【仕事とラジオ】

2020年7月13日

【仕事とラジオ】

 
ほぼトークなしで音楽だけ流し続けるので仕事が捗る、という謳い文句のネットラジオ局があってときどき聴く。ただし、爪を切ったり、引き出しの中のガラクタを片付けたり、不要になった書類を捨てたりといった単調な作業中に、どちらかといえばネガティブで余計な考え事をしないため、遊んでいる脳の埋め草として聴いている。そういうときにはとてもいい。
 
 
ただし仕事を始めてしまうと、音楽が気になって仕事に集中できないので消してしまう。ラジオで音楽を聴きながら受験勉強した学生時代があったし、社会人になってからもラジオを聴きながら仕事ができていた時代があった。トークがあっても平気な時代、音楽だけなら平気な時代を経て、今はもう音があると全然ダメで、いつ頃そういう能力を失ったのだろうと不思議に思う。
 
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【像とボールと少年】

2020年7月13日

【像とボールと少年】

 
東京教育大学跡地「教育の森公園」内にある朝倉響子の作品「フィオーナとアリアン」の間に腰掛けているサッカー少年。
 
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【旧臘】

2020年7月12日

【旧臘】

旧臘と書いて「きゅうろう」とルビがふってあり、「旧臘、NHK・TVの番組に…」と続くのだけれど旧臘の意味が分からない。辞書を引いたら「去年の12月」で、臘月(ろうげつ)と書けば陰暦十二月の別名であり、臘の字は仏教用語としてよく使われて熟語が並ぶ。

もともと「臘」はつなぎあわせることを意味したという。「去年の12月」と書かず、「旧臘」と書いて読点「、」を打ってつなぎあわされたところに、筆者の思いが漆のように嵌入されているかもしれない。

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【長男の出家その後】

2020年7月11日

【長男の出家その後】

 
新型コロナウイルスによる外出自粛でなぜか読書がはかどる。はかどる理由には世界の閉塞感と緊張感が集中を高めたこと、その反面、妙な力が抜けて他人が薦める本をすんなり読むこころの余裕が生まれたこともあるだろう。
 
このところ熱心に読んでいる仏教学者三枝充悳が 1988 年に書いた随想で、前年度後期芥川賞受賞作、三浦清宏『長男の出家』を読まれて、褒めて、勧めていたので古書で買ってみた。
「…とくに禅寺とは限らず、僧職にある方々、そして寺になんらかの縁のある方々に、一読されるようおすすめしたい」
と書かれている。日本人はたいがい寺に縁がある。
 
Amazon で検索したら「新版」とついたものが 2011 年に芸文社から再版されていることに興味を引かれ、北海道にある古書店から取り寄せた。裏見返しに再版新刊を報じる新聞記事切り抜きが貼られており、著者が「室蘭出身」であることを強調した見出しが付いているので北海道の地方紙か地方版に載った記事だろう。地元の人がこの本を買って新聞切り抜きを貼り、それが整理されたのを地元古書店が引き取り、それがここにありがたく流れ着いたのだろう。
 
 
昨日届いたので一気に読んだら、出家した長男を取り巻く人々と家族のその後が増補として書き加えられることにより「新版」となったのだった。受賞直後に読んだままでは知り得ないその後を知ることができた。完結した受賞作品として読み終えても、事実としての後日談を新版で読んでも、読書体験としてはどちらでも良いとは思うけれど、紹介者である三枝さんは 2010 年に他界されているのでその後の世界を知らない。教えていただいたことに感謝してありがたく読み終えた。
 
 
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【後釜と銅像】

2020年7月10日

【後釜と銅像】

神は死んだと言ったニーチェが死んだのは 1900 年、これからは銅像がカネになる時代だと、息子の光太郎に高村光雲が「銅像会社」設立を働きかけたのが 1909 年だった。神が死んだことになったヨーロッパの人々は、「理性」や「理想」や「国家」など、神の後釜(あとがま)になるものを求めて大混乱の歴史を開いた。

仏教思想では「我(アートマン)」を「常一主宰」という。永遠に変化しないことを「常」、独立で自存することを「一」、中心の所有者であることを「主」、支配する能力を持つことを「宰」といい、すべてのものはそういう常一主宰すなわち「我」であってはならないとして「諸行無常」「諸法無我」の教えがある。

「神の後釜」が常一主宰的な代表物の「銅像」であり、世界は「銅像」をつくって「我」を押し通す時代になったのだ。父に「銅像会社」を作ろうと言われた光太郎は面食らっただろうが、光雲は抜け目なく神なき時代をとらえていたのだろう。

