【いとしのエリー】

2020年7月1日

【いとしのエリー】

〝異分野の俊才〟と惹句にある学者の対談を読んでいたら、

「それに極論すれば、お墓は本来は仏教とあまり関係がない。お釈迦さんには一種の記念物のようなものはありますが、それ以外は、エリーとの学僧たちのだれにも、また大乗仏教の祖とされる龍樹にも、また世親も、インドには一つもお墓なんかない。」

とあって、「エリーってだれだろう?」と意識がインドから湘南へとワープした。

誤植というのはそういう突拍子もない言葉が引き金となるワープを感じないとなかなか見つけにくいものだ。

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【四分の二本】

2020年7月1日

【四分の二本】

運動不足になっても足は歩けば鍛え直せるが、人間は二足歩行なので犬猫と違い、歩いても前足が鍛えられない。前足の衰えこそがこれから先の人生で問題になりそうな気がする。

仕事場の隅で埃をかぶっていた 4kg のダンベルひと組みを取り出し、ここまでなら継続可能だろうと思われるメニューを自分で決め、図解を見ながら毎朝続けている。ようやく一週間が経ったが、少しは成果が出たかどうか、それを測る四つ足歩行はまだ試していない。

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【禅とあんぱん】

2020年7月1日

【禅とあんぱん】

下町商店街を散歩したら『月寒あんぱん』というものが売られており、開封されたサンプルを見たらあんぱんというより月餅で、月餅は大好きなので買ってきた。創業明治三十九年とあり、その由来を知りたいので帰宅後検索したら、こう書かれていた。

 月寒あんぱんは、明治7年、東京・木村屋の「桜あんぱん」の大ヒットを噂で聞き、陸軍に菓子を販売していた大沼甚三郎がその「あんぱん」を自分なりに作ってみようと月餅のようなまんじゅうを作り上げ、そのあんぱんの製法を指南された一人、本間与三郎(創業者)が月寒村にて「月寒あんぱん」の製造販売を開始したのがはじまりです。
 明治44年、陸軍歩兵第25連隊と住民が協力して平岸から月寒に抜ける道路を造る際、豊平町が軍に毎日ひとりに5個のあんぱんを提供したことから、造られた道路は愛称を込めて「アンパン道路」と呼ばれ、昭和62年には記念碑も建てられました。上質な原料と丹念な製法は今も変わりません。(製造元である株式会社ほんまのサイト)

豊平町は当地に駐留していた陸軍第7師団歩兵第25連隊に道路建設の協力を要請、地元民も参加して全長約2.6キロメートルの道路建設工事が行われ、4か月の工期で1911年(明治44年)に歩兵第25連隊将校集会所(月寒中央通7丁目、現つきさっぷ中央公園)、および豊平町役場(月寒西1条6丁目、現月寒児童会館)と平岸(札幌市立平岸小学校付近)を結ぶ道路が完成した。(ウィキペディアより)

曹洞宗の月刊誌『禅の友』が届いていたので食べながらページを開いたら、「禅のことば」に普請作務(ふしんさむ)が取り上げられていた。唐の禅僧百丈懐海(ひゃくじょうえかい)に由来する言葉で、老いた師を気遣った弟子が農具を隠したら、普請の約束を守れなかったから食べる資格がないと言ってその晩の食事を摂らなかったという。効率だけではない人生の意味づけが普請にはあるという。

住民に混じって普請に出たわけではないけれど、しみじみ味わってありがたくいただいた。

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