酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

心に焔を灯すパティ・スミスの新作「バンガ」

2012-08-31 15:33:07 | 音楽
 U―20女子W杯の結果が気になってテレビをつけると、とんねるずの番組が始まっていた。消すのをやめたのは、石川佳純が映っていたからである。常に発見が遅れる俺だが、石川が俺のブログに初登場したのは5年前の4月。中学生の頃、既に注目していたことになる。

 「もっと可愛くなると思ったのに、期待外れだった」とロンドン五輪での石川の印象を仕事先で話していたが、勘違いだったようだ。さすがテレビというべきか、天然ぶりと併せ、彼女の魅力を十分に引き出している。勤め人時代、女子社員の顔を狸と狐に分類して顰蹙を買った俺だが、好みは狸(福原愛)ではなく、狐(石川佳純)の方である。いずれのタイプにも痛い目に遭わされてきたのは、力量不足と言うしかない……。

 別稿(7月30日)に記したが、俺は〝PANTA隊〟の一員として「脱原発~国会大包囲」に参加した。一期一会と腹を括り、あれこれぶつけた質問に、懐の深いPANTAさんは丁寧に答えてくれる。「PANTAさんは俺にとって、パティ・スミスに匹敵する〝ロックイコン〟です」と話すと、「俺はあんなにわがままじゃないですから」と即座に言葉が返ってきた。ちなみにPANTAさんは〝パンククイーン〟のパティより3歳若いが、デビューは3年早い〝パンクの魁〟である。

 PANTAさんのように謙虚な人はレアケースで、大抵のカリスマは分野を問わず周囲に緊張を強いる腫れ物だ。今回は〝ジコチューの狐〟ことパティの新作「バンガ」について綴りたい。

 03年夏、赤坂ブリッツでパティのパフォーマンスに触れ、ステージから放射されるオーラとフェロモンに圧倒された。意志の力が聴衆を覚醒させ共感へと導く<ロックの理想形>があの夜、体現されていた。あれから9年、呟き、囁き、話しかける「バンガ」は静謐でモノクロームな耐暑アイテムだが、心に熱い焔を灯してくれる。

 パティは作家、詩人、写真家、映画監督、ロッカーら多分野のアーティストから指向性を吸収し、屹立する光の塔になった。「バンガ」は人生の集大成であり、同時に自らを創り上げた文化へのオマージュといえるだろう。

 10代の女の子が歌うような♯2「エイプリル・フール」も微笑ましいが、訳詞を眺めながら聴いていると、パティの作意が浮き上がってくる。♯1「アメリゴ」ではアメリカの命名者アメリゴ・ヴェスプッチ、♯11「コンスタンチンズ・ドリーム」ではコロンブスと同時期の画家をテーマの軸に据えている。「1%」を痛烈に批判するパティだが、アメリカ再生への希望が伝わってきた。

 死に彩られた曲も多い。それぞれエイミー・ワインハウスとマリア・シュナイダーに捧げた♯4「ディス・イズ・ザ・ガール」と♯6「マリア」も印象的だが、聴かせどころは♯10「セネカ」だ。60代半ばになったパティは、自らの人生に関わった人たち――夫フレッド、弟、ギンズバーグ、メイプルソープ、バロウズ――を見送った。同曲は鎮魂の思いが込められた美しいレクイエムである。

 ロシアもキーワードのひとつで、アルバムタイトルでもある♯5「バンガ」は、旧ソ連の反体制作家ブルガーコフの小説に登場する犬の名から採られている。♯8「タルコフスキー」はロシアツアーで巨匠の墓を訪れた時にインスパイアされたという。パティは日本文学に造詣が深く、酒好きでもある。南方戦線で日本軍と戦った父からは、原爆の悲劇を教えられた。映画「ドリーム・オブ・ライフ」(08年)で日本への遠近感が表現したパティは、東日本大震災後、イメージとリズムに和風が窺える♯3「フジサン」を作った。

 カーソン・マッカラーズ、ヴァージニア・ウルフ、そしてダイアン・アーバス……。パティと並ぶ20世紀の女性表現者を挙げてみた。ウルフとアーバスは自殺し、マッカラーズの人生は孤独に満ちていた。生き辛かった彼女たちと比べ、パティは奔放さを貫いている。「ドリーム・オブ・ライフ」ではバロウズとの交遊が描かれていた。突進してくる小娘(パティ)を持て余したバロウズは、「僕はゲイなんだ」と呟いたという。

 師、理解者、友、そして恋人を猛烈な勢いで探し求めてゲットする……。パティは〝ジコチューで肉食系の狐〟だが、創り出すものは知的な煌めきに満ちている。年内に刊行される「ジャスト・キッズ」(全米図書賞受賞)、来年1月の日本公演(オーチャードホール)が待ち遠しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「かぞくのくに」~<国の形>を静かに問うホームドラマ

2012-08-28 23:40:39 | 映画、ドラマ
 国を愛するなら、反原発ではなく領土問題で立ち上がれ!……。「週刊文春」など保守メディアの主張に違和感を覚える。俺にはアプリオリに国を愛せないからだ。

 歴史を振り返ってみよう。国体護持(天皇制維持)を執拗に求めたために降伏が遅れ、広島と長崎に原爆が投下された。被爆者はアメリカのモルモットにされ、政府からも酷い仕打ちを受ける。「満州は日本の生命線」と煽った関東軍だが、敗戦を察知するや脱兎の如く遁走し、満蒙開拓団を置き去りにする。棄てておいて「残留孤児」と言い換える体質は戦後も変わらない。そのことは水俣病など公害病患者の苦しみが物語っている。

 3・11はメディアも一体になった<棄民の伝統>を白日の下に晒したが、同時に変化のきっかけにもなった。環境とは、伝統とは、生存権とは、未来を担う子供たちに残せるものは……。それぞれが思いを巡らせる中で、高圧的でも排外的でもない<オルタナティブなナショナリズム>が醸成されつつある。だからこそ、思想信条を超え、広範な層が反原発の旗の下に集まっているのだ。

 新宿で先日、「かぞくのくに」(11年、ヤン・ヨンヒ監督)を見た。<国の形>を静かに問うホームドラマである。井浦新、安藤サクラ、ヤン・イクチュンの3人の個性派が息吹を与え、彩りを添えていた。ご覧になる方も多いと思うので、ストーリーの紹介は最低限にとどめ、背景と感想を中心に語りたい。

