いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

凧糸

2018-11-16 01:09:55 | せんせいとよばれて
どうも変だな?と思って声をかけ、話を聴いてみる。

生徒の活動パターンがイレギュラーになっている、
または明らかに生活リズムがおかしい、
さらにはやるべきことがほとんどやれていない。

そんなときは、まず間違いなく家庭に何らかの問題があり、
保護者の管理・監督がおろそかになっている。
ネグレクトとまでは言わなくとも、
少なくとも保護者の興味関心が子供に向いていない。

それが単なる親のエゴであれ、
多忙や単身赴任などの時間的・物理的な理由であれ、
「誰にも関心を払われていない子供」は糸の切れた凧。
どこへゆくかわからない。
ほとんどは自身の未熟で安易な判断で、
ラクな方へ流れ流されてゆく。
将来の可能性もどんどん喪っていく。

「親なんか関係なく、おれは自力で自分の道を切り開いたよ」
なんてうそぶく人もいるが、
それは陰に陽に見守ってくれた大人の存在を都合良く忘れているか、
単にラッキーだっただけ。

子供には大人が必要なのだ。

ちゃんと耳を傾け、理解してくれる大人が。
憧れ、手本になってくれる大人が。
危険から護ってくれる大人が。
本気で叱ってくれる大人が。
無償で愛してくれる大人が。

家庭も学校もその役割を果たせないというのなら、
僕らがやるしかないじゃないか。

学習塾としてそこまでやるのが正しいのかどうか、そんなことは知らない。
ただ、僕はそこまでやるし、ウチはそういう教室でありたいというだけ。
だって子供達にとっては、僕らもまた斉しく「先生」なのだから。
せめてその呼称に込められた期待に相応しい存在でありたいよね。

2割引の2割増し=2割増しの2割引

2018-11-11 23:35:25 | せんせいとよばれて
小中学校レベルの勉強といえど、
一律に「絶対これじゃなきゃダメ」と言い切るには相当の慎重さが必要なはず。
漢字の書き順しかり、足し算掛け算の順序しかり。
唯ひとつの解法・解釈・解答を押し付けるのは
学問的態度としても教職の姿としても横暴というもの。
多様な視点も思索もなしに、多様な価値観が育つ訳がない。

日本の、特に公立教育は、
小中高と徹底して同調圧力の中で管理しやすい人間を大量規格生産し、
大学に入ると掌返して
「最近の若者は個性がない、自分の視点がない」
などと言い放つ。
どの口が言うかと思う。

(…もっとも、社会に出たら出たでまた、「組織の中で個性など要らない」とか言われる訳だが…)

一人一人の疑問は大切にすべきだし、
教える立場の人間も「先生」という「権威・権力」で説伏するのではなく
「何故そうと言えるのか」を明確に示すべき。
異論に対しても思考停止と盲従を強いるのではなく、
考えられるすべてを俎上にあげた上で、より合理的なものを選択していく、
その過程をこそ大切にすべき。

とある生徒によれば、
「底辺×高さ÷2」を「高さ×底辺÷2」の順で計算しただけでバツとされるそうな。
ならば中学で習う「円周=2πr」はバツということにならないか。
これに限らず、公立小中はアホみたいに狭量な指導が相も変わらず幅を利かせていてイヤになる。
「思考力」「表現力」を重視するという大学入試改革もいいが、
足元がこれじゃあな…と暗澹たる気持ちだ。

もちろん、僕の教室では何でもあり。
きちんと根拠をもって正答に辿り着けていればOK。
一般的な解法とは違う解き方を見つけた子は大いに褒める。
みんなそれだけでノリノリで取り組むよ。

「そうかもしれないね」
「それもいいね」
「何でそうだと思う?」

こんな言葉だけでいいのになぁ。

できない人の気持ちはわかるかい

2018-11-08 23:38:12 | 超・いぶたろう日記
それが語学であれ、数学であれ、スポーツや楽器であれ、
何らかのスキルについて「できる人」、
もっと正確にいえば「自分をできる側に位置付けたい人」の言説は、
「できない人」にとってはイヤミにしかならないことが多いなあと感ずることしばしば。
アドバイスのつもりがいつの間にか、
単なる自分の才能か努力量か環境の自慢になってるんだよね。
ほんと無自覚に。気をつけないと。

「人は経験を離れてものを言うのは難しい」

いやまったく。
自分の経験だけを基準に何かを人に押しつけたり、
決めつけたりしてちゃ、いい先生にはなれないですね。
ましてや自慢話なんかしてちゃ。
誰もが(職業としての)「先生」になりたい訳じゃないけれど、
ちょっとした話の流れで「先生」的な立場に置かれることは多々あるわけで。

この辺の機微に疎いままだと、
ひょっとしたらいい親(子供とコミュニケーションがとれている)にもなれないかもしれない。
子供はそういうとこ敏感だからね。
マウンティングという言葉を知らないだけで、
この大人が本当に自分のことを思ってくれているのか、
単に思うとおりに従わせたいだけなのか、
あるいは言いたいこと言ってるだけなのか、
好き嫌いというレベルではあるけれども、すぐ嗅ぎ分ける。
幸か不幸か、僕はまだ「人の親」をやっておりませんので、
経験なく勝手なことを言っておりますけれども。

以上「人にものを教えること」を仕事にしている立場として、
自戒を込めて書いてみただけです。
どうも僕の言説は、
あたかも特定の誰かを批判しているみたいに勘違いされやすいようなので。

既視感と戦ってみる

2018-11-01 22:44:36 | 超・いぶたろう日記
歳をとったせいなのか、生来の気質なのか判らないけれど、
「既視感」のある読み物・言説に対して耐性が低くなっている…というか、
ほぼガマンがきかなくなっているような自覚がある。

「あ、これ似たようなの読んだことあるな」
「あ、これたぶんこういうオチだな」
というのが読めると、早送り的に雑に読み流すか、酷いときには閉じてしまう。

辛抱強く読めば、ひょっとしたらそこには今までになかったような
視点とか気づきをもたらしてくれるものがあるかも知れないのに、だ。
どうせこの程度の話だろうという、ある意味の驕りであるかもしれない。

もちろん「どいつもこいつも同じようなことばっか書きやがって…」などと、
書き手を批判したいわけではない。
読み手としての僕の、
「自分のもっているものだけであれこれ断じようとしてしまうクセ」について
自省的に思うところがある、という話。

自分の書くものについても
「既視感のある文章」「手垢にまみれた表現」
は極力避けたいと願ってはいる。
それでも、これだけ多くの人々が
自由に自分の私見をネットに載せて発信できる時代ともなれば、それは実に難しい。

読み手としても書き手としても、これはあくまで自分自身の問題なのだ。
感性の経年劣化といえるかもしれない。
経験とは即ち老化でもあり、魂の牢獄にもなり得る。
これまでに形成してきた自分の価値観や身につけた知識・論法などが牢獄となり、
僕はその中で頑迷な老人になってはいないか。

ならば、既視感のないものを目指してさらに自分を磨き上げるか。
若かった頃はそういう気概を持っていたような気もする。
さりながら昨今の僕ときたら、
世間を騒がせている問題についてコメントしようかなと思っても、

「まあ、僕が言わなくても似たようなことはどこかの誰かがもっと鋭い筆致で、各方面に配慮した形でスキも無く書き上げているだろう」
「充分な取材や考察もなく、隙間時間にちょちょいと書いたようなことに、自分の盲点を指摘されたり、まったく違う立場から感情的な反論を喰らったりするのは面倒だな」

というような思いに囚われてしまうのだ。
これを精神の老化と言わずしてなんというのだろう。

というわけで、社会で共有されている話題・問題・アジェンダについては、
よほどの思いが湧かない限りあまり書かなくなってしまった。
解放されたジャーナリストしかり、渋谷のハロウィン騒ぎしかり、だ。
こんなことで誰かと何の利益にもならない論争とか、面倒なことこの上ない。
書くのはだいたい趣味か、小ネタか、日記(感慨の記録)か、になってしまう。
政治は現状あまりにも酷いので割とよく書く。
まあ、ブログにどんな文章が相応しいかは、よくわからないけれど。

もともと論文形式の執筆は苦手で、
フリーのコラムとかエッセイの方が得意なのだけれど、
最近ではそれもあまり筆が進まないような気もする…とか言いつつ、
今日も既にこれだけの量を書いてるんだからまだまだ行けるような気もするが、
僕はどこへ行こうとしているのだろうか。

僕にとっての「既視感」は、ただありがちな、
凡百の、という意味だけに留まらず、
判で押したような「大人の良識」をこれでもかこれでもかと
ひけらかしてくるような文章にこそあるのかもしれない。
ヤセガマン至高の価値観というか。一番ガッカリする結論。

ほら、こんなに腹の立つ問題にも、
私は大人ですからこんなにスマートにかわしていますよ、
賢明ですからむやみに敵もつくりませんよ、
どうです?私、大きな人間でしょう?
…なんて言わんばかりの文章はよく目にするような気もするし、
マネしたくなる人も多いのかも。
既視感たっぷりの良識的な話なんて、
ただのイヤミか説教だ(笑)。
寝るよな。

ともあれ、年齢相応に柔軟に、割り切ってみるのもいいか。
即ち、自分の書くものに読み手が既視感を抱いたとしても、
僕なりのカラーというかニオイがそこに感じられれば。
たとえば、パスタであってもソースの工夫次第で
「何だパスタか」という既視感では片付けられなくなる。

いつでも新たな切り口や表現を提供しようと思ったら、
よほど物事を斜めから見なくてはならないし、
そういう癖をこじらせている人の厄介さというのも(自戒込みで)よくわかる。
ならば、既視感というよりは「共感」を誘う文章であればよいのかも。
とりあえずの目標地点はそこかと。

てなわけでその途上にある僕の今日の感慨として、
腰痛ってほんとツライよね………って、しまった、
精神ばかりか身体の老化をさらけ出してしまった。
既視感たっぷりのオチでスマヌ。