いぶろぐ

3割打者の凡打率は7割。そんなブログ。

モエツキテ

2018-07-16 23:32:21 | my lyrics
do you still love me?
no hope remain in me

燃え尽きそうな 灯りを頼りに
まだ歩いてる まだ求めてる
つかみかけた残像に撒かれて

誰もがそうであるように
僕たちはずっと夢見ていた
誰もがそう信じるように
いつかは叶うと思ってた
 
闇夜だからこそ
思い出も輝けるのさ
崩れるなら 一人だけでいい
この胸の奥で
モエツキテ

do you still love me?
no hope remain in me

何度も繰り返してきた
たったひとつの 淡い夢に
苦しんだり 人を傷つけたり


「私がその中から生まれてきた闇よ 私はおまえを焔よりも愛する
 焔は世界を限って ある範囲のためにだけ輝いているが
 その外では何者も 何者も焔を知ってはいないのだ」

 

上を向いて歩けても
涙はやはりこぼれるし
煌めくなら 一度だけでいい
最期に許され
モエツキテ 

do you still love me?
no hope remain in me

すり切れた心を引きずって
まだ歩いてる まだ求めてる
あきらめた世界を横目に

do you still love me?
no hope remain in me

捻り出した つくりものの夢
愛想笑い ただの勘違い
何もない
他には何もない


「もしかしたらひとつの大きな力が
私の隣で動いているかもしれないのだ
 私は夜々を信じる」



(Rebirth 2004/2/7 ibuki/Shunsuke 台詞部分は Rainer Maria Rilke, "Stunden-Buch" より引用)


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クルマの中でシャッフルかけたiPhoneから、不意に流れた懐かしい曲。
バンド末期に孤立を深めて、追い詰められて半分鬱病みたいになりながら、
辛くて辛くて絞り出すように書いた歌詞。
いま読み返すと切なくなるなあ。
よほど苦しかったのだね。
いまや何にそんな苦しんでいたのかも思い出せないのだけれど。

でも泣けるメロディに息苦しくなるような歌詞がマッチして、聴ける。
曲中で語りなんて入れちゃうなんて、まあ新機軸ね。
このあとは退散に向けてまっしぐらですけれど。

SNSと日本人的なるもの

2018-07-11 23:15:50 | 超・いぶたろう日記
総務省による「平成30年版情報通信白書」によれば、

・FacebookやTwitterのアカウントを持つ人は約40%
・そこからほとんど使っていない人を除くと実ユーザーは約30%
・そのうち、半数以上が「読む」専門で発信はしない

のだそうだ。

平成30年版情報通信白書による、日本人はソーシャル全然利用してないの図とその理由(More Access! More Fun!永江一石のITマーケティング日記)

それに関する本田康博氏のツイート
まったく同感だ。

「間違っててもいいから自分の意見を言う」ことを僕は大切にしている。
自分だけじゃなくて人についても尊重するし、
家族や友人、同僚や教え子に対しても、そう促す。

僕だって何もかも知ってるわけじゃないし、
見落としも勘違いも思い込みも多々あるだろうけど、そんなの人類共通のデフォ。
それらを指摘されれば修正すればいいんだし、そこから謙虚に学べばいいだけのこと。
別に今さらバカだと思われたってどうってことないし、
ちゃんと耳を傾ける姿勢さえ携えていれば、
何でも言ってみることは別に悪いことじゃない。

完璧な発音や文法でないことを恐れて英会話に消極的な海外旅行がつまらないように、
「完璧な意見」でないことを怖がって何も言わずにいるなんてつまんない。
他人の不完全な英語を揶揄してばかりいるよりも、
ブロークンな英語でも外国人の友達がいっぱい居る方がはるかに楽しい。

別に賛成や支持100%なんて求めてないし、
むしろ異論反論含めてさまざまなリアクションを期待している。
自己表現とか言論だとかそんな大げさな話じゃなくて、
どうせこんなの暇つぶしなんだから、同じく暇な人が付き合ってくれれば充分楽しい。
面倒だと思えばブロックだって大いにあり。
好きにやればOK。
それが僕なりのSNSとの付き合い方なんですが。

日本ってどうも「沈黙は金、キジも鳴かずばうたれまい」が好きだよね。
そんなのばかりが分別あるオトナとしてもてはやされるのも、どうかと思う。

災害テレビ

2018-07-10 10:13:32 | 超・いぶたろう日記
テレビの仕事ってなんでしょう。

SNSにたくさん挙がってくるのは、
「報道されないけどこんなに大変な地域もあるんです、拡散お願いします!」
という悲痛なもの。

一方でテレビはといえば
「インパクトのある」「自分たちが行ったところ」
の映像ばかりを繰り返している。
中には早くも「家族との辛い別れ」とか「思い出の街が…」みたいな
お涙頂戴ドラマをしたり顔で垂れ流しているものもある。

