いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

「焼畑」の後始末

2023-04-18 10:53:33 | 特選いぶたろう日記
「アフターコロナ」を語るにはそれでもまだ早いと思うのだが、3年経って少しずつ世の中が落ち着きを取り戻そうとしている中で、思うところあり。

専門家的にはどうなんでしょう、
これは収束に向かっていると言えるのだろうか。
2類から5類に変わったといっても、
感染がなくなったわけではないし、
ウイルスが弱体化したとも思えない。
報道しなくなった、
あるいはカウントさえしなくなるというだけで、「ある」ものを「ない」ことにする、
つまりは日本人の得意な「臭い物には蓋」に過ぎないのではないかと思えてしまう。

所詮は人間の集中力や我慢なんて3年も保たないのだろう。恋愛だって4年が限界だとかいう説を聞いたことがある。
いま思うとコロナは全世界的な災厄だったと同時に、ある種の人々には熱狂的なお祭りでもあった。
いかにもこの事態を予見していたかのように語る人、
「グレートリセット」に期待してる人、
感染拡大の真っ只中にあって「コロナ後の新世界」を夢見る人、いろいろだ。

彼らに共通しているのは、
「自分や自分の周りでは誰も死ななかった」というただの幸運に乗っかって、
実際に家族や友人を喪い、生活を脅かされている人のことなどお構いなしに、
自己承認欲求でしかない手前勝手な理想論を押しつけてきたことだ。
さらに言えば、誰もあの頃の、
「ぼくのかんがえたさいきょうのあふたーころな」放言について、
検証もしていなければ責任も取ろうとしていない。
彼らが期待したほどに劇的な変化もなく、
ぬるーっと戻ってくる強力な日常性バイアスのもと、
彼らは無言でしれーっとそこに溶け込んでいる。

だから、言ったのにな、と思う。
世の中のすべてをビジネスの契機としてとらえるものの見方は、いかにもやり手感があってもてはやされてもいるけれども、何のことはない、実際には競馬の予想屋と大差ない。
そこにまだ何らかの一貫した美学・哲学、あるいは覚悟があるのなら、
ひとつの世界も構築できようが、その場その場のインスタントな思いつきを、
さも独自の分析で、自分だけが見抜いた真相あるいは未来かのように語り、
「ぼくってすごいでしょ?」を触れ回るだけなのだから、
消費期限もまたスーパーの広告チラシなみに早い。

あの頃、混乱する世の中を尻目に、
意気揚々と自らの「慧眼」と「新世界」とを語っていた連中は、
みんな最初だけで、3年も保たず、
次々と口に糊するためのネタに移っていったじゃないか。
いまや、みーんなダンマリだ。
一方で、この間ずっと真面目に発信し続けてきた、
医師や研究者たちはどんな思いでいるだろう。

僕の周囲では感染はあったけれども、幸いにして重篤なことにはならなかった。
本当に幸運だったと思う。
だから、この程度の筆致で済んでいるけれども、
もし僕の家族や友人にコロナで亡くなった人がいたら、
僕はああした連中を心情的に許せなかっただろうなと思う。

つくづく思う、コロナのような人の生死に関わる問題について、
何らの覚悟も知識的裏づけも持ち合わせない人間が、
自らの知的アクセサリに利用したいばかりに、
勝手に「現状分析」や「未来の予見」なんかを放言するのは、
実にまったくロクデモナイことだと。

まったく、三浦瑠麗かおまえらは。

姉のこと

2022-01-02 23:47:09 | 特選いぶたろう日記
楽しく和やかな年越しもあっという間。
新年3日からの「正月特訓」に合わせ、帰路につこうかというその直前のこと。
読んだ本を棚にしまおうとガラス戸を開けたところに、
一冊の古いアルバムが目の前にとん、と落ちて来た。
果たしてそれは、生まれてすぐに亡くなった姉の、
たった2年間の生涯を綴ったアルバムだった。

先天性の病気で、2年どころか1日でさえも危ういと言われていたのが、
奇跡的に小さな命を繋いだ姉。
小さな小さな身体に何度も大きな手術をして、
その都度父母は身を削られるような思いでいただろう。

僕に姉がいたことはもちろん知っていた。
わずかな間だけれど、僕は弟として一緒に過ごしてもいる。
でも、僕の知る姉は父母の話の中だけにいる、黒く縁取られた写真の赤ちゃんだ。
僕が生後9ヶ月の頃に亡くなったのだから無理もないけれど、
悲しいくらい記憶には残っていない。

少しでも姉のいた跡を、証を残そうとしたかのように、
父母は何度となく問わず語りに姉の話をしてくれた。
姉弟で収まった貴重な写真も残してくれた。

間違いなく僕には姉がいた。でも記憶にはない。
幼い頃はそれがとても不思議で仕方なかった。
お墓参りでも法要でも、もちろん厳粛な気持ちではいたけれど、
悲しいとか寂しいとかそういう感情は抱きようがなかった。
僕もあまりに幼かった。

でも、いまならわかる。
父母の気持ちが、痛いほどわかる。
姉の想いまでもが、わかる気がする。

アルバムにはあちらこちらに、
娘の延命をひたすらに願う父母の精一杯の笑顔と前向きなメッセージが綴られていて、
もう堪らなかった。
僕だったら、娘だったら。そう思わずにはいられない。
気がつくと不覚にも涙がこぼれた。

アルバムの最後は姉の遺影の前に母と座る僕と、痛々しいほどに真新しい仏壇の写真。
そこで終わっていた。
あとは巻末まで数ページ、何もない。
姉と僕の写真で埋め尽くされるはずだったページ。
姉は一冊のアルバムさえ埋められずに逝ってしまった。

初めての子供で、初めての孫で、どれほど辛かったろうかと思う。
その中で僕が生まれて来て、どれほど希望になっただろうか。
姉の「代わり」は誰にもできないけれど、赤ん坊は眩しいくらいの希望の塊だ。
僕がそこに一人いるだけで、深い悲しみの闇に飲みこまれそうな家の中を、
父母の心を、一筋の光で照らしていたのではなかったか。

本当に幸いなことに、ここまで僕の子供たちは大禍なく過ごせている。
きっと姉が見守ってくれているのだろうと思うことにする。
神も仏も信じない僕だけれど、家族や親族の想いは信じる。

本当に図ったように目の前に落ちて来たアルバム。
あんたもちょっと自分の身体をいたわんなさい、
もうパパなんだからね、あんた一人の体じゃないんだからね、
と姉に諭されたような気さえする。

コン猿

2021-05-28 22:45:02 | 特選いぶたろう日記
コンサル型思考というのか、何でもカテゴライズして、
お手軽にわかった気になっちゃう・させちゃうという手法に馴染めないでいる。
あの、すぐマトリクスとか書いちゃうやつ。

たしかに、多くの事象から共通点や質的な差を見いだし、
分類するというのは思考の整理には役立つ。
でもそれは主観的な印象やわずかな例外にとらわれず、
全体の大きな傾向を俯瞰してみるためのものであるはずだ。
マクロとミクロのバランスをとり、現時点でのより良い判断を導くための、
あくまでも途中経過であるはずだ。

なのに、それがあたかも完成された結論であるかのような、
万能の法則かのような錯覚に囚われている人が多いように感じる。
どんなことでも強引にいくつかのパターンやカテゴリーに振り分け、
「ああ〜○○タイプだね〜」などとわかった風な口を利く。
そしてそれ以上、対象を観察しない。
対象の言い分にも耳を貸さない。
自分の結論ありきになってしまう。

血液型占い(僕はこれが大嫌いなのだが)を思い浮かべるとわかりやすい。
何かあるとすぐしたり顔「ああ〜B型だね!」を言ってくるアレ。
だから君はこうなんだ、きっとこうでしょう、あの人もこの人も…などと、
自分の周囲数人に対する勝手な主観をぐいぐい押しつけてくる。
否定しても、わかってないんだな〜という顔をする。
反論すると「ま、考えは色々…」とお茶を濁す。
結局その程度なのだ。

自分で真剣に考えた分類ならば、絶えず例外的な事象にも目を配るべきで、
それが複数見つかったなら、そもそものカテゴライズの基準を見直すべきだろう。
そうして常に修正を繰り返していくからこそ、
正しい思考やものの見方につながっていくわけで、
牽強付会に当てはめていくだけというのはむしろ思考の硬直化でしかない。

もっとも、硬直しているからこそ、数年経てば陳腐化するわけで、
そしたらまた次の「公式」を売ればいい、
というのがコンサルの飯のタネでありビジネス書なのかもしれないが。
またそれをありがたがる人の多いこと。
他人のフンドシをそのまま…というのは、
もはや発見でも学びでも気づきでもなく、ただの信仰ではないのか。

とはいえ、僕のこういうコンサルに対する偏見、
あるいは無理解もまた是正されていくべきなのだろう。
しかし残念なことにいまだそういう言説・事例・人材・機会に恵まれない。

ただ、僕が知らないだけで、
本当のプロのコンサルタントはこんな低レベルな批判は当たらないだろうし、
コンサルに対する一般的な偏見や先入観も計算に入れて、
巧みなプレゼンや提言をするのだろう。
僕がイヤなのはコンサルタントという職業そのものでは決してない。
職業を問わず、そうした超一流のプロの仕事を安易に劣化コピペして、
あたかも自分に憑依させたかのごとく、人に説教して悦に入る、
自称コンサルタイプの人間が嫌いなのだろう。

でもそれは、塾講師にだって大いに当てはまるところではないだろうか。
…という自虐自戒だったりして。

誕生日前日に思う

2021-02-05 02:50:01 | 特選いぶたろう日記
僕も明日で46歳になる。
自分で書いてて、これが自分の年齢だなんて信じられない思いがする。
若ぶりたいわけじゃなくて、しっかり加齢も老化も体感しているのだが(笑)、
いつのまにやら、こんなに遠くまで来てしまったのか、という感慨。
四捨五入すれば50ですからね。
なんともはや。

そして、46歳と言えば。
僕が塾業界に飛び込んだ28歳のとき、
僕に塾屋のイロハを叩き込んだ師匠ともいうべき人物がいたのだが、
彼がちょうどその頃46歳だったと記憶している。
そうだ、あの頃の彼に追いついてしまったのだ。

