電脳六義園通信所別室
僕の寄り道――電気山羊は電子の紙を食べるか
【非外来語のカタカナ表記】
2020年7月24日
【非外来語のカタカナ表記】
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非外来語をカタカナ表記することは誰でもやっている。少ない人と多い人がいて、その度合いが人それぞれ文章の癖になっている。
「現代日本語書き言葉における非外来語のカタカナ表記事情」という研究報告がネット上にあるので読んでみたら、カタカナ表記頻度上位 100 語の語彙表がおもしろい。物→モノ、俺→オレ、馬鹿→バカ、本当→ホント(ウ)、僕→ボク、親父→オヤジ、癌→ガン、ねた→ネタ、嫌→イヤ、塵→ゴミ、車→クルマ、怪我→ケガ、人→ヒト、眼鏡→メガネ、こつ→コツ、格好→カッコ(ウ)、漫画→マンガ、訳→ワケ、奇麗→キレイ、私→ワタシ、事→コト、嘘→ウソ、鍵→カギ、金→カネ、癖→クセ、雌→メス、阿呆→アホ、 桜→サクラ、台詞→セリフ、惚け→ボケ、携帯→ケイタイ、家→ウチ、有り→アリ、乗り→ノリ、餌→エサ、此処→ココ、雄→オス、勘→カンなど、傾向の共通するカタカナ表記を拾ってみた。
日本語の学術名や擬態語や擬音やオノマトペをカタカナ表記するルール付けはありうる。日本語を外来語と思い違いすることもありうる。それ以外の、言葉の意味操作をしようという意図、それが感じられるカタカナ表記がこれらで興味深い。
字面(じづら)から受ける意味を、重くしたり軽くしたり、濃くしたり薄めたり、皮肉ったりひねくったり、荒げたり茶化したり、太くしたり細くしたり、色を付けたり斜体をかけたり、括弧を使わずに括弧でくくったりといった、パソコンを使って文書を修飾するようなことを、カタカナ表記でやっている。感情操作のデパートである。自分もまた物を「もの」と開いたり「モノ」と変換したりしている。
著名な――どちらかといえば好きな――仏教僧が書かれた本を読んでいると「ウラメシイ」「タノモシイ」「ウレシイ」「シロモノ」「アマイ」「オトナシク」「イガミ合い」「カタヅケ」などのカタカナ表記が頻出する。書かれている内容と語りかけの姿勢から意図はわかる。内容が損なわれるわけではないけれど違和感はある。個性なので人それぞれの好みだけれど、意図としては言葉の強弱をカタカナで操作しようとしているからだろう。説教をしようと鼻息が荒くなると、人それぞれ癖の部分が、カタカナという修飾になる。
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【言葉・場所・時代】
2020年7月23日
【言葉・場所・時代】
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櫻珈琲個室図書室の本棚にあった筑摩書房『ちくま文学の森10 賭けと人生』を借りてきて、仕事の間に何もする気がない時間ができると、一作ずつちびちび読んでいる。マーク・トゥエイン作、野崎孝訳による『その名も高きキャラヴェラス郡の跳び蛙』を読んでいたら、妙に都会的に垢抜けていない言葉遣いがあり、小説の舞台が古ぼけた鉱山街で、マーク・トゥエインが田舎米国人だというのとは関係なしに、訳者の野崎孝がひょっとすると郷里静岡県人ということが言葉の懐かしさを増幅させているのではないかという気がしてきた。
野崎孝を知らなかったのだけれど、調べてみたら青森県弘前市出身で残念ながら静岡県人ではなかった。サリンジャー作品の翻訳などで著名な人で、『ライ麦畑でつかまえて』という邦題はこの人によるものだという。1960 年代の深夜放送からヒントを得た、若い世代の語法と感覚を活かした訳文で人気があったそうで、『その名も高きキャラヴェラス郡の跳び蛙』にも、そういう古い時代の若者言葉の残り香があるのかもしれない。
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【水声園の棒茶】
2020年7月23日
【水声園の棒茶】
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わが家では一年中、水代わりに冷たい緑茶を飲んでいる。もともと家人がペットボトル入りの緑茶を机の脇にいつも置いていたのだけれど、味が感心しないので貰い物の高級煎茶を軟水系の天然水で水出ししてやったらとても美味しい。来客に出したら「こんなに美味しい水出し緑茶は初めてです」などと言われて調子に乗った。
それにしても水出しに高級煎茶はもったいない気がし、ふと清水区西里にある茶業農家『水声園』さんの安い方の棒茶を普段使いにしていたので、棒茶で水出しができるだろうかとやってみたらとても美味しい。とくに飲み口がすっきり仕上がるので夏はさっぱり爽やかで、市販のペットボトル茶がしつこく感じる。そんなわけで市販の紙製お茶パックに 7 分くらい詰めたのを 1 リットル分として、毎日 2 リットル抽出している。
