酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「アンヴィル!~夢を諦めない男たち」~魂萌えるロックムービー

2010-02-27 06:38:31 | 映画、ドラマ
 日本中が女子フィギュアのフリーに見入っていた頃、俺はガラ空きの接骨院でマッサージを受けていた。結果はネットで知る。同世代にもう一人の天才が存在したことは浅田真央にとって悲運だが、まだ19歳……。夢を諦めなければ、いずれ花実を手にするだろう。

 職場の映画通に薦められた「アンヴィル!~夢を諦めない男たち」(09年)と「パイレーツ・ロック」(同)を早稲田松竹で見た。40年以上ロックを愛してきたことが誇らしくなる2本立てで、くすんだ俺の魂は、揺れて潤み、萌して洗われた。

 今回はヘビメタバンドの素顔に迫った「アンヴィル!――」の感想を記すことにする。「パイレーツ・ロック」については、温めている別の稿で触れる予定だ。

 カナダ出身のアンヴィルは1984年、他のバンドとともに日本縦断ツアーを敢行する。その際の映像が冒頭に流れ、錚々たる面々のコメントが重なっていく。革新性やテクニックを絶賛する声が相次いだが、なぜかアンヴィルは売れなかった。

 リップス(ギター&ボーカル)とロブ(ドラム)は別の仕事で生計を立てながら、近くのパブで演奏している。欧州ツアーの誘いに海を渡ったが、動員力は惨憺たるものだった。旧知のプロデューサーの下、新譜(13枚目のアルバム)を制作したが、リリース元が決まらず宙に浮いてしまう。

 俺はアンチ・ヘビメタだし、アンヴィルの音は時代遅れだと思う。でも、ドン・キホーテのように純粋かつ不器用で、少し鈍感なリップスとロブに肩入れしてしまった。道が開けることを切に願ったが、彼らの夢が幻想ではなくリアルな国があった。そこは日本である。

 88年6月18日、ロサンゼルスで二つのイベントがかち合った。ヘビメタのトップバンドが集結した野外フェスと、ローズボウルでのデペッシュ・モード単独公演だ。UKニューウェーヴの雄である後者が3倍(7万弱)の聴衆を集めたことで、グローバルな潮目は変わったが、日本では今日に至るまでヘビメタ人気は衰えていない。

 レコード会社にデモテープを持ち込んだアンヴィルは、「今風ではない」と10秒ほどでボリュームを落とされる。失意の彼らに救いの手を差し伸べたのが日本のプロモーターだ。「ラウドパーク'06」(幕張メッセ)に出演し、ステージに向かうメンバーの脳裏に、欧州ツアーでの悪夢がよぎったが、バンドを待っていたのはフルハウス(2万人)の熱狂的な聴衆だった。

 ラストが感動的だった。俺と同世代のリップスとロブは、渋谷のスクランブル交差点を歩いている。どこから見ても、ただのおっさんだ。二人は〝ヘビメタの聖地日本〟の空気に包まれ、幸せそうだった。穏やかな表情に達成感を滲ませて……。

 アンヴィルは夢を掴めたのだろうか? 芸術的にはイエスだ。彼らがアンスラックスやメタリカに多大な影響を与えたことを本作で知る。アンヴィルはスラッシュメタルの種を蒔いた先駆者だったのだ。パンクに置き換えればGBHやジャームズで、ともに不遇なバンドだったが、そのDNAを受け継いだニルヴァーナやランシドがロックに変革をもたらした。

 アンヴィルが商業的成功を得るのは難しいと思うが、本作によって音楽界への多大な貢献と愛すべきキャラは知れ渡った。多くのフェスにブッキングされ、聴衆から相応しい敬意を払われるだろう。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「クーデタ」~アップダイクが描く精緻でカラフルなパノラマ

2010-02-24 00:30:14 | 読書
 WOWOWで「パーフェクト・ブルー」を堪能した。純粋な若者とモラルなき大人との対比が浮き彫りになる、切なくて清々しい宮部ワールドだった。加藤ローサと中村蒼は爽やかだったが、若者と大人との媒体役を演じた津田寛治の存在感が光っていた。

 ドラマWの作品はいずれも高品質で、「蛇のひと」(「重力ピエロ」の森淳一監督)、4週連続の横山秀夫ドラマと今後も充実したラインアップだ。他にもパッキャオ対クロッティ戦、クラシコ、「CSI科学捜査班~シーズン9」のスタートと、待ち遠しいプログラムが目白押し。WOWOW、畏るべしである。

