酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「さようなら原発集会」が問いかける市民の意味

2011-09-22 00:13:19 | 社会、政治
 台風15号が日本を縦断し、甚大な被害をもたらした。天災の猛威に触れた時、人間の驕りを思い知り、謙虚な気持ちになる。それが人災であれば尚更で、福島の事故を経た今、脱原発がこの国最大のテーマだ。

 先日19日、「さようなら原発集会」(明治公園)に参加した。周辺は人で溢れ、身動き取れず千駄ケ谷駅で引き返した人もいたから、実質10万人規模(主催者発表は6万人)の集会だったが、俺は違和感を覚えていた。

 第一の理由は、俺自身の〝欠陥〟にある。人が集まることへの不信感を拭えないのだ。俺が抗議集会やデモに頻繁に足を運んでいた1980年前後、参加者はせいぜい数百人で、2ケタってことも珍しくなかった。公安刑事に「数年前は20倍ぐらい集まってた。おまえら、惨めだな」と挑発され、妙に納得した記憶がある。でも、その20倍の人はどこに消えてしまったのか。

 第二の理由は、集会やデモが日常とあまりに近く、緊張感に欠けたことだ。午後1時に家を出て、40分後に会場に着き、フライング気味で出発したデモはスイスイ進む。歩き慣れた新宿通りから新宿駅南口を経由し、解散地点の小公園から徒歩30分で帰宅した。

 第三の、そして最大の理由は、会場のムードである。政治であれ、スポーツであれ、音楽であれ、その場に立ちこめる<気>がある。魂のモッシュで場を揺らすうねりが生じれば、俺の中で化学反応が起き、彼方に浮き上がる蜃気楼を見たかもしれない……。だが、俺を包んだのは躍動ではなく停滞だった。

 会場内外に林立していたのは全労連(共産党系)傘下の組織の幟で、それを目印に参加者がたむろしていた。明らかな動員である。票になるなら接近するが、引き回せないと判断するや離れていく……。反原発では共産党が日和見の伝統を捨てることを願うばかりだ。

 俺は浦島太郎状態の新参者だが、仕事先の整理記者Yさんはこの間、様々な反原発ムーブメントに関わり、若い息吹と胎動を肌で感じてきた。そのYさんに当日の感想を尋ねると、「運動を担ってきた若い連中、来てたのかな」と渋い表情で話していた。

 原発反対、子供が大事、人間大事……。このシュピレヒコール?を唱和できず、むっつりデモに連なりながら、脱原発の道筋を考えていた。<死の町>と事実を語った鉢呂氏が辞任し、<死の町>にした枝野氏が後任の経産相になる民主党政権は、自民党同様、全く期待できない。<核マフィア国家>を変えるためには、時限的な反原発党を立ち上げるしかないと思う。

 <民主主義では市民の集会やデモしかない>という集会でのアピールに、大江健三郎氏の限界を感じた。アメリカで今春、資本家の更なる収奪を固定化する反組合法に対抗するムーブメントが広がった。先頭に立ったマイケル・ムーアは<民主主義の成立条件は全市民が活動家であること>と繰り返し語っている。

 両者の市民のイメージは大きく異なるが、俺はもちろんムーアを支持する。良心や倫理と無縁の原発推進派が構築した壁に対峙するには、ムーアが描くアクティブで覚醒した市民が結集しなければならない。俺は怠惰な老兵だが、最後列に加わりたいと思う。ブログであれこれ書くのも、手段のひとつと考えている。



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