いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

当たり前の追憶

2019-09-28 16:02:08 | 超・いぶたろう日記
どんなに当たり前で普通に思える一日であっても、
いつか懐かしく思い出し、もう二度と戻れないことが
たまらなく寂しくなる時が来るのだろう。

…なんてことを思ったのは、我が家の老犬あずきの散歩中のこと。
14歳半という老齢で持病もあり、
おそらくは一緒に居られる時間も、残りそんなに長くはない。

病気をしてしばらくはあまり散歩も行きたがらなかったのが、
最近は毎日ではないにせよ何かとせがむようになり、
なるべく応えてあげるように心がけている。

というのも、先に亡くなった愛犬ミルコのことがあったから。
なくなる三ヶ月前から足腰が立たなくなり、散歩にも連れてってやれないまま、
一日中家の中でしんどそうに床を這い、やがて力尽きてしまった。
あんなに散歩が大好きだったミルコ、どんなにつらかったろうか。
大きくて重いけど、抱き上げてでも外に出してやればよかったといまも悔やんでいる。

暑かったり寒かったり雨だったり眠かったりで、犬の散歩は時に面倒だ。
でも、連れてってやらない限り彼らは出歩くことができない。

面倒なときはこう考えるようにしている。
亡くなった数年後に、もし1日だけ生き返ることができ、それが今日だとしたら。
ミルコが帰ってきたらそりゃもうイヤってほど散歩に連れてってやる。
目の前にいるあずきだって、後々でどんなに連れてってやりたくてもそれができない、
たまらなく寂しく思い出す日がいつかくるはずだと。

老犬あずき、歩くの遅い。草ばっか食べてる。
においばっか嗅いでる。大した距離歩けないくせに時間かかる。
帰りはたいてい抱っこ(歩くの疲れるとせがんで動かない)だ。

でも、このうえなく大事なひとときなんだ。
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主張しないセーフティ

2019-09-25 19:26:48 | 超・いぶたろう日記
「何を言ったか」よりも「誰がどんな風に言ったか」で腐したり、
背後の何かを訳知り顔に疑ったりすることで、
語られた問題の本質には眼を向けず、
都合の悪い事情や具体的な解決策には触れないでいるのが、
この国の「地位ある大人」の流儀であるようだ。

Twitterなんかを眺めていても、
言い方がどう、怒りでは変えられない、背後が云々…等の「批評」は多く見かけるが、
当の環境問題そのものに対する異論反論、自説開陳はとんと見当たらない。
少なくともこの点で日本の大人の多くは、
スウェーデンで自分の考えをはっきり述べるという教育環境のもとに育ち、
それを実践した16歳の少女に及ばない。

自分の考えを明確に主張することよりも、
空気を読み、波風を立たせないことが優先される。
明確な批判や反論は遠ざけられ、エライ人の立場を慮る方が重んじられる。
具体的な方針や施策よりも雰囲気・イメージが大事。
そんなだから、あんな政権が維持され、あんな環境大臣が生まれるわけだ。

怒りや悲しみだけで突き進むのはもちろん危険だが、
かといって理性や論理だけで片付ける小利口さは何らの解決ももたらさない。
大概は冷笑や皮肉でしかなかったりもする。

「唯一の正解」があることを前提とする日本の教育では、
みんなと違うことが「間違い」であり「恥」だとして極端に恐れるマインドを生む。
だから環境問題のように「唯一の正解がない」ものについては、
「自分が正解だと信じるもの」を主張するよりないのだが、
日本人は少数派に陥ることで「不正解」とされることを忌避してか、
その立場や主張を明らかにすることが少ない。
「どちらとも言えないですねえ」「今後も話し合って…」みたいなグレー決着を好む。
そんな誰の顔も潰さない、誰の恨みも買わない、「調整」に慣れた日本の大人達には、
あれほど鋭く明確に主張する若者が目障りに映るのかもしれない。
「何にも知らないで」「感情的に喚いてる」と上から腐すしかないのだろう。

本当の知性とか理性のもたらす余裕って、
年齢・性別・立場・肩書き・学歴・表現の巧拙・国籍・人種などを超えて、
相手を正しく理解しようと努める姿勢にあるはずだ。
あるいはそこから泥臭く解決策を模索していく根気と知恵か。
僕にそれがあるかと言われると甚だ心許ないが、
お手本になる人は必ず居るので、見倣いたいとは思っている。
そういう謙虚さくらいは、誰でも心がけていていい。
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休暇明け8日ぶり職場復帰

2019-09-09 11:03:13 | 特選いぶたろう日記
校則違反に対する執拗さと同じ程度の熱心さで、
学校にはいじめ防止・対策をきちっとやってもらいたいもんだ。