 さて、本題。今回はジョン・アップダイクの「クーデタ」(78年発表、池澤夏樹訳/河出書房新社)を紹介する。アップダイクは戦後アメリカを代表する作家で、「走れウサギ」と続編「帰ってきたウサギ」がとりわけ記憶に残っている。その作品はセックスや俗っぽさを含め、優れた文学に必須なあらゆる要素を備えている。
 
 池澤が「クーデタ」を翻訳したのは81年で、別稿(昨年12月13日)に記した「マシアス・ギリの失踪」に本作からの多大な影響が窺える。池澤は偉大な父(福永武彦)の影から逃れるため、偉大な作家(アップダイク)を道標にしたのだろう。

 アップダイクはグローバリズムの仕組みを直観で把握していた。アメリカとアフリカを繋ぐ壮大なパノラマの細部には、精緻な彩色が施されている。

 アフリカのクシュ(架空の国)の独裁者、エレルー大佐が主人公だ。そのモデルは容易に想像がつく。若くして実権を握ったこと、永続革命の主張、イスラム教と社会主義の混淆、徹底した反米主義……。エレルーはまさにカダフィ大佐の写し絵だ。

 かつての宗主国フランス、友好国ソ連、敵性国家アメリカが有形無形にクシュを取り巻き、側近たちにも触手を伸ばしている。内憂外患のエレルーは、民衆の土着的信仰心に訴えて聖性を纏うことを目指したのか、変装して国内を巡る。水戸黄門の漫遊とは程遠く、干天で乾きを増した砂漠は独裁者にも牙を剥く。

 イスラム原理主義者の先駆と映るエレルーだが、杓子定規な男ではない。夫人4人と1人の愛人の計5人の女性が、複層的なエレルーのモザイクの断面をそれぞれ象徴している。とりわけ重要な意味を持つのは、第2夫人のキャンディーで、クシュの現在とアメリカでの過去がカットバックしながら物語は進行していく。

 1950年代後半、エレルーは政治的亡命者としてアメリカで大学に通う。白人のキャンディーと恋に落ち、ブラック・ムスリムと交流するなど、刺激的な日々を送る。黒人差別の実態、白人中産階級の頽廃、モラルを説く者たちの偽善が、アフリカから直接やって来た黒人青年の――実は作者自身の――目で抉られていた。

 油田のある国境付近で、独裁者は青春時代を過ごしたアメリカのミニチュアというべき街並みに踏み入れる。マネーと悪徳の奔流がクシュを汚していたことに衝撃を受けたエレルーは、<クーデタ>を阻止せんとアジテーションを始めたが、耳を傾ける者などいなかった。

 アップダイクは特定の価値観に固執しないし、登場人物を裁いたりもしない。五つのうち四つのモザイクが死に絶えても、一つ残っていれば再生できる。エレルーにも回想録を書く自由が与えられた。その中身が、彼を語り部とした本作「クーデタ」というわけだ。

 <アメリカ式>は本作が書かれた頃、脅威であると同時に幻想を駆り立てる夢でもあった。この30年、グローバリズムはアフリカの地場産業を崩壊させ、貧困を決定的に増大させる。<アメリカ式>はアフリカを悪夢に変えたのだ。誰よりアメリカを描いたアップダイクは、草葉の陰でため息を洩らしているかもしれない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「日本の青春」~不遇時代の藤田まことが示した円熟

2010-02-21 02:12:16 | 映画、ドラマ
 藤田まこと、享年76歳……。物心ついた頃、馬面がブラウン管の真ん中で笑っていた。あれから半世紀、馬車馬のように蹄跡を刻み続けた藤田さんは、主役の座を譲らぬまま舞台を降りた。誰からも愛された役者の冥福を心から祈りたい。

 安っさん、ヨボヨボやな。刑事はもうきついやろ……。視聴者が一瞬でも藤田さんの老いを感じたら、それは蟻の一穴となり、ドラマ全体のリアリティーを崩してしまう。実年齢と乖離した役柄に挑むには、想像を絶する努力が必要だったはずだ。

 藤田さんにも力をためる時期があった。「てなもんや三度笠」終了から「必殺シリーズ」でメーンを張るまでの10年である。「必殺シリーズ」初期、中村主水はサブキャラとして山崎努、石坂浩二、中村敦夫らを脇で支えていた。撮影現場で「下手くそ」と監督に怒鳴られることもしばしばだったという。