当時の「師匠」は、数年前に本社内の派閥争いに敗れ「僻地」の教室に飛ばされていた。
大手塾の進出で青息吐息となっていたところを押しつけられたのだが、
そこで自己流経営で数字を積み上げ、ついには社内随一の売上に達し、
かつてのライバルや上役が結果を出せないでいることに業を煮やし、
経営の傾いた本社から自分の教室を分社し、大きな利益をあげるようになっていた。
つまりはバリバリのやり手運営者だ。

僕はなぜか初回の面接から彼と気が合い、ロクな経験もないのに採用された。
何も知らない僕に、授業のやり方、生徒や保護者との接し方から、
教室運営やマネジメントの基本まで、すべてを叩き込んでくれた。
どれも実に理に適っていて、目からうろこが落ちるような教えばかりだった。
彼を信頼する保護者や生徒も多く、その授業や保護者会は欠かさず見学して、
一言一句聞き逃すまいと詳細なメモを取りながら自分の血肉にしていった。
僕という塾講師の原型は間違いなくこの師匠によってつくられたと思う。

彼もまた僕という弟子を得て、いずれは後継者にと心に決めたようだった。
毎日のように質問・相談に来る弟子に、ひとつひとつ熱心に教えを授けた。
しょっちゅう一緒に食事に行き、真夜中まで語り合いもした。
笑いこけたこともあるし、ピンチには庇ってもらったこともあるし、
また時には何かと過剰な僕を真剣に叱ってくれもした。
あの頃のことはそう悪くない思い出だ。

一時期の僕は心から彼を尊敬していた。
底知れぬ読書量を感じさせる幅広い知識と深い教養。
どんな相手にも誠実に言葉を尽くし、理を尽くす。
感情的になることも少なく、自分をコントロールすることにも長けていた。
生徒・保護者から信頼と尊敬を集めているのも納得できた。
彼のようになりたいとも思っていた。

それが、あるときから少しずつ軋み始め、やがては崩れ落ちることになった。
きっかけは、お互いの立場の変化。
分社化して独立独歩としたはいいが、どの分社も大赤字。
そんな中でウチの分社だけが独走状態。
ついに本社も他の分社もウチに頭を下げる形で再統合。
師匠は新しく設立された統合全社の社長となった。
そして僕は彼の後継としていまや旗艦校となった教室を任された。
2008年のことだったと思う。

「僕が社長になったら、流儀の違う様々な教室をまとめて引っ張っていかなければならないし、いままでよりも多くの人が色んなことを言ってくるようになる。だけど『社長』に対しては本音でものを言う人も少なくなる。面従腹背もあるだろう。君の目から見て、これはおかしいと思うようなことがあれば、遠慮なく言って欲しい。君はそれができると思う」

そんな言葉があったことをハッキリ覚えている。
それまで二人三脚で教室を大きくしてきたことを思うと、
関係性が変わっていくことに一抹の寂しさはあったが、
そこまで信頼してくれているのかと嬉しくもあった。
これからも期待に応えようと思っていた。

でも、経営者という立場は、やはり違うのだろう。
こうでなければならない、こうしなければならない、
決めるばかりでなく進めていかねばならない。
何より、結果を出さなければならない。
そんな中で、少しずつ彼の有り様は変質していった。
成果を焦ったのか、思うに任せぬ社内政治に苛立ったのか、
柔軟で理性的な師匠はいつしか、頑固で尊大なワンマン経営者に変貌した。

古くて、固くて、面倒で、結果も伴わない施策を問答無用でゴリ押ししてくる。
会議では毎回同じ自慢話と昔話とマウンティングが延々と続く。
かつてあれほど深慮だった人が、短気で傲慢になっていった。
異論や提言にも耳を貸さなくなり、イエスマンで周囲を固めていった。
くだらない人間の讒言を信じ、気に入らない人間は排除していった。
周囲にあることないこと吹き込んで、孤立させるという陰湿なやり方で。
彼を古くから知る人に言わせれば、それは以前から、ということだったが。

やがてその標的は、ついに僕に向けられた。
僕はただ、社員が安心して働ける環境を整えようと言っただけだ。
社保もなく、残業手当もなく、休日も無給で削られるブラックな就労環境に、
有望な人材がいつまでも残ってくれるわけがない。
不安を訴える若手社員の声を役員会に代弁しただけだ。

彼との約束を、僕は愚直に果たしていただけだ。

最後の年、僕は一年を通じてそれはそれは陰湿な厭がらせを受け続けた。
もうそれはここで書いたことがあるから割愛するが、
僕はずっと不思議でたまらなかった。
あれほど聡明に思えた人が、ここまで狭量で頑迷で暗愚になってしまうのは、
いったいどういうわけなんだ、と。

加齢とはかくも残酷に人の才能を蝕むのか?
それとも誰からも叱咤・非難されない「立場が人をつくる」のか?
その両方が、エゴ剥き出しの自分を客観的に省みる眼を曇らせるのか?

彼の本当の人間性が、僕に見抜けなかっただけかも知れない。
でも、少なくとも五十代半ばの彼は、もう出会った頃とは別人のようだった。
温和な表情をつくり、人の話を聞いているような素振りはするが、
アタマの中は次に何を言おうかでいっぱい。
揚げ足を取り、弱みを突き、自らの誤謬は少しも認めない。
そして最後に彼に会ったとき、彼は僕にこう言い放った。

「僕の経営している会社で、意見は聞くが反論は許さない」
「不満があるなら辞めてもらって構わない、『職業選択の自由』だよ」
「別に誰が辞めたって痛くもなんともないんだ」
「でも君がよそへ行ったところで、絶対にうまくいかないよ」

彼は僕に危機感を煽り、何クソという反骨を期待したのかもしれない。
でもここで、僕の腹は半ば決まったようなものだ。
完全に逆効果。ドッチラケ。
それまで、僕を育ててくれた恩義を感じて、
どんな長時間労働や安い給料にも不満を漏らさず尽くしてきたが、
すべてが虚しくなった瞬間だった。
僕が信頼していたあの人は、もうそこには居なかった。

かつての僕は、彼に認めてもらいたい、その一念で頑張っていた。
でも、その彼はもういない。
そして僕の仕事のモチベーションは、既に彼などではなく、
僕自身の精一杯の仕事を通じて僕を信頼してくれるようになった、
数多くの生徒であり保護者であり同僚たちになっていた。

長年尽くした教室からの異動命令が出るに到って、僕の選択肢はひとつしかなかった。
あれからもうすぐ7年。
何も間違っていなかったし、本当に良かったと思っている。
喪うものは何もなく、得るものばかりの7年間だった。

そしていま。
僕はあの頃と同じ位の規模の教室を経営する立場となり、
そしてあの頃の彼と同じ年齢を迎えようとしている。
そろそろ僕も後継の育成を考え始めてもいい頃だ。
いまの僕の教室に、あの頃の僕のような人材は入ってくるだろうか。
入ってきてくれたとして、彼の眼にいまの僕はどう映るだろうか。
僕は歳を重ねても、立場が変わっても、いまの僕のままでいられるだろうか。

独善を押し通し、まつろわぬものを次々と切り捨てていった果てに、
思考を止めて言われるがまま従うしか能のない木偶人形ばかりが残り、
やがてどうにもならなくなって泥船のように沈んでいったあの会社を、
彼は何の責任もとることなく、恥も外聞もなく投げ出したという。
本当に、かつて師と仰いだ自分の不明が恥ずかしい。

僕は彼のようにだけはならない。
そんな誓いを新たにする、46歳の春。

受験と麻布と僕の仕事。

2020-10-20 00:56:06 | 特選いぶたろう日記
ちょっと考える機会があったので、思うところをとりとめもなく書く。
書き出してみたら超絶に長くなった。

僕は仕事柄、友人知人やその場に居合わせた人などから、
勉強や進路、受験に関する相談を受けることが多い。
特に中学受験については、
親が関与する割合が高校や大学の受験よりもずっと高く、
「親の受験」と言われるだけあって悩みは深い。

万人に効果的な必勝法や唯一の正解などあるはずもない。
親御さんもそれは百も承知で、それでも藁をもすがる気持ちで、
何か少しでも得られるものがあれば…と、
僕なんかの話でも聞いてみたいと思われるのだろう。

僕も数多くの受験生や保護者と関わってきたし、その気持ちは痛いほどわかる。
まして自分が親の立場になったいまでは尚更だ。
だからあまり差し出がましくならない程度に、
求められる範囲でセカンドオピニオンを提供するが、
それもできるだけ誠実に応えようと心がけている。

さて、僕は塾で仕事を始めたときに、ひとつ腐心したことがある。
それは何かと言えば「麻布風を吹かさない」こと。

麻布出身であることを品質保証書のように利用し、
講師としての箔付けに使おうと思えば使えたかもしれない。
でも僕はそれをしなかった。
そしてそれは間違っていなかったと確信に到っている。

麻布出身ということで、好むと好まぬとにかかわらず、
中学受験では成功した部類にカテゴライズされてしまう。
すると教育業に就いてない門外漢であっても、
受験生を抱えた親御さんから、
「昔の経験からアドバイスを…」なんて求められる機会も少なくない。
でも僕はたぶんこの仕事をやっていなかったら、
面映ゆくてアドバイスなど到底できなかったと思う。

僕は勉強自体そんなに真面目にやらなかったし、
成績はずっと低空飛行で、東大でも官僚でもない、雑草系OBだ。
中学受験がうまくいったのは、
小学校が大嫌いでとにかくここから離れたい、
楽しい学校へ行きたいという一念が実ったものだったし、
竹刀片手の鬼のように恐ろしい先生の(でも授業はたまらなく魅力的な)塾で
鍛えに鍛えてもらったおかげだ。