交通違反に対する執拗さと同じ程度の熱心さで、
警察・検察には婦女暴行事件や政治汚職への捜査・立件を
ビシッとやってもらいたいもんだ。

韓国に対する執拗さと同じ程度の熱心さで、
マスメディアには自国の腐敗政権に対する追及を
みっちりやってもらいたいもんだ。

どうでもいいルールにはやたらうるさい割に、
重大な影響を及ぼす大原則にはものすごくいい加減。
他者の失策・違反・不作為に関しては異様なまでに不寛容な割に、
自分については底抜けにだらしない。
特に組織の大小を問わず権力者には顕著。
エライ人や加害者側には過剰に忖度するくせに、
弱い人や被害者側にはまったく遠慮会釈なし。

つまり、何をやったかよりも誰がやったかで断罪するかどうかが決まる。
批判するにも意見を言うにも妙に自制的・調和的であることを求められ、
やれ言い方がどうの、立場がどうの、根回しがどうのとうるさいし、にらまれると面倒くさいからみんな口をつぐむ。
結果、誰もが問題を認識しながらスルーされ、
深刻な問題が起こるまで放置される。
政治も経済も五輪も原発も虐待も少子化もインフラ崩壊もみんなそう。

何が起きたってだーれも責任をとらないでうやむやにするか、
誰か悪役をでっちあげてみんなでぶっ叩いて溜飲を下げる冴えない世の中だ。
イメージと虚像がすべての時代、
家でテレビやスマホばっか見てるととことんイヤになる。
休みもいいけど(すごくいいけど・大好きだけど)、
やっぱり僕は僕のポジションで社会に対峙していかないと、
生きる張り合いも甲斐も感じられにくくなるなあと思う。

さて僕は、いぶろぐ執筆に対する情熱と同じ程度の熱心さで、
自分の仕事をしっかりできるだろうか。

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古巣の終焉に思う

2019-09-05 04:04:55 | 超・いぶたろう日記
早いもので、気づけば僕が辞めてから5年半もの月日が過ぎた。
漏れ伝わる限り、あまりいい話は聞かなかったので、
正直、時間の問題だろうとは思っていた。
それがこんな形で僕に伝わるとは、何とも皮肉なものだ。

結果がすべてだと誰かが言った。
そしてすべては、僕の言ったとおりになった。
「勝った」と言えばそういうことにもなるのだろうが、どこか虚しさもついて回る。
思い出の場所には違いないからだ。
さすがにあそこが第三者の手に渡るとなると忍びないものがある。

あの場所には何百人という教え子たちとの思い出がたくさん詰まっている。
建物にだって深い愛着がある。
若かりし頃の僕が11年にもわたって全力で挑んだ汗と涙が染み込んでいる。

30年前に産声を上げたものの、競合他社に圧され、
西東京偏重の本社からは僻地のお荷物教室扱いされていた。
それでも独自のノウハウで確実に支持を集め、
僕が加わってからは在籍400名に迫ろうかという旗艦教室になり、輝かしい歴史を刻んだ。

生徒も講師も、豊かな才能と色とりどりの個性が集い、
無数のドラマを演じたあの教室。
震災では建物が傾き、ひび割れ、泥にまみれ、
それでもスタッフみんなの奮闘で1名の退会者も出さなかった。
業務は山積、深夜どころか早朝に及んだことも数え切れない。
三連泊したことさえある。

記録的な大雪に見舞われた僕の最終勤務日、
教え子や卒業生がたくさん来てくれて、
近所の親御さんが差し入れてくれた鍋を囲み、
朝まで賑やかに別れを惜しんだことも忘れられない思い出だ。

僕の30代のすべてを注ぎ込んだと言っても過言ではないその場所が、
いまひっそりと消えていこうとしている。

退職に至る経緯を振り返ると、辛く悔しい記憶もないではないが、
窮屈な古巣を飛び出し、新たに自らの理想を体現した場所を
自らの手で築いたいまとなっては、もはや怒りも怨みもない。

あるのは何とも形容しがたい寂しさだけだ。

厳粛な結果をもってすべてが証明されたという漠然とした感慨が、
胸中にあるのは否めないが、それを勝利と呼ぶのはどこか虚しくもある。

名実共になくなってしまうあの場所に感謝と敬意を込めて、
せめて舞台を変えてこれからも続く僕の教室での物語を大切にしていこうと思う。
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リベンジ完了

2019-09-03 05:33:24 | 超・いぶたろう日記

ひょんなことから、とても見覚えのある売却物件を目にしてしまったのだった。
そしてそれは、5年越しのリベンジ完了を告げる完全勝利のゴングでもあったのだった。


別にそれが目的・目標だったわけじゃないけど、結果がすべてを証明してくれたようで、実に感慨深い。

「腐った葡萄」の木を切り続けた結果、荒野になってしまったんだね。
それが工夫ひとつで絶品のワインになるとも知らずにね。

Comments (3)
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