冷蔵庫内での抽出が終わったらお茶を取り出し、大好きな貯蔵焼酎『神の河(かんのこ)』の空き瓶に入れ、自宅と仕事場の冷蔵庫に常備している。前回購入した棒茶が残り少なくなったので『水声園』さんに注文したら早速ゆうパックで届き、棒茶パックの表示が新茶に変わっていた。
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【他人ごとと自分ごと】
2020年7月22日
【他人ごとと自分ごと】
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コロナ感染恐怖の萎縮に歯止めがかからず、とうとう夏休みラジオ体操会まで中止だという。毎朝の体操が心身の健康維持に役立っている人だっているのだから、ラジオ体操くらい互いの間に距離をとってやればいいのにと思うけれど、
「じゃああなたがリーダーとして前に出て号令をかけてくれませんか」
などと言われたら
「いやいやいやいや……」
と後ずさりしてしまう。他人ごとなら、こうすべきだなどとのっぺりした「クソ正論」が言えるが、自分ごとだと尻込みして命が惜しい。
近所の神社の祭礼で世話人代表として毎年がんばられている町内の先輩に会ったので
「毎年ご苦労様です。今年はコロナのせいで夏祭りが中止になって残念です。寂しいですね」
と言ったら、
「いや、大きな声じゃ言えないけどオレも歳だろう?ああ、今年は祭りがなくて良かった!と肩の荷が降りてホッとしてるんだ」
と言うので、
「そうですね、確かにそうかもしれません。一緒にがんばられている〇〇さんだって最近めっきり老け込んで辛そうですもんね」
と調子を合わせて言ったら、
「どう?あなたやってみない?」
と言うので
「いやいやいやいや……」
と後ずさりして退散した。
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【賭けと人生】
2020年7月22日
【賭けと人生】
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他人の部屋に招じ入れられて他人の本棚を見るのが好きだ。見るのが好きなので来客に自分の本棚を見られるのも好きで、
「この本ちょっと見てもいいですか」
と聞かれるのが嬉しいし、
「お借りしてもいいですか」
と言われるともっと嬉しい。
櫻珈琲の個室図書館に筑摩書房『ちくま文学の森10 賭けと人生』があったので借りてきた。1988 年初版で、本を開くと江崎書店のしおりが挟んであり、裏表紙見返しに「700」と鉛筆書きがある。誰かが静岡の江崎書店で買って読み、地元古書店に売り、古書店主がそれに気張った値付けをし、櫻珈琲のおやじがそれを買って読み、面白かったので自宅個室図書館に並べたのだろう。
装本は編者も兼ねて安野光雅がやっており、しゃれたソフト上製本なので持ちやすく読みやすい。昨日ページを開き、リンゲルナッツ『全生涯』、モルナール「賭博者」の2作を読んだらとてつもなく素晴らしい。書名と造本でピンときたので帰り際に借りてきたけれどやはりアタリだった。
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【本一場】
2020年7月21日
【本一場】
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家人が伸びすぎたガジュマル(愛称:ガジュ子)を剪定するというのでホームセンターに行って切り口に塗る癒合剤を買ってきた。いわゆる植物のオロナイン軟膏である。ネット検索でこれにしようと決めた『カルスメイト』が棚にあったので買ってきた。カルスというのは植物が傷口を守るため自分で作る組織のことだという。
JR の線路脇を歩いていたら信号機に「本一場」と書かれており、何のことだろうと考えながらテクテク歩いたが、結局わからないので降参し、帰宅後検索したら「本線第一場内信号」の略だという。
外出自粛と長雨がかさなって運動不足なので、はりきって往復歩いたら帰り道は足がつった。ツムラの 68 番「芍薬甘草湯」を飲んだ。
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【手ぬぐいコンビニエコバッグ】
2020年7月21日
【手ぬぐいコンビニエコバッグ】
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清水の櫻珈琲が 20 周年記念の手拭いで作ったバッグ。一枚の手ぬぐいでうまいこと作ってあり、底の部分にはちゃんとマチがついている。縫製の巧さにもうなってしまう。
スーパーの大きいのではなく、コンビニでもらう小さなレジ袋こそが環境汚染の元凶だと思うので貰わないようにしている。ちょっとした買い物用の小さなコンビニエコバッグが欲しいと思っていたので、喜んで使い始めたらとてもいい。