 藤田さんの出演作で最も記憶に残るのは「日本の青春」(68年、小林正樹監督)だ。本作では後年と異なり、実年齢より10歳以上も年長の向坂を演じている。上記のエピソードとは反するが、30代半ばで男の屈曲と悲哀を藤田さんほど見事に表現した役者はザラにいないと思う。

 導入部とモノローグはコミカルだが、本作は二つの戦争――太平洋戦争とベトナム戦争――を背景に〝日本の青春〟を描いた骨太ドラマだ。国家とは、戦争とは、家族とは、世代とは、普遍(不変)のモラルとは……。様々な切り口で見る側に迫ってくる。

 捕虜の米兵に人道的に対応した咎で鈴木中尉(佐藤慶)の暴行を受けた向坂は、補聴器を手放せなくなる。戦後、特許事務所を開いた向坂は、〝鬼畜米英の権化〟から時流に乗り、米軍にもコネを持つ実業家に転じた鈴木と再会する。その影は向坂を次第に脅かしていく。

 鈴木の娘と恋に落ちた息子は、戦争への忌避感が強い父への反抗なのか防衛大を志望している。向坂と青春の痛みを共有した芳子(新珠三千代)まで「勝ち組」鈴木になびき始めた。いたたまれなくなり、一歩踏み出した向坂を現実に揺り戻したのは、空襲時の記憶だった……。
 
 向坂は醜く勝つより正しく負けることを選ぶタイプだが、譲れぬ一線は矜持をもって守り抜く。学生時代に本作を見た時、「俺は向坂のようになれるだろうか」と自問した。

 向坂と変わらぬ年に達した頃、日本映画専門チャンネルで本作と再会し、「ノー」の答えを突き付けられた。齢ばかり無駄に重ねた俺は、五十路を越しても愚かで未熟なままである。

 最後に、今年最初のGⅠフェブラリーSの予想を。情を演じた藤田さんを偲び、グロリアスノアを軸に据える。仕事でチェックした記事に感銘を受けたからだ。20代半ばで騎手廃業の危機にあった小林慎騎手に、矢作調教師が救いの手を差し伸べた。先生に初のGⅠをと意気込む小林慎=グロリアスノアのコンビに肩入れするしかない。

 ◎⑫グロリアスノア、○④エスポワールシチー、▲③テスタマッタ、△⑪スーニ。馬連は⑫から3点、3連単は⑫④2頭軸マルチを考えている。〝人情馬券〟は的中するだろうか。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

娯楽のアルチザン~岡本喜八を支える反骨精神

2010-02-18 00:37:54 | 映画、ドラマ
 夕刊紙は日本人選手の活躍が売り上げ増に直結するから当然といえるが、仕事場は五輪で大いに盛り上がっている。バンクーバー大会の感想は閉幕する頃、まとめて記すことにする。

 あす19日は岡本喜八監督の5回目の命日だ。日本映画専門チャンネルでは「娯楽のアルチザン 岡本喜八」と題された特集が組まれているが、今回はその中から「江分利満氏の優雅な生活」(63年)と「殺人狂時代」(67年)を紹介する。

 アルチザンには<技術は優秀だが芸術的感動と無縁の職人>との意味もあるという。ちなみに俺には、「映画のパルチザン(遊撃隊)」の方がしっくりくる。晩年になって裃を纏った黒澤明と対照的に、岡本は死ぬまで〝ランニングとステテコ〟でエンターテインメントを追求した。

 「江分利満氏――」の原作は山口瞳の直木賞受賞作だ。主人公の不器用さと奇矯さを表現した小林桂樹、鈍感力と包容力を合わせ持つ妻役の新珠三千代、憎めない山師の父明治を演じた東野英治郎……。キャスティングの妙というべきで、3人とも作品にマッチしていた。

 俺の父は山口瞳と生年(1926年)と没年(95年)が同じだ。父(俺にとって祖父)の人生も、本作の明治と似て浮き沈みが激しかった。俺が本作に郷愁を覚えたのも、主人公と父を無意識のうちに重ねていたからだろう。公開当時、<江分利満=エブリマン>は戦争の影を引きずり、家族の軛と闘っていた。働き盛りの男たちは、憤懣とやるせなさを江分利と共有していたはずだ。

 岡本は戦争をテーマに多くの映画を撮ったが、必ずしも戦場が舞台とは限らない。本作もラストに近づくにつれ、反戦の思いがスクリーンから染みてくる。江分利の長口上が、戦争を許してしまった庶民の悔いを代弁していた。

