自分を「能力差別主義者」だと書いたことがある。
2005年の4月頃の記事で、
僕は自己分析としてこんなことを書いている。
「 よくも悪くもドライ。能力で人を差別する。敵も味方も多い。
論理的だが利己的。徹底して要領を追求、故に手際の悪さを心底憎む。
結果至上主義。情に流されない。脅威的な集中力、しかし発揮までは時間かかる。
分析力・表現力に富む…が悪用する。気前がいいが故に借金も多い。
皮肉を言わずにおれない。寝坊癖。遅刻癖。徹底した楽観主義。」
しかし、今読んでみるとこれは、
どうも客観的な自己分析と言うより、
「こういう風に思われたい」「こういう言葉で説明したい」という、
ある種の願望の投影に近いものがあるのではないかと感じている。
僕は無能だと感じた人間に冷たい傾向があると思っていたが、
厳密に言うとちょっと違う。
僕は勉強のできない生徒を冷遇しているわけではないし、
どちらかといえば成績のいい子よりも、
成績が悪いながらも一生懸命な子を、無性に応援したくなる質だ。
しかしながら一方で、確かに仕事には厳しい面がある。
プロとしてのクオリティを守れない者には容赦がないし、
いったん見切りを付けると、その人に仕事を依頼しなくなる。
こういう面は確かにある。
一見、矛盾しているような感じだ。
しかしもっとよく考えてみると、
僕は人を能力だけで判断していないことに気づく。
いくら有能でも人格的に疑問を持った人物は評価しないし、
逆に無能であっても人柄のいい人は非難しない。
完全主義者のようなことを言いながら、
自分自身もミスをおかすことを積極的に認めているし、
楽観主義者のようなことを言いながら、
その実細部まで拘ろうとする。
要は、
有能無能に拘わらず、謙遜でない人物はダメだ、ということであろう。
図々しい人間が嫌いなだけなんである。
本人は謙遜のつもりで、やたらと卑屈な人もいるが、これもダメだ。
いずれにしても、「品格」って大事だな、と思う。
お高くとまるという意味ではなくて、何を言うか言わないかではなくて、
後味さわやかな自然体の言動。
そういうものが感じられるかどうかが、
僕の人物評価の基礎にあるのだと思う。
言うまでもないことだが、
ここでいう「人物評価」とは、自分を100点満点として、
見下ろしながら為すものではない。
自分を50として、今後の人生の参考として、
目標となる人物、反面教師となる人物をよく見ることである。
高潔な人物。下品な人物。
心細やかな人物。無礼な人物。
博識な人物。馬鹿な人物。
いろいろだ。
人をよく見ていると、自分がよく見えるようになる。
社会において、組織においての相対的な自分の位置づけも見えてくる。
そこで自分の軌道修正を図るのである。
僕は結果至上主義とか言いながら、実はプロセスをこそ重視しているし、
普段理詰めでものを考える割に、意外なほど情に流されやすい人間だ。
気前は良いが、借金はもうない。
寝坊と遅刻は最近どうにかなってきた。
立場が人をつくるのか、変われば変わるもんだ。
徹底的な楽観主義は余り変わらないが、
どちらかというと達観に近づいてきたような気もする。
悪いことも受け容れてしまう鷹揚さを覚えたと言うべきか。
面倒くさがりに拍車がかかっただけかも知れない。
論理的なのは常々心がけているが、型破りも大好きだし、
ここ一番では感性で決断しているような気もする。
利己的なのは確かだが、一方で変なサービス精神も在庫過剰だ。
唯一、いまでも変わらないのは「皮肉屋であること」くらいかな。
いぶろぐはそれで成立してるような場だもんねえ。
僕が皮肉を言わなくなたら死期が近づいてるんだと思って下さい(笑)。
2005年の4月頃の記事で、
僕は自己分析としてこんなことを書いている。
「 よくも悪くもドライ。能力で人を差別する。敵も味方も多い。
論理的だが利己的。徹底して要領を追求、故に手際の悪さを心底憎む。
結果至上主義。情に流されない。脅威的な集中力、しかし発揮までは時間かかる。
分析力・表現力に富む…が悪用する。気前がいいが故に借金も多い。
皮肉を言わずにおれない。寝坊癖。遅刻癖。徹底した楽観主義。」
しかし、今読んでみるとこれは、
どうも客観的な自己分析と言うより、
「こういう風に思われたい」「こういう言葉で説明したい」という、
ある種の願望の投影に近いものがあるのではないかと感じている。
僕は無能だと感じた人間に冷たい傾向があると思っていたが、
厳密に言うとちょっと違う。
僕は勉強のできない生徒を冷遇しているわけではないし、
どちらかといえば成績のいい子よりも、
成績が悪いながらも一生懸命な子を、無性に応援したくなる質だ。
しかしながら一方で、確かに仕事には厳しい面がある。
プロとしてのクオリティを守れない者には容赦がないし、
いったん見切りを付けると、その人に仕事を依頼しなくなる。
こういう面は確かにある。
一見、矛盾しているような感じだ。
しかしもっとよく考えてみると、
僕は人を能力だけで判断していないことに気づく。
いくら有能でも人格的に疑問を持った人物は評価しないし、
逆に無能であっても人柄のいい人は非難しない。
完全主義者のようなことを言いながら、
自分自身もミスをおかすことを積極的に認めているし、
楽観主義者のようなことを言いながら、
その実細部まで拘ろうとする。
要は、
有能無能に拘わらず、謙遜でない人物はダメだ、ということであろう。
図々しい人間が嫌いなだけなんである。
本人は謙遜のつもりで、やたらと卑屈な人もいるが、これもダメだ。
いずれにしても、「品格」って大事だな、と思う。
お高くとまるという意味ではなくて、何を言うか言わないかではなくて、
後味さわやかな自然体の言動。
そういうものが感じられるかどうかが、
僕の人物評価の基礎にあるのだと思う。
言うまでもないことだが、
ここでいう「人物評価」とは、自分を100点満点として、
見下ろしながら為すものではない。
自分を50として、今後の人生の参考として、
目標となる人物、反面教師となる人物をよく見ることである。
高潔な人物。下品な人物。
心細やかな人物。無礼な人物。
博識な人物。馬鹿な人物。
いろいろだ。
人をよく見ていると、自分がよく見えるようになる。
社会において、組織においての相対的な自分の位置づけも見えてくる。
そこで自分の軌道修正を図るのである。
僕は結果至上主義とか言いながら、実はプロセスをこそ重視しているし、
普段理詰めでものを考える割に、意外なほど情に流されやすい人間だ。
気前は良いが、借金はもうない。
寝坊と遅刻は最近どうにかなってきた。
立場が人をつくるのか、変われば変わるもんだ。
徹底的な楽観主義は余り変わらないが、
どちらかというと達観に近づいてきたような気もする。
悪いことも受け容れてしまう鷹揚さを覚えたと言うべきか。
面倒くさがりに拍車がかかっただけかも知れない。
論理的なのは常々心がけているが、型破りも大好きだし、
ここ一番では感性で決断しているような気もする。
利己的なのは確かだが、一方で変なサービス精神も在庫過剰だ。
唯一、いまでも変わらないのは「皮肉屋であること」くらいかな。
いぶろぐはそれで成立してるような場だもんねえ。
僕が皮肉を言わなくなたら死期が近づいてるんだと思って下さい(笑)。