いぶろぐ

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アンチ福沢諭吉宣言(万札除く)

2005-12-16 04:35:32 | 似非哲学の部屋
確かに、勉強は大事だ。
それは身をもって知っている。
学歴なんていうケチなもののためだけじゃない。
「知」こそは武器だからだ。

強靱な肉体が病を遠ざけるように。
美しい容姿が異性同性を問わず憧れを呼ぶように。
豊かな心が人々を惹きつけるように。
「知」もまた自分を守る。新たな展開を呼ぶ。周囲を惹きつける。
「知っていたから救われた」「知らなかったから損をした」
なんて例は古今東西掃いて捨てるほどある。
「知」こそは人生において自分を有利に導く大きな要素なのだ。

「知」は誤解されている。
天賦のものでもあるかのように。
冷たい人間の専売特許のように。
感情の対極、「理屈」の代名詞のように。
決して、そうではない。
「知」は看板・容れ物として備わるのではない。
そこに血肉があってこそ実のあるものなのだ。

物事を正しい筋道で考えるためには、
できるだけ多くの材料(知識)と、
できるだけ多くの思考パターン(経験)とが必要だ。
「机の上だけが勉強ではない」とはよく言われるところだが、
言葉やデータを頭に入れるだけの、
いわゆる「知識」偏重では融通の利かない
「頭でっかち」な人間になってしまう。
リアルな現実社会に触れること、
自分の耳目で、身体で、心で切り取って感じること、
つまり「経験」の重要性は言うまでもない。

「経験」もまた「知」の一部だ。
ものを「知る」あるいは「識る」手段は、
なにも言葉や数式だけにとどまらない。
職場や学校での人間関係、受験やスポーツでの試練、
大恋愛・大失恋、家族や友人の死、
こういったものが人生に刻み込むものはどんな本にも勝る。
その歓びや哀しみを「知る」か「知らずにいる」かでは、
人間性の深みという面で天地ほど差が開く。
悲喜こもごもの人生経験は、使い込んだ革製品のように、
味のある人間性を醸し出す。

では「経験」しなければ、それらは決して理解できないであろうか?
また、「経験」さえすれば、それらは必ず理解できるものだろうか?

経験はただ重ねればよいというものでもない。
どう咀嚼するか、どう理解するかが大切なのだ。
このとき、「知」が大きな役割を果たす。
例えば、「失恋」を考える。

大好きだった人に思いを告げる、けんもほろろに断られる。
A)自分に何が足りないのか考える
B)相手の冷たさに幻滅する
C)相手を逆恨みする
D)手に入れられるまで追い回す
E)とっとと次を探す

その他無数の選択肢が考えられる。当然、正解などは存在しない。
誰もが頷ける「美しい答え」はAだろうが、
現実問題、B~Eはよく耳にするところだ。

恋愛というのは欲深なエゴイズムと、
マゾヒスティックな自己犠牲との危うい綱引きだから、
理屈も判断も行動もまた、利己的なものに陥りがちである。
しかし、恋愛はもちろん相手あってのものだから、
そのままではトラブルになる。
そこで「思いやり」や「客観視」、
言うなれば「社会性」の基礎となるべき思考が求められるのだ。
だが、この過程は誰でも容易に辿れるものではない。

野球でもサッカーでもいい、初心者がいきなり試合に出て、
活躍できるなんてのはおおよそ考えにくい。
そういう人種もいないこともないけれど、
多くの人間には恋愛という試合に臨む前にも、
やはり「キャッチボール」や「リフティング」が必要だ。
練習があって初めて、試合中のプレイのひとつひとつの意味がわかるし、
スムーズにこなせるというものだ。

机上に於ける「知識」の吸収は、これに当たる。
恋愛だったら恋愛をテーマにした多くの作品に触れて、
前もって実害を伴わない「疑似体験」をすることで、
同じ経験に対しても理解の及び方が全く違ってくるのだ。
少なくとも、自分の身勝手な理屈や行動に対しての感覚は鋭敏になるだろう。
こういう形で「知識」と「経験」がリンクすることで、
真の意味の「知」が形成されるのだ。

そして「知」は「余裕」につながる。
世の中の現実というものは常に、
理想や理屈と相反する部分を抱えているから、
それらに煩わされない心のゆとりを持てるようにもなれる。
しかし悲しいかな、未熟なる「知」は「無知」を怖れ、憎み、時に害する。

かくいう僕もまた大なり小なりそういう言動をとってきた部分があるから、よく解る。
自分で認められるような「知の巨人」に対しては敬意を表するし、
逆に「謙虚な無知」には、礼をもって寛容な態度で接せられるものの、
知ったかぶり、片手落ち、自己完結、独善的でありながら
『傲慢な無知』に対しては、容赦なく批判する面を持ち合わせている。
いわば、自分もある意味、傲慢なわけだが。
僕が人から疎んじられる最大の点はそこだろうという自覚はある。
僕と袂を分かった人間のほとんどが頷くはずである。

しかしながら教師という職業は、
プロとしてこういった自分の主観を超越したところに成立させないといけない。
教師がものを知っているのは当たり前。
生徒がものを知らないのは当たり前。
だから見下すのはおかしな話。
だから間違った知識を持った生徒をただすのは教師の義務。
一方で教師が生徒にものを教わることだって、あっていい。

こういうプロとしての矜恃や美意識を持っていたかどうかで、
京都の事件を起こしたエセ塾講師と僕とは、本質的に違うのだ。
彼は真の「知の余裕」に気づかなかった故に、
自分を見失い、そして負けた。
それは勝手だが、子供を巻き込んだことが僕には本当に許せない。

いくら教えても成績の上がらない子、
いくら注意しても行動の改まらない子というのは確かに、いる。
しかし彼らはひょっとしたら、
「受験勉強」という一元的で無機質なフィールドでさえなければ、
すばらしい才能や人間性の持ち主たり得たかもしれないのだ。
この視点は欠かしてはいけない。
勉強は重要な前提ではあるが、すべてではありえない。
この点で、福沢諭吉以来の功利主義的な学問を軸に置く、
現代の学歴偏重社会の歪みを感じずにはいられない。

僕と出会えた彼らにくらいはせめて、
真の意味の「知」というものを体得してもらいたいと願うことしきりである。
塾の先生としては言うべきセリフではないかもしれないが、
僕は決して学問「だけ」をススメたくは、ない。

僕もまた、今なお真の「知の余裕」の境地を目指して闘っている。

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1 Comments

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顎外れるかと思いました。 (のん)
2005-12-21 12:29:00
息吹さん、すごい人生歩んでらっしゃるんですね・・・。

ビックリしすぎて口閉まりません(笑)

息吹さんがどーして人の心を鷲掴みにして離さないステージングが出来るのか

なんとなーくわかったような気がしました。



いやぁ、ヘタな本読むより、いぶろぐ読んでる方が

よっぽど面白いし勉強になりますねっ。





でもって。小豆ちゃんも息吹さんもいい顔してますねーv

元気そうな息吹さんの笑顔になんだかホっとしました。
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