 「殺人狂時代」は邦画史に輝くカルト映画だ。温めていた企画が頓挫し、完成にこぎつけたもののお蔵入り。67年2月、ようやく陽の目を見る。本作は東宝史上、動員数は最低だったが、「博士の異常な愛情」(64年、キューブリック)のアイロニー、「キイハンター」のチープさを兼ね備えた秀逸なブラックコメディーだ。

 仲代達矢が冴えない研究者と颯爽とした腕利きのアンビバレントを演じ切り、謎めいたヒロイン啓子役の団令子も魅力的だった。岡本作品ゆえ、むろん戦争と無縁ではなく、マッドサイエンティストとナチスの繋がりが伏線になっている。

 「殺人狂時代」は精神病院のシーンが多く、差別語自粛以前とはいえ、〝危険な言葉〟のオンパレードだ。反対運動が起きていた北富士での自衛隊演習がスト-リーに組み込まれていたことも、東宝上層部を悩ませたに違いない。ともあれ、娯楽のアルチザン、そしてパルチザンの面目躍如というべき作品である。

 〝巨匠〟黒澤を見尽くした人は、レンタルで喜八ワールドを堪能してほしい。俺の一押しは、深い歴史認識と反骨精神に彩られた「近頃なぜかチャールストン」(81年)だが、娯楽作品ではない。ひたすら笑いたい人には「ダイナマイトどんどん」(78年)がお薦めだ。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

“LOVELESS”~マイ・ロンリー・ヴァレンタイン

2010-02-15 00:39:05 | 戯れ言
 このタイトルにピンときた人は、かなりのロック通に違いない。

 バンクーバー五輪が開幕した。ノーマルヒル・ジャンプを見ているうち、閃くものがあった。即ち<ジャンプとは、恋の過程の凝縮である>……。

 ジャンプ台は恋のスタート地点だ。幸せの予感にときめきながら、助走路を滑っていく。身を屈める姿勢は、自分の卑小さに気付き、沈みがちになる恋の副作用に即している。

 沸点に達した恋は、解放感と緊張感が入り混じった告白に至る。まさに踏み切る瞬間のジャンパーの気分である。遠くまで飛べるのか、着地点で転ぶのか、平凡な距離にとどまるのか……。ハラハラするものの、結末はかなり前に決まっているのが常だ。

 俺はといえば、つんのめってバランスを崩し、舞うことなく地面に叩きつけられてきた。痛い経験と見聞に基づく<恋愛における女性>を以下に記す。

<A=女性はカテゴリーとヒエラルヒーに弱い>…男性(正社員)―女性(派遣もしくは下請け)のカップルは頻繁に成立するが、( )内が逆のケースは稀である。社内不倫も男性が管理職であるケースが多い。〝三高〟が典型だが、女性の志向はサル山を観察すれば理解できる。男性が身近な女性に見境なく好意を抱くのも、サル時代の名残だろう。

<B=女性は感性と知性で男を選ばない>…学生時代、自称〝寺山好き〟や〝太宰好き〟の女性にアタックして撃沈した友人は枚挙にいとまない。〝 〟内をロックとか映画に置き換えてもそのまま通用する。感性と知性は女性にとってアクセサリーで、自らの行動を規定しない。それは女性の本能ゆえ、非難する気はない。

<C=セックスは通過点>…求愛を拒む女性の常套句「友達でいましょう」を信じてはいけない。長く付き合った恋人(夫婦なら尚更)に友情や肉親の情が芽生え、時に疑似父娘、疑似兄妹に関係が転化するのは、セックスを通過したからこそ。異性間に友情が存在するとしたら、片方もしくは両方が同性愛者のケースか。

<D=女性は年齢とともに成熟しない>…若い男に積極的に近づく〝クーガー女〟が増殖中という。その一方、風俗やAVで熟女ブランドが絶大な人気を誇るが、〝年齢を経て包容力を身につけた女性〟は幻想に過ぎない。男も同様で、無駄に齢を重ねた〝見た目は中年、心は子供〟が世に蔓延している。俺もその一人だ。

 当ブログの主要読者というべき30~40代の女性の皆さん、上記は〝LOVELESS男〟の情けない戯言なので、気を悪くなされぬように。

 ファミレスで先日、ギャル3人組の会話が背中越しに聞こえてきた。テーマは時節柄、バレンタインデーである。彼女たちの会話にも出てきたが、〝逆チョコ〟も浸透しつつあるという。

 その夜、床の中で妄想が頭をもたげてきた。そうだ、俺も〝逆チョコ〟を試してみよう……。趣味と波長が合いそうな(錯覚!)2人に候補を絞る。ロクに話したこともないが、ともに好奇心とユーモアに溢れ(想像?)、温かな雰囲気の女性だ。①当ブログの読者、②世間的にはともかく俺からすれば十分若い、③出会いは07年以降……が両人の共通点である。