だからあまり自分の知能だとか、
特殊能力の証明だとかみたいには捉えていない。
素直にただ、入れてもらえてラッキーだったなとは思う。

でも麻布が大したことないなんて、これっぽっちも思わない。
先輩後輩や同期にはもの凄い人たちが綺羅星の如くいて、
麻布のブランドみたいなものは彼らが担保しているものだ。
たまたま一時期在学したからといって、
僕なんかが謙遜でも母校を卑しめるようなことは言いたくない。
大したことないのは僕個人であって、麻布という学校はやはり凄いところだ。

もちろんいちOBとしても、麻布は素晴らしい学校だったと思う。
小学校で屈託して失望していた僕を蘇らせてくれたのは間違いなく麻布だった。
偏差値だとか知名度には関係なく、
あんなに楽しく素敵な学校で、
仲間達とこれ以上ない六年間を過ごせたという事実が、
僕にとってはいつまでも支えであり、ささやかな誇りなのだ。

でもそれは人と比較対照して、
どちらが上か下かみたいなくだらない競り合いをするためのものじゃない。
上から目線でものを言うための印籠でもない。そんなのじゃあり得ない。

当たり前のことを言うが、
麻布出身といってもそれだけで有能異才の証左にはなり得ないし、
ましてや全人格が肯定されるはずもない。

僕の認識では、33年前に行われたたった一度きりのペーパーテスト、
そこに集まった1000名弱の受験生の中で、
たまたま300番以内に入れた、ただそれだけのことだと思っている。

一年違えば問題も違うし、当然結果も違うだろう。
その日他校を受けた何人かが、
もし麻布を受けていたら僕も不合格だったかもしれない。

もちろんその「たった一度きり」の重みは承知しているが、
僕が言いたいのは、
それだけのことで麻布という学校が百年以上にわたって紡いできた歴史や伝統、
超が付くほど非凡な同門達の築き上げたものを、
すべて自分の能力の証明のように使うのは大いに憚られるということだ。

思えば、たった一度のテストの結果でしかないものを、
いつまでも振りかざして何らかの権威みたいに振る舞うのは、
とても恥ずかしいことではないか。
たとえば小学生時代に絵とかピアノとかで全国大会入賞した人が、
いつまでもそれを自慢するだろうか。
あまつさえ、美術や音楽について一端の顔をして語るだろうか。
それを人はどう思うだろうか。

麻布生には、母校が本当にいつまでも大好きな人が多い。僕だってそうだ。
麻布生が麻布を語り出すと止まらない。
たとえ家族がまた始まったとイヤな顔をしていても(笑)。

おおよそ型にはまらない多種多様な、それでいてまったく遠慮のない、
雑多で鋭利で広大で深遠で早口で多弁でしつこくて、
そしてちょっと下品なトークや議論の応酬は、
他では味わえない刺激的なものだ。しかもたまらなく懐かしい。
数時間が経つと疲れてきて、
ああそうだこいつら最高に面白いけどメンドクサイんだった…と毎度思い出す。
そんな予定調和も含めて貴重なレガシーだ。

そしてみんなクチではボロカス言いながら、
心の中では世界一の学校、世界一の仲間だと思っている。
だからこそ、知人に、子供に、みんなに勧めたくなってしまうのだ。
まったくの善意100%で。

したがって、麻布生が受験にクチを出し始めると、
これはとても厄介なことになる。

同期の3分の1が東大に入り、
医者・弁護士が両手の指に足りないほどズラリ揃う麻布にあっては、
自然と「それが普通」かのような錯覚に囚われてしまう。
まして麻布は「偏差値的にまったく届いてなかった」受験生が、
なぜか受かってしまうことが少なくなく、
また入学後も勉強なんて全然しなくて、
模試判定なんかもドン底レベルで酷かったハズが、
なぜか気がつくと東大にいる…なんていうことが、
かなり頻繁に起こってたりする。

そして麻布生はそれらをまったく、本気も本気で、
「スゴイこと」だとは認識していない
あらゆることに対して「やりゃ何とかなるんじゃね?」を、
極めてナチュラルに信じ込んでいる。

そう。ここまで読んで思われたであろう通り、
実は天然ですごくイヤミな人たちなのだ(笑)。
本人達はまったく、悪気もなければひけらかすつもりもない。
ましてやそれがイヤミに響くなんてことは夢にも思わない。
ただ良かれと思って、
「やりもしないで無理だと決めつけるのはおかしい」
ということを力説しているだけなのだ。

ただそれは、ある意味ではとても正しいことだと思うけれど、
ある意味では残酷な主張でもある。

これは運も才能もズバ抜けて、
人並ならぬ努力を重ねたようなプロ野球の一線級投手が、
「頑張れば誰でも150km/hくらい出せるだろ」と言うような話なのだ。
自分たちにとっての「当たり前」は、世間一般の当たり前では決してなく、
どんなに頑張ってもそれは叶えられない人がほとんどだ。
それはもちろん麻布に限った話ではなくて、
他の難関校でも、あるいは芸術でもスポーツでも、
みんなそういうものだろう。

それなのに嗚呼、我が麻布生は、
「勉強しかできないヤツは格好悪い」みたいな美学を敷衍して、
やりたいことをやり尽くし、遊びたいだけ遊び呆け、
「どれだけヒドイ状況から」
「当たり前のような顔で」
「リカバリーできるか」という、
極めて歪なチキンレースを伝統芸としてしまった。

そして一般社会では奇蹟と語られるような「底辺からの大逆転劇」が、
麻布生の身近ではあまりにも多すぎて、
その特殊さに無自覚になってしまった。
あるいは気づいていても無視するようになってもしまった。

種明かしをしてしまえば、
自分たちが言うほどに「底辺」などではなかったということだ。
気まぐれなサラブレッドの良血馬が、レースによって手を抜いていたのを、
天皇賞やダービーだけさらってくようなものだ。
実にイヤミな話だ。また当人が無自覚であればあるほどに。

それが僕がよくクチにするところの、「麻布生の奥さんは麻布が嫌い」や、
よく聞かれる「息子を麻布に入れようとしてぶつかってしまう」ことの、
大きな遠因ではないかと思っている。たぶんこれ核心。

だから僕は、塾で仕事を始めて1〜2年経った頃からだろうか、
徹底的にこの「臭み」を消すことを意識した。
麻布生が何ら悪びれもせずついクチにしてしまう、
「麻布受けてみろよ」
「東大だって入れるよ」
というアレは、ほぼ99.9%
「そりゃアンタだからでしょ」という反感しか買わない。

勉強というフィールドで我が子の限界が見えてしまう、
それは親としてはとても辛いことだ。
それでも、少しでも良いと思える進学先について、
相談したいとやってくる保護者に、
「麻布はイイですよ〜、僕なんかねぇ〜」なんていう話は、
神経を逆撫でするだけのものにしかならない。

だのに麻布生は、よせばいいのに、
そうじゃないんだとあれこれ理屈を並べて、

「麻布目指してみたら?」
「麻布はただの進学校じゃない」
「おれなんて偏差値○○から合格した」
「ある程度以上の学校に行かないと、価値ある人間関係が得られない」
「おれは実際、麻布でこんなに落ちこぼれていたが…同期との絆が…」

みたいな話を、相手の表情にも気づかず、しつっこく力説してしまう(笑)。
繰り返すがあくまでも善意で。

「おれは」という話が多いことにも要注意だ。
深夜の飲み屋ならそれでもいいが、塾という受験のプロの仕事場では、
個人の経験だけを元に何かを押しつけるのは絶対的なタブーだ。
これもまた、麻布出身の父親が子供にやってしまいがちなミステイクだと思う。
もちろん麻布に限った話ではなく、
一流と呼ばれる中高大を出た父親は、
多かれ少なかれ子供に有無を言わさぬ「圧」をかけてしまいがちな
(そして家庭内に無用な摩擦や軋轢を生む)のだが、
麻布生の場合は先述した「ちょっと捻れた価値観」があるために、
余計に面倒な部分があると思う。

小学生はまだ強制力を働かせることができるので、
それで成功したというケースもあるのだろうが、
仮に受験まではうまくいっても、
その後の親子関係に何らかの形で影を落とすこともある。
受験がきっかけで深刻な亀裂が生じることもある。
家庭内がそんなことになってしまったら、
一体何のための受験なんだろうと首を傾げたくなる。

クドイようだが、僕は学業面ではおおよそ大したことがない人間だ。
それこそ学問的な能力でいったら、
母校には僕なんかより遙かに優れた人はたくさんいる。
けれど、どんなに聡明な人であっても、
人はなかなか個人の経験を完全に離れて判断はできないし、
ましてや我が子のことともなれば盲目になってしまうものだ。

僕がひとつだけ彼らに長じているものがあるとしたら、
僕は自分の職業上の必要から、
「自分の経験でしかない麻布」を上手に脱いで、
対象化することができたということだろう。

平たくいえば要するに麻布は難しいのだ。
一般的な選択肢とするにはあまりに厳しすぎる。
自分のことは抜きにして、
まずはその客観的事実を正しく認識しなければならない。

宝くじとまでは言わないが、
自分がギャンブルで大当たりした資金で家を建てたようなことを、
そのまま子供にお前もそうしろとは言えないでしょう。
そういうことなんですよ。

あともうひとつ。
僕はいまの仕事をやる上で、何より大切にしていることがあって、
それは「子供の目線で考える」ということだ。

厳しい競争を勝ち抜いたタフな親御さんほど、こんなことを言ってしまう。

「偏差値○○以下の学校へは行く価値がない」
「○○中に落ちて下手な私立なんか行くくらいなら公立中に行けばいい」
「中学入試がダメでも、高校入試でリベンジすればいい」

それらはすべて大人の理屈でしかなくて、
子供の気持ちは完全に無視されている。

子供は「投資に見合った成果」で親を満足させるために、
遊びたいのも我慢して中学受験を「させられて」いるのだろうか?

いくらそれが正解なんだ、大人になればわかるなどと強弁しようとも、
子供の心が折れてしまったら、消えない傷を残してしまったら、
一体何のための苦行だったのだろうか?

