どれほど過保護なんだか。
そのくせ、「節電」ということになるといの一番に止める。
人命尊重の建前ぶり、イメージ先行ぶりが暴かれちゃう。
この節操のなさがイヤなのだ。

開きっぱなしのフェンスにはさすがに気が引けたのか、
ホームにはガードマンが配置されていた。
じゃあ、最初からそうしろよ、という話だ。

だいたい、この「節電」自体眉唾だ。
15%削減の一律強制なんて、どう考えても理不尽だ。
どうせあの政府のことだ。根拠なんかないはずだ。
「混乱を嫌って」業界ごとの配慮もサボっただけだろう。
中日新聞に拠れば、関東地方でも電力は不足しないというぞ。
出力380万KWの福島広野火力発電所が復旧し、
今夏の予想ピーク需要、5500万KWの供給は確保できたハズじゃないか。
電力不足を大々的にうたって、要は原発やめたくないだけだろう。
節電は悪いことじゃないが、動機が不純だ。

そんなことのために、国民は扇風機でガマンし、
病人は薄暗い部屋で治療を受け、老人は階段を登らなければならないのか。
何か、本質的なところが完璧に間違っているんじゃないか。

この国は本当にどうかしている。
思考停止の塊だ。
かくいう僕もあまりの失望に考えるのを停め、
家族とのひとときを楽しむことだけに専念したのだった。

僕にはもう、身の回りの人間を思いやることくらいしか、できない。