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【自立と自律】

2020年7月9日

【自立と自律】

好きな学者が遺した 1980 年代の随想を読んでいたら、朝日新聞に原稿を頼まれ、文章を書く代わりに口頭で記者の取材に応じ、後日刷り上がってきた記事を読むと、「自律」と話したつもりの部分がすべて「自立」になっていて驚いたという。自由の根源が自律であることを精密に論じた思想家カントは「自律とは、自己自身に対して法則であるという意志の固有性」と言った。他人に命じられてではなく、自分で「こう」と決めて、自分で自分を「そう」することが自律である。だから自由は気持ちがいい。

学生時代の四年間だけオーディオというものに熱中した。音楽は今でも好きで、音楽を聴くことは人生において欠かせないもののひとつだけれど、オーディオ機器へのこだわりはとうに失せている。当時の道具はオーディオに限らずみな面白くて、機械が自分で動いた自分を、分析し総合して、自分を反省的に律する仕組みを持っていた。そういう仕組みが水晶発信子や制御機構の IC 化により、だんだん自律というより自立にすぎないものになる頃、学生生活を終えて親から自立し、脛齧りの趣味を捨てたのだった。

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【鐘の音】

2020年7月8日

【鐘の音】

梵鐘を橦木(しゅもく)でついて寺の鐘が鳴るとき、鳴るのは梵鐘と橦木のどちらだろう。

勢いをつけた橦木の先端が梵鐘の横腹に突き当たった瞬間、仏教的に言えば弾指した一刹那である七十五分の一秒くらい「ゴ」と衝突面が鳴る。「ゴ」は「〜ン」と伸びて梵鐘と橦木と鐘楼はもちろん、空気を通じて世界に振動として伝わり、伝わった物の特徴に応じて異なった持続時間のうちに減衰して消えていく。梵鐘と橦木はもちろん、世界のうちで「ゴ〜ン」と鳴ったのはどれかなどという音の主客はない。

毎朝ダンベルの重さに、持ち上げたり持ち上げられたり、主客転倒的に遊んでもらって運動し、一週間ちょっとが経過して、すっかり生活習慣の一部となった。ダンベルは dumbbell と書き、dumb と bell が漢字に直訳されて唖鈴があてられ、音の出せない「唖」が差別的だということで亜鈴となり、いまはカタカナでアレイなどと書かれる。

ダンベルの重さに振り回されながら「鐘が鳴るとき、鳴るのは梵鐘と橦木のどちらだろう」ということを考え、「それでは鳴らない鐘とは何か」について考えた。禅みたいだ。

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【宇宙の消失】

2020年7月7日

【宇宙の消失】

解体工事が始まるビルの玄関脇にある小さな花壇に、水やりをするための水道蛇口が、塩ビパイプで囲って土に埋め込まれており、その中にカタバミが生育している。

裏通り側から順に工事が進み、やがてビルも、花壇も、塩ビパイプも、蛇口も、そしてカタバミも消えて無くなる。

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【夏のシクラメン】

2020年7月7日

【夏のシクラメン】

静岡出身の仏教学者三枝充悳(さいぐさ・みつよし 1923ー2010)が書いた本を読んでいたら、
「室内のシクラメンまでも、異常を感じたらしい。ピンクの花の方は、もう終わったが、白い花の鉢は、何を考えたのか、最後の花の萎れたころに、急に十本あまりの花芽が出て、もう十日以上も、白い花を誇っている。これまで何十年も、冬のシクラメンを 愛好してきたが、こんな現象は、異常気象の今年に初めて出会った。」
と 1989 年 4 月 24 日の随想にあった。調べてみるとこの年は世界的な暖冬に次ぐ暖春で、桜の開花が平年よりずいぶん早かったらしい。三枝家では沈丁花、木蓮、ベゴニア、ハナニラ、ヒヤシンスも異様な開花をしたという。

わが家ではベランダに置いて毎朝水やりしているシクラメンが次々に花芽を上げて今も咲き続けている。例年なら最後の花が咲き終えたあとは、おろす地面もなく萎れるに任せて枯れさせてしまうのだけれど、葉っぱだけ眺めていても観葉植物のようで可愛いと家人が言うので、ベランダに出して桜と南天の水やりついでに世話をしていたらまた咲き出したのだ。

珍しいことなのか、そういうものなのかわからないけれど、葉っぱの間から次々に花芽が上がる。小さな花芽にも日が当たるよう葉っぱを間引いてやろうと言うので、好きにしろと可愛いと言った当人に任せてみた。心配なほどスカスカになったけれど、あとはまた澹澹と朝の水やりをする。

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【一位と二位】

2020年7月6日

【一位と二位】

 
昨日は傘をさして東京都知事選挙の投票に行ってきた。投票所になっている小学校校門前に傘をさした人溜りができているので、生憎の雨にもかかわらず意外に投票率が高いかもしれないと思ったが、結果として前回の都知事選挙を下回った。意外の自乗。
 