中学受験の意義、中高6年一貫校に通う意味は、
何も第一志望校でしか得られないようなものなどではない。
人生の多感な6年間を、高校入試に中断されずに、
「同じ釜のメシを食い」ながら過ごすことの価値は、
そう簡単に公立中や高校受験でのリベンジに
置き換えられるようなものではない。

それを押しつけるのは、あたかも
「甲子園に行けないんだったら野球なんかやる意味がない」
と言うようなものだ。
野球が与えてくれるものはそれだけじゃないはずだ。

最終的にはどんな学校へ行くことになろうと、
そこで自分らしく思い出を刻んでいけるようになって欲しいし、
志望校に縁がなく、
たとえ「滑り止め校」だけであったとしても、
合格という形でひとつは報われて欲しい。
その上で進学するかどうかは後で考えればいいことだ。

僕は受験や進学を知ったかで語るどんな保護者よりも、
たくさんの受験生を、そしてその涙を見て来ている。
そんな僕が固く信じるところはただひとつ、
「子供の人生は子供のものだ」という当たり前過ぎる真理だけなのだ。

必然性の美学

2020-10-10 12:50:21 | 特選いぶたろう日記
イカ天世代の我々の青春の1ページに、
燦然とその名を残すJITTERIN'JINN。
後にWhiteberryがカバーしたことで知られる
「夏祭り」を筆頭に、名曲は数多あれど、
リアルタイムで最も彼らの名を世に知らしめたのは
「プレゼント」ではなかろうか。

♪あなたが私にくれたもの〜♪

をひたすら引っ張る、アレだ。
男が散々プレゼントよこしてきて、気があるのかなと思わせておきながら、

♪大好きだったけど〜彼女が〜いた〜なんて〜♪

という壮絶なオチでサクッと終わる、
ツッコミがいのある曲としても知られている。

「彼女いるのにこんなに物あげるかなぁ?」
という十代の無垢なツッコミから、
「ああ、要はパラレル狙い失敗ね…」
とわかってしまう程に我々は年輪を重ねた。

さて、一曲仕上がるほどの数々のプレゼントの中に、

♪キリンが逆立ちしたピアス〜♪

がある。
替え歌の魔術師として知られる、
僕の尊敬してやまない嘉門達夫師匠はテレビでこれを、

♪あなたが私にくれたもの〜、
♪麒麟児・逆鉾・北天佑〜♪

と歌い上げ、僕のハートを鷲掴みにした。
こともあろうに力士三体のプレゼントである。
想像しただけで今夜あなたとハッケヨイだ。

その後、音源化にあたって、
相撲協会所属の固有名詞がマズかったのか、
あるいは「伝わらなくなる」ことへの配慮か、
歌詞は以下に作り替えられた。

♪あなたが私にくれたもの〜、
♪キリンが食べ残したピラフ〜♪

絶句した。本物の天才だと思った。
つけて加えて

♪大助だったけど〜、花子が〜いた〜なんて〜♪

である。
力士ネタを惜しみなく棄てられるのも納得のクオリティである。

だいたいコレは面白い!と思ったものを作り替えるのはイヤなものだ。
これ以上は思いつかないよ…と思えてしまう。
だけどそれはこだわりというより単に億劫がっているだけだったりする。
人にダメ出しされて渋々ながらも、何とか苦し紛れに捻り出したものが、
初回作のクオリティを遥かに上回る…なんてことは、
おおよそ創り手と呼ばれる立場に立ったことのある人なら、
誰しも経験があることだろう。
プロは個人の思い入れを超えて、
求められるままに次から次へと作品を生み出してゆく。
そのタフさがプロと呼ばれる所以だ。

自分の創りたいものを創るだけだったらどんなにラクなことか。
かと言って売らんかなと割り切り過ぎてしまっても、
作り手としての味や個性は喪われる。

日本のエンタメは作り込まれたキャライメージと、
手垢に塗れたマーケティング結果ばかりに偏り、
右を見ても左を見ても、
「言われた通りにやってまーす」が巧いマリオネットばかりだ。
そこには主義も主張も体温さえもなく、
その人でなければならない必然性らしきものは感じ取れない。

僕は若い頃、エンタメ界の末端で、
ずっとこの「必然性」に憧れて来たが、
それは残念ながら世間に認められるところまではいけなかった。
いま思うとまだまだそのずっと手前のところで、
スクラップとビルドを当たり前に繰り返す、
創り手としてのタフさを身につけなければならない過程でもがき苦しみ、
あまりの苦しさに逃げ出してしまったのだとわかる。
だから僕はオンリーワンの創り手に敬意を惜しまない。

「僕でなければならない必然性」、言い換えるとそれは
「自分の仕事への妥協なきプライド」でもあるかもしれない。
かつて狂おしいばかりに追い求めたそれは、実は求めるものではなく、
与えられるものなのだと今ならわかる。
教育というフィールドで、はたまた父親というポジションで、
ささやかながらもそれが叶うといいなと思って、
なるべく自然体で今日を頑張っている。



親の一念

2020-07-07 16:48:46 | 特選いぶたろう日記
想像はできても、経験しなければわからないことというのは確かにある。
第三者の立場で理解したつもりでいても、当事者としての実感はさらにその上をいく。

僕には、一つ上の姉がいた。
ただ彼女は先天性の病気があって、かわいそうに2年も生きられなかった。
僕はわずかな時間だけど姉と共に過ごした時間があったはずで、
その記憶はいまや数葉の写真でしか確かめることはできないけれど、
何かにつけて父母が語る姉の思い出は、
子供の頃の僕に「確かにいたはずの人がいない」という不思議な感覚をもたらした。

我が家には物心ついた頃から黒枠の赤ちゃんの写真があって、
仏壇があってお墓参りがあって、
その厳粛さはなんとなく子供ながらに受け止めていたように思う。

情の深い母は今でもよく姉の話をする。
とはいえ、2年にも満たない日々の思い出だ。何度も何度も同じ話を繰り返す。
「またその話か〜」と普段なら母の昔話に茶々を入れる僕も、
姉の話題だけは黙って何度でも耳を傾ける。

父はどうだったろうか。
多忙な売れっ子アナウンサーだったから仕方ない面もあるとはいえ、
僕の記憶にある限りほとんど家庭を顧みず、
しかも途中で家庭を捨ててしまった父親だ。
ここ最近はすっかり関係も修復できているが、
10年前くらいまでは、何せ直接話す機会がないので、
きっと昔のことなどどうでもよくなっているんだろうなあと思っていた。

それが氷解したのは数年前のこと。
親父のマンションを訪ねたとき、僕は和室に招かれて驚いた。
立派な仏壇があり、そこに姉の位牌があった。
親父と生き別れてから30年、その間彼は外国へ移住し、
また帰国し、三度の結婚があり、相当な変転があった。
僕ら家族との連絡はほとんど途絶していた。
それでも親父は姉のことだけは忘れなかった。
何だか胸いっぱいになってしまった。

毎日そうするのだと言って、親父はお線香をあげ、般若心経を唱え出した。
僕にも多少の心得があったので、合わせてお経をあげた。
親父は驚いて、おまえ般若心経ができるのか、と言った。
僕は短く、まあね、と答えた。

その後、30年ぶりに親子でお墓参りに行くこともできた。
お互いに憎まれ口を聞きながら急な坂を登り、
墓前に揃って手を合わせた似た者父子の姿には、
泉下の姉も祖父も目を細めてくれたに違いない。

昨年のこと。
妻の妊娠を報告しに帰阪し、長男の名付けに苦労しているという話題になったとき、
僕は、
「親父がつけてくれた自分の名前を僕はすごく気に入っている。すぐに覚えてもらえるし、忘れられないし、名前ですごく得をしたと思う。息子には同じくらいイイ名前をつけてやりたいが、何せ息吹という名前はハードルが高過ぎる」
と冗談まじりに話した。

親父は一言、「お前の名前はな、親の一念だ」と応じた。
そこから親父は姉の話をポツポツと語り出した。
生まれたその時から命が危うく、奇跡的に生後すぐの危機は免れたものの、
その後も何度も何度も大手術をして小さな命を繋いできたこと。
成功の見込みは薄いと告げられながら、か弱く小さな体にメスが入るその都度、
身を削られるような思いでいたこと。
そんな中、僕が生まれてきたこと。
とにかく生きてくれという一念だったこと。
やがて、姉が力尽きてしまったこと。

息子を授かった今になってやっと、父母の気持ちがわかる。
今までも決してわからないというわけではなかったが、
もし息子が…と考えられるようになって、言葉にならないくらいの痛みがわかる。

親になるということ。
子供が健康に育ってくれるということ。
当たり前のように錯覚してしまうことの中にある深い深い幸せ。

決して比較優劣の話ではないし、
あくまでも僕個人に限っての感想に過ぎないのだが、
不特定多数が閲覧する場でこういう話題を、
文字だけで誤解なく続けるのは非常に難しい。
この辺で止めようと思うが、
とにかく僕は息子のおかげで世界の見え方が大きく変わった。
まったく想像もつかないことだった。
親となってみて初めて身に染みて理解できたこともあるし、
これからも父や母の思いを改めて知ることになるだろう。
人生って深い。深過ぎるぜ。

僕もまた息子に願うのはただひとつ、元気で育って欲しい。
親の一念。

内省的な思考なるもの2020

2020-05-25 07:00:14 | 特選いぶたろう日記
昨年、44歳にして長男を授かったことをきっかけにして、
自分の人生について考えることが多くなった。
過去を振り返るばかりでなく、
いままではなるようにしかならん、としか考えていなかった、
「これから」のことについて、考えずにいられなくなった。

息子が20歳になったとき、僕は64歳だ。
息子がいまの僕の年齢になったとき、僕は89歳だ。
…生きてるかなあ。

そう、まさにこの「生きてるかなあ」がリアルになってきたのだ。
見渡す限りの大海原だったはずが、
気づけば水平線に浮かぶ島影を視界に収めるほどになっている。
平均寿命を80歳として、僕は既に56%ほどを消費した。
スマホの電池が残り44%と表示されているような感じだ。
野球で言えば6回表、夏休みで言えば8/12、1日で言えば午後1時半。
いますぐどうこうということではないけれど、
いつか来る「その日」を意識しないではいられない年齢になった。

