いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

ドラムの体験レッスンに行ってみる

2024-05-25 23:27:13 | 超・いぶたろう日記
息子と一緒に。
ところが、案の定あまりの大音量に息子ビビリ、開始15分でギブアップ。
そりゃそうよね、父も久々の音量にグッときたもの。
あんな大騒音の中に数時間、週3回、何年もいりゃあ、そら聴力ガタガタにもなるわなー。

父は二十年ぶりくらいに生ドラムにさわる。
もう手も足も動かない。何もできなくなってる。
けど、スネアもキックも出音は経験者のそれだね、と先生にお褒めをいただく。
嬉しい。

僕のドラムは、学生時代に見よう見まねで齧っただけのど素人レベル。
それなりに何曲かは叩けるけれど、ピアノと同じで何もかも我流なので、かなり強引なスタイルなんだろうと思う。手癖フレーズしかできないし。

まして20年もの間、触ってすらない。
それでもちゃんとスネアはイイ音したし、ダブルも踏めたし、やっぱ楽しい。
本業の歌もいいんだけど、あれこれ考えちゃうので、シンプルに音を出すことを楽しめるのはやっぱドラム。ドラムでバンド組みたいなー。

せっかくなので、スティックの握り方とか、苦手なロールとかダブルストロークとか、手足バラバラの練習フレーズとか、基本的なところをいっぱい質問して教わった。すっごい楽しかった。マジで通ってみようかな…。

スタジオから出ると、息子が電ドラを楽しそうにポコポコやってた。そーか、おまえはまだそっちが楽しいよなー。買っちゃおっかなー。
自分のためにはちょいと高過ぎる買い物だけど、息子のためとなれば……。
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人生後半の大目標である

2024-05-15 16:26:27 | 超・いぶたろう日記
蛇足ながら、先ほどの投稿に付け加えて。

自分大好き、自分が一番の「無関心保護者」も問題だけれど、
もうひとつ「あなたのために」「よかれと思って」
ハマってしまう「過干渉」「共依存」もまた厄介だ。

どうも、子育てとは
「親が『成功』につながる『正解』のルートを用意してあげること」や、
「できるだけ多くの荷物をあらかじめ親が持たせてあげること」
だと勘違いしている人が多いような気がしている。

「中学受験をしないと負け組になる」だの、
「偏差値○○以下の学校には行く意味がない」だの、
「これからの時代□□をやらせないと…△△スキルを身につけさせて…」だの、
そんなこと言って、塾と習い事で埋め尽くすようなアレ。
子供が全部楽しんでやってれば何も問題ないが、
子供以上に親が必死になっちゃって、
疲れた子供が消化不良起こしちゃってるようなアレ。
常に比較対象の視線でしか見ていなくて、
何かあるとすぐに適応障害だ、発達障害だと騒ぐアレ。

親の考える「正解」なんて所詮は親の価値観でしかないし、
時代も環境も異なる子供にとっても「正解」かどうかなんてわからない。
誰かに言われたとおりに忠実に従って、
手に入れた「成功」なんて脆いもんだがなあ。

それよりは、常に自ら考えて、自分の手で選び、
自分の足で歩むことが大切なんじゃないか。
自分の幸福は自分で決める、
それこそが本当のしなやかに生きる力なんじゃないか。

そりゃあ、子供のうちは未熟だし短慮だし、痛い失敗も多いだろう。
辛い経験もするだろう。
でも、それらがみな自分の主体的な選択の結果なら受け止めることができる。
その後の糧にだってできる。

僕だって誰のいうことも聞かずにやりたいことしかやらなかったし、
時間もイイカゲンだったし、勉強もサボってたし、浪人も留年もした。
マトモに就職もせず、30までバンドやってた。
でも母は(父は不在でした・笑)そんな僕を見捨てもせず、
ずっと信じて見守ってくれていたからいまの僕があるのだと思うし、
振り返って我ながらしょっぱいな、恥ずかしいなと思うことはあれど、
これまでの人生に後悔はないし、自信と誇りを持っている。
なんだかんだ食えているし、家庭も築けた。
自由に生きてきて、他社との比較によらず充分に幸せだ。
きっとこれからも死ぬまで堂々と生きていけるだろう。
そういう自分になれたのは母のおかげだ。
とても感謝している。

だから僕もそういう親になりたい、頑張ってなろうと思っているだけ。

目先の利害・損得・都合・感情・偏見に流されず、子供を信じられる親。

何かあればいつでもきちんと話し合いができ、
僕の用意した答えを無理に押しつけることもせず、
子供に自分で考えさせられる親。

子供の選択や決定を尊重できる親。
それでも、ずっとちゃんと見守っている親。

これもまた親の勝手な価値観と言われてしまえばそこまでだが…。
(そういうひろゆき的な混ぜっ返しは議論のためのエセ議論であって、本質的でないので無視するけど)

いやこれ、メッチャクチャ難しいよ…………。

でも、だからやり甲斐あるよなって話なんだけどね。
それにさ、いくつになっても親子仲良くいられるの、普通に最高じゃん。
僕も来春で五十歳。人生ここからの大目標だな。
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「子は親の鏡」は真理

2024-05-15 10:21:01 | パパと呼ばれて〜親バカデレデレ日記
仕事柄、長らく小中学生およびその保護者と接してきて、
さらにここ最近は保育園を通じて、
0歳から5歳くらいまでの子たちとも接してみて、
もう確信に近いんだけど、
「子は親の鏡」はまずまちがいないですね。

どういう保護者あるいは子供がいいとか悪いとか、
そういうことは簡単に言えないけれど、
本当に良くも悪くも子供の人格形成には、
保護者の在り方がまんま反映されている。
単にコピーとかいうことではなく、その反動も含めて。
そりゃ普段から保護者がそういう接し方してればそうなりますよねという感じ。

言葉遣いに表れる品性や思いやり、行動に表れる理性や自制心、そして主体性。
それらが自覚はされていなくとも躾や習慣として身についていたりなど。
乱暴な言葉遣いをする子供の後ろには、
必ずそういう言葉を遣っている保護者がいるし、
乱暴な行いをする子供の後ろには、
必ずそれらを看過している保護者の無関心がある。

なぜこんな素敵な保護者からこんな乱暴な子供が?
…ということはまずないし、
(あったらそれは子供の幼さか照れ隠し、あるいは保護者の外面の巧みさ)
一方でやはりこの保護者あってのあの子供なのだな…と、
深く納得させられることもよくある。

逆に問題を抱えた子供の保護者に会って話してみるとほぼ100%原因がわかる。
悲しいことに当の保護者は、
自分が原因であることに無自覚である場合がほとんどだけれど、
その伝え方は難しいし、伝えたところでおそらく理解されない。
本人は「お金をかけて」「子供のために」色々やって来たつもりでいる。
あるいは「本人のやりたいように/自覚に任せて」いる体で、
実は自身のこと(仕事・趣味・推し活・美容……)に夢中になっているだけ。
子供には無関心。

そのくせ、成績やら進学にはことさらに過敏で神経質。
過程も見ず、事情も聞かずに、成績だけを見てケチを付ける。
「大人の世界ではな、結果がすべてで…」なんてエラそうに、
効果もタイミングも弁えず説教しちゃう。
もちろん子供は聞いていない。
二言目には「やる気がないならヤメロ」なんて言い出す。
子供の側も売り言葉に買い言葉、
拗れに拗れて誰もが望まない泥沼方面へ…なんてこともよくある。

愛情の反対は憎悪ではなく、無関心だという。
愛している者に裏切られれば簡単に憎悪にひっくり返る。
憎悪していたはずの者から親切にされると容易に好意に変わる。
だけど無関心ばかりは変わりようがない。
「どうでもいい」のだから。

成績や進学先への関心は子供自体への関心じゃない。
スゴイ成績・スゴイ進学を果たしたスゴイ子供の親でいたいだけ。
結局は親の見栄。
子供がどんな気持ちでどんな表情でそれをやっているか、向かい合おうともしない。
そんなことは「どうでもいい」。
求めているのは輝かしい「結果」であって、地道な「過程」はどうでもいい。
課金して済むならいくらでも。
ほうらこれが親の愛。
きっと将来感謝することになるのだから、
いま苦しいとかツライとか、そんなことは「どうでもいい」。

「どうでもいい」扱いを受けた子供に自己肯定感など育ちようがない。
運に恵まれず、望んだ結果が得られなければ、親も自分も自己否定する。
行き着く果ては、自分を粗末に扱うようになってしまう。

子供が自分の思うとおりにならないからと言って、
何らかの大義名分を振りかざしながら
「誰に喰わせて貰ってるんだ」なんて、
前時代的な台詞を恥ずかしげもなく口にする親にはなりたくないなあ。
そんなこと言われたら
「頼んで産んで貰ったわけじゃねえや」って、
そりゃあ言うよ。

子供もまた、保護者が思うとおりにならないから反抗するんだろうけれど、
そこに行き着くまでには何らかの必然的な過程があったはず。
反抗期だから、なんて定型句でごまかしている内は解決は望めない。
あるときまではラクに通った要求が、なぜか条件付きになり、
あるいは保護者の気分次第になり…と、
保護者の側に有利な予告なしの一方的条件変更があったはず。
成長した子供の側が、保護者のそんな恣意的な面に気づき、
その理不尽さを訴えていると理解すべきだろう。

子供のいまの姿は、すべてこれまでの大人達の接し方の蓄積。
保護者の占める割合が圧倒的に高いのは否定できない事実。
子供を責めるばかりでなく、まずは自省すべきだし、
その上で子供の声に耳を傾けてみることが必要だろう。
「そんなこと、言うのは簡単だけどできっこない」
なんて言うのは既にコツコツと長年かけるべき関係構築に失敗しているから。
すべての親子に対して決めつけるようなつもりはまったくないけれど、
そう思わずにいられない事例は数え切れないくらいある。

理想論だと笑わば笑え、有言実行あるのみ。
頑張ろう、パパ業。
いまのうちから、日々の細かなひとつひとつが勝負だな、と思う。
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