 さあ、どうする……。意気込んだものの、携帯の番号どころか、一番肝心なプロフィールを知らないことに思い当たる。彼女たちは既婚? 未婚? 子供は? 決まったパートナーは? 恋愛に一番肝心な基本情報を欠く以上、打つ手はない。

 「もしかしたら、わたしのこと」……。そう思われた方は恐らくピンポンだが、ご安心めされ。老ジャンパーは助走路でコ-スアウトしました。



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

健全なナショナリズムとは?~2月11日に考えたこと

2010-02-12 02:37:36 | 社会、政治
 トヨタに続き、ホンダが大規模リコール(約44万台)を発表した。日本車不信が世界に広がりそうな気配である。俺は車について知識ゼロ(免許もない!)だし、ナショナリストでもないが、震源地が〝資本主義独裁国家アメリカ〟である以上、裏があるのではと深読みせざるをえない。

 宣教師たちは500年前、武士の日和見を何度も目の当たりにして絶句したという。奪った駒を使う将棋は、変わり身の早い日本人を象徴するゲームだが、女流棋界で先日(10日)、新しい風が吹いた。17歳の里見香奈倉敷藤花が3―0で清水市代名人を破り、最も権威のある称号を手中にする。新進気鋭の稲葉4段を公式戦で破るなど、終盤力に定評ある里見がNHK杯(女流枠1)に出場したら、対局する男性棋士はプレッシャーで一睡もできないかもしれない。

 昨日(11日)は建国記念の日だったが、朝日新聞は一行も触れていなかった。賛成派と反対派が集会やシンポジウムを開催していた学生時代が懐かしい。あれから30年……、俺は今、<ナショナリズム全否定>からスタンスを変え、肯定すべき<健全なナショナリズム>を探している。

 統計学上、日本は今、瀬戸際に立っている。少子高齢化が進行すれば半世紀後、人口は半減し、ポジションダウンは避けられない。亡国の危機に右派は鷹揚に構えていて、危機緩和の手段である移民受け入れ、その地均しとしての外国人参政権に断固反対の姿勢を貫いている。

 俺にとって日本人のイメージは融通無碍だ。外国の文化に寛容なあまり、自らの伝統や風習に無頓着な点は残念である。移民受け入れによって刺激を受けた草食系の若者が、〝日本的〟に目覚めれば右派にとって大歓迎だろう。異質な存在との切磋琢磨こそ、国を活性化させる原動力になるはずだ。

 気になって仕方ないのは、〝アメリカ愛国同盟日本支部〟だ。「先生に目を付けられてるから気を付けた方がいいよ」と不良に警告する優等生のように、アメリカに忠義立てする右派が目立つが、先生(アメリカ)が本当に怒っているのか定かではない。自立と矜持に欠けたナショナリストに疑念を覚える。

 ナショナリズムは本来、思想の左右に縛られない。第2次大戦時のフランスやイタリアのレジスタンス、地下水道に籠もったポーランドの市民は言うに及ばず、21世紀の南米の社会主義者もすべからずナショナリストだ。日本でもある時期まで、ナショナリズムは民衆の間に遍く存在していた。

 血盟団のメンバーは左翼青年を〝憂国の同志〟と見做していたし、安保闘争や三派系全学連を支えたのは〝反米愛国〟の民衆の感情だった。三島由紀夫の首が胴体から離れた時、ナショリズムは左翼から分断され、右派の占有物になったが、その後、核を失くして浮遊する。

 〝大元帥閣下〟昭和天皇は朝日新聞が称揚する〝平和主義者〟にラベルを改竄され、現天皇は疑いの余地なくリベラルだ。結果として<隷米+排外主義>が、旧態依然としたナショナリズムの核になる。

 土に還る時が近づいたせいか、俺の中で〝内なる和風〟が溶け出している。もののあはれ、アニミズム、死と生の曖昧な境界といった日本独特の感性と情念に基づく<柔らかいナショナリズム>なら、許容してもいい。それを健全と言い切る自信はないけれど……。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第44回スーパーボウル~NFLが写すアメリカ

2010-02-09 00:21:44 | スポーツ
 セインツが31対17でコルツを下し、第44回スーパーボウルを制した。仕事場のテレビで結果はわかっていたが、帰宅後、録画で堪能する。

