酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

輝ける未来に向け、地殻変動の予感

2015-10-29 18:56:15 | 社会、政治
 昨日、パソコンの死が宣告された。「どうしてハードディスクが、ここまで壊れてしまったんでしょう」とパソコン110番の青年も訝しげに話していた。起動しなくなったのは東北旅行に向かった朝で、前夜まで動いていたから突然死の類である。焦ってあれこれ触らずプロに頼んでいれば、データは吸い