酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

スプリンターズは「沈黙の岬」で

2005-09-30 13:36:47 | 競馬

 秋のGⅠシリーズは電撃の6ハロン、スプリンターズS(2日、中山)で幕を開ける。最初が肝心なのは百も承知だが、短距離レースが好きじゃなく、どうも気合が入らない。香港勢2騎が強力で、良馬場が見込めるとあれば、荒れる余地も少なそうだ。サイレントウィットネス(沈黙の証人)、ケープオブグッドホープ(喜望峰)と、馬名もなかなか洒落ている。

 普段のGⅠなら、「調子だけは負けない」とか、「ひそかに一発を」とか、威勢のいいコメントが紙面に躍っているが、今回は様子が違う。白旗を掲げる日本勢が目立つのだ。カルストンライトオ、ギャラントアロー、プレシャスカフェは、調子が良ければチャンスもある馬たちだが、調教の動きに疑問符が付き、陣営もトーンダウンしている。

 ゴールデンキャストとマルカキセキは、使い詰めで上がり目は疑問だ。高松宮記念で良績(③、②着)を残すキーンランドスワンだが、英国で1秒7ちぎられたケープオブグッドホープには勝てないだろう。シーイズトウショウは調整過程に不安があり、好位をキープしても踏ん張りきれない可能性が大。ゴールデンロドリゴ、タマモホットプレイ、テイエムチュラサン、リキアイタイカンは、恵まれても掲示板が精いっぱいだろう。

 鬼脚デュランダルだが、長期休養は爪の炎症によるもの。マイルCS→香港マイルが大目標なら、実力は認めても3番手までか。アドマイヤマックスは右回り不安説(武豊騎手は否定)が囁かれるものの、「ミスター鉄砲」で久々でも走る。攻め不足が懸念されたシルキーラグーンだが、最終追い切りの動きは良かったようだ。鞍上(田中勝騎手)ともども中山1200㍍は得意だし、3着付けに狙ってみたい。

 結論は◎⑬サイレントウィットネス、○⑤ケープオブグッドホープ、▲④デュランダル、△⑫アドマイヤマックス、注⑦シルキーラグーン。3連単で<⑬・⑤><⑬・⑤・④><⑤・④・⑫・⑦>の計9点。⑦からの馬連、ワイド、3連複もオッズ次第で買ってみたい。

 スプリンターズSの調教が気になったので、久しぶりに東スポを買った。新日ドーム大会にブロック・レスナーが参戦するという。03年レッスルマニアでカート・アングルを破った試合は、プロレス史上のベストバウトだと思う。NCAAアマレス王者レスナーと五輪王者カートの戦いゆえ、技術的にハイレベルなのは当然だが、高さ5㍍の金網で展開された空中戦も凄まじかった。NFL入りを諦めたのなら、ビンス・マクマホンが放っておくはずもない。レスナーは遠からずWWEに復帰するだろう。

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ジャパニーズ・グラフィティ~「ガキ帝国」の輝き

2005-09-28 02:25:31 | 映画、ドラマ

 日本映画専門チャンネルで「ガキ帝国」(81年、井筒和幸)を見た。映画館で見た時は「遠雷」と2本立てだった。繰り返し観賞するたび、心の傷がポッカリ開き、そよいでしまう作品である。

 1967年の大阪。ファーストシーンは高校のグラウンドだ。少年院を出所したばかりのリュウ(紳助)が、チャボ(竜介)、ケン(趙方豪)と再会を喜び合う。リュウは少年院で知り合った高(升毅)を連れていた。ケンと高は在日朝鮮人という設定である。

 4人は不良少年の抗争に巻き込まれていく。ミナミはホープ会、キタは北神同盟が支配していた。高は北神に加入するや、「あしたのジョー」と呼ばれるようになる。剥き出しの暴力と上昇志向に、ヤクザの後ろ盾まで得て、高は瞬く間にトップに登り詰めていく。リュウとチャボはピース会を結成し、北神のミナミ進出に抵抗するが、ケンはバンドに青春を懸けることになる。堅気になったケンに対しても高は容赦せず、子分にリンチを命じた。リュウとチャボは高に対し、最後の戦いを挑んでいく。

 紳竜はツービートとともに漫才ブームを牽引していた。主役の紳助は不眠不休で撮影に臨んでいたに違いない。疲労が隠せなくなる事態を想定したのか、リュウは不眠症という設定になっていた。撮影期間は短く、素人同然の役者を大量に使わざるをえない。だが、マイナス要因が掛け合わさってプラスに転じ、躍動感、荒々しさを生み出した、大雑把で粗削りだが、緻密で計算ずくでもある……。このアンビバレンツが本作の大きな魅力だと思う。