僕はちゃんと息子を成人まで見守ってやれるだろうか。
嫁や孫を見ることはできるのだろうか。
死ぬまで生きればいいだけさ、と
若い頃はまるでリアルに考えたことのなかった「老後」や「余命」が、
息子というカメラを通じて鮮明に突きつけられている感じさえする。

子供の誕生をきっかけに価値観が一変したというのはよく聞く話だが、
まさか自分においてさえ、ここまで変わるものなのかとおどろいている。
若い頃はあれほど泥臭く「自己証明」を追い求めていたのに、
いまや自分が他人にどう見られるかなどどうでもよくなった。
息子さえ幸せになってくれれば、というその一念。
そのために家庭を守り、自分も節制する、という決意。

仕事もただ自己実現というばかりでなく、
「家族と生きていくための安定的な収入の確保」という視点が加わった。
普通はそれが第一なんだろうけれど、
僕はいつも金銭的な見返りよりも、仕事そのものの充実感を優先してきた。
劇的な変化といっていい。
いざとなったら死ねばいい、なんてうそぶいていた自分が、
保険や年金についてこんなに真剣に考える日が来ようとは(笑)。

ふり返って僕の人生、いつでもなんでも遅かった。
受験勉強も、就職活動も、社会人デビューも、結婚も、子供も。
賢明なる周囲が前もって準備を始めても、
なんとなくピンと来ないまま同じ流れに乗るのがイヤで、
ギリギリ直前まで余裕をかましているんである。
それがいざ、にっちもさっちもいかなくなって、
時間も予算もない中で、慌ててドドーッと奇蹟的なつじつま合わせを始める。
運と要領と人間関係に恵まれていたおかげだろう、
それでも大概のことは何とかなってしまったのだった。
入試も、就職も、結婚も、独立起業も。
早い話が人生ナメてるんである。
それがいよいよ、年齢[=人生の時間切れ]という如何ともしがたい〆切に直面し、
初めて戦きを覚えているというのが正直なところだろうか。

実はいま転居を控えていて、連日荷物の整理に追われている。
引越あるあるなのだが、無数のアルバムやら写真やらが出てきて、
ついつい目を奪われ、時間をとられてしまう。
見ていてつくづく思うのは、
何と豊かな思い出に彩られた人生だったろうかという感慨と、
若い頃の自分はどうしてこんなに窮屈そうな生き方をしていたのだろうか、
という甘酸っぱいようなほろ苦いような感傷だ。

素直に思う。
なぜ自分はこんなにも格好つけて生きていたのだろうか。
なぜ自分は過剰防衛に思えるほど周囲に対して構えていたのだろうか。
ここ数年だろうか、もう別に格好つけなくていいやと開き直れるようになった。
そうしたら、ものすごくラクになったのだ。
ラクになったということは、つまりこれが自然体なのだろう。
あまり好きな表現じゃないが、「本当の自分」と呼べるものなのかもしれない。

僕はずっと自分を才能ある個性的な人間だと信じ、
鼻につくような言動と派手な実績で「自己証明」を図ってきた。
それが故に周囲から嫉妬され、疎んじられ、爪弾きにされ、
不遇をかこつハメとなり、さらなる証明のために闘い続けてもきた。
いわゆる多数派や主流派になじめず、異端の位置に自分を置き、
多くのアンチと少数のファンをつくって生きてきた。
あらゆる場で「自分の考え」にこだわり、批判層とは徹底して論争し、
さらに敵を増やしては孤立を深め、居場所を変えて生きてきた。

…というつもりでいたのだ。それも本気で。

これを自分の人間嫌いと反骨精神の故だと思い込み、
普通の組織の中では生きられないと決め込み、
表現への飢餓感と言うよりは、
ワガママを正当化できる手段として「バンド」を選び、
いつまでも「大人」にならなくていいネバーランドに安住し、
いかにも個性的に映るアマノジャクな発言や奇行を好み、
本当は臆病なくせに喧嘩上等のロッカー気取りで生きてきた。

でも、いま振り返って、本当にそれらはありのままの僕だったのだろうか。

45歳の僕は素直に思う。
僕はそんなに奇天烈な個性を備えた人間ではない。
雰囲気だけはあるかもしれないが、大した才能も持ち合わせてはいない。
争いごとも本当はニガテだ。堪えがたいストレスになる。
そもそも僕はストレス耐性が度を超えて低い。
我慢が利かない甘えん坊で、ワガママで、さびしがりで、
まるでロックなんてガラじゃない。
実は昭和の歌謡曲な人間なのかもしれない(笑)。

そんな恥ずかしい自分を隠すために、理詰めで雄弁で好戦的なキャラを装い、
引っ込みがつかないまんま、カッコつけて生きてきたのではないかと思う。
そして、それは一部の身近な人間にはバレバレだったのではないか。
彼らが気づかないふりをしてくれたことで、僕は自己完結できていたのかもしれない。
弱い自分、甘えた自分、恥ずかしい自分を認めて受け容れることができて、
はじめて本物のカッコよさが身につくんだよと、
いまなら若い頃の自分に助言してやれるのだが。

母に言わせれば、3〜4歳頃までの僕は実に穏やかな性格だったそうだ。
泣きも喚きもせず、よく食べよく眠りよく笑い、ふんわりとしていたそうだ。
それが幼稚園に上がる頃からグッとキツくなり、
いつも他者の言動に身構えるような子供になったのだという。
背景には、この時期の異常に厳しかった父の存在があるのではないか、と母は言う。
父は軍人だった祖父のスパルタ教育のもとに育った。
そして祖母がまた強烈で、金銭トラブルが絶えず、
子供も放って好き勝手やっているような人だったから、
父は根深い母親不信に囚われ、母性愛にも飢えているところがあったようだ。

そんな父は、長男への力みもあったのだろう、
「こいつはおれに似ているから、おれと同じく厳しくしないと(祖母のような)とんでもない人間になる」
というようなことを錦の御旗にして、僕に随分辛く当たった。
殴られ蹴られは序の口で、夜中に物置に括りつけられたり、
山中に捨てられかけたこともあるのは以前書いたとおりだ。
そのどれもが取るに足りないようなことで、

「ウソをついた」
「箸の持ち方が悪い」
「いい加減な知識でものを言った」

というようなことで、僕はしょっちゅうボコボコにされていた。
いつ何時、どんな理不尽なことで責められるかわからない。
一時期の僕はクルマの音で親父が帰ってきたと知るやいなや、
慌てて2Fへ駆け上り、部屋に逃げ込んでいたような有様だった。
何かあると階下から僕を呼びつけるでっかい怒声が響いてくる。
やがて大きな足音が階段を上ってくる。
足音が終わると部屋の扉が開き、家中がきしむような声で怒鳴られ、
散々に打ち据えられるのだ。
あの震えるような思いはいまでも夢に見ることがある。

とにかく僕は、親父に褒められた、認められた、味方をしてもらった記憶がない。
いつだって貶され、ケチをつけられ、叱られ、お前が悪いと罵られた。
いまとなっては別に怨みもなく、もう幼少期の笑い話のつもりでいたが、
こうして文字に起こしてみると随分なもので、
我が事ながら苛酷な幼少期だったなあと思う。

そしていまこれを敢えて書いたのは、
自分の人格形成に、この時期が少なからず影響しているのではないか、
と思い始めたからだ。
自分の人格なんて自分でコントロールできるはずのものだし、
あんな一時期だけのことで、そんな大袈裟な…と思っていたが、
考えてみれば幼少期の人格形成は一生にわたって影響を及ぼすものだ。
何歳まで、というような専門知識は持ち合わせないが、
少なくとも幼稚園程度までには人格の根底部分は形成され、
親の接し方がそれに大きく影響するのは間違いないだろう。
僕は職業柄、多くの親子を目にする機会があり、
また多くの教育関連書籍を読んでいるが、
それらを通じて得た客観的な視点を、自分自身の来し方に向けたときにようやく、
そんな当たり前と言えば当たり前のことに気づけたというわけだ。

何も自分のダメなところをすべて親父のせいにしようというのではない。
僕の人生の不出来・不作為はすべて自分の責任だ。
僕は自分自身の、ヘンに曲折した、ある意味で不器用な、
人格のルーツへの純粋な興味でこれを書いている。
教育なのか遺伝なのかは知らないが、親父から得たものもたくさんある。
多くの本を読んだり、自分で文章を書いたり、人前に出て話すこと。
それらをおおよそ苦にしない「言葉の力」はそのひとつだろう。
それが苦境に立つ僕を救う武器や防具にもなったし、
いまもって生き抜いていく力のひとつになっている。

だけど一方で、なんとややこしい性格になってしまったことか、という嘆息がある。
母親の言う、ふんわりとした穏やかな性格のままでいれば、
こんなにも敵をつくらず、学校でも会社でも孤立せず、麻布にもバンドにも縁がなく、
また全然違った人生があったかもしれない。
別に、そうだったらよかったとは、まったく思わないけれど。

とにかく子供の頃の僕は、どこへ行っても疎んじられた。
親父にコテンパンにやられるばかりか、
学校でも厄介者扱いされ、先生からもクラスメイトからも疎外されていた。
周囲の大人には煙たがられたり否定されたりするばかりで、
おおよそ褒められたり認められたりした記憶がほとんどない。
可愛がってくれたのは田舎の祖父母や叔父叔母くらいだろうか。

そして僕はそのイライラを、より弱く幼い弟や妹にぶつけていた。
親父が居なくなって、親父のように接することしか知らずに、
十代の頃は母にも随分居丈高に、冷たく当たったような気もする。
何もかも否定されるあまり、自己肯定感に飢えていたのだろう。
母親は大きな愛情で僕ら兄弟を包んでくれてはいたが、
この年頃では母親の言葉は素直に受け取れない。
ふり返り見て、少なくとも二十代くらいまでは、
「自分は愛されている」とか「自分は必要な人間だ」という自覚に乏しく、
常にそれを求めて、他者に要求していたようなところがあったのは否めない。
しかもそのやり方が素直じゃなく、毒舌や奇行で目を惹こうとするような幼さだ。