 コルツのマニング、セインツのブリーズはともにリーグを代表するQBで、ハイスコアゲームが予想されたが、序盤は静かに進行する。2週間のスカウティングが奏効したのか、コルツはラン守備、セインツはパス守備で持ち味を発揮した。

 第4Q残り3分23秒、セインツCBポーターのインターセプトTDで勝敗は決したが、マニングのミスというより、周到な準備が結実したとみるべきだ。セインツがコルツからモメンタムを奪ったのは、第2Q残り1分49秒だと思う。守備陣がセインツの猛攻に耐えたコルツは、自陣ゴールラインを背負って攻撃を開始する。解説の河口正史氏が「マニングらしくない」と評したように、1stダウンへの意欲が見えなかった。3rdダウン1からショートパスを投げていれば――危険と背中合わせは承知の上だが――コルツの攻撃は続き、前半を10対3で折り返せたはずだ。

 〝堅い戦略〟が墓穴を掘るケースは珍しくない。牙を剥いたセインツは後半開始時、オンサイドキックを試みた。ギャンブル成功と軌を一に、コルツ守備の要フリーニーがケガで機能しなくなる。奇跡的な逆転劇を幾つも演じてきたマニングでさえ奔流に呑み込まれ、上記のターンオーバーでジ・エンドとなる。勝負事の恐ろしさを実感したスーパーボウルだった。

 NFLは視聴率でも放映権料でもMLBの4~5倍の規模を誇るが、リーマン・ショック以降、動員力が低下するなど安閑としていられない状況だ。放映権料(年間4000億円以上)引き下げに怯える上層部が、「もっと面白く」と各オーナーに圧力を掛けたとしても不思議はない。

 俺の邪推はともかく、NFLには〝チェンジ〟が確実に起きている。<王者への道は強い守備>が定説だったが、今季プレーオフに出場した12チーム中10チームは攻撃重視型で、エンターテインメントの要素がさらに高まった。いちはやくワイルドキャットを導入したドルフィンズを筆頭に、多くのチームがカレッジ風のフェイク、トリック、ギャンブルを攻撃に織り交ぜていた。

 一度戴冠したコルツではなく、セインツが初の王座に駆け上がるというのも、まさに〝チェンジ〟だ。ハリケーン・カトリーナがセインツの本拠地ニューオーリンズを直撃したのは5年前のこと。自然の猛威だけでなく、白人自警団による黒人虐殺、病院、老人ホーム、刑務所で起きた悲劇など、爪あとは今も癒えていない。復旧への希望を込め、セインツに声援を送ったアメリカ人も多いはずだ。

 シーズン全体を振り返ると、第10週のコルツ―ペイトリオッツ戦が今季のベストゲームだった。コルツは第4Qだけで17点のビハインドをひっくり返す(最終スコアは35対34)。今思えば、マニングはあの時、運を使い過ぎたのかもしれない。

 最大の驚きは、昨季王者スティーラーズのQBロスリスバーガーが攻撃ラインメンとともに、WWE「RAW」にホストとして登場したことだ。慈善活動絡みと記憶しているが、「マンデーナイト・フットボール」と同時刻、エースQBがWWEに登場してエンターテイナーぶりを発揮することを、よくチームが許したものだ。ちなみにスティーラーズは次週以降、失速し、プレーオフ出場を逃した。

 最後に、ハーフタイムショーのザ・フーについて。音声と演奏が全く合っていなかった。NHKは「現地テレビ局の映像をそのまま放映しました」と弁解していたが、大嘘であることはYouTube(CBSテレビの映像)を見ればわかる。こんなところにまで日本におけるフーの不遇ぶりが表れたと思うと、長年のファンとしてやりきれなくなる。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キャピタリズム~マネーは踊る」~ムーアが示した勇気と覚悟

2010-02-07 02:14:40 | 映画、ドラマ
 俺が「プリティ・イン・ピンク」(86年)を見たのは、スミス、エコバニ、ニュー・オーダーらUKニューウェーヴの精鋭がサントラに参加していたからだ。アンディ(モリー・リングウォルド)は貧乏一家の娘という設定だったが、服装といい住まいといい、日本の中流より遥かに豊かだったことが記憶に残っている。

 あれから二十余年、アメリカ社会の荒廃は凄まじい勢いで進行する。マイケル・ムーアは中産階級の崩壊をなぞるように、ドキュメンタリーを撮り続けた。先日、最新作「キャピタリズム~マネーは踊る」(09年)を見た。

