今回は予告通り、「欲望の時代の哲学2020~マルクス・ガブリエルNY思索ドキュメント」(全5回、NHK・Eテレ)について記したい。冒頭とラストはキーワード<運命>で繋がっていた。収録時(昨年11月)から一転、ニューヨークは今、新型コロナ蔓延でゴーストタウンと化している。ガブリエルは今、どこでパンデミックを体験しているのだろう。
知のトップランナ-たちとの対話は刺激的だった。共著「未来への大分岐」のある斎藤幸平大阪市大準教授が通訳を兼ねて取材に同行し、最後に日本について語り合う。「問いに答えること」を自らに課すガブリエルは、道行く人の質問に柔らかく答えていた。
内容は多岐にわたるので、<自由と民主主義>、<日本とは何か>に論点を絞り、気候危機関連の言及は適宜、織り込んでいく。前稿で紹介した「ウイルスVS人類」(NHK・BS1)とシンクロしている部分も多々あった。
ガブリエルは自由と民主主義を体系に取り組んだ最初の哲学者としてカントを挙げる。カントは<自由意志=意志の調整の最適化>と捉え、異なった意志が均衡状態に至るのなら、<自由意志が実現された>と考えた。カントにとって<道徳=自由>で、「自らの人格と、他者の人格にある人間性を目的として扱い、手段としてはならない」と説く。
人々が他者の自由を尊重する状態は<目的の王国>で、良い社会は人間の自由意志(≡理性)をアップさせる……。カントの理想は現在の世界と対極にある。自由、自由意志、民主主義を阻害するものとして、ガブリエルはフェイスブック、ツイッターら全てのSNSを挙げた。<プラットホームは中立ではなく、人々を不自由にしないで、自由を利用している>と捉えている。
ガブリエルはヘーゲルの民主主義の定義を下敷きに、<互いの意志を調整する正義>がSNSに存在しないと述べる。西部開拓時の暴力の論理が横行するするSNS発祥の地シリコンバレーはカリフォルニアだ。このことは必然で、<SNSは自由を破壊することなく心臓部を射る>と警鐘を鳴らしていた。
人は欲求を満たすことは出来るが、欲求を欲することは出来ない……。ガブリエルはショーペンハウエルが提示した<自由意志のパラドックス>を示す。世の中の全てはあらかじめ決まっているとするショーペンハウエルの決定論と自由意志の両立についての論考は、俺のキャパを超えていた。
……とまあ、咀嚼出来ず、消化不良のまま垂れ流してしまった。見ている時には理解していると錯覚するのは、ガブリエルの語り口がポップでありながら本質を突いているからだ。〝哲学界のポップスター〟の看板に偽りはない。
対談したカート・アンダーソン(作家)は<アメリカにおいて現実と幻想が混濁し、インターネットの進化によって、幻想が制御不能になった。過剰な自由がこの国の課題>と語っていた。この言葉を受けガブリエルは<SNSがもたらす人工的な自由が、資本主義の破壊的な消費を助長している>と指摘する。
SNSと手を携え暴走する資本主義に抵抗する手だてはあるのか。ガブリエルは<自由とは善と悪の能力>と定義したシェリングを紹介する。悪い正義は自由を蹂躙し、不公正な社会を生む。〝自由に〟自然を蹂躙することは未来の世代に深甚な影響を与える。善を前面に、〝世代間の不正義〟をストップすることが喫緊の課題なのだ。
張旭東ニューヨーク大教授、上記の斎藤との対談(ともに第5夜)が俺にとってのハイライトだった。張は漢字、平仮名、片仮名の三つのシステムを持つ日本語の特質が、日本人の開放的な側面と曖昧さに繋がっていると指摘する。<日本人はあらゆるものを受け入れる余地はあるが、心象は一定のまま。来る者は拒まず、されど受け入れず>が両者の共通認識だった。
斎藤との対話でまずガブリエルは<自然の人間化>を唱える。「他の動物も倫理的に考慮すべき領域の一部で、自然については精神のレベルで役割を果たすべき」……。この語った時、グレタさんの映像が背景に流れていた。自然と人間についての考察は、機会があれば改めて記したい。
斎藤は日本に蔓延する相対主義、冷笑主義、ニヒリズムを憂い、社会に構築された高度のファイアウォールを抑圧的と感じている。この点についてガブリエルは<サイバー独裁>の一つの表現と理解し、来日時、<静寂が叫んでいるようだ>と東京を評していた。
ガブリエルは詩的でインスピレーションに満ちた仮説を提示する。<人間の思考が感覚だったら>、<倫理とは人間の解放>etc……。俺がガブリエルに共感するのは、真理、平等、自由、倫理、正義、連帯という普遍的概念の再起動を志向しているからだ。今後もハードルの高さを顧みず、的外れを記すことがあるだろう。
知のトップランナ-たちとの対話は刺激的だった。共著「未来への大分岐」のある斎藤幸平大阪市大準教授が通訳を兼ねて取材に同行し、最後に日本について語り合う。「問いに答えること」を自らに課すガブリエルは、道行く人の質問に柔らかく答えていた。
内容は多岐にわたるので、<自由と民主主義>、<日本とは何か>に論点を絞り、気候危機関連の言及は適宜、織り込んでいく。前稿で紹介した「ウイルスVS人類」(NHK・BS1)とシンクロしている部分も多々あった。
ガブリエルは自由と民主主義を体系に取り組んだ最初の哲学者としてカントを挙げる。カントは<自由意志=意志の調整の最適化>と捉え、異なった意志が均衡状態に至るのなら、<自由意志が実現された>と考えた。カントにとって<道徳=自由>で、「自らの人格と、他者の人格にある人間性を目的として扱い、手段としてはならない」と説く。
人々が他者の自由を尊重する状態は<目的の王国>で、良い社会は人間の自由意志(≡理性)をアップさせる……。カントの理想は現在の世界と対極にある。自由、自由意志、民主主義を阻害するものとして、ガブリエルはフェイスブック、ツイッターら全てのSNSを挙げた。<プラットホームは中立ではなく、人々を不自由にしないで、自由を利用している>と捉えている。
ガブリエルはヘーゲルの民主主義の定義を下敷きに、<互いの意志を調整する正義>がSNSに存在しないと述べる。西部開拓時の暴力の論理が横行するするSNS発祥の地シリコンバレーはカリフォルニアだ。このことは必然で、<SNSは自由を破壊することなく心臓部を射る>と警鐘を鳴らしていた。
人は欲求を満たすことは出来るが、欲求を欲することは出来ない……。ガブリエルはショーペンハウエルが提示した<自由意志のパラドックス>を示す。世の中の全てはあらかじめ決まっているとするショーペンハウエルの決定論と自由意志の両立についての論考は、俺のキャパを超えていた。
……とまあ、咀嚼出来ず、消化不良のまま垂れ流してしまった。見ている時には理解していると錯覚するのは、ガブリエルの語り口がポップでありながら本質を突いているからだ。〝哲学界のポップスター〟の看板に偽りはない。
対談したカート・アンダーソン(作家)は<アメリカにおいて現実と幻想が混濁し、インターネットの進化によって、幻想が制御不能になった。過剰な自由がこの国の課題>と語っていた。この言葉を受けガブリエルは<SNSがもたらす人工的な自由が、資本主義の破壊的な消費を助長している>と指摘する。
SNSと手を携え暴走する資本主義に抵抗する手だてはあるのか。ガブリエルは<自由とは善と悪の能力>と定義したシェリングを紹介する。悪い正義は自由を蹂躙し、不公正な社会を生む。〝自由に〟自然を蹂躙することは未来の世代に深甚な影響を与える。善を前面に、〝世代間の不正義〟をストップすることが喫緊の課題なのだ。
張旭東ニューヨーク大教授、上記の斎藤との対談(ともに第5夜)が俺にとってのハイライトだった。張は漢字、平仮名、片仮名の三つのシステムを持つ日本語の特質が、日本人の開放的な側面と曖昧さに繋がっていると指摘する。<日本人はあらゆるものを受け入れる余地はあるが、心象は一定のまま。来る者は拒まず、されど受け入れず>が両者の共通認識だった。
斎藤との対話でまずガブリエルは<自然の人間化>を唱える。「他の動物も倫理的に考慮すべき領域の一部で、自然については精神のレベルで役割を果たすべき」……。この語った時、グレタさんの映像が背景に流れていた。自然と人間についての考察は、機会があれば改めて記したい。
斎藤は日本に蔓延する相対主義、冷笑主義、ニヒリズムを憂い、社会に構築された高度のファイアウォールを抑圧的と感じている。この点についてガブリエルは<サイバー独裁>の一つの表現と理解し、来日時、<静寂が叫んでいるようだ>と東京を評していた。
ガブリエルは詩的でインスピレーションに満ちた仮説を提示する。<人間の思考が感覚だったら>、<倫理とは人間の解放>etc……。俺がガブリエルに共感するのは、真理、平等、自由、倫理、正義、連帯という普遍的概念の再起動を志向しているからだ。今後もハードルの高さを顧みず、的外れを記すことがあるだろう。