 今や井筒監督は<巨匠>らしいが、当時は東の高橋(伴明)、西の井筒と並び称される<ピンク映画の巨匠>だった。本作にもピンクの薫りが漂っている。<ヤクザの否定>がヤクザ映画の根底にあるのと同様、<女性不信>こそピンク映画の原動力になっていた。本作においても、逞しくてしぶとい女の子たちは、愛以外の尺度で行動して少年たちの心を悩ませている。

 「ガキ帝国」は差別の痛みを正面から提示している。ケンは優秀なサッカー選手だが、在日ゆえ国体に出場できなかった。画面で「君が代」が流れるや、ケンは当然のようにテレビを消す。高と朝鮮語で話すケンを見て、恋人が去っていくシーンも象徴的だ。屑鉄を盗む在日の少年たちを「アパッチ」と呼ぶあたり、西岡琢也氏(脚本家)の文学的素養の表れといえるだろう。

 グループサウンズのヒット曲、ボウリングブーム、西野バレエ団、イヤミの「シェー」、「ザ・ガードマン」、「頭の体操」、高校での授業ボイコット、金嬉老事件、シンナー遊びなど、60年代後半の世相や流行が巧みに織り交ぜられている。街並みの変化は致し方ないが、夜のシーンを増やすことで綻びを回避していた。

 チンピラが闊歩した街は、政治の季節を迎えていた。国際反戦デーの当日、ケンは機動隊員になったホープ会のポパイと再会する。裏切りと感じたケンは、ポパイを殴って雑踏に駆け出す、追跡を逃れたケンは、赤ちょうちんの暖簾をくぐって「ビール1本」……。邦画史上に残る秀逸なラストだ。友への鎮魂の思い、切なさ、虚しさ、懐かしさ……、表情であらゆる感情を発露させた趙は、俺と同じ56年生まれだが、8年前に鬼籍に入っている。

 上岡竜太郎、夢路いとし、北野誠など芸人たちが脇を固めているのも本作の見どころだ。環状線での乱闘シーンで割って入った車掌が明石家さんまに見えたのは、俺の錯覚か。とまれ、「ガキ帝国」が反骨精神に満ちた青春映画の傑作であることをあらためて確認できた。「ジャパニーズ・グラフィティ」の称号こそ、本作に相応しいと思う。
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「永遠の不服従のために」~辺見庸という諸刃の剃刀

2005-09-26 06:11:48 | 読書

 前項の最後に記した<ある人>とは辺見庸氏である。「チョムスキー9.11」を見た後、条件反射で本棚に手を伸ばし、「永遠の不服従のために」(毎日新聞社)を再読した。「サンデー毎日」への寄稿(01年7月~02年8月)をまとめたものである。

 第1章「裏切りの季節」で、辺見氏は小泉首相へのメディアの対応に警鐘を鳴らしている。<歴史が重大な岐路にさしかかると、群れなす変節の先陣を切るのは、いつも新聞なのだ>という丸山真男の言葉を引用し、次のように糾弾している。<(権力との)激突などさらになく、論点も徐々に溶解して、無と化してしまう。表面、穏やかなこのなりゆきこそ、新しい時代のファシズムの特徴のひとつだと私は思う>……。本稿から4年後の今年9月、我々は<メディアの自滅>を目の当たりにした。

 脱稿後に廃案(02年12月)となった「個人情報保護法案」だが、究極の目的は<インターネット情報の国家管理>ではなかったかと、辺見氏は訝っている。俺はのんきにも「草の根ネットワークの可能性」を論じていたが(12日)、自民党の方はとっくにブログの影響力に目を付けている。この間、怪しい動きを見せた堀江貴文氏だが、自民党との間にある種の<密約>――ライブドアを将来の<官製メディア>にする――が交わされていても不思議はない。

 辺見氏は<君が代・日の丸>を切り口に、風前の灯になった<言論の自由>を憂いている。<天皇、いわゆる「従軍慰安婦」、死刑制度という三大テーマは、(中略)公然と本音を言いはなつことは難しい。事実、まっとうな議論を臆せずしたがために、理不尽な攻撃を受けている人がいまもいる>。<〝不敬者〟を、公権力になりかわり、肉体的、精神的に痛めつける、不可視の組織が、この社会のどこかに常に存在する>……。氏自身も日夜脅迫を受けているが、ネット上でも状況は変わらない。幾つものHPやブログが、<三大テーマ>を取り上げたことで集中攻撃を受け、閉鎖の憂き目を見ている。