開票速報を見ながら、市区町村ごとの開票結果がわかれば面白いのにと話していたら、今朝の NHK 地域ニュースで公表され、やはり文京区は 23 区中もっとも投票率が高かった。気分をよくして新聞を開き、市区町村ごとの新型コロナウイルス感染者数一覧を眺め、当然千代田区が断トツだとしても、次は文京区が一番少ないだろうと思ったら、荒川区が二位だった。
 
 
時は人を待たない。残念ながら年寄りになってしまった候補者をねぎらう気持ちで票を入れ、「なんとか二位に滑り込んでよかった」と言ったら「あなたも同じ気持ちで投票したとわかってうれしい」と妻が言う。そういう心の動きもちょっとおもしろい。
 
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【日日澹澹(ひびたんたん)】

2020年7月5日

【日日澹澹(ひびたんたん)】

とらわれない。日日を澹澹として、水が流れるように過ごすこと。それがよく生きることのいちばん大切な要点だろう。

こころの「とらわれ」がいちばんいけないことなので、とらわれないための決めごとを、自分で決め自分でそれに従う。決めたらもう従うだけで余計な考え事はしない。自分に水が流れるように従う。

朝起きたら、朝食の支度と、住まいの掃除と、植木の水やりが、自分が自分自身にではなく、他者に対して行うべき働きかけと決めている。毎朝かならず行う一連の作務として自分で決めたので、日日澹澹として続けている。身体が考える前に動いており、澹澹は日日の苦にならない。

澹澹とした日日に応えるものが見つけられれば喜びとなる。毎年枯れさせていた貰い物のシクラメンの世話を澹澹と続けていたらまた花が咲き出し、いまも澹澹と花芽を上げ続けている。シクラメンも考える前にただ澹澹と咲いているのだろう。

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【果てしなく大きいということ】

2020年7月4日

【果てしなく大きいということ】

「無限は角のない正方形である」ということばが好きで、実にうまいことを言ったものだと思い出すたびに感心する。最初に何で読んだかは忘れたけれど「古代中国の諺より」と注釈が付いていた。

中国戦国時代の思想書『老子』第四十一章に次の一節がある。

大方無隅(たいほうすみなく)
大器晩成(たいきおそくなり)
大音希聲(たいおんこえまれに)
大象無形(たいしょうかたちなし)

最初の「大方無隅」が無限の定義に近くてここからとられた箴言かもしれない。

続く三句も素晴らしく、「大器晩成」は「あまりにおおきいうつわは、いつまでもできあがらない」、「大音希聲」は「あまりにおおきいおとは、おおきすぎておとがない」、「大象無形」は「あまりにおおきいかたちは、おおきすぎてかたちがない」となり、四句を対句として覚えておくと限りある人生の戒めとして役に立つだろう。

とくに「大器晩成」は、おくれてできあがるのではなく「いつまでもできあがらない」が本義であろうことに感心する。
(参考:一海知義『漢語の知識』)

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【コロナと刹那と忽那】

2020年7月3日

【コロナと刹那と忽那】

コロナ騒動が始まって以来はじめての外食をした。少なくとも夜の街での接待を伴う飲食などに無縁な友人たちなので、気軽に待ち合わせ六人で楽しく過ごした。

話が弾んだ中で話題の書『女帝 小池百合子』を書いた石井妙子氏の名前を出したら、食事会言い出しっぺの女性が友だちだというので驚き、彼女の別の作品『おそめ』や『満映とわたし』の取材をめぐる話をいろいろ聞いた。

別の友人が学んだ和光大学の話になったので、とくに「対談者」として大好きな岸田秀が教えていただろうと言ったら彼も受講していたと言う。うらやましい、岸田秀の対談本は手当たり次第に読むほど好きだと言ったら、石井氏の友だちだという友人が「わたしの夫も岸田秀との対談が本になっている」と言うのでまた驚いた。夜中に思い出して調べたら「歴史」の起源についての対談者に名前があった。なるほど。読みたいけれど借りられるかもしれないので注文は保留した。

このところサンスクリットに源をもつ刹那の文字を見慣れているせいか対談本検索の途中でニュースのヘッドラインが目につき、最近コロナ関連のニュースで目にする医師の苗字が面白い。なんて読むのだろうと調べたら忽那と書いて「くつな」だった。漢辞海を引いてみたが忽と那の意味が組み合わさっているところが仏教用語のようで興味深い。

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【花時間】

2020年7月2日

【花時間】

外出を自粛した期間が長かったので季節の訪れが唐突な気がする。六義園内がちょっと華やかに見えたので入園したら「ああ、もう七夕か」と思う。今年は子どもたちの笹の葉かざりも休止らしい。

そのまま文京グリーンコートに回ったら「ああ、もうアガパンサスの季節なのか」と思う。アガパンサスのアガパはキリスト教神学で神の無限の愛をあらわすギリシャ語アガペーから来ている。

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【仏教の時間についてのメモ】

2020年7月2日

【仏教の時間についてのメモ】

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