今日の朝日新聞の天声人語に、
「幸せであることの条件はちょっと鈍感であること」
という話が載っていた。
例えば、味にうるさい人ほど、
何を食っても物足りなく感じるはずだから、
それは不幸なのではないか、ということ。
味音痴といわれようが、
何を食っても美味い美味いと言える方が幸せなんじゃないかと。
これはたしかに、そうかもしれないなー。
本当にそれが価値のあるモノなのかどうか、
またそれに序列をつける必要があるのかどうか、
そんなことは抜きにして楽しめる方が、実際楽しいだろうなー。
でも反面で。
グルメを気取ってあーだこーだ言う奴に限って、
実は本質的な価値について盲かったりもして。
で、そういう自分のあり方については、
当然、他人による自分評につながるわけじゃない?
人にあーだこーだウンチクひけらかして悦に入っている自分の姿にも、
またそれにうんざりしている周りの空気にもまた鈍感なわけで、
本人の個のレベルでは幸せかも知れないけれど、
やっぱりそれは不幸と呼ぶべきかもしれないなー。
僕のとある知人に聞いた。
同じ職場の、ほんとーに困った人がいて、
何ともやりきれずにいるそうだ。
いわく、
指示が守れない。
モノの扱いが乱暴。
言葉の使い方を知らない。
電話や来客の応対が出来ない。
学歴コンプレックスが異常に強い。
体型に関して異常とも思える自己顕示欲があり、
欠かさず自分の体脂肪率などを話題にする。
自慢話が多い。
人の話に首を突っ込んで来ては、軽率で不用意な一言を発する。
言わずもがなの一言が多い。
やたらとひけらかしては空気を冷やす。
人の話がまったく聞けない。
自己評価が高く、周囲による実際の評価とのギャップに苦しむ。
注意されると職場放棄する。
場の空気が全く読めない。
僕はその人を知らないが、
聞いている限り、鈍感のかたまりなのである。
可哀想だなあ、と思う。
僕はといえば、
むしろ敏感すぎて神経をすり減らし、
ストレスをため込んでしまう。
ちょっとやそっとのことでは満足しない。
本物とか、完璧というものはそうそう手に入らないことを知っている。
常にどこかに物足りなさや渇望感を覚えている。
だけど、苦しいけれど幸せなことだと思う。
見えていないよりは見えていた方がいいし、
何も知らない幸せよりは、色々知っているが故の苦しみにあった方がいい。
僕の本質的な人生観や、価値判断、
人に対する好き嫌いの基準はどうもここにあるような気もしている。
僕は、知っている。
どんなに素晴らしいものにもさらなる上があることを。
僕は、知っている。
どんなに酷く、辛く、苦しく見えるものにもさらなる下があることを。
そしてちゃんと知っている。
僕自身がまだまだものを知らないと言うことを。
32年が瞬く間に過ぎ、果てしなく見えた自分の人生も、
やがて折り返し点を迎えようとしている。
だけど、僕はまだまだ。
限られた時間ではあるけれど、
守りに籠もることもなく、無謀に攻めることもなく、
ただ歩みを止めることはせずに、
もっともっと色んなことを学び、知りたいと思う。
欲深な人生を、もっと。
そんな風におもう32回目の誕生月。
お祝いメールをくれた多くの皆さん、本当にどうもありがとう。
これからも敏感に、時に気づかぬフリなども交え(笑)、
がんばって生きていきます。
仲良くしてね。