 本書には青年死刑囚からの手紙が紹介されている。野村沙知代さんの保釈待ちで拘置所に押し寄せた記者団と職員が、夜を徹して馬鹿話に花を咲かせた。迎えた朝、大捕物にカムフラージュされ、絞首刑がひっそり執行されていたのである。<(喧騒に紛れ)今朝刑場で吊るされた人間のことなど、誰一人目もくれません。異常な世界です。本当に異常なほど〝平和〟です>と青年は綴っていた。辺見氏は<戦争を体内に併せ持つ、腐った平和>と断じ、権力の意図に操られて腐臭に群がるマスコミを、<特権的愚者=糞バエ>と怒りを込めて喩えている。

 <日本のチョムスキー>というべき辺見氏だが、両者の対談が不首尾に終わった経緯が記されている。映画では質問者に温かい視線をやり、丁寧に受け答えしていたチョムスキーだが、日本のマスコミに対する不信を氏ひとりにぶつけるかのごとく、忌憚なき批判を浴びせた。氏のブッシュ批判を遮り、<日本の知識人のどれだけが天皇裕仁を告発したというのですか>と、アメリカの覇権の下、戦前のファッショ的国家を再建しつつある日本の現状を問い詰めた。目を合わせることなく、乾いた論理を叩きつけるチョムスキーに、氏は畏敬の念と同時に自分との距離を覚えたと記している。

 辺見氏で思い浮かべるのは、<日本のドストエフスキー>こと高橋和巳だ。高橋は60年代を先導し、39歳で斃れるまで実働10年、膨大な量の小説と評論を発表した。氏も高橋と同じく、諸刃の剃刀を喉に秘め、鋭い言葉を血とともに吐き出している。権力やマスコミを撃つだけでなく、自らの心身をも削ぐ氏の構えは、以下の一節に表れている。

 <あれらの言葉の愚弄。空洞。あれらの言葉の死。ほら、そこの軒下に干してある黄ばんだおしめほどの意味すらありはしない>。<ファシズムの透明かつ無臭の菌糸は、よく見ると、実体的な権力そのものにではなく、マスメディア、しかも、表面は深刻を気取り、リベラル面をしている記事や番組にこそ、めぐりはびこっている。撃て、あれが敵なのだ。あれが犯人だ。そのなかに私もいる>。

 講演中に倒れた辺見氏だが、リハビリに努めながら執筆を再開されている。心強い限りだが、俺が氏に期待するのは長編小説だ。時々失念してしまうが、氏は芥川賞作家である。歴史という縦軸と同時代性という横軸からなる氏の巨大な座標軸に、当代随一の精緻な文体が躍動すれば……。想像しただけでゾクゾクするではないか。

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「チョムスキー9.11」~知的モンスターの不屈の闘い

2005-09-24 00:57:56 | 映画、ドラマ

 「チョムスキー9.11~Power and Terror」(02年、ジャン・ユンカーマン)を見た。日本人スタッフが制作を担当したドキュメンタリーである。日本映画専門chでかなり前に放映されたが、録画ディスクは棚の奥に埋もれていた。

 ノーマ・チョムスキーは撮影当時73歳。言語学者としてだけでなく、60年代はベトナム反戦、現在は反グローバリズムと、常に反体制の側で発言する知識人として知られている。本作は「9・11」から半年後の02年3~5月、盛況のうちに行われた講演ツアーを記録している。<日本でも憲法改正への動きが進むだろう。恐怖と緊張の時期を利用し、愛国心を利用すれば(政府は)計画を実行できる>と語るなど、日本についても多く言及している。

 <ここ数年、絶滅しそうな種について何千回も話をしてきました。たとえばデモクラシー、人権、社会経済開発についてです>……。この言葉で映画は始まる。チョムスキーは「9・11」を端緒ではなく、進行中の事態を加速させた要因と考えている。<アメリカ、ロシア、トルコのような抑圧的政権がテロを利用し、人権を削いだ>と述べていた。

 アメリカによる残虐行為を例に挙げ、<世界最大のテロ国家(アメリカ)に、対テロ戦争を主導する資格はない>と一刀両断している。<欧米や日本以外の国の人々は、「9・11」をそれほどひどいと感じなかったはず>という言葉も示唆に富んでいた。「9・11」とは、帝国主義国家(欧米や日本)が他国で繰り返してきた行為が、たまたま自国で起きた特異な例と捉えている。<日本が中国で残虐行為を繰り返した時期に、中国人が東京でテロを行ったでしょうか>と、戦前の日中関係に置き換えて説明していた。

 チョムスキーはブッシュ政権だけを攻撃するわけではない。クリントン政権がトルコに貸与した大量の武器は、国内のクルド人虐殺に使われた。90年代最大のジェノサイドはミロシェビッチではなく、トルコ政府によるものと述べている。62年のベトナムで、米軍は何百万の非共産主義者を収容所に送り、化学兵器を用いて農業を破壊した。当時の大統領はケネディである。クリントンやケネディが掲げた理想も、ポーズに過ぎぬと言いたげだった。

 チョムスキーは<堅忍不抜の知的モンスター>だ。想像を絶する知識が、精巧な脳細胞で再構築されている。<メディアも財界も政府も同じ穴のムジナ>と指摘し、<知識人は躾られている>と権力者とメディアの癒着を暴いている。<日本版9・11>後に敷衍することは可能だろう。

 <自分たちが攻撃されたら、世界が破局に向かっているかのごとく騒ぎ立てるのに、自分たちの行為は何一つ覚えていない>……。これこそパールハーバーと原爆への反応の違いに顕著に表れる、普遍的アメリカ人の意識だが、チョムスキーは希望を捨てていない。<9・11>以降、一部のアメリカ人が視野狭窄から自らを解き、<世界⇔アメリカ>という新たな思考回路を見いだしたと、プラス面を強調している。

 日本人がチョムスキーから学ぶべきは、オプティミズムではなかろうか。映画の最後で<反グローバリズム運動は、民衆主体のグローバル化を目指すものであり、大きな流れになって、この国(アメリカ)を変えた。世界はバラ色ではないが、良くなっている>と語り、<意思さえあれば、何でもできる>と結んでいた。

 日本にチョムスキーはいるのか? しばし考え、<ある人>の顔が思い浮かんだ。ペシミスティックなきらいはあるが、反骨精神と知性では一歩も引けを取らない。そういや、チョムスキーと対談したこともあったっけ。次回は<ある人>について記すことにする。
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透徹した目の凄み~半可通にとっての志ん生とは

2005-09-22 01:43:09 | カルチャー

 昨日(21日)、後藤田正晴氏が亡くなった。享年91歳である。冥福を祈りたい。内務官僚から警察庁長官を経て、田中元首相に請われて政界入りした。警察庁長官時代、佐々淳行氏らを配し、左派への「ローラー作戦」を指揮したが、衆院選で大量の違反者を出し、取り締まられる側に回る。同氏はある時期、日本中が眉を潜める「ヒール」だった。

 田中元首相の懐刀だった後藤田氏だが、中曽根内閣で官房長官に就任する。同氏にダブって見えたのは、KGB議長を経て書記長に登り詰めたアンドロポフ氏だ。ジョ-ジ・オーウェルの「1984」が日ソで現実になったと感じ、暗澹たる気分になったが、案に相違し、同氏は中曽根首相のブレーキ役を果たす。ペルシャ湾への掃海艇派遣、靖国参拝問題など、内外の世論に配慮して的確な判断を下した。従軍した台湾で捕虜生活を経験したことが、ハト派の部分を引き出したのかもしれない。同氏は最晩年、護憲と民主主義擁護の立場で、小泉内閣に苦言を呈し続けていた。

 さて、本題。昨日は五代目古今亭志ん生の命日でもあった。没後32年、NHK教育の「こだわり人物伝」で志ん生が取り上げられている。4回シリーズの最初は見逃したが、2、3回目を見た。進行役の山本晋也氏は、興味深いエピソードを紹介しつつ、志ん生の特異な思考回路に迫っている。池の側の木に1時間ほど止まっている鳩を見て、弟子に「何を考えてるんだろう」と問い、「ひょっとすると身投げだ」と言葉を繋いだという。食べられるサンマの身になって川柳を読んだりもしている。山本氏は独特の無常観、生命観と捉えているが、「主体」と「客体」を逆転させた自由な発想とも言えるだろう。

 番組内で流された志ん生の映像が、大きな収穫だった。65歳時の高座で、演目は「風呂敷」である。山本氏によると、「ふるしき」と読むのが正解らしい。透徹した威厳のある目に圧倒された。三途の川で各の人生を量る閻魔様も、あんな目をしているに違いない。「志ん生はどこか虚無的で、人間の業を理解している」という山本氏の分析は、正鵠を射ていると思う。

 CDを聴いていると、志ん生がいかに「枕」を重視していたかわかる。「枕」とは、高座に登場した落語家が、噺に入るまで客を和ませる部分だ。「あなた方が育ての親なんだから、親に縋るしかない」なんて笑わせ、姿を見ただけでざわめく客席に、「まだ何も話しておりませんので」と茶々を入れたりする。カストロとカストリを引っ掛けたりと、実に工夫を凝らしている。客との間合いを常に計っていたに違いない。好きな演目を挙げれば「強情灸」、「疝気の虫」、「黄金餅」、「そば清」、「宿屋の富」あたりか。艶笑噺の「鈴ふり」も絶品だ。いずれの演目にも、極貧と放蕩で磨かれた洞察力を感じてしまう。

 最終回の「こだわり人物伝」(27日)では、満州抑留の「空白の600日」が長女によって明かされという。次男の志ん朝についての言及も楽しみだ。志ん生が艱難辛苦(自業自得?)を経て世間に認められたのが、志ん朝の享年である63歳の頃である。残された志ん生の音源は65歳以降のものばかりだ。志ん朝の「夭折」が惜しまれてならない。

 俺が頻繁に訪れる「桃色吐息楼主の仁義なき備忘録」(http://osan6.cocolog-nifty.com/palpunte/)で、楼主は志ん生をキートン、円生をチャップリンに喩えて論考を進められていた(9月10日)。キートンと円生について無知な俺でも、なるほどと思える部分があった。今後、芸域を広げていきたい。志ん生といえば、そのCDが劇中でやりとりされる「相棒」の第4シリーズが10月から始まる。ここ十数年で唯一ハマったテレビドラマだけに楽しみでならない。




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不毛な選択、もしくは明るい未来?~民主党の今後

2005-09-20 02:37:34 | 社会、政治

 ドイツ総選挙の暫定結果が出た。キリスト教民主・社会同盟(保守)が得票率35・2%で225議席、与党の社民党(中道左派)が34・3%で222議席。2大政党の争いに埋没することなく、少数派も議席を確保している。自民党が9・8%で61議席、左派党が8・7%で54議席、緑の党が8・1%で51議席と、日本と違い死に票がない。民意を正確に反映する選挙制度といえそうだ。

 さて、本題。前原誠司氏が菅直人氏を2票差で破り、民主党の新しい代表に決まった。<日本版9・11>の余波どころか、政界の流れを左右する選択になりそうだ。民主主義の墓場というべき<米国型保守2党制>の一翼を担うのか、先進国で主流の<社民型>を目指すのか……。民主党代表選は二つの指向を対立軸に戦われるべきだったが、<世代交代>ばかり重視され、耳目を集めぬうちに幕を閉じた。

 田原総一朗氏は菅氏を<中古品>と断じ、前原氏への期待を隠さなかったが、俺は菅氏の勝利を望んでいた。菅氏は名前の響きと逆に、<民(たみ)>に立脚する数少ない政治家だ。代表復帰となれば、党の舵を左に切り、<竹中―小泉路線>で創出された負け組の支持を獲得できたと思う。残念ながら、逆の目が出た。菅氏は既定方針通り、都知事を目指すことになりそうだ。

 前原代表は自公と紙一重の<米国型新自由主義>を掲げている。防衛政策、憲法へのアプローチは自民党と区別がつかない。次回の総選挙は、<政策は同じでも、経験のある自公>と、<政策は変わらないが、しがらみのない民主党>という、不毛の選択になるだろう。民主党が本気で勝ちたいなら、強固な基盤を作るしかない。都議選(7月)での得票率が、党の脆弱さを物語っている。自公の48・7%に対し、民主は24・5%だった。いくら<風>が吹いても、基礎票が半分では太刀打ち出来ない。

 <格差拡大>と<地方切り捨て>が進行し、<一億総中流>のすり込みも利きづらい状況になっている、国民の多くが自らの貧しさに気付けば、投票行動も変わるはずだ。怒った有権者を吸収する<第三の極>は形成されるのだろうか。キーワードは護憲、平和、福祉、環境である。代々木の方から「俺たちを忘れるな」という声が聞こえてくる。共産党ねえ……。でっかい鍋でいろんな具を煮込んだとしよう。食い荒らされた鍋の底、硬い小石が残っていた。それが即ち、煮崩れしない共産党なのである。化学反応を阻害することもあるから、厄介な存在といえる。

 識者たちは民主党と連合との癒着を指摘し、「だから改革は不可能だ」と責め立てている、前原代表の「脱組合宣言」はテレビで好意的に受け止められていたが、ちょっと待て……。組合は時に桎梏になるかもしれないが、田原氏をはじめメディアの人間は、どうして自民党に刃を向けないのだろう。「財界に気兼ねして法人税を元に戻さないのか」とか、「米国の『年次改革要望書』に引きずられて郵政民営化に走ったのか」と噛み付けばいいのに、権力者に従順だ。所詮は<電波芸者>、タニマチのご機嫌を損ねるわけにはいかないようだ。

 最後に。中内功氏が亡くなった。氏については別項(04年11月12日)に記したことがある。冥福を祈りしたい。氏の功罪に関心ある方には、「カリスマ」(佐野眞一著)をお薦めする。確かな構図と遠近法で、中内氏を現代史に嵌め込んだ力作である。


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T.Rextasy~極楽鳥が舞った日々

2005-09-18 04:27:25 | 音楽

 1977年9月16日、マーク・ボランが交通事故で亡くなった。享年29歳である。マークは生前、「30歳までに死ぬ」と広言していたという。

 命日に合わせ、WOWOWでT.Rex関連の番組が放映された。絶頂期の72年3月、ウェンブリー・エンパイアプールで行われたコンサートと、マークの遺児ローランが聞き手を務めるドキュメンタリー“When T.Rex ruled the world”である。 ファンの熱狂ぶりは<T.Rextasy>と名付けられた。「T.Rex」と「エクスタシー」を組み合わせた造語である。

 ライブ映像を見るのは初めてだったが、演奏の質の高さに驚いた。育ての親であるトニー・ヴィスコンティの証言通り、卓越したリズム隊がマークの奔放さを支えていた。「ホット・ラブ」、「テレグラム・サム」、「ゲット・イット・オン」を画面に合わせて口ずさみ、タイムスリップの気分を味わえた。

 T.Rexの前身であるティラノザウルス・レックスは、ギターと打楽器という最小ユニットで、前衛的な音楽を創り出していた。T.Rexとしてブレークした頃、マークは既にミュージシャン仲間から高い評価を得ていた。目立つのはビートルス勢の肩入れである。リンゴ・スターはT.Rexを題材に“Born to boggy”を撮影したが、ロケ地としてジョン・レノンの家が使われている。ポール・マッカートニーもT.Rexを絶賛していたという。

 70年代前半、<キワモノ>扱いされていたミュージシャンは、後に<名誉回復>の栄誉に浴した。<パンク→ニューウェーヴ→オルタナ&グランジ→ブリットポップ>の奔流により、ロック史は書き換えられた。グラムロックと一括りされていたT.Rex、デヴィッド・ボウイだけでなく、イギー・ポップ、ルー・リード、NYドールズら米国勢も<魂の継承者>、<パンクの礎>として神格化されている。

 マークは<ハーメルンの笛吹き男>であり、T.Rexとはある種の魔法だった。ドラムとパーカッションが始原的なリズムを刻み、扇情的で捉えどころのない歌詞が、マークのしゃがれた喉から吐き出される。様々な要素が化学反応を起こして、少女たちを狂気に駆り立てたのだ。カメラマンの証言に、マークは自らの交通事故死を予知していたのではと勘繰ってしまう。異教的でボヘミアンの匂いを振りまくマークとT.Rexは、いずれの系譜にも属さぬ<永遠の異端>かもしれない。

 PANTAはマークの死を悼み「極楽鳥」を作った。邦楽史上NO・1の名盤「マラッカ」(79年)の棹尾を飾っている。

 ♪鈴を鳴らす黒猫が 星の空を見上げている 夜に光る金色の眼と ガスになったユニコーン 極楽鳥 極楽鳥 少年の夢でさえ きみにかないはしないだろう

 「極楽鳥」からの抜粋だ。天才は天才を知ると言うべきか。そういや、PANTAが闘いを始めた頭脳警察は、ティサノザウルス・レックス同様、ギターと打楽器のユニットだった。ともに<革命家>であり<夢想家>だが、音楽的なスタートにも共通点があったのだ。

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「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の解けない謎

2005-09-16 03:56:18 | 映画、ドラマ

 ヴィスコンティ初体験は「ベニスに死す」だった。15歳の時である。「小さな恋のメロディ」のトレイシー・ハイドにウットリしていたガキが、作品の意味を理解できるはずはなかった。

 上京後に見た「熊座の淡き星影」「地獄に堕ちた勇者ども」「家族の肖像」では、家族の相克と崩壊が描かれていた。ヴィスコンティにとって家族とは、ある種のトラウマだったのか。いずれにせよ、ヴィスコンティは<敷居の高い監督>であり続けた。唯一の例外は、ネオレアリズモを確立した処女作の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(42年)である。シネフィル・イマジカで25年ぶりに見たが、記憶の箱にしまわれていた湿った質感が、しっとり皮膚を濡らしていくのを覚えた。

 以下に内容を。放浪者のジーノはとある町に辿り着き、居酒屋兼食堂でジョヴァンナと出会う。ジョヴァンナは店主ブラガーナの若い妻だった。「馬のような肩ね」と語りかけた時、ジョヴァンナはジーナに「救世主」の役割を託していた。ジョヴァンナ役のクララ・カラマイは、年の離れた夫に抑圧される不幸な女と、男を支配する性悪女の両面を演じ切っていた。性的な面を含め能動的な女性を描いた点で、画期的だったと思う。

 ジーノが<漂う者>なら、ジョヴァンナは<とどまる者>だ。ジーノは町を出ることを提案するが、ジョヴァンナは決心が付かない。逃避行は回避され、ジーノは旅芸人イスバとともに放浪生活に戻る。偶然再会した二人は、バンガーナ殺しを企てる。首尾よく事は運んだが、ジーノは罪の意識に苛まれていく。清純な娘に惹かれたり、イスパに旅の誘いを受けたりと、ジーナの心はジョヴァンナから離れていくが、妊娠を告げられたことで、急転回する。再び愛を誓った二人が荒地(地獄?)を彷徨う場面は、「情婦マノン」に影響を与えたに違いない。司直の手が伸びる中、逃亡を謀った二人に、無残な結末が待ち受けていた。

 本作に関して三つの謎を設定し、自分なりに答えを出してみた。
 <謎①~なぜ上映禁止になったのか>…犯罪映画という反倫理的側面、過度な官能性、幼い少女を警察の密告者として描いたことが、当時のファシスト政権の気に障ったのだろう。
 <謎②~なぜ頻繁に映画化されるのか>…ジェームズ・ケインの原作は、曖昧で両義性を内包する<触媒>として、映像作家を痛く刺激するのだろう。ちなみに、原作の舞台はモータリゼーションが萌芽を迎えた30年代のカリフォルニアで、81年版(J・ニコルソン主演)はシニカルなピカレスクを忠実に再現していた。本作の舞台はムソリーニ治下のイタリアで、閉塞感が画面から滲んでいた。
 <謎③~タイトルの意味>…計画された殺人が事故と処理され、完全な事故は殺人として裁かれる。<二度ベルを鳴らす>はこの点を仄めかしたのかもしれないが、<郵便配達>の意味は「?」のままだ。読み解いている人がいると思うと、癪な気がする。

 最後に。何でも政局に引っ掛けるのが癖になってしまったが、「郵政国会第2ラウンド」は21日に始まる。反対派総崩れ、野田聖子氏が小泉自民党総裁を首相指名と、あきれるニュースばかりが伝わってくる。どうせなら、開幕と閉幕のベルを同時に鳴らしてほしい。<勝者の奢り>と<敗者のおもねり>ほど、醜いものはないのだから……。

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「われらの父の父」~至高の知的エンターテインメント

2005-09-14 03:00:38 | 読書

 生活のリズムが狂っている。24時間起きていたかと思えば、日がな寝ていることもある。これじゃあ、社会復帰は難しい。昨日(13日)未明、「想定外」の数字が頭の霞を払ってくれた。12日のアクセスIP数が276で、「gooランキング」500位以内に入っていた。2回続けて選挙をテーマにしたことが急上昇の理由だが、「バブル」は遠からず弾けるだろう。とはいえ、以前から敬意を抱いていた管理人の方々と交流したり、多くのトラックバックを頂いたりと、ブロガーとしての充実感を味わえた数日間だった。

 さて、本題に。今回はベルナール・ヴェルベール著「われらの父の父」を紹介する。ヴェルベールはフランス生まれの44歳で、「現代のジュール・ベルヌ」と称されている。本作は人類の起源をめぐる物語だ。アジュミアン教授が変死体で発見されたが、事件の背景にあるのは「ミッシング・リンク」である。孤児院育ちの小柄な美女リュクレスと、巨躯の世捨て人カツェンベルグの凸凹コンビが、協力して真相に迫っていく。

 「ミッシング・リンク」とは、<人類は誰なのか、どこに行くのか、どこから来たのか>の三つの問いの<解答>だ。現代のパリと370万年前のアフリカで、別々の物語が並行して展開する。ヴェルベールお得意のカットバックの手法で、二つのストーリーが収束し、瞠目すべき<解答>が示される。アフリカ編の冒頭、ハイエナに追われていた「彼」こそ、人類の起源たる霊長類で、地溝の中で「彼女」と出会う。「彼女」の正体については、以下にヒントを示しておく。

 <ヒント①>…ヒトの臓器と最も互換性が高い動物こそ、「彼女」である。
 <ヒント②>…人肉の味は何に似ているか。カニバリストの証言が、「彼女」の正体を示している。
 <ヒント③>…<穢れ>ゆえ「彼女」を口にしない者は多いが、本当の理由は<禁忌>かもしれない。人類の存在そのものを揺るがす罪を避けるための……。

 ヴェルベールの作品には、該博な知識に基づく文明論や分析が無数にちりばめられている。隕石生命体起源説や病原体と文明の因果関係にも言及しており、「癌=コミュニケーションの病」、「エイズ=愛の病」という規定に説得力がある。ダーウィンとラマルクの対比も分かりやすい。ダーウィンに則れば、ヒトは<一匹のサルのコピーミスから生まれ、直立姿勢を取る遺伝子を偶然手に入れた>。ラマルク説では、ヒトは<自己改善を試みたサルで、必要に応じて遺伝子を変化させた>。ちなみに作者は、ラマルクに共感を覚えているようだ。

 20世紀後半に注目された作家を挙げれば、当のヴェルベール、「悪童日記」のアゴタ・クリストフ、「真夜中の子供たち」のサルマン・ラシュディが真っ先に浮かぶ。ラシュディはイスラム原理主義者から「死刑宣告」を受けているが、ヴェルベールは大丈夫なのか心配になる。死後の世界を扱った「タナトノート」では、既成宗教を風刺と皮肉を込めて描いている。「われらの父の父」の<解答>など、イスラム過激派だけでなく、アメリカの右派キリスト教徒も看過出来ないはずだ。「進化論」を教えない州もあるお国柄ゆえ、瀆神者となじられ、著作が<禁書>に指定されても不思議はない。

 本作に示された仮説中、最も興味深い記述を挙げれば、<人間の胎児は9カ月で種の歴史を繰り返す>になる。受胎後6日の胎児の胚は原生動物そのもので、12日で魚になり、1カ月でトカゲ、9週間でトガリネズミ、6カ月でサルそっくりになるという。

 <胎児の変遷>ほどではないが、人間は誰しも動物に似ている。戦い済んだ各党首を動物に喩えれば、小泉氏=ヒヒ、岡田氏=日本ザル、神崎氏=タヌキ、志位氏=フクロウ、福島氏=ネズミ、綿貫氏=アリクイ、田中氏=パンダって感じか。「平成狸合戦ぽんぽこ」さながら、日の丸必勝鉢巻きで声をからしていた神崎氏に、あ然とさせられた。あまりにアナクロないでたちに、小泉首相と連れ立って靖国に詣でる前触れではないかと勘繰ったほどである。

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メディア再生に向け~草の根ネットワークの可能性

2005-09-12 07:51:53 | 社会、政治

 午後8時。出口調査の結果に愕然とする。「政治ショー」にはうんざりなので、NHK衛星第1を眺めていたが、瞬く間に意識が遠くなる。時折醒めてはまた眠り、酔生夢死から抜けた頃、全議席が確定していた。その数字は悪夢どころか、紛うことなき現実だった。

 民主主義の終焉だの、理性の喪失だのとボヤいてもしょうがない。<風>が変われば、結果はいかようにも変わる。比例区での<自民77―民主61>の数字が、大よその党勢を示しているはずだ。俺にとっての救いは、自ら「絶滅種」に喩えていた社民党が2議席増やしたことである。

 この間、強く感じたのは<マスメディアの自滅>だった。郵政一本やりの小泉首相に異を唱え、戦後60年の総括を迫る論調は控えめだった。テレビでは政権寄りの文化人、評論家が重宝される一方、舌鋒鋭く小泉政治を批判していた森田実氏は、キー局からパージされていた。権力のマスメディア支配は殊の外、進行しているようだ。

 以前、ブログの未来について書いたことがある(3月13日)。いわく、<新聞はもはや必要ではない>。さらに、<温室で満足している「プロ」(マスメディア)が努力を怠れば、「アマ」(ブログ)に淘汰されてしまうだろう>とも……。弱小ブロガーの癖に傲慢な物言いをしたものだが、今回の喧騒でその意を強くした。新聞社系コメンテーターたちは、権力の専横をチェックするどころか、幇間役を果たしていたからだ。

 強者(権力)が強者(マスメディア)と結びつくなら、微力な者は新たな道を模索するしかない。前項(10日)には、多くのトラックバックをいただいた。それぞれが自らのブログで奥深い考察を示されていることに、感銘を受けた。この動きが広がれば、次回の総選挙時(4年後?)、<草の根ネットワーク>がマスメディアと対峙しているかもしれない。

 暗い気分を晴らしてくれたのが、エルサレムからのメールだった。NGOで奮闘している元同僚からの報告である。パレスチナの人たちは日々追い詰められているようだ。イスラエルの壁建設は継続し、教育、医療、仕事へのアクセスなど、現状は極めて厳しい。入植地から排除されるユダヤ人の映像ばかり流されたが、国際社会向けのポーズという側面もあるらしい。知ってや知らずや、マスメディアはイスラエルの意に沿った報道を繰り返した。どん底にあっても希望を抱き続けるパレスチナの人たち、彼らを支援する人たちの姿勢に、見習う点は多いと思う。

 テロ組織として認知されている「ハマス」や「ファタハ」は、福祉サービスを市民に提供する役割を担っているという。日本でいうと自民党や民主党を支持するのと同レベルで地域に浸透しているが、イスラエル側の弾圧は凄まじい。その辺りの経緯が報道されることは一切ない。マスメディアが<強者の武器>に堕しているのは、世界共通といえるだろう。

 世界も日本も揺れている。バラバラに見えながら、地の底で連動する部分も大きいはずだ。傍観者に終わることなく、世界と繋がっていたい。ブログ発信も一つの手段と考えている。<草の根ネットワーク>形成を夢見ながら……。

コメント (10)
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