 市民が家を失ったサブプライムローンの仕組み、人口の1%が富を独占する構造、政官財に司法まで加わった<権力=利権=肩書>のたらい回しの実態、家族に秘密で社員に生命保険を掛ける大企業の非情、7000億㌦の公的資金が金融機関に投入された経緯……。本作では具体的な数字や証言で、国家ぐるみの犯罪をレクチャーしてくれる。怒りをオブラートで包むユーモアもちりばめられていた。

 レーガン政権発足が資本主義暴走のメルクマールだった。レーガンは「囲いの雄牛を放つ」と宣言したが、その雄牛こそ新自由主義で、尖った角は自国民の喉までも突き刺した。演説するレーガンの横、傀儡師気取りで立つリーガン財務長官の前職はメリル・リンチCEOである。80年以降、ホワイトハウスはウォール街の操り人形と化す。その構図はオバマ政権でも変わらない。

 ゴールドマン・サックスから多額の寄付を受け、パニックを引き起こした主犯たちを要職に据えたオバマ大統領に対し、ムーアは<強盗を防ぐ名目で強盗のプロを雇った>と批判したが、〝チェンジ〟が芽吹かせた兆しには希望を抱いている。

 突然の解雇に団結して抵抗するウォルマートの社員たち、パン工場を自主管理する労働者たち、倫理的観点から資本主義を否定する神父たち、社会民主主義を掲げる議員たち……。「キャピタリズム――」には、資本主義独裁下で抑圧されてきた自由と公平の理念やヒューマニズムが浸透しつつあることも描かれている。

 ラストでムーアは、国民の富を掠め取った強盗たちを〝市民逮捕〟するためウォール街を訪れる。ムーアにとってウォール街告発は2度目になる。レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンがゲリラライブを敢行して取引を一時ストップさせた時、PV監督として逮捕されたのがムーアだった。

 本作のエンディングテーマは、レイジのステージ登場時に流れる革命歌「インターナショナル」だ。アメリカで〝社会主義者〟のレッテルを貼られることは、暗殺の危険に繋がる。ムーアの勇気と覚悟に拍手を送りたい。

 昨年12月、仕事先の夕刊紙で「世界で一番冷たい貧困大国ニッポン」と題されたリポートが5回にわたって掲載された。著者の矢部武氏はアメリカにおける生活保護制度の充実、行政によって切り捨てられた貧困層をフォローするNPOの充実した活動を紹介し、官民問わず冷たい日本を憂いていた。「キャピタリズム――」は自殺大国日本を映す鏡でもある。

 次稿は〝資本主義の祭典〟スーパーボウルについて記す予定だ。アメリカ最大のエンターテインメントであるNFLが、平等と公正という社会主義的原則に貫かれているのは皮肉な話だ。



コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「完全なる証明」~天才数学者の清々しい生きざま

2010-02-04 00:15:16 | 読書
 希代のエンターテイナー、卓越した表現者、そして偉大なプロレスラー……。アントニオ猪木の「プロレスの殿堂」(WWE主催)入りが発表された。プレゼンターを務めるのは、本国アメリカで不遇だったスタン・ハンセンである。式典の模様は2カ月後、「レッスルマニア」と合わせて紹介する。

 あらゆる分野で天才が既成概念を打ち破っている。猪木もそのひとりだが、精華がリアルタイムで称賛されるとは限らない。ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは60年代、ビートルズの1000分の1ほどしか売れなかったが、次世代への影響力では引けを取らない。「カタロニア讃歌」はラディカルのバイブルだが、オーウェルが死んだ時、初版(1500部)は売れ残ったままだった。

 芸術全般や思想と対照的に、自然科学の分野で天才認知のタイムラグは生じない。発見や証明という明確な形で才能が発揮されるからだ。今回は<ポアンカレ予想>を証明したグリゴーリー・ペレルマンの実像に迫った「完全なる証明」(マーシャ・ガッセン/文藝春秋)について記すことにする。

 <ポアンカレ予想>は魔性の難問で、天才数学者たちの人生を狂わせてきた。終止符を打ったのが旧ソ連生まれのペレルマンで、36歳の時(03年)、ウェブ上に公開した論文(3部構成)で証明を宣言した。

 その後、ペレルマンは名声(数々の賞)、富(証明に対する100万㌦の褒賞金など)、仕事(高条件の教授職)を拒絶して姿を消す。著者はペレルマンの恩師、友人、研究者に取材を重ね、失踪の謎に迫っていく。

 旧ソ連の数学者にとって最大の敵は<ソビエト的>なバリアだった。コルモゴロフとアレクサンドロフ――ゲイのパートナーでもあった――は<ロシア的>に重きを置き、不自由な社会で精神的な自由を希求した。ペレルマンの天分もまた、二人が用意した揺籃で育まれる。