本当に、いまだったら当時の自分に気づかせてやれることができるのに、と思う。
僕自身は父性愛にも飢えているところがあり、
尊敬できる年長の男性と出会っては感化されてきたようなところもある。
惜しむらくは、それらが憧れの域を出ず、表面的な模倣に留まり、
内面から揺り動かされるまでに至らなかったというところだろうか。

そばに父親が居て、年齢に応じた軌道修正を施してくれていたなら、
こんなにも拗れなかったかもしれない。
親父は親父で、いずれそうするつもりはあったのだろうか。
何せほとんど家に居なかった上に、10歳からは別居状態だ。
普通は反抗期があって、父子でぶつかり合って、という経過をたどるのだろうが、
親父とまともにコミュニケーションできるようになったのは、ここ10年のこと。
定職に就き、結婚もしたことで、大人と大人の関係に成熟できたのか、
ここ最近の父子関係は極めて良好だ。
僕自身にも親父を許す…というのとはちょっと違うかな、
親父そのものというより、親子関係のねじれを「乗り越えた」という感慨がある。
四半世紀にも及ぶ親子の断絶、その修復はたぶん、親父にはできなかったろう。
それを僕からのアプローチで、自然な形でできたことが大きい。
そのことが多分、僕自身が自己像を修正できる心の余裕も生んだのだろう。
そしてそれは、これから自分が父親として、息子との関係構築を考えていく上で、
避けて通れないテーマでもあっただろう。

45歳にもなって親の影響がどうのなんて、言い訳めいた話だと思う。
「本当の自分は」だなんて、わざわざ言語化するようなことでもないし、
そもそも、人格なんてものは何とでも言うことができる。
自分語りは他人にこう見られたいという願望の投影でしかない。
だけど敢えてそれを語り、認めたくない、恥ずかしい自分を受け容れようと思う。

僕自身はいつでもどこでも同じ自分でいるつもりでいた。
けれど、人によって僕の人物評は180度違うこともある。
ある人は尖っているといい、怖いといい、ある人は温かくてやさしいという。
それは演じている「強い自分」への共感だったり反感だったり。
あるいは装いきれずに露呈している「弱い自分」への同情だったり嫌悪だったり。
僕はだいたいそんな風に理解していた。
ところが、ある日何気なく妻が呟いた一言で、
僕は頭を打ちのめされたような衝撃を受ける。

「あなたは自分を慕う人間にはものすごく優しいし愛情も注ぐけれど、
  自分を嫌う人間や裏切った人間にはものすごく頑なで冷たい」

ぐうの根も出なかった。
シンプルに、核心を衝かれた思いだった。
この僕評はおそらく、僕に関わったすべての人が一致するところだろう。
そしてそれはまさに、母性愛に飢え、
自己肯定感に渇いていただろう親父の性格そのものでもある。

教育か、遺伝かはわからない。
僕はおそらく、お袋のお人好しなまでの情の深さをも受け継いだおかげで、
親父のアクが薄まって、親父ほど良くも悪くも極端な人間にはならなかった。
僕の血も親父の血も、そしてお袋や妻の血も受け継いだ息子が、
これからどんな人間に育っていくのか、興味は尽きない。
ただ、僕は少なくとも息子に寂しい思いは絶対にさせたくないし、
父性愛にも母性愛にも飢えることなく、
自己肯定感たっぷりに育ててやりたいと思っている。

おっさんトーンポリシング

2020-05-25 06:24:30 | 特選いぶたろう日記
「何を言うか」よりも、
「誰が言うか」「どう言うか」ばかりを問題視して、
やれ表情がどうの言い方がどうの言葉選びがどうの…と
ネチネチとケチをつけるのは、いかにもおっさんぽくって好きじゃない。
もっとも、この話題自体「おっさん」が「どう言うか」を問題にしているので、
いささか自家撞着のキライもあるわけだが。
ここではそれは都合よく無視する(笑)。

若者が一生懸命発したメッセージを正面から受け止めず、
すぐそのスタイルだけを上から目線で批判したがる。
そして「もっとこういう言い方をすれば…」みたいな、
ありがた〜い「アドバイス」を与えたがる。
それで「鍛えてやってる」だの「期待してるからこそ厳しく」とか言っちゃって、
肝心の「相手の言いたかったこと」については極めて鈍感だったりする。
そしてそんな自身への反省や自覚はてんでなかったりもする。

特におっさんから若者へ、
それも女性に対してはかなり多い気がするんだが、
あれは一体何なんだろう。

自身が若い頃から組織の中で強いられてきた自制や、
その積み重ねで老獪に変質したことを、
正当化するにはそれしかないのだろうか。
我慢したり、遠回しに言い換えたり、
根回ししたりするばかりが正しいスキルなんだろうか。
思うままに怒りや悲しみを発露することがあってもいいんじゃないのか。
評価しないのは勝手だが、わざわざ批判するようなことなんだろうか。
しかも半ば冷笑的に。
いかにも自分はモノが分かっているとでも言いたげに。

前半生を振り返って、僕は何度も組織の中で悶着を起こしては飛び出してきた人間だ。あんまり偉そうなことは言えないな、という自虐もあって、
僕はまず若い子たちと話すときに、よく聴くようにしている。
そりゃあ言葉が足りなかったり、
言い方がキツかったりすることはよくある…てかほぼデフォでそうだ。
でも僕は話の内容に優先して、そのことに一方的なダメ出しなんかしない。
ストレートな物言いはそれだけ本気でものを言っているということだし、
本気でモノが言える相手だと信頼を寄せてくれているということでもある。

無論、状況にもよる。
言いたいように言わせることも大切だし、
行き過ぎや勘違いに気づかせることも大切だ。
でもそれはダメ出しや説教じゃなくてもできる。
否定じゃなくて、疑問をぶつけて、黙って耳を傾けてればいいのだ。

「それはさ、こういう意味かな?」
「それはこうともとれるけど、君はどんな意味で言ってるの?」

そう、「聴く」ということにもう少しウェイトを置いていいと思うのだ。
僕の知る限り、賢い人は聞き上手だなという印象がある。
言い方やら言葉選びやらにゴチャゴチャ言いたがる人は、
相互理解よりも上位にマウンティングがある気がする。
要は俺の方が上だと示したいだけ。

念のために繰り返すけど、そりゃもちろん、状況や場所によりますよ。
専門性の高い分野では議論の余地なく先達が圧倒的な場合もあるし、
組織において緊急性の高い案件を扱う場合なんかもあるでしょう。
あくまで僕は僕のいるフィールドでしか語れないので、
教室、家庭、飲み屋程度の範囲にしか適用されないかもね。
あとは温暖化問題とか(笑)。

でもおっさんは、みんな気をつけた方がいいと思う。
上から気持ちよくダメ出ししてケチつけてもの言って、
みんなそれをおとなしく納得・感心しながら聴いているように見えるでしょ?
内心、ビックリするくらい嫌われてるからね。
だって僕から見たってウザい、メンドクサイ、感じ悪いおっさん、いっぱいいるもん。

自分は違う、って思うでしょ?
若い子らから見たら変わりないんだよね。
もちろん若い子ともスマートに付き合えるおっさんもいるので、
お手本にさせてもらおうとは思うけど。
僕はもう自分がおっさんであることは受け容れながら、
少しでも「ヤナおっさん」にならないようにするので精一杯だわ。


拾う神

2020-03-04 01:47:40 | 特選いぶたろう日記
なんというか、すごく言い方が難しいのだけど。
知的関心や論理的処理の温度差?
…とかいうとまた勘違いされそうだな…色違い?畑違い?
そういうのって、どうしようもなくあるなあと思う…というか思わされる。

別に学歴がとか偏差値がとか、医者・弁護士が会社員がとか、男が女がとか、
そういうことではなくて。
(少なくともワセダ程度じゃ僕を筆頭にバカだっていっぱいいるの、知ってるし・笑)。

言うまでもなく、考え方や表現の仕方は色々あっていい。
専門性や得手不得手もある。掘り下げ方も様々だ。

だけど、やはり
「十代のうちに、既成概念に囚われず、様々にものを考え、自由に発言する、議論する」という習慣・訓練・環境があった人とそうでない人、
もっと詳しく言えば、
常に「当たり前」の枠内で管理され、それを疑うことなく「テストのための知識を詰め込んで点をとること『だけ』に邁進してきた人」とでは、
もう絶望的な差があるなあ、と感じることが多い。

後者は模範解答を示すことはできても、
自分で悩み考えた跡がないから自分の色がない。
発言に覚悟がない。
議論によって思考や表現を磨き抜いた経験もないから説得力もない。

もう一度念を押すが、偏差値や学歴は関係ない。
結構な有名大学を出ていようと、
難関試験を突破しないとなれないようなご職業であろうと、
あまり関係なくそういう人は一定割合いる。
僕は驚かない。

さらに大人になって、組織の中で和を乱さぬよう思考を止め、
スルースキル「ばかり」を磨いてきた人となると、
もうこれは話しててもつまらないことこの上ない。
いい人なんだろう、物知りなんだろう、良識的なんだろう、
でもまるでその人なりの魅力を感じない。
「変」なとこがない。または頑なに隠し続けている。

そして議論を厭う。批判を嫌う。
主張が食い違うことを極端に恐れている。
その場の話題に可もなく不可もなく合わせてくることには長けている。
でもその人の発言に聞くべきところはあまりない。
周りの顔を見て、空気を読み、力関係にも充分に配慮して、無難な言葉を選び抜く。
さも共感しているかのような、上滑りの言辞だけが出てくる。
とにかく表面的に穏やかに和やかに過ごすことに至上の価値を置いているようだ。
まるで細かく設定されたゲームのキャラのセリフを聞いているかのようだ。

面白いのはこういう人が何故か、
自分よりも下位に位置付けた人に対しては妙に上からの、
高圧的な物言いになること。
部下とか後輩とか連れの女性とかに。
言葉遣いからしてまるで違ったりする。
しかもそういう時は一方的だ。言いたいことを言う。反論に耳を貸さない。
思考を厭い議論ができないという点では同じだ。
おそらく「何を言うか」よりも「誰が言うか」に重きを置いているのだろう。
そこには論理的整合性など期待すべくもない。
ただただその場に合わせた力関係や利害関係の姑息な計算あるのみだ。

特にどこの誰が、というようにカテゴリを括りたくない。
それはおそらく僕の安易な偏見や決めつけになってしまう。

ただ、僕自身は、
あいつうるせーな、鬱陶しいな、ガキっぽいな、面倒くせーな等と思われるのは、
全然上等カマンベイビーなのだが、
こういう「規格化された物言わぬ背景のような大人」や
「相手によってコロコロ言うこと変わるパワハラオヤジ」の
ひとりには数えられたくない。
死んでも嫌だ。プライドが許さぬ。

面白いもんで、僕のこういう物言いを面白がってくれる人というのもいて、
今度なんだか面白そうなことに発展しそうだ。
決まったらウキウキで報告します。


「正しいこと」くらいで傷ついてられるか

2020-02-26 09:24:37 | 特選いぶたろう日記
コロナウイルスをめぐるネット上の一連の言動に思う。
なかでもヒステリックな反応や、逆に根拠のない「大丈夫論」の跋扈に思う。
君たちはもっと「正しいこと」にこだわる必要がある。
それは簡単には見つからない。わかりやすいとも限らない。
「正しいこと」を見つけるためには、慎重であることだ。
すぐに答を見つけた気にならないことだ。
そして謙虚であることだ。
専門家の重みを知り、人の意見に耳を傾けることだ。
最後に、柔軟であることだ。
いまは正解に見えてもあとで間違っていることがわかるかもしれない。
逆にいまは間違っているようでも、あとで正しいと証明されるかもしれない。

これらを探っていく上で、必要なものは2つ。
できるだけ広く深く知識を求める姿勢と、他者と思考を交換するための論理だ。
知識とは何も難しい専門的なものだけとは限らない。
素人でも理解できる範囲で、きちんと根拠が示されているものを選べばいい。
論理とは何も冷たく機械的なものではない。
自分ひとりの思索には限界がある。視点を変えないと解らないこともある。
そこで他者と知識や意見を交換し、共有し、
さらに思考を深めていくための共通の形式・手法が論理だ。
いわば、相互理解のために必要なものだ。

「正しいことは人を傷つける」という言辞がある。
僕は正直、この表現が好きになれない。
いや、厳密に言うと、
したり顔でこういうことをしれっと言える人の感覚が理解できない。

多くの場合において、この言葉は、

「あなたの言っていることは論理的には正しいようだけれど、人の気持ちが分かってないよ」
「いくら知識があっても、論理的に正しくても、それだけじゃわからないこともあるよ」

という意味合いで(しかもなぜか上から目線で)遣われている印象がある。
それも、たいてい知識が乏しく、論理的な思考ができず、
不確かで曖昧な自分の感覚や気分を価値判断の中心に据えている人が好んで遣う。
さらに言えば、自分よりも知識がある人や言語化に長けている人に対して、
否定的な意味で、自分が論理的に抗弁できない場合に、
いわば「負け惜しみ」として遣われていることが多い。

元は吉野弘の『祝婚歌』らしい。
しかし彼は果たしてそんな意味合いでこの言葉を残したのだろうか。
抜粋して引用すると、たしかに、

「正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと 気付いているほうがいい」

とある。
ただし、一行目には

「二人が睦まじくいるためには」

とある。
つまり、あくまでもこれは新婚の二人に向けて、
夫婦仲を円満に保つ秘訣として語られたものであって、
いつでもどんなときでも人間はこうあるべきだ、
なんていう趣旨ではないことは明らかだ。

夫婦の間とか友人の間とかで関係をうまく保つために、
主義主張を抑えてある程度妥協して、仲良く気分良くやる工夫は必要だろう。
でも、それが議論の場に持ち込まれたら、何らの建設的な意味を持たなくなる。

「まあまあ考え方は色々、みんなお互いにガマンしましょう」
「一生懸命やってくれているんだからその言い方はどうか」
「傷つく人もいるのだから正しいデータを出さないで」

なんてことを言い出したら、そもそも議論も科学も成り立たない。
政治や経済や社会問題、医療などを論じる場で、
情緒的な言葉ばかりがひとり歩きして、批判や異論反論を封じ込めたり、
科学的な知見を無視して、都合のいい解釈を重ねていくとどうなるか。
現政権の無為・失策・無責任、不法、改竄隠蔽体質、反知性主義、
これらが7年間に亘って日本に与えたダメージの大きさを考えて欲しい。
国のトップが無知・無学・無能で恥じるところもないから、国中に似たようなのが跋扈する。
情緒的・感動的な同調圧力は、思考を停止させる。
一時の感情や好悪に左右されない冷静な論理こそが、安定と改善の礎となる。

何でもかんでも卑近な友人関係や男女関係に置きかえて理解し、
ことの本質を見ようとせず、
自分の経験や感覚の範疇でだけ捉えようとする人がいる。
そしてこの「経験」に基づく「感覚」が、さも絶対的なものであるかのように過信する。
そこに大した根拠はないし、他者に説明できる論理さえもない。
論理や根拠がないということは、他者が理解できないということだ。
似たような体験をした者同士で偶然「共感」することはできても、
それを捨象して言語で説明できないのだから「共有」はできない。

だから、
「これは言葉ではうまく言えない」とか、
「なんていうか、とにかく何かが違うんだよ」とか、
「もっと大事な何かが見えてない気がする」とか、
そんな安直な言葉に頼るし、「共感したフリ」をして差し上げないと、
「わかんない人には言っても無駄だ」「わかってくれないならもういいよ」となる。
身の回りに居ません?このタイプの人(笑)。

「自分にしか解らない感覚」を、
ひと足飛びに「共感してくれる」相手ばかりを求めているから、
人間関係も自分に都合良く使い捨てにする。
「この人は自分をわかってくれる!」と簡単に飛びついてしまう。
しばらくすると自分の思惑と違うところも出てくるから、
そうすると「やっぱりなんか違う!」と簡単に切り捨ててしまう。
全肯定と全否定の間で続けられる終わりなき反復横跳び。

なぜこんなことになるかと言えば、論理による相互理解を怠って、
一時の感情や不確かな感覚だけで判断してしまうからだ。

「だって人間はそういうものだからしょうがないでしょう?」
「人間はそんなに強くなれないよ」

などという言い訳にもよく出くわすが、努力を放棄しているだけだ。
甘えた自分を正当化しているだけだ。
生きていたら誰だって辛く厳しいことにもぶち当たるのは当たり前だ。
癒やしを求める気持ちも解るが、
いつまでも肩寄せ合って慰め合っていて、何になるのだろうか。
生きていくためには少しずつ強くなることだって必要なのだ。
そのためには耳の痛いことでも耳を傾けなければならない局面もあるし、
目を背けたくなるような事実にも目を向けなければならないことだってある。

もちろん弱い者にだって生きていく権利はあるし、守るべき弱者への配慮も必要だ。
しかし、それを楯に自分の思考的怠惰を正当化しようなどと、姑息にも程がある。
百歩譲って、どうしても「正しいこと(=自分に都合の悪い指摘)」に背を向けていたいならば、それでもいい。
しかし「正しいことを言う」こと自体を否定するのは愚かなことだ。
賛成できなくてもいい、納得できなくてもいい、
でもそれは正しいことを言う者の責任ではない。
理解するに十分な知識と思考が自分に備わっていないだけのことだ。
分かった風なことを言いたい、知ったような顔をしていたい、
自分の無知を認めたくない、何より単純に「負けたくない」。
そんな自分の幼児性を開き直ってないで、
成年には成年相応に知的謙虚であることを求めたい。

何より、不勉強な人間が大きな顔して、自分の不確かな感覚を盲信して、
誠実に勉強や思索を重ねた人の言葉を軽々しく馬鹿にすんなよな、と言いたい。

子供と向かい合う

2020-02-07 15:24:10 | 特選いぶたろう日記
僕は昔、気合も足りなければ意気地も根性もない子供だった。
特に、自分がやりたいわけでもないことを他人から無理に強制されると、
ケタ外れの拒否反応を示して、
テコでも動かなかった(その意味では根性座ってる・笑)。

持久走も嫌い、筋トレも嫌い、宿題も嫌い、
単調な漢字や計算のドリルも嫌い、宿題も嫌い、
意味不明なルールやマナーも嫌い、集団行動大嫌い、
わかりきった話を黙って聞いてるフリするのも嫌い。
だから小学校なんか嫌いなことだらけ。
好きなことだけは熱心にやるけれど、
嫌いとなると手もつけないし見向きもしない。
そのくせ妙に弁は立つから、
周囲の大人達にしてみれば、実に扱いづらい子供だったと思う。

イヤなことがあると逃げたし、ごまかしたし、ウソもついた。
そのせいで親父からも小学校の教師からも随分怒られたし殴られもした。
でもそれで僕はどうなったか。
ますます逃げて、ごまかして、ウソをつくことを覚えただけだった。

怖い大人に力で屈服させられても、反省なんかしなかったし、
具体的な改善にも結びつかなかった。
毛の先ほども納得できていないからだ。
従ってるフリをして、バレないように隠れてやったし、
自分を守るためならウソもついた。
小6の担任(自称「問題児のプロ」)には「ロクな人間にならない」と断言された。

でも、反論も許されない一方的な説教や暴力には、
理不尽な思いこそすれ、心服はできない。
強権的・高圧的な手法では心までは屈服させられない。
できたように見えても、それは子供の心を殺しただけなのだ。

大人になったいまも、
多少は表面的に世の中と折り合いをつけられるようになっただけで、
僕は相変わらず気合も根性もなく、自分に甘く、イヤなことからは逃げ回る。
そのせいで何かと努力に欠け、詰めは甘く、
実際、社会的なステイタスという意味では大した人間にはなれなかった。
若い頃からの不摂生で自堕落な生活習慣も相変わらずだし、
体型にもそれは表れている(笑)。
いまの僕を見たら、エラそうなことを言ってた割にほら見たことか、と
小6時の担任氏なんかは、ほくそ笑むのかもしれない。