外出時にたたんでポケットに入れておき、買い物をしない時は手ぬぐいがわりにもなる。何しろ元が手ぬぐいなのだ。
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【MERRY X'MAS IN SUMMER】
2020年7月19日
【MERRY X'MAS IN SUMMER】
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降り続いた雨がようやく上がって薄日がさしたら六義園内でミンミンゼミが鳴き出した。この夏はじめてセミの声を聞いた。
蝉たちが歌い、ベランダでは昨年の暮れ、清水から届いたシクラメンが、いまも次々に花芽を上げ、狂おしく咲き続けている。神様も微笑むこの街で。
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【清水站】
2020年7月18日
【清水站】
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今年初めての雑誌『季刊清水』編集会議で帰省した。静岡駅前バスターミナルの案内板がモダンな電光表示になってわかりやすい。まず墓参りをするため、しずてつジャストライン北街道線のバス待ちをしながら見上げると、瀬名新田の上に見慣れないバス停名があり「清水站」なんて地名があったかなあと思う。砧なら東京にもあって「きぬた」なのだけれど石偏ではなく立偏に占だと軍事用語の兵站(へいたん)の站になり、兵站というのは地元企業で言えば富士ロジスティクスの logistics だ。「清水站(しみずたん)」なんていう地名があったかなあとスマホ検索したら、站は中国語で宿駅のことだった。下に「瀬名新田」があったので思い違いしたが、電光掲示板は中国人向けの案内表示になっていて「清水站」は「清水駅」のことだった。
一時間に二本しかない北街道線清水站行きは古い車体が使われており、造花を入れた硝子の一輪挿しが妙に懐かしく、墓参りに行く自分には郷愁を誘われて相応しい。
このあと大内観音前で下車し、セブンイレブン大内店で花を買って北街道に出たところで、配達帰りの櫻珈琲さん営業車に拾ってもらい、寺の若い新住職候補に思いがけず出会い、助手席に座って同行した美濃輪町『魚初』で両親を手伝って店に立つ次男くんに出会い、櫻珈琲でランチと昼飲みをし、清水駅前の料理屋で編集会議新を終え、酔って上り新幹線ひかり号を待っていた静岡駅ホームで、浜松での講演を終えこだま号から降り立った高口光子に見つかり、思いがけず旧交をあたためた。なんだか偶然に載せられ運ばれるような、不思議な日帰り帰省だった。
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【鶏と卵】
2020年7月16日
【鶏と卵】
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著名な学者先生が書かれた本を読んでいたら「鶏が先か、卵が先か(にわとりがさきか、たまごがさきか)」という話が出てきて困った。子どもの頃、友だちだったか、周りの大人たちだったか、テレビタレントだったか、歌の歌詞だったか、「鶏が先か、卵が先か、それを考えだすと夜も眠れなくなっちゃう」と言っていて、そもそもその難問の問う意味がわからなくて、今でも相変わらずわからないままなのだ。困ったなあ。
鶏が卵を産み、卵が鶏になって、また卵を産む、その永遠の循環の間に割って入って、どちらが先か後かを問う問題の立て方が理解できない。鶏と卵が一体になった殻をわざわざ割って、どっちが先か後かと腑分けすることに意味があるのだろうか。「自分がバカなのか、他人がバカなのか」それを考えだすと夜も眠れなくなっちゃいそうだったし今もそうだ。幼い頃、「お父さんとお母さんは別れるけど、あんたはどっちについてくる?」と聞かれ、「両方」と答えて苦笑いされたことに対する心の傷だろうか。よい機会なので熟読してみるけれど、自分はそういう考え方が一生苦手なままなのだろう。
写真は、この歳になっても遊んでみたくなる、面白いかたちの滑り台とジャングルジム。
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【仮(け)のおもしろさ】
2020年7月16日
【乃木坂から赤坂まで】
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仮説は仏教用語で「けせつ」と読み、同様に仮設も「けせつ」だし、仮名は「けみょう」で、ついでに施設は「せせつ」なのだそうだ。「へぇ〜」である。
「時に別体なし、法に依りて仮立(けりゅう)す」「時は亦(ま)た仮名(けみょう)の称なり」、つまり時(time)は実体などなくて仮にそう名づけてそう呼ぶだけだ、というのは仏教学における時間論の常識で、「そう」決めて「そう」利用する。