 「スペリング・ビー」(子供たちのスペル暗唱大会=08年5月5日の稿)はアメリカ中の注目を浴びるが、旧ソ連で同様の位置を占めたのが「数学オリンピック」だった。数学クラブで才能に磨きをかける少年少女の大半は、ペレルマンと同じくユダヤ人だった。本書には旧ソ連におけるユダヤ人の厳しい現実が綴られている。

 ペレルマンは不器用かつ非社交的で、狭量な面もあるから教師にも向かない。<狂おしいほど正直>なペレルマンは母親、数学クラブのコーチ、大学時代の恩師らに庇護されていたが、名声と引き換えに〝温室〟は壊れ、〝汚れた社会〟と向き合うことになる。

 彼の一番奇妙なところは、道徳的に正しい振る舞いをすること……。ある数学者がこう評したペレルマンは、<成功したことの罪悪感>に苛まれたのかもしれない。理不尽にも研究者への道を閉ざされた無数の同胞(ユダヤ人)への思いが募り、憤怒が爆発したのではないか。

 「博士の愛した数式」(06年)、「容疑者Xの献身」(08年)の主人公は、ともに純粋な数学者だった。<一枚の紙、一本の鉛筆、そして創造力があれば事足りる>(趣旨)というある数学者の言葉に、心を濾し取り、脳を研ぎ澄ます数学の秘密が窺える。

 ペレルマンは今、母親の年金と自らの貯金でつつましく暮らしているという。誰にも邪魔されずに創造力を駆使し、一本の鉛筆で一枚の紙に数式を書き散らかしながら、新たな難問に取り組んでいるはずだ。


コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人生に乾杯!」~心を打つロードムービー

2010-02-01 00:20:00 | 映画、ドラマ
 <小沢VS検察>をテーマに掲げた「朝まで生テレビ!」では、検察OB3人の温度差が興味深かった。小沢幹事長の手は間違いなく汚れているが、腐敗度では<政官財の既得権益連合体>に遠く及ばない。メディアも守旧派の端くれで、検察の〝正義の仮面〟を剥ぐ上杉隆氏や郷原信郎氏らを地上波からパージしている。

 さて、本題。ハンガリー映画「人生に乾杯!」(07年、ガーボル・ロホニ監督)を名画座で見た。久々の2本立てにも緊張は最後まで途切れなかった。
 
 主人公は81歳のエミル、70歳のヘディの老夫婦だ。1950年代後半、ハンガリー動乱がソ連軍によって弾圧され、数千人が尊い犠牲になった。当時、党幹部の運転手だったエミルは、機転を利かせてブルジョアの娘ヘディを救う。

 宿命的な出会いで結ばれた二人だが、半世紀たてば愛もさすがに色褪せる。月々の年金だけでは家賃を払えず、アパート立ち退きの瀬戸際だ。エミルが生き延びるために思いついた手段は、何と銀行強盗だった。

 ソ連製のチャイカを駆る老夫婦を追うのは、美人刑事アギとドジな恋人で部下でもあるアンドルだ。老夫婦が一枚も二枚も上の追跡劇が展開する中、エミルとヘディの間に流れる風は次第にぬるみ、警官カップルも絆を深めていく。愛に満ちたコミカルなロードムービーに、ルーズでファジーなハンガリー社会の断片が織り込まれていた。 

 ダイヤのイヤリングなど二人の思い出の数々、30年前の悲しい事件、エミルを陥れた男、〝要塞〟に暮らす旧友の風変わりなキューバ人……。エピソードがちりばめられた逃避行は、いつしかお伽話になり、終着点(通過点?)へと突き進んでいく。

 併映の「サンシャイン・クリーニング」は、ローズ(エイミー・アダムス)とノラ(エミリー・ブラント)の美人姉妹が、失敗続きの人生から這い上がろうと悪戦苦闘する物語だ。「人生に乾杯!」同様、カタルシスと勇気を与えてくれる佳作だった。

 昨年暮れ、WOWOWで放映された「結党!老人党」も、年金問題など老人たちの厳しい状況を背景にしたドラマだった。辺見庸氏や広瀬隆氏の講演会に参加して驚くのは、平均年齢の高さだ。高齢者は考え、そして怒っている。

 一方で草食化した若い世代は、<抵抗の力学>を失ってしまった。老い先短い身とはいえ、閉塞感に覆われたこの国の未来を考えると、暗澹たる気分になってしまう。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする