息子が次々と「初めての○○」を達成するので、
何とか記録に残そうとカメラを向ける。
息子にしてみれば何もかもが新鮮なチャレンジ。
記憶には残らなくとも、こういう写真が幸せな日々の証として、
いずれ大人になった息子の心を温かくする日もあるだろう。
いまの僕がまさにそうであるように。
親という生き物は、どうしてこうも世話焼きなのだろう、と思っていた。
子供が明らかにイヤがっているのに、手を出し口を出ししないと気が済まない。
あるいはもう自立を促さなければならない局面なのに、
子供が明らかにイヤがっているのに、手を出し口を出ししないと気が済まない。
あるいはもう自立を促さなければならない局面なのに、
あれやこれやと手を回し、お膳立てし、尻を拭く。
それを続けている限り、親離れなどできようはずもないのに、
親にはまったくといっていいほどその自覚がない。
なんならウチは放任ですなんて、悪びれもせず言い放つ。
そのくせ、まったくいつになったら手がかからなくなるのか…なんてコボす。
「手がかからない」=「親の思う通りに動く」だとしたなら、
「手がかからない」=「親の思う通りに動く」だとしたなら、
そんな日は永久にこないと言っていいだろう。
あいつは生意気だ、社会で痛い目に遭って学べ…とかなんとか言いながら、
あいつは生意気だ、社会で痛い目に遭って学べ…とかなんとか言いながら、
ちゃんと喰ってるのか、寝てるのか、体は大丈夫かと気を揉む。
まったく困った生き物だ、理解に苦しむ…と思っていた。
…自分が親になるまでは。
子供が何らかのトラブルやメンタル不調を抱えている場合、
経験的には体感8割程度、親子関係や家族の不和に大きな原因があるようだ。
(決して『親学』的な意味ではなく…僕はああいうの大嫌い・笑)
それがまた皮肉なことに、
それがまた皮肉なことに、
親が余計な手出し口出しをすればするほど子供の心は離れていくし、
逆にまったくの無関心でいても子供は荒む。
親子関係にも様々あるし、万能の一手というものもない。
親子関係にも様々あるし、万能の一手というものもない。
難しいのには違いないが、ともかく親の方から改善を図るしかない。
親からしたらすべて良かれと思ってやってること。
だけに、それが裏目に出てしまうことをなかなか認められない。
理屈ではわかっていても、自分の意にそぐわぬ子供の姿を見ると、
だけに、それが裏目に出てしまうことをなかなか認められない。
理屈ではわかっていても、自分の意にそぐわぬ子供の姿を見ると、
ついついうるさく言ってしまうのが性だ。
第三者から見ると実に理不尽な生き物なんだけれど、
いざ自分が親になってみると、何となくわかる気がしてくるから不思議だ。
ウチはまだまだこれからなんだけど、このわずか一年足らずの間にも、
親の思いとはどういうものかと、考えるヒントは色々得たように思う。
ついこないだまで、ウチの子はミルクしか飲めず、
寝てばかりで、寝返りさえ打てなかった。
抱っこして子守唄でも歌ってやればすぐに寝ついた。
…はずが、気がつけば歯が生えて、離乳食を様々に食み、
蒸しパンやバナナをねだり、自らつかんでかじり、
起き上がっては部屋中を這い、あまつさえ立ち上がる。
最近は横抱きにすると身体を捻じって嫌がる。
縦抱きで頭を肩に委ねて寝る。
日によってはベッドに転がしておいた方が早かったりもする。
わずか1年足らずの間にもこんなに変化がある。
同じ「赤ちゃんだから」という認識のままでは、
たぶん息子の意思とズレてしまうこともあるだろう。
ついこないだまでは…こうだったのに…とはいつも思う。
この「ついこないだまで」そうだったのに、という感覚が親なんだろうと思う。いくつになっても、たとえ成人しても、ずっとそれは続く。
だからいつまでもいつまでも気がかりで仕方ない。
そして子供の成長と親の認識がズレていく。
関係が良好な親子は、このへんの補正がうまいんだろうと思う。
親は子供を認めてみせ、子供は親を立ててみせ、
時折くだけた調子で互いの失策を笑い合う。
自然体でそんな風に成熟していく親子もまた、たくさん目にしてきた。
ウチもまたそうでありたいと思う。
親もまた、子供によって成長する…とはよく言われるところだけど、
本当にそうなんだろうねえ。