 主人公のソンホ(井浦新)は帰国事業の一環で1972年、北朝鮮に単独移住したが、病気(脳腫瘍)治療のため、25年ぶりに東京の家族の元に帰ってきた。移住当時16歳という設定だから、俺と同い年(56年生まれ)になる。大学で韓国語を教える10歳下の妹リエ(安藤サクラ)との交流がストーリーの軸で、「白いブランコ」が25年の空白とソンホの心的風景を象徴するツールになっていた。

 俺が北朝鮮という国を初めて意識したのは69年、中学1年の時だった。同級生数人と海水浴に訪れた舞鶴で、「不審な人物に注意してください」と書かれた看板を発見する。「何や、これ?」と尋ねると、「北からの密入国者や」と答えが返ってきた。ちなみに教科書には「北朝鮮は資源が豊富な工業国で、福祉も充実している」など嘘八百が記されていた。

 「キューポラのある街」(62年)では、吉永小百合演じるジュンの友達が、希望を抱いて〝地上の楽園〟へと旅立った。ソンホに移住を勧めたのは、朝鮮総連幹部の父(津嘉山正種)である。立場に縛られ息子に肉声を伝えられない父、北朝鮮で感情の殺し方を学んだソンホ……。父と息子の和解は、ラストで控えめに描かれていた。母(宮崎美子)の送金は恐らくソンホの元に届いていないだろう。報われないことを知りながら自己犠牲を厭わないのが母の優しさである。

 大上段で告発するわけではなく、家族の普遍的な情と絆が北朝鮮の歪みを炙り出していた。無遠慮に入り込んでくるのが、監視役のヤン(ヤン・イクチュン)である。リエの自由を心から願うソンホだが、ある提案を義務付けられていた。リエがヤンを罵倒するシーンが本作の肝のひとつで、ヤンは次のように話して車中の人になる。

 「あなたが嫌いなあの国(北朝鮮)で、お兄さんも私も生きているんです……。死ぬまで生きるんです」

 ヤン・イクチュンは別稿(10年4月26日)で紹介した「息もできない」(08年)で監督・脚本・主演を務めた。<現代に甦ったシェークスピア>、<ヌーベルバーグ以来の衝撃>と全世界で絶賛を浴びた同作は、俺にとっても今世紀ベストワンだ。別人の如き佇まいのヤンは、フレームの中で自らを際立たせる方法を知っている。だからこそ、台詞がなくても、構図の中心にいなくても、登場シーンが脳裏に焼き付けられるのだ。

 ソンホは諦念とともに囚われの身に戻り、リエは怒りを胸に旅に出る。妹を亡くしたばかりの俺にとり、家族との再会と別離が胸に染む作品だった。97年という設定に意図はあったのか不明だが、拉致問題が報じられるようになった時期と重なっている。

 3・11以前と以降では、本作の感想は異なる。ソンホがリエに語る<あの国>の理不尽、不合理、非条理は、3・11以降、他人事に聞こえない。<この国>と<あの国>の近さが気になるぐらいだ。とはいえ、国に優しさを求める気にもならない。人間としての素直な感情、良心、倫理に沿った国なんて、かつて世界に存在しただろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「眠れぬ夜の仕事図鑑」~フクロウたちの熱い夜

2012-08-25 13:35:11 | 映画、ドラマ
 「DAYSJAPAN」最新号に「国会大包囲」(7月29日)のリポートが掲載されている(文=広瀬隆、中田絵美/写真=広河隆一、高橋邦典)。あの夜、真横でマイクを握る国会議員の声を掻き消すように、車線に溢れ出た人たちが自らの思いを叫んでいた。俺はあの時、地殻変動を確信したが、金曜夜の官邸前デモ参加者は減少傾向にある。

 「秘密会議では挨拶しただけ」と話していた近藤原子力委員長こそ黒幕であったことが、25日付毎日新聞で明らかになった。議題を指示するだけでなく、原発維持の結論が出るよう有識者会議をコントロールする旨を表明していたという。記事が真実ならば、政府は近藤氏を罷免するべきだ。そもそも政官財とマスコミは、〝国民の抵抗なんてすぐに収まる〟とタカを括っている。棄民国家に蹂躙されぬよう、俺もブログで反原発の思いを記し続けたい。

 ロンドン五輪が終わり、仕事先では夏季休暇を交代で取っている。ギリギリの人員で作業しているところにマイナス1とくれば負担増は明らかで、おまけにこの熱帯夜だ。夏バテと睡眠不足で「眠れぬ夜の仕事図鑑」(11年)を見た。「いのちの食べかた」(07年)で世界を瞠目させたゲイハルターによるドキュメンタリーである。

 散漫な印象を受けたのは体調のせいばかりではない。舞台となったヨーロッパの事情に疎く、理解が不十分だったからだ。パンフレットを読んで制作サイドの意図を知る。監督が情報を省いたのは、見終わった観客が好奇心を持って調べ、考えることに期待したからだという。本作に限ってパンフは必需品で、各シチュエーションについて説明されていた。

 ウクライナとの国境線に配備されたスロバキアの警備隊、モロッコからの不法入国者をチェックするスペインの警備隊、イタリアのジプシーキャンプ、ナイジェリアから亡命した男性に帰国を促す関連機関職員、そして、難民申請を却下された人々が乗り込む飛行機……。本作で最も多く取り上げられていたのが移民、難民問題だ。

 '12映画ベストワン候補の「預言者」、「ル・アーヴルの靴みがき」、「さあ帰ろう、ペダルをこいで」のベースも移民問題だった。ラストが鮮やかだったり、ユーモアやペーソスに包まれていたりと温かい余韻が去らなかったが、ドキュメンタリーでは冷たく苦い現実が抉られる。

 ドイツの反原発デモやオランダのレイブなど大掛かりなイベントの間に、市井の人々の地味な日常が描かれる。新生児医師、老人ホームの介護士、自殺防止ホットライン相談員ら命を守る人々の奮闘も織り込まれていいた。印象に残ったのが、「いのちの食べかた」とトーンが近い火葬場のシーンだった。日本で火葬場といえば愁嘆場と相場は決まっているが、ドイツでは様子が違う。棺に入った遺体は事務的に荼毘に付され、遺骨を納めたケースが棚に並べられていく。彼我の死生観、宗教観の違いが窺えた。