人にとっての自他や生死と同じように、数学はそもそも自然数「1」の不思議を知らないし、幾何学はそもそも「点」の不思議を知らないので、そういう不思議に矛盾しない法(則)を仮立(けりゅう)して、その仮名(けみょう)を使って、新しい理論がその体系に矛盾しないかどうかを検証することで、次々に新たな学説を構築している。
哲学や倫理学や経済学も同じようなことを前提にしている。すべては無常であり、いっさいは空であり、原点となることばの階梯はクラウド上から天に向かってかけられている。ことばはあくまでも仮(け)なのだ。
写真は乃木坂から赤坂への道すがら。
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【乃木坂から赤坂まで】
2020年7月15日
【乃木坂から赤坂まで】
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少し早めに出て乃木坂から赤坂まで歩く。一時的に雨も上がっていた。
見知らぬ出版社の飾り窓に新刊書が並べられていて、目の端にちらと『死は別れではない』という書名が見えた。
「たしかに死は別れではないでしょう」
と心の中で思う。
「それでは何ですか」
と問う声がするので
「死は端的に死でしょう」
と答えると
「端的な死の死とは何ですか」
と聞くので
「死は言葉にできません。言葉にできるということは存在するということで、存在するなら死ではなくなってしまうからです」
と答えると
「ということは死は無ですか」
と聞くので
「無だと思います」
と答えると
「無とは何ですか」
と聞くので
「あるものを在ると言葉で措定したとき、その対として観念的に仮設されざるを得ないものなので言葉にできません」
などというやりとりを考えながら歩いているうちに、打ち合わせ時刻になって赤坂に着いた。
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【啓蟄】
2020年7月15日
【啓蟄】
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コロナウイルス騒ぎが始まってから電車を使った外出をせず、自粛制限要請が解除になって一度だけ東京メトロ南北線で赤羽まで買い物に出た。
もともと 1990 年代から仕事の形態がテレワークだったので支障なく過ごしてきたけれど、そろそろ外出のお呼びがかかるようになり、今日は都心の出版社で新刊書の打ち合わせ、週末は静岡まで新幹線を使って郷土誌の編集会議に出席する。
東京メトロ南北線と銀座線を乗り継いで駒込・青山一丁目間を往復する。雨の中、晴れてお呼びがかかっての啓蟄である。もともとはお呼びがかかって人が世に出ることを啓蟄といい、春の季語とされたのは高浜虚子の近代俳句以降である。
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【時はメシなり】
2020年7月14日
【時はメシなり】
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時は英語で time(タイム) 、仏語で temps(タン)だけれど、独語では zeit(ツァイト)だと聞いて「ああそうか」と思う。週二回、正午になると窓の下にパンの移動販売車が音楽を鳴らしてやってくる。映画『第三の男』のテーマを鳴らしながらやってくるので、わが家ではその販売車が近づくと「第三のパンが来た」と言っている。
パン屋は「手づくりパンのエッセンです」と言い独語で essen(エッセン)は「食事」なのだけれど、製造者名には essen zeit(エッセンツァイト)と書かれており、音楽を鳴らして『食事時(どき)』ですよと知らせに来るわけだ。調べてみると葛飾区の会社でエッセンツァイトが正式名らしい。屋根に時計をのせて時は金なりと書いた合同印刷の営業車もよく見かけ、そちらは墨田区からやってくる。時は金なりは英語で time is money(タイムイズマネー)と言うけれど、独語だと zeit ist geld(ツァイトイストゲルト)でいいのかな。
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【夏は来ぬ】
2020年7月13日
【夏は来ぬ】
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この寺の住職はインテリのようで、哲学者西田幾多郎の歌を掲げていることもあってびっくりする。
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なんと今日は佐々木信綱だった。
蛍雪の功の故事ををひき、蛍が窓辺を飛び交って「勉強さぼんなよ」と説教たれる(おこたりいさむる)夏は来ぬ。
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