でも、僕はこれでいいと思っている。
僕は僕の心を殺さずにここまで生きてこられた。
勝手気ままな性格と無駄に能弁なのが災いして、
周囲と軋轢が生じる度に苦労はしたけれど、
その都度ちゃんと新たな僕の居場所を見つけてこられた。
納得ずくで自分の人生を生きてこられた。

ここに至るまで「自己肯定感」がどれほど大切なものだったかと思う。
僕が自分の価値を信じて生きてこられたのは、
それを認めてくれる人々が居てくれたからだ。
それがなかったら、
あるいは暴力や威圧や脅迫で無理矢理従わせられていたら、
とうに僕はこの世に居ない。

僕ひとり、この世に居ようが居なかろうが、
世の中に大した影響はないかもしれない。
だけど、少なくとも僕が居なかったら息子はこの世に生を受けていないし、
ウチの嫁の人生もまた違っただろうし、
そしてバンドや職場を通じて出会った多くの人々の運命も、
また様々に変わっていたに違いない。

そう信じさせてもらえる程度には、
僕の作品や仕事を評価してくれる人もいたし、
僕が話したことや書いたことなどの影響を語ってくれる人もいた。
僕が繋げた人々だっている。
少なくない人々に存在価値を認めてもらえているという自負、
それが僕の生きる自信になっている。

大人の都合に合わない子供だからといって、どうってことはない。
どんなに優等生に見えたって、
心に闇を抱えていたら犯罪に手を染める日が来るかもしれない。
いまは力で屈服できたって、
将来体力的に逆転したときにどんな復讐が待っているかしれない。
寝込みか、金属バットか、放火か、それは明日にでも来るのかもしれない。
もしそんなことになったら、悲劇以外の何ものでもないじゃないか。
実行には至らなくても、子供が心に思い描いただけでも、
それだけでもう充分に悲劇じゃないか。
大人は大人で本気で子供のためと信じていたのなら尚更だ。

子供が大人の言うことを聞かないのは、信頼していないからだ。
これまでの積み重ねで、
この人には何を言っても無駄だ、どうせ決めつけられるんだ、抑え込まれるんだ、
とあきらめているからだ。
つまりは、近視眼的にその場その場で、
自分に都合良く片付けてきた大人の側に責任があるのだ。

子供を相手にするときは、いかに未熟であっても、
人間を相手にしているのだということを忘れてはいけない。
きちんと手間と時間をかけて納得させるというプロセスを省略してはいけない。
そのひとつひとつの丁寧な積み重ねが揺るぎない信頼を築く。
それさえできたら、ウソもごまかしも暴力も必要なくなる。
どんな厳しい話もお互いに落ちついてできるようになる。
そんな大人を、子供だって求めている。

自己肯定感の最後の拠り所であるべき両親が、
日々それを削ってくるばかりなんて、考えただけでも切なくなる。
受験がそのきっかけとなるケースがとても多いのがとても残念だ。
偏差値とか進学先とか、受験勉強なんて、
人生のいち場面・いちジャンルに過ぎないのに、といつも思う。
僕がこの仕事をしているのは、少しでも子供の味方になってやりたいからだ。
いまだから僕も理不尽な思いを言語化できるが、
それができないで追い詰められてる子供たちの弁護士になってやりたいからだ。

一般に「子供のために」と極端なことをしてしまう大人は、
自分の知識と経験という二重の牢獄に囚われている。
「親(教師)はこういうものだ」
「子供はこうあるべきだ」
「人生で必要なものはこれとこれ、それは無駄だ」
…等々、大人が自分の知識と経験だけを根拠に正解だと信じ込んで、
子供に押しつけるそれらは、論理的ではあっても客観的ではなかったりする。

だとしたらそれは、ただの「信仰」でしかない。
第三者の立場からいくら話しても埒があかないことがあるのは、
それが極めて強い「信仰」に他ならないことを示している。
選択の余地なく生まれついた家庭で、親と同じ「信仰」に染め上げたとして、
それは理想と呼べるのか。
「洗脳」と呼ぶべき行為ではないのか。

親として子供に希望や願望を抱くことは自然なことだが、
行き過ぎてしまっては子供の人格も人生も否定してしまうことになる。
何より、子供は親のクローンじゃないし、
子供の人生は親のリターンマッチなんかじゃないのだ。

そう、子供は子供であって、自分ではないのだ。

伐採

2020-01-31 10:17:15 | 特選いぶたろう日記
私たちの古巣がまもなく最終日を迎えます。
たがいによきライバルとして
ちかくにいたからこそ私たちも頑張れました。古巣さん
のいないこれからを思うと寂しさでいっぱいです。
勝手なお願いですが、あの建物は壊さないでください。
チャレンジャーの私たちからスマイルを込めてさよおなら。

言葉の力

2019-11-11 01:16:15 | 特選いぶたろう日記
若者が強がったり、ニヒリストが突き放したり。
あるいはパワハラオヤジが面倒臭がったりして。
とかく安易に「バカ」とか「クソ」とか「死ね」とか、
そういった「パワーだけはある言葉」に頼って片付けてしまうのは
実に見苦しいものだと思うようになった。

どんなご立派な肩書をもっていたって、途端に貧弱なハリボテに見えてしまう。
自分もひょっとしたらいつかどこかでそうだったかもしれない、
そう思うと恥ずかしくてたまらなくなる。
「いぶろぐ」なんてちょっと昔の記事をたどれば若気の至りだらけだ(笑)。

「強い言葉を遣うな、弱く見えるぞ」
という言葉を教えてくれたのは誰だったか。
まさにそういうことだと思う。
人との誠実なコミュニケーションや丁寧な合意形成を面倒がり、あるいは怖がって、
「強くて物の分かっている自分」と
「弱くて物を知らない他者」なんて楽チンな構図を作りたがる。
そしていま支持を集めているいささか乱暴な政治勢力や
その支持者たちにもそんな傾向が見え隠れする。
あんなに無思慮で下品な言動を支持するその心理は、
憧れなのか共感なのか相互正当化なのか。
僕にはコンプレックスの裏返しとしか思えないのだが。

「『バカという言葉を遣わずに、バカを表現する、揶揄する』のがプロの語り手だろ」
そう駆け出しの頃ディレクターに叱られた…というエピソードは伊集院光だったか。
たしかに本当の毒舌はそのものズバリを口にしてしまう蛮勇ではなく、
誰もがモヤモヤしていることを婉曲かつスマートに気づかせスカッとさせる、
そのカタルシスにあるはずだ。
周囲や聴衆はドン引きしているのにも気づかず、
スカッとしているのは自分だけ…なんてのはドシロウトのイキリ芸。
プロの語り手としてはとても恥ずかしい。

「人間の最大の理性とは、全てを冗談に換える力である」
という橋本治の言葉を教えてくれたのは、若くして亡くなった親友だった。
以来、僕の座右の銘となっている。
一番ふざけているように思える人が実は一番理性的で、
いざという時にはそんな心の余裕の持ち主こそが最も頼りになる。
そんな存在でありたいと思いながら僕は子供達の「先生」をやっている。
僕にとっては日々の授業が即ちステージであり、
そこで感受性の豊かな十代の子供たちに聴かせる言葉にはものすごく神経を遣う。
時に引き締め、時に和らげ、でもこの「理性としての冗談」は欠かしたことがない。
局面によっては非常に難しいけれど、うまくハマればスッと肩の力が抜ける。
涙を流しながらだって笑える。
笑えたならもうあとは何の心配もない。

僕は生まれてこの方「人前で話す」ということに関しては、
プロにも負けない矜恃をもって臨んできた。
見映えばかりで内実の伴わない不誠実な美辞麗句、
あるいは安直な分断と攻撃だけを目的とした暴力的な罵詈雑言に、
僕は何らの意味も見出せない。
真摯に紡がれた本当の意味での「言葉の力」をこそ僕は信じる。
僕の教え子たちにも、僕の息子にも、
この信念は受け継いでもらいたいと思っている。

「何を話すかが知性、何を話さないかが品性」
これが最近Twitterで出合えた、語り手の理想を端的に表した言葉。
僕はここに「どれくらい聴けるかが理性」という一句を付け足して、
自戒としたいと思っている。

休暇明け8日ぶり職場復帰

2019-09-09 11:03:13 | 特選いぶたろう日記
校則違反に対する執拗さと同じ程度の熱心さで、
学校にはいじめ防止・対策をきちっとやってもらいたいもんだ。

交通違反に対する執拗さと同じ程度の熱心さで、
警察・検察には婦女暴行事件や政治汚職への捜査・立件を
ビシッとやってもらいたいもんだ。

韓国に対する執拗さと同じ程度の熱心さで、
マスメディアには自国の腐敗政権に対する追及を
みっちりやってもらいたいもんだ。

どうでもいいルールにはやたらうるさい割に、
重大な影響を及ぼす大原則にはものすごくいい加減。
他者の失策・違反・不作為に関しては異様なまでに不寛容な割に、
自分については底抜けにだらしない。
特に組織の大小を問わず権力者には顕著。
エライ人や加害者側には過剰に忖度するくせに、
弱い人や被害者側にはまったく遠慮会釈なし。

つまり、何をやったかよりも誰がやったかで断罪するかどうかが決まる。
批判するにも意見を言うにも妙に自制的・調和的であることを求められ、
やれ言い方がどうの、立場がどうの、根回しがどうのとうるさいし、にらまれると面倒くさいからみんな口をつぐむ。
結果、誰もが問題を認識しながらスルーされ、
深刻な問題が起こるまで放置される。
政治も経済も五輪も原発も虐待も少子化もインフラ崩壊もみんなそう。

何が起きたってだーれも責任をとらないでうやむやにするか、
誰か悪役をでっちあげてみんなでぶっ叩いて溜飲を下げる冴えない世の中だ。
イメージと虚像がすべての時代、
家でテレビやスマホばっか見てるととことんイヤになる。
休みもいいけど(すごくいいけど・大好きだけど)、
やっぱり僕は僕のポジションで社会に対峙していかないと、
生きる張り合いも甲斐も感じられにくくなるなあと思う。

さて僕は、いぶろぐ執筆に対する情熱と同じ程度の熱心さで、
自分の仕事をしっかりできるだろうか。