 英国警備会社の実態も興味深かった。英国内にセットされた監視カメラは430万台で、設置密度(国民14人に1台)は世界一という。「1984」を実現したのは東欧ではなく、まさか自分の国だったとは……。オーウェルはあの世で嘆いているに違いない。互いの了承の下、セックスがネットで有料配信されるというプラハの売春宿にも驚いた。

 俺は中学生の頃から夜行性で、夕飯の後に眠り、夜中に起きて朝まで深夜放送を聞いていた。社会的不適応のフクロウが20年間、正社員を続けられたのは、夕方出社、未明帰宅の勤務形態が合っていたからである。業後フラフラと歌舞伎町から新大久保駅へと連なるダークゾーンに赴くと、昼間とは別の景色が見えてくる。夜に守られていたものが朝の光に奪われる残酷な一瞬は実に刺激的で、哀しみと優しさに満ちていた。

 今の仕事はサラリーマン時代と同じ中身だが、勤務形態がニワトリに変わった。とはいえ、体内時計も気持ちもフクロウのまま、白日夢と妄想の日々を過ごしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シャーロック2」~恋も操る21世紀型名探偵

2012-08-22 23:43:41 | 映画、ドラマ
 先日(16日)、俺は仕事先の夕刊紙で週末特別版の校閲を担当した。女性ジャーナリストのインタビューをチェックしつつ、紛争地帯に赴く勇気に感銘を受ける。けさ、シリアから訃報が届いた。彼女、すなわち山本美香さんが帰らぬ人になる。山本さんは「人の生きざまは取材していて一番面白い」と語っていた。山本さんの生きざま、そして死にざまは敬意をもって語り継がれる。気骨あるジャーナリストの死を心から悼みたい。

 山本さんは曖昧な中立性を捨て、立ち位置を明確にすることで真実に迫った。今回はセンサー化した脳細胞で真実を暴く男を紹介する。21世紀に甦ったシャーロック・ホームズだ。ロンドン五輪直前、NHKBSプレミアムで放映された「シャーロック2」(BBC制作)を録画でまとめて見た。惚けた俺は、画面に印字されたホームズの瞬時の分析を目で追うのが精いっぱいだった。

 第1話「ベルグレービアの醜聞」、第2話「バスカヴィルの犬」、第3話「ライヘンバッハ・ヒーロー」は、それぞれ「ボヘミアの醜聞」、「バスカヴィル家の犬」、「最後の事件」をベースにしている。ベネディクト・カンバーバッチは他のホームズ役者同様、吸血鬼や悪魔が似合いそうな容貌をしている。

 「シャーロック・ホームズの冒険」(グラナダテレビ制作)と比べ、キャラクターは現代風にアレンジされている。原作では阿片窟に入り浸ったホームズだが、21世紀では煙草を隠れて吸う程度。変装術や武道の腕前も殆ど発揮されていない。下層社会との繋がりは、ホームレスの協力を仰ぐという設定で継承されている。

 今回のホームズ像が他と一線を画すのが<嫌な野郎キャラ>で、傍若無人、天衣無縫といったレベルをはるかに超えている。「僕は天才、君は凡人」とワトソンに対して常に〝上から目線〟だし、誰彼構わず秘めたる傷を暴き出し、恥をかかせる。ハドソン夫人の老いらくの恋にも容赦しない。他者への敬意や思いやりを欠く言動の数々が、第3話で自らを窮地に追いやった。

 当事者(ホームズとワトソン)以外、誰もが2人を〝恋人〟と見做している。英諜報機関トップの兄マイクロフトでさえ、弟に女性体験があるのか疑っている。千里眼のホームズに誤解の上に成立する恋は難しそうだが、第1話「ベルグレービアの醜聞」は意外なほどロマンチックな結末を迎える。ヒロインのアイリーン・アドラーは、原作で唯一、ホームズの心を揺らした女性だった。携帯をツールに、ホームズはアイリーンと<恋のゲーム>に興じる。

 第2話「バスカヴィルの犬」は生化学兵器を巡る軍の機密、遺伝子組み換え、マインドコントロールを背景に、ストーリーは進行する。「頭の中に架空の地図を作り、その中に記憶を落とし込む。地図を辿れる限り、理論上、何かを忘れることはない」……。ワトソンはホームズが真実に迫る道筋をこう説明する。その場所こそホームズにとって<精神の宮殿>なのだ。縦軸と横軸が無限に広がり、四次元に浮遊する地図を彷徨うホームズは、過去の忌まわしいプロジェクトに行き着いた……。

 第3話「ライヘンバッハ・ヒーロー」では宿敵との息詰まる接近戦が描かれる。モリアーティはホームズと対をなすオタク青年、天才ハッカー、そして<ネット上の悪意の結晶軸>だ。情報を掌握して世界を支配しようとするが、シニカルで厭世的なモリアーティは世界が空虚な伽藍であることを承知している。

 断崖絶壁に追い詰められたホームズは、第1話で習得した恋の駆け引きで死線からの脱出を図る。相手はホームズに思いを寄せる法医学者モリーで、いつもこき下ろされては涙ぐむ純情な女性だ。事の成否は、衝撃的なラストで明らかになる。

 映画「シャーロック・ホームズ」(09年)、「シャドウゲーム」(11年)も合格点はつけられるか、面白さでは「シャーロック1・2」に遠く及ばない。過去をアレンジするのではなく、ホームズの精神と方法論を21世紀に置き換えた制作サイドの慧眼に拍手を送りたい。より刺激的になった「シーズン3」(来年クランクイン)を心待ちにしている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「セブン・デイズ・イン・ハバナ」~光と影に紡がれた7編のタペストリー

2012-08-20 23:49:08 | 映画、ドラマ
 人間は矛盾に満ちている。政治家などその典型で、脱原発を主張していた橋下大阪市長がなぜか、安倍元首相に秋波を送っている。山口知事選で橋下氏が元ブレーンの飯田氏を支援しなかった理由がわかった。変わり身の早い橋下氏のこと、安倍氏との連携が成功すれば、脱原発の看板などたちまち捨てるに違いない。

 ポール・ライアン共和党副大統領候補が米英メディアを賑わせている。ティーパーティーの支持を受けるなど保守強硬派のライアン氏だが、最も好きなバンドとしてレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンを挙げていた。レイジはナオミ・クラインらとともに反グローバリズムの象徴で、<虚妄の2大政党制>の対極に位置するバンドだから、矛盾は明らかだ。