いま、本当に必要な報道って、被害が大きなところはどこなのか、見落としはないのか、
またどこでどんなものが足りないか、困っている人はどうすればいいか、
助けてあげられる人はどこで何をすればいいか、ではないのだろうか。

被災者の悲しいドラマはテレビ局が見世物として仕上げたいだけで、
被災者がそれを望んでいるとも思えないし、
決まった時間だけ局やタレントが災害に胸を痛めている「フリ」をするためだけに、
おざなりコンテンツをでっち上げるのにはどうにも抵抗がある。

まだまだテレビにはパワーがあると思うし、
全力でこの災害に立ち向かおうと思うならもっとできることはあるはず。
なのに、毎回思うことだが、なんだかイベントにはしゃいでいるようにしか見えない。

被災者の本当に欲している情報、テレビで拡散してほしい情報なんて、
ちょっとTwitter覗くだけで充分わかるはずなのに。
いつもネットからネタを拾っては換骨奪胎してるくせに、
こういう時に気づかないのは鈍感なのかワザとなのか。
こういう時まで「数字の取れる」「インパクトのある」画像や動画ばかり探してるんだろう。
下卑た感性だなと思う。

ともかく24時間放送できるのに、
そして番組ではやたらとこの「話題」に時間を割いてみせるわりに、
「娯楽」以外のなんの役にもたってない。なんなの、テレビ。

テレビの仕事って、本当になんなんでしょう。

日本の本当の敵は

2018-07-09 08:04:58 | 超・いぶたろう日記
想像を超える無茶苦茶な水害です。
報道を見るにつけ心が痛みます。
ひどい大雨との予報は出ていたものの、まさかここまでの被害になるとは。
被災者の方々にお見舞いを申し上げると共に、
犠牲となられた方々には心より哀悼の意を表します。

ここ数年の間に津波があったり、鬼怒川の氾濫があったり、
九州でも広島でも集中豪雨があったりで、
街が水に沈むという言語に絶する惨状ですら「既視感」があるというのも恐ろしい話です。
気候変動もあるでしょうし、日本のインフラが脆弱化していることもあるでしょうし、
もはや僕らが子供の頃とはまったく違う時代になったという認識で良いでしょうね。

それにしても、これほどの被害が出ていながら、政府はいったい何をしてるんでしょう。
自民党の宴会風景をアップしたり、オウムの死刑を執行したり、
果ては首相は外遊するという(さすがにこれは批判の高まりを恐れて中止しましたが:後日加筆)。
地震ならいざ知らず、危険が予想された豪雨、
それも気象庁がかつてないほどの危機感でくり返し警戒を呼びかけていたのに、
政府・自民党はまったく何もしてなかった。
被害が明らかになっても、まるで初動は鈍く、66時間も放置しておいて、
「先手先手を打つ」「時間との戦い」なんてどの口が言うか、と思います。

北朝鮮のミサイルではひとりも死んでいませんが、
この災害では既に死者・行方不明者だけでも200人近くが犠牲になっています。
いまだ救助が間に合っていない人々も多く、
今後の対応が遅れればさらに増えてしまうかもしれない。

以前も言いましたが、日本の最大の脅威は特定の国なんかじゃなくて「災害」です。
こんな状況で、アメリカの言いなりになって買い込んだオスプレイやイージスアショアが、
いったいどんな役に立つというのでしょう。
オスプレイ1台(200億円)で救難ヘリUH-60J(40億円)が5台買えるそうです。
イージスアショアに至っては2基で2000億円です。
毎年の様に激甚災害が発生していて、
いまだに各地の仮設住宅住まいの人々は不安な日々を過ごしているというのに、
オリンピックに3兆円。
安倍がエエカッコするためだけに海外にばらまいたお金も何兆円あることか。
福島の原発廃炉にも20兆円以上かかります。
言葉を失います。

お金の問題もさることながら、人もいなくなります。
いまはまだいいでしょうが、30年後、僕らが70歳超える頃には日本の人口が1億人を切ります。
しかも38%が高齢者です。
誰が重機を動かして、あるいはシャベルや手押し車を動かして、
潰れた家屋から人を救出し、汚泥を除去し、復興の街作りをするんでしょうか。

さらに日本創成会議の試算によれば
「極点社会」化した日本から約900の市町村が消滅します。
限界集落での激甚災害は集落の放棄という選択にもつながるでしょう。
いったい日本はどうなっちゃうんでしょうか。

なのに政府はあのていたらく。
なのにテレビは「アイス総選挙」。

「災害にかこつけた安直な政権批判」と言われるかもしれませんし、
僕に何が出来るわけでもないのですが、
あまりの無為無策・無茶苦茶ぶりに書かずにはいられませんでした。

まだ国が人を殺すよ21世紀JAPAN

2018-07-08 01:00:02 | 超・いぶたろう日記
死刑制度をなくせとか、残せとか、
そう簡単に言いきれるような問題じゃないんだよなあ。

様々なケースについて慎重に検討を重ねないと死刑制度の実像は見えてこないし、
右寄りで父性的な処罰感情と左寄りで母性的な生命礼讃感情(=実際の性別とは無関係)
がぶつかり合うだけでは、まったく建設的な方向に向かわない。
そしてこの国ではどうも最近、
「勇ましい」前者が「軟弱な」後者をバカにする空気が強いようで、いかにも焦臭い。

日本人がどういう死生観・国家観で制度設計をするかということについて、
主権国家なのだから外国に口出しされるようなことではない、
というのは原則論としてはわかるんだけど、
世界の大勢に目をつむって「日本流」を意地になって貫いた結果が先の大戦だったことを思うと、
そうそう意固地になってばかりもいられないような気もする。

Twitterなんかでは欧州からの反対意見に対し、
「テロ犯を射殺するおまえらはどうなんだ」と息巻いて反論する声が目立つ。
そこには「もう日本は外国に何を言われても怯まないぞ」的な、
きわめて感情的な虚勢が反射している感じがする。
それはまさに戦前の日本の姿に重なる。

そもそも、法体系の中での死刑制度の存廃と、テロリストへの現場対応とは別問題だ。
司法手続を経て行われる死刑制度の議論は、
冤罪の可能性を無視して進めるわけにはいかないし、
犯罪の抑止とか犯罪者の改心や償いという点でも他の選択肢について考え得る。
が、テロ行為はまさに現行犯として行われていることへの緊急・正当防衛対応だ。
したがって、その場では他に手段がない。
オウムがテロ組織であったことを考えても、
緊急対応と死刑制度の存廃とは同列には考えられない。

こういうと誤解されそうだけど、別に僕はオウムを擁護するような気は全くないし、
彼らの行いはその後の悔悛を含めても決して正当化できるようなことじゃないと思っている。
執行の時期、判断、手続についての情報公開と詳細な検証は必要だろうが、
現行制度下で死刑判決が下った以上、刑死もやむを得ないことだろう。
でも、そのことと今後の死刑制度の議論とはまた別だ。
もちろんオウムへの怒りとも区別されなければならない。

そもそも、死刑が確定してから、
執行されるまでの時間が恣意的(刑訴法の規定が普通に無視されている)というのは、
運用上の大きな欠陥としか言いようがない。
法務大臣によって執行されたりされなかったりする。
冤罪の可能性を否定して死刑判決を確定させたなら、
時限を定めて速やかに機械的に執行されるべきではないのか。

今回の死刑執行だってなぜいま突然という疑問は残る。
しかも執行を予告し、リアルタイムで情報を小出しにし、
テレビがみんなそれを追っかける…という完全にSHOW化されたここまでの流れは実に醜悪だ。
政権の数々の腐敗を、
パン(=官製相場)とサーカス(=公開処刑)で誤魔化しているようにも映る。
国家による殺人がこんな感覚で運用されるなんて、背筋が寒くもなる。
みんなどうしてそこまで国家権力を盲信できるのか。
我が身に降りかかったときのことを考えてはみないのか。

もちろん、被害者感情は充分に理解する。
僕だって家族や親友や教え子がオウムの犠牲になっていたら極刑を望むだろう。
でも、それでも人間はそういった感情をも超克した社会制度を
実現していくべきではないのだろうか。
死刑判決を出す裁判官、ハンコを捺す法務大臣、
実際に死刑囚と向き合う看守、そして死刑執行人。
誰もが国家の名前で殺人に荷担していることに後ろめたさを感じているはずだ。
生活の場からがアウトソーシングされて、
自分が手を汚さなくとも牛や豚の肉が食える、
それと同じような感覚で無邪気に死刑を支持していていいのだろうか。

十数年前に手に取った一冊の本をきっかけに、
僕はどうしても死刑制度への疑問が拭えないでいる。
死刑制度を肯定する冷徹な論理性よりも、
死刑制度に違和感を覚える軟弱な人間性を僕は信じる、とでも言おうか。

『死刑執行人の苦悩』大塚公子

管理アレルギー

2018-07-04 22:26:14 | 超・いぶたろう日記
他人が不思議に思うほど、
僕はどんなに些細な管理・規制・ルールにもナーバスだと自覚している。
おそらくそれはアレルギー体質みたいなもんなんだろうと思う。

自分自身が子供の頃、小学校で納得のいかないまま理不尽なルールに縛られ、
まるで子供を信頼しない管理体制に心底痛めつけられた。
同調圧力の極端に強い公立小学校で、
先生にまつろわぬ者は徹底的にやられる。
周囲からも露骨に疎んじられ、干され、
本当に孤独だったあの頃のことは
いまでもたまに夢に見てうなされる。
ほぼトラウマといっていい。

ただ、それも同級生なんかからすれば、
「えーそうかなあ?」と思われるくらいの、
公立小としてはごく当たり前のレベルの理不尽であったかもしれない。
少なくともそんなに特異な小学校ではなかった。
よくある普通の小学校。
だがそれでも僕には地獄だったのだ。

自ら望んで進んだ私立中学でまさに「息を吹き返し」て以降、
とにかくいつでも「自由」を最も大切にして生きてきたし、
それを守るためにどうすればいいかを第一に考えてきた。
また自分が大人になったとき、
絶対に自分を苦しめた大人たちのようにはならないと心に堅く誓ってもいた。
だから監督者として子供達と向き合う立場になったいまも、
常に自分は子供達にどう映っているかな、という眼が働く。

翻って、一般社会で折り合いをつけて来られた人、
管理にもルールにも耐性があり、
そんなの当然で何の違和感もないよという人には、
こういう感覚がない。
多少の理不尽も世の中当たり前だと言える
タフさというか鈍さを身につけている。
それはもうアレルギーで死にかけた人と、
何でも平気で口にできる人くらいの差があるだろう。
同じチームとしてやっていくなら、
ここはじっくり話し合って理解を深めていくしかない。

でも「生徒を信頼する」というのは議論の余地などなく、
少なくとも小中学生を相手に「先生」を名乗る職業に就くのなら、
絶対に必要な在り様だと思う。

そりゃあ、なかなか信じられない様なヤツもいるし、
手痛く裏切られることだってある。
でも、成長や変化がもたらす可能性は無限にあるし、
今はダメでも未来に渡ってそれを信じるという姿勢があったっていいはずだ。

指導が実を結ばず、結局、何の影響も及ぼせなかったとしたら、
それはプロとしてその程度の力量なのだということ。
そもそも、生徒への評価だって、
単に自分に都合が良い・悪いというだけの実に狭量なものかもしれない。

信じられるとか、信じられないとかいう問題じゃない。
信じることこそが僕らの仕事なのだ。

立つ日本代表、控え室を濁さず

2018-07-03 12:39:45 | 超・いぶたろう日記
こういう精神性って本当に素晴らしいし、嬉しくも思うんだけど、
でもこれで日本人がみんな調子に乗って
「だから日本はスゲエ!」「どうだ!これが日本だ!」
みたいになるのは、むしろ日本人の本来の美学に反するよね。

こういうことを当たり前にさらっとやって、何にも言わないから美しいのであって。
実際、選手や監督は何も言ってないわけでしょう。
でもまたテレビが下世話に採り上げるんだろうな。
客席のゴミ拾いしている外国人のサポーターにわざわざ
「日本のマネしてるんですか?」なんて聞きに言って、
「日本?知らない。以前からやってるけど?」なんて答えられちゃうくらいだもんなあ。
あー恥ずかし。

称えられるべきは代表チームの高潔な精神であって、別に日本の国民性じゃない。
エラそうに言う割には道ばたにゴミだって落ちてるし、産廃問題だって各地にある。
選手やスタッフ達のこの姿勢を、僕らも見ならおうという話にできないもんかね。

さておき、選手のこういった行動を受け止めてくれて、
その感動を伝えてくれたこのスタッフさんもまた、心の美しい人なんだろうな、と思う。
日本のテレビ、コメント取りに追いかけに行くなよ………。

日本対ベルギー戦を観た率直な感想

2018-07-03 05:10:00 | 超・いぶたろう日記
サッカー素人の僕でもわかる、ものすごい試合でした。

天邪鬼の僕は、実は隠しようもなくアンチ日本代表だったんだけど、
この試合ばかりは素直に認めざるを得ないな、と思いました。

あのムッチャクチャな強さのベルギーに、日本なりのやり方で、95分魅せきりましたね。
勝つかと思った。
予選全敗とすら言われてたことも考えると、強豪ベルギー相手にこれだけの試合をやって、
世界ランキング3位を相手に「悔しい」と言えるところまでできた
(欧州予選10試合でわずか3失点のチームから2点も取った!)
なんて、素直にすごいと思います。

最後は力負けしたけど、もうどうしようもなかったし、
最後まで必死だったのは充分伝わって来たし、拍手を送りたいですね。

しかし長友カッコいいなあ。
空虚な慰めではなく、「胸を張って帰る」という言葉が、
これほど似合う場面はそうはない。素晴らしい試合でした。