 ゲバラ像と逆さまの星条旗を掲げたステージに、レイジは「インターナショナル」とともに登場する。「ホームレスよ、武装せよ」と書かれたギターを掻き鳴らすトム・モレロ(ハーバード大政治学科を首席で卒業)はライアン氏について以下のように語っている。

 <ウォール街占拠運動をはじめ、世界中の活動家がレイジに触発され、地球をより人間的で正義に貫かれた場所にしようと尽力している>とし、本当にレイジのファンなら<自身の選挙運動に出資している企業犯罪者をグアンタナモに投獄し、レイジの曲を流して拷問すればいい>と皮肉っている。紹介したのはほんの一部だが、鋭い切れ味に胸がすく思いがした。

 前振りとも繋がっているが、渋谷で先日、「セブン・デイズ・イン・ハバナ」(12年/フランス・スペイン)を見た。「月曜日=ユマ」、「火曜日=ジャムセッション」、「水曜日=セシリアの誘惑」、「木曜日=初心者の日記」、「金曜日=儀式」、「土曜日=甘くて苦い」、「日曜日=泉」……。ハバナを舞台に、光と影に紡がれた7編のタペストリーだった。

 ハバナを訪ねる者は、誰しも風景や人々に魅了される。「月曜」の主人公テディはアメリカ人の俳優で、肉感的なボニータに圧倒された。思い出作りの夜は、意外な事実が判明してジ・エンドになる。テディが渡したヤンキースの帽子をかぶった〝彼女〟が去っていくシーンには、何か深い意味が隠されているのかもしれない。「月曜」で監督デビューを果たしたのは、「チェ28歳の革命」と「チェ39歳 別れの手紙」でゲバラを演じたベニチオ・デル・トロだ。

 「火曜」では賞を授与される映画監督をエミール・クストリッツァ自身が演じていた。クストリッツァとキューバを繋ぐのはマラドーナの伝記映画で、〝神の子〟が、反米、反グローバリズムの活動家としてカストロと交遊する様子も描かれていた。ルーズで奔放なキューバ人でさえ、酔っぱらいのクストリッツァに手を焼く様子が面白い。「ノー・スモーキング・オーケストラ」を率いてツアーに出るクストリッツァが、トランペッター(運転手)とともに演奏に加わることを期待したが、〝心のジャムセッション〟にとどまった。「火曜」だけでなく、歌と音楽が本作の魅力を際立たせている。

 革命から半世紀、アメリカから〝仮想敵国NO・1〟として締め付けられた結果、経済は疲弊している。貧困には慣れても、若者を覆う閉塞感は隠し難い。「水曜」では歌姫セシリアの苦悩が描かれている。彼女にビッグチャンスを与えたのは、クラブ経営者でプロモーターでもあるスペイン人のレオナルドだ。それが〝契約としての愛〟であるにせよ、合法的に出国できれば、眩い未来が開けるかもしれない。セシリアの決断は「土曜」で明らかになる。

 「木曜」と「金曜」は実験的な作品だ。「木曜」の主人公はパレスチナから取材に訪れた監督(エリア・スレイマン=本人)だ。登場人物がシンメトリックな画面の真ん中に位置する構図が続く。海を見つめる人、そして海と人を眺めるスレイマン……。孤独がテーマと思いきや、恋人や家族が現れ、孤独は旅人だけの友になる。テレビ画面で繰り返し流れるカストロ(取材対象)の演説が妙に空しかった。「金曜」は恐怖映画のような異様な緊張感が伝わってくる一編だった。娘がレズビアンの快楽を経験したことを知った両親は、呪術師の力を借りることにする。南米文学にも表れる当地に根付いた土着的信仰を窺わせる一編だった。前半の淫らなダンスシーンと後半のスピリチュアルな儀式のアンビバレンツに息をのむ。

 「土曜」の主人公ミルタは、失業中の夫と次女を養う普通の主婦に見える。副業はケーキ作りだが、実はテレビにも出演する高名な精神科医なのだ。他のエピソードにも登場するが、社会的地位の高くても本業だけで食っていけないのが、キューバの現実なのだろう。「水曜」のセシリアがある思いを胸に、一家を訪れる。恋人の野球選手ホセとともに、非合法に出国する道を選んだのだ。夢を追い別れを選ぶ娘、残された家族の哀しみが胸を打つ。

 ラストの「日曜」では、わがままな大家マルタが早朝、住人たちを招集する。聖女像を祭るため自室を改造し、泉を造ること……。この唐突な指令にみんな文句を垂れるが、落語に登場する長屋の連中のようにそれぞれが持ち場で機転を利かせ、マルタの願いを叶える。まさに、義理と人情の世界だ。

 「日曜」が象徴的だが、キューバ人といっても見た目はバラバラだ。ネイティブのキューバ人、アフリカ系、白人、そして複数の血を引く者が、和気あいあいと暮らしているように見える。ちなみに「水曜」のセシリアは黒人だが、異父妹は肌が白かった。「日曜」の監督が「パリ20区、僕たちのクラス」のローラン・カンテと知り、納得がいった。多民族国家フランスを描いたカンテは、ハバナでその発展形を見つけたのではないか。

 キューバの美点を二つ挙げてみる。マイケル・ムーアが「シッコ」で描いたように、医療制度に限定すれば、アメリカは地獄でキューバは天国だ。命を守るという点についてキューバの方が勝っていることを、いずれセシリアはアメリカで気付くだろう。第二は、教科書に描かれた原爆だ。原爆資料館に足を運んだゲバラは、見聞したことをカストロに伝えた。その結果、キューバの教科書には広島と長崎で起きたことを日本より詳しく記している。

 最後は堅くなったが、本作はエキゾチックでミステリアスなキューバ観光ガイドの感もある。〝牢獄国家〟とアメリカが喧伝するキューバに、自由の気風が充溢しているかもしれない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「カオスの娘」~骨太でスピリチュアルな島田雅彦の世界

2012-08-17 13:26:28 | 読書
 お盆の間、亡き妹の夢を2回見た。最初の夢では、白い猫を抱いた妹が部屋に現れ、少し話した後、姿を消す。「どこに行ったんだろう」と訝っているうち目が覚めた。次の夢は深夜のドライブだ。真っ暗で細い道を運転する妹を、俺は後部座席で気遣っている。「大丈夫か」と声を掛けると、妹が疲れた顔で振り返った。死に装束に気付いた時、アラームが鳴る。あまりに鮮明な夢を、俺は今も反芻している。

 「基地問題(現在はオスプレイ配備)などで反米感情が日本で高まると、中国で反日的な動きが起きるのはなぜ」と〝陰謀論のプロ〟である友人Xに尋ねた。Xは同好の士が集う世界中のサイトで日夜、進行形の陰謀をチェックしている。Xによれば、「中国政府は国内の反日派を必死で封じ込めており、今回の上陸とは無関係。監視が緩い香港の団体まで目が行き届かなかった」。ちなみに、大統領が音頭を取る韓国については、「陰謀の可能性は皆無」と断言していた。

 春名幹男早大客員教授(CIA研究家)がXの説を、「報道ステーション」(16日)で補強していた。同番組では、日米安保の重要性を強調するアーミテージ元米国務副長官のコメントを併せて紹介している。妄想家の俺は、<頑固親父(アメリカ)が自分の必要性を反抗する息子(日本)に教えている>と勘繰っている。背後で蠢くのは、野田首相が平身低頭でへつらった某会議あたりか(5月10日の稿の冒頭)。

 霊魂の存在と陰謀論……。長ったらしい前振りは、実は本題とリンクしている。読了したばかりの島田雅彦著「カオスの娘」(07年、集英社)は、シャーマン探偵ナルヒコが誕生する作品だ。「無限カノン3部作」最終章をエトロフで閉じた時、島田は本作の構想を練っていたに違いない。島田は縦糸(歴史)を絡めて日本を直視する根太の作家だが、本作でスピリチュアルの薫りが加わった。

 眠りが丘に住むナルヒコ少年は、ナルコレプシーの発作にしばしば襲われる。ナルヒコと重なったのが「氷山の南」(12年、池澤夏樹)のジンだ。2人の主人公はともにアイヌの血を引き、ナルヒコはトンコリを、ジンはムックリ(ともに民族楽器)で世界と親和する。表現の方法は異なるが、池澤と島田は<荒び、汚れ、規範を失くした日本>を冷徹に見据え、再生の道を探っているのだろう。

 物語の起点になるのは首都圏を襲った巨大台風だ。混乱が収まった頃、外資系石油メジャーの重役が殺され、女子高生の娘が失踪するが、型通りの捜査で迷宮入りとなる。<洪水の次は地震か>という記述が4年後に現実になることは、島田にとって想定外だったはずだ。

 シングルマザーであるナルヒコの母は、欲望渦巻く東京で生きる道を選ぶ。愛人関係にある投資家の野村、精神科医の奈良山は現在の日本を写す典型的な個性だ。世界の腐臭に気付いたナルヒコは、自分を治そうとする奈良山に以下のように告げる。

 <世界が病んでいる限り、ぼくも先生も、この世界に暮らしている人は全て、狂い、壊れていくんです。ぼくには、母だけではなく、この病んだ世界を救う義務があるんです>……。

 ナルヒコは祖母から受け継いだ資質を伸ばし、シャーマンとして生きる道を選ぶ。様々な霊と交信しながら苦行を続けるナルヒコをあの世で見守るのは、祖母とトメさんだ。アイヌの祖母、ウィルタのトメさんは民族を超えた友だった。両者の感性と能力を継承したナルヒコは、<病んだ世界>でもがく少女を救うため、東京に戻る。

 可憐だった少女は絶望の淵で記憶を失くし、絶え間なく襲い来る凶事を反射的にはねのける。少女を守る騎士はナルヒコだけではない。大学で文学を教える真田も、彼女に救いの手を差し伸べる。ナルヒコの超能力と真田の知性により、少女を地獄に落とした事件の真相が明らかになる。行き着いたのは陰謀で世界を牛耳る〝通称ブラックハウス〟だった。

 愛すること、死ぬことの意味を問い掛ける本作は、神聖さと猥雑さ、そして「キック・アス」をダークにしたアメコミ風味が混ざり合うエンターテインメントでもある。帯に記された美輪明宏の<多次元の万華鏡>の評が、ピンポイントで本質を抉っていた。

 高村薫の「神の火」は原発破壊、即ちこの世を終焉に導くテロリストの心情に寄り添っていた。「カオスの娘」にもまた、<神の怒り>に通じる憤りと破滅願望が滲んでいる。これほどの作家が何度も芥川賞を逃したのは、作品に潜むラディカルな暴力性のせいかもしれない。

 ナルヒコがシャーマン探偵として大活躍する最新作「英雄はそこにいる」も併せて購入した。長年の島田ファンによると、BGMにはオペラが最高とのこと。門外漢の俺はピンとこないが、<神聖さと猥雑さ>が両者の共通点なのだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

流転しながら煌めきを増すPANTAさんの魂

2012-08-14 23:45:53 | 音楽
 ロンドン五輪閉会式でNHKの酷さにあきれ果てた。ミューズのパフォーマンスはアナウンサーのお喋りで台無しされ、掉尾を飾ったザ・フーもタイムアウトとくる。とはいえ、「ババ・オライリー」~「ピンボールの魔術師」~「シー・ミー・フィール・ミー」~「マイ・ジェネレーション」のメドレーに心が疼いた。世紀を超えても色褪せないフーの楽曲の素晴らしさを改めて実感する。

 別稿(7月30日)に記したが、俺にとってPANTAさんは、ピート・タウンゼント(フー)らと並ぶ<ロックイコン>だ。先日、APIA40で行われた「アコースティックライブ」に足を運んだ。菊池琢己との共演(ユニット「響」)で、ユーモアに溢れたMCを含め、PANTAさんの魅力を堪能した3時間弱だった。

 仕事先のYさんに誘われ、国会包囲(7月29日)に〝PANTA隊〟の一員として参加した。その人間性に感銘を受けた以上、呼び捨てにするのは気が引ける。今稿は基本的に敬称(さん)付きで記すことにした。

 オープニングは花田裕之(元ルースターズ)の参加が話題になった「PISS」(89年)から、「ライフ・カプセルの中で」と「切なさが遠すぎて」がピックアップされていた。ルースターズファンだった俺にとり、花田との共作ではないこの2曲は地味な印象だったが、ライブで聴いてみて、映像的で歪んだ感じの秀逸なラブソングであることに気付く。

 「沈黙の中で」~「短恨歌」~「次の一頁」のメドレーに情感を刺激された。「狂つた一頁」(1926年)にインスパイアされた曲という。原作の川端康成、監督の衣笠貞之助が脚本も担当したアヴァンギャルドなサイレント映画だ。CD化は早くて年末、映像とのコラボでDVD化の可能性もあるとのこと。抒情的でノスタルジックな歌詞も、PANTAさんの貌のひとつだ。

 第2部では「オリーブの樹の下で」(07年)から3曲が続けて演奏される。重信房子さんの裁判を傍聴し、往復書簡で交流を深めたPANTAさんは、彼女の詩に曲を付けたアルバムを「響」名義で発表した。

 <みんなどこへ行ったのか ボクは今も独りバリケードの中にいる 夢にはぐれ独り 独り>の歌詞が印象的な「来歴」に続き、今回のハイライトというべき「ライラのバラード」が聴く者の心を熱く揺さぶる。女性革命家ライラ・ハリッドさん(パレスチナ評議会議員)は国を代表して重信さん弁護のために来日する。<重信さんを裁くことは、抑圧された世界の民衆の連帯を裁くことであり、更に正義を、解放闘争を裁くこと>とライラさんは訴えた。

 ♪戦火を逃れて 故郷を追われた 家も街も祖国も なにもかも奪われた あれから半世紀過ぎても 斗いの権利は捨てない わたしの物語 だけどそれはみんなの物語 パレスチナの 世界の友の物語……

 世界を感じるフレーズで結ばれる同曲を、PANTAさんは今年、ライラさんの前で演奏する機会に恵まれた。場所は伝説に彩られた京大西部講堂で、ライラさんは演奏後、ステージに上がり、PANTAさんと菊池にあるものを授けた。ハッパである。言葉の響きは怪しいが、首に掛けるタオル状の布で、<自由の戦士>の文字が縫い込まれていたという。

 荒々しい「七月のムスターファ」の後は、PANTAさんのキャリアの中で「1980X」とともにツインピークスと呼ぶべき「マラッカ」(79年)から「ネフードの風」だ。歌い終わったPANTAさんは息も絶え絶えに「金メダルを取ったみたい」と時節柄のジョークを飛ばす。続くのは沢田研二に提供した「月の刃」で、「反原発や護憲を歌で表現するジュリーにお株を奪われ、裏PANTAになった気分」と笑いを誘う。

 かつてPANTAさんは、一部で〝裏ジュリー〟と呼ばれていたらしい(自称?)。81年正月、帰省中の俺は、昨年亡くなった伯母宅を訪れた。伯母は<男はルックス>と決めつける傾向があった。俳優や歌手なら尚更で、〝元祖イケメン好き〟といっていい。俺が「浅草ニューイヤーロックフェスティバル」にチャンネルを合わせると、偶然にもPANTA&HALが演奏を始める。曲はXデー(天皇の死)の状況を9年前に見通した「臨時ニュース」だ。当時60歳前後だった伯母の第一声、「この人、鼻筋が通ってえらい二枚目やな」には正直驚いた。

 本題に戻る。第1期頭脳警察の曲はセットリストになかったが、第2期から「俺たちに明日はない」、「死んだら殺すぞ」と続く。寺山修司の詩「時代はサーカスの象にのって」の朗読から「万物流転」で第2部は終了した。俺の心がそよぎ始めた。あの曲をPANTAさんは演奏してくれるだろうか……。

 国会包囲の夜、PANTAさんの横で地べたに座り込んだ俺は、「あの曲、やるんですか」と尋ねた。PANTAさんは「どっちともいえないな」と言う。アンコールでは「マラッカ」の後、馴染みのない曲が続き、PANTAさんは立ち上がって挨拶する。終わったと思ったら、ステージでもぞもぞしている。そして「もう一曲やります」と言って、あの曲、即ち「裸にされた街」のイントロが鳴った。

 ♪闇の中を子供の群れが 松明を片手に進む 100 200 300と死に場所をもとめて だれひとり 声もたてずに……。32年後の原発事故を予言するような歌詞が哀切に胸に響いた。

 この経緯をPANTAさんの親友であるYさんに伝えると、「女の子のリクエストだったらあり得るけど」と苦笑していた。俺如きの頼みなどを聞くはずもないことは承知の上である。ちなみにPANTAさんは、イメージの連なりである原曲に、直截的なメッセージを書き加えて歌っていた。

 今回のライブで感じたのは、俺が<PANTA=パンクロックの先駆け>という杓子定規なパブリックイメージに囚われ過ぎていたことだ。頭脳警察をアシッドフォークに分類する論者もいるという。反骨精神と知性だけでなく、温かさとしなやかさを併せ持つPANTAさんは、流転しながら還暦を過ぎた今も煌めきを増している。

 俺にとって〝あの曲第2弾〟はヘルマン・ヘッセの詩に曲を付けた「頭脳警察1」(72年、当時発禁)収録曲「さようなら世界夫人よ」だ。足繁くライブに通えば、遠からず聴けるだろう。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ニッポンの嘘~報道写真家 福島菊次郎90歳」~澄んだ眼差しの先にあるもの

2012-08-11 14:44:22 | 映画、ドラマ
 まずは弱小ブロガーのささやかな悩みから。それは<敬称>だ。前稿で取り上げた広河隆一には「氏」を付けたが、辺見庸はケースバイケース。今回は迷った揚げ句、テーマの福島菊次郎をはじめ、敬称をすべて省くことにした。

 新宿で先日、「ニッポンの嘘~報道写真家 福島菊次郎90歳」(12年)を見た。くしくも冒頭に広河が登場する。デイズジャパンに招かれた福島は、未来のフォトジャーナリストに「問題自体が法を逸脱しているなら、その状況を明かすために、カメラマンは法を犯してもいい」(論旨)と語る。

 メディアは<疑似中立性>で自家中毒しているが、福島はファインダー越しに対象と寄り添う。だからこそ、作品は凄まじい衝撃を与えるのだ。福島が自らに課したのは、<立ち位置を明確に、真実に近づくこと>である。

 被爆者の中村杉松さんとの出会いが、キャリアのスタートだった。福島は本作で、被爆者をモルモットにしたアメリカ原爆調査委員会(ABCC)の行為を、「アウシュビッツ以上に残虐」と告発している。人間としての感情と倫理に基づくという点で福島と重なるのがゲバラだ。来日時(59年)、政府の妨害をはねのけて原爆資料館に足を運んだゲバラは、「君たちはこんな目に遭ってもアメリカに従属するのか」と同行者(地方紙記者、広島県職員)に怒りをぶちまけている。

 福島は中村さんと交流する過程で、行政の冷酷な対応に憤りを覚え、「平和都市ヒロシマ」の虚妄に気付く。精神的に変調を来すほど(3カ月入院)撮影にのめり込んだ福島を、思わぬ事態が待ち受けていた。中村さんが亡くなった後、弔問に訪れた福島は長男に「帰れ」と罵られる。プライバシーを作品の形で公開することで「原爆写真家」と認知された福島を、家族は許せなかったのだ。

 上京した福島は学生運動、三里塚闘争に同志として加わり、公害問題、フェミニズム運動にコミットする。主観と客観のバランスが崩れた福島の写真には、自身の怒りや怨念をも焼き付けられているから、見る者の心に響く。魂が滲み出るという意味で、大島渚の映像に近い。

 兵器産業の取材で防衛庁を騙す経緯も福島らしい。福島は冒頭の言葉通り、<法を逸脱している状況を明かすため>、堂々と工場に入り込み、働く者の本音を引き出した。本作に感じるのは、〝人間福島〟の巧まざるユーモアだ。飄々とした言葉、どこかぎこちない動作、月10万円弱の愛犬ロクとの慎ましい生活、シャッターを押す時の童心に返ったようなしぐさ……。地面に座り込んで反原発デモを撮影し、福島では警官に話し掛けながら立ち入り禁止地区にカメラを向けていた。

 福島は61歳の時、無人島に移住する。自らの写真が時代の流れを止められなかったことへの無念がカメラをおいた理由だが、ある女性の存在が本作で明かされる。福島の矜持が、共同生活を壊すきっかけになった。「年金を受け取ったら」という女性の提案を、「この国と闘ってきた俺に、そんなことできるか」と拒否する。ほかに言いようはなかったか……。福島は今もあの時の言葉を悔いている。

 無人島から戻った福島はがんに侵され、闘病中に昭和天皇の下血を知る。昭和天皇は戦争責任を問われた際、「文学的なことはわからない」と発言した(75年)。国体護持を求め早期の降伏を拒否した昭和天皇は同日の会見で、原爆投下を「仕方なかった」と容認している。大元帥閣下(昭和天皇)の命令で人間魚雷として自爆するはずだった福島は、「トンズラさせてたまるか」との思いで〝現役復帰〟し、妨害に遭いながら「戦争責任展」を全国で開く。

 本作で紹介されていたように、福島は祝島の原発反対運動にも関わっていた。3・11後、被災地に赴いた福島は、首が落ちたお地蔵さんの写真を撮り、飯舘村で放射能について語り合う。その胸中が明らかになるのは、福島が中村さんの墓前で号泣し、「ごめんね」と語りかける場面だ。中村さん一家を顧みなかったことへの自責の念だけではない。自らを含め反原発側が無力であったため、多くの人が中村さんと同じ痛苦を味わうことへの苦い思いだ。

 家族を犠牲にしたと勝手に想像していたが、長女の言葉に安堵した。彼女は父と展示用のパネルを作った思い出を楽しそうに語り、「面と向かって言いたくないけど、父は格好いい」と続けた。確かに福島は格好いい。そして、田原総一朗の言を借りれば、「福島菊次郎について知れば知るほど、私自身がなさけなくなる」。加藤登紀子はパンフレットに、「今も嘘にまみれた国の醜さに喰らいつくまっすぐな視線の向こうに、なぜか青空を感じた」と感想を寄せていた。福島の眼差しも、青空のように澄んでいる。

 広河隆一、福島菊次郎とくれば、この時季に相応しいのはPANTAしかいない。今夜のアコースティックライブについては、次稿で記す予定だ。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新・人間の戦場」~無為の罪を穿つ写真の力

2012-08-08 23:20:09 | 読書
 広島と長崎の原爆忌、そして敗戦の日……。死者を悼み、戦争の加害と被害に思いを馳せる時が今年も訪れた。敬虔な気持ちを嘲笑うかのように、妖怪たちが永田町を徘徊している。事の発端は<総選挙で自民圧勝>の調査結果だ。

 国民の投票行動が予測通りとしたら、原発推進、ばらまきの公共事業、対米隷属、格差拡大、霞が関主導が再び闊歩することになる。悪夢を葬るには、脱原発(反増税も)を掲げる各党や市民団体が小異を克服して選挙を闘うことだ。

 さて、本題に。小出裕章氏や広瀬隆氏とともに長年にわたって反原発を訴え続けてきたのが、フォトジャーナリストの広河隆一氏だ。今回は同氏のキャリアをまとめた「新・人間の戦場」(デイズジャパン刊)を紹介する。

 <私はこの本で、人間の生存と尊厳が脅かされているその場所を「人間の戦場」と呼ぶ>と冒頭に記された写真集は、7つの章で構成されている。広河氏がキャリアをスタートさせたパレスチナから、イラク、アフリカ、アフガニスタン、チェルノブイリへと続く。審美眼に欠けるから、アートとして作品を批評することは出来ないが、ページを繰るごとに、主観と客観が対になって感光されたモノクロームに引き込まれていく。写真が穿つのは俺自身の<無為の罪>だ。

 全編を通し、女性と子供が題材になっているが、その表情には哀しみだけでなく、信念と意志が宿っている。最も多くの写真が掲載されている第1章で、パレスチナの厳しい状況が切り取られている。イスラエルはジェノサイドの記憶を反転させ、パレスチナに対してナチスの如く振る舞っている。だが、広河氏は<同情すべき被害者>としてパレスチナ人を捉えていない。最も印象的な一枚は、イスラエル兵にVサインを示して抗議する女性の姿で、表紙に採用されている。

 イラクとアフガニスタンの章では、米国とタリバンの虚妄の正義に蹂躙される人々の痛みが映されている。アフリカの章では、<無為の罪>を突き付けられた。今より純粋でシャープだった頃、笑いながら、食べ物を頬張りながら、他者を殺していることに薄々気付いていたが、齢を重ねるごとに鈍感になっていく。

 映画「ダーウィンの悪夢」(04年)が抉ったように、先進国はグローバリズムの名の下、アフリカの地場産業と環境を破壊した。内乱の拡大で儲けているのは、武器を大量に売る常任理事国である。広河氏は絶望的な仕組みを直視してシャッターを押している。

 本作の肝というべきは第五章「チェルノブイリ」だ。廃墟を収める写真に、広河氏の畏怖の念が滲んでいる。裏表紙に用いられた写真は、宗教画のような荘厳さと神聖さを帯びていた。原発事故から10年後、甲状腺がんを発症した14歳の少女がベッドで母を見つめている。彼女は2カ月後に亡くなった。

 チェルノブイリでの写真はレクイエムではなく、福島、そして日本への警鐘であることが、第6章<津波>、第7章<福島>で明らかになる。3・11直後、いちはやく被災地に足を運んだ広河氏は、マスメディアが報道しなかった真実を追い続けた。命ある限り福島に足を運び、そこで起きていることを記録にとどめていくだろう。

 広河氏はデイズジャパン編集長として、「検証原発事故報道」発刊に取り組んだ。官邸、東電、メディアが3月11日から1週間、いかなる情報を発信したかをつぶさに記録した同作について、広河氏は<いずれ厳しい裁判闘争が起きるでしょう。この本をその時の資料として使ってほしい>と講演会で語っていた。誰よりもチェルノブイリ事故について知る同氏は、日本で起きることを冷徹に見据えている。声高に叫ぶのではなく、噛みしめるように言葉を吐き出すからこそ説得力が増すのだ。

 広河氏について、「この人、誰かと似ている」と常々感じていた。ようやく見つけた答えは「辺見庸」である。広河氏は1943年、辺見氏は44年生まれと同世代だ。雰囲気、オーラが近いのは、極限状況で対象と接する体験を共有しているからだろう。<無為の罪>を消化し、作品の形で昇華することで世界と対峙している。二人に感じるのは<地獄を知る者ゆえのオプティミズム>だ。

 次稿では広河氏の先輩というべき反骨の写真家について記す予定だ。その名は福島菊次郎……。その人生を追った「ニッポンの嘘~報道写真家 福島菊次郎90歳~」が上映中だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ダークナイト・ライジング」~闇の底から立ち昇るもの

2012-08-05 23:07:06 | 映画、ドラマ
 五輪に興味はないと言いつつ、ここ数日、録画を含めいくつか競技を見た。隔世の感を禁じ得ないのは、流れを把握し、効果的にゴールを決めるサッカー男子だ。日本の〝銀銅ラッシュ〟に複雑な気持ちになったが、その中で金の可能性が高かったのは入江の200㍍背泳だけで、他の選手は大健闘のメダル獲得ではなかったか。

 終わったばかりのフェンシング男子団体フルーレ準決勝も劇的だったが、俺が見た狭い範囲でのベストマッチは男子1万㍍だ。ケニア、エチオピア、エリトリア勢が心理戦を繰り広げるレースを制した英国のファラーは、ソマリアからの移民である。2位にはチームメート(ナイキ・オレゴン)のラップ(米)が入った。白人のラップの好走は、日本選手が長距離でアフリカ勢に伍すためのヒントになるかもしれない。

 新宿で昨日、「ダークナイト・ライジング」(12年、クリストファー・ノーラン監督)を見た。冒頭の飛行機襲撃、英雄デントの追悼式が伏線になり、息をもつかせぬドラマが進行する。「ミッション・インポッシブル/ゴースト・プロトコル」に匹敵する超抜エンターテインメントで、長尺(2時間45分)にも緊張は途切れなかった。闇の底から立ち昇る正義と悪のせめぎ合いが描かれている。

 ブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)はバットマンとしてゴッサムを救ってきたが、激闘による心身の後遺症でこの数年、リタイア状態にある。アメコミ原作というと、舞台は大抵〝近未来の廃墟〟だが、本作のゴッサムは妙にすっきりした現在の大都会だ。地の底から這い上がったベイン(トム・ハーディ)と闘うため、バットマンは復活する。ラーズ・アル・グールに遡るバットマンとベインの宿命が、ラストへとストーリーを疾走させていく。

 「ミッション――」はどこの国の人が見ても違和感を覚えぬ普遍性を保っていたが、「ダークナイト――」にはある種のメッセージが刷り込まれている。きょう5日付朝日新聞の書評欄で荒俣宏氏が「有害コミック撲滅!~アメリカを変えた50年代『悪書』狩り」(デヴィッド・ハジュー著)を取り上げていたが、アメコミは保守層から目の敵にされていたようだ。そのトラウマが「ダークナイト――」に影を落としていたというのは穿ち過ぎだろうか。

 <ウォール街を占拠せよ>を支えたのは「1%による99%の支配」への怒りだが、本作ではその構図を、善悪を意図的に倒立させて取り入れていたように思える。キャットウーマン(セリーナ・カイル)の銃に関する台詞にも気になる部分がある。反ウォール街のデモを恐れ、銃社会を肯定する……。ハリウッド映画の脚本に、そんな保守層の意向が盛り込まれていても不思議はない。本作上映初日、コロラドの映画館で、自称ジョーカーによる銃乱射事件が起きたことは記憶に新しい。未来のエネルギーとして原子力が位置付けられていた点も興味深い。脚本は3・11以前に完成していたのだろう。

 キックオフリターンと地割れが同時進行するアメフトの試合会場など、CGをふんだんに用いた度肝を抜くシーンがちりばめられている。キャットウーマンとミランダ(マリオン・コティヤール)のバットマンを巡る2人の女性は魅力的で、マイケル・ケイン、ゲイリー・ゴールドマン、モーガン・フリーマンら味のあるベテランが脇を固めていた。3部作最終章と銘打たれているが、続編が製作されたら、ブレイク刑事(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)が重要な役割を果たすことになるだろう。

 「マシニスト」(04年)で30㌔減量し、骸骨のような体を晒したベールは、半年で体重を戻し、「バットマン・ビギンズ」のクランクインに間に合わせた。「ザ・ファイター」でも変身ぶりで見る者を瞠目させている。ベールの役作りへの執念は尋常ではない。トム・クルーズとは異なるタイプの、情念がスクリーンから零れてくる俳優といえるだろう。

 アメコミ原作の映画化で最も記憶に残るのは「ザ・クロウ~飛翔伝説」(94年)だ。撮影中のブランドン・リーの事故死が儚くも美しいストーリーと重なり、永遠の愛を謳うラストが胸を打つ。作品の魅力を際立たせるのは、キュアー、ナイン・インチ・ネイルズ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ジーザス&メリー・チェインら<ポストパンク/オルタナ>の雄が名を連ねたサントラだ。見るたびに心を洗ってくれる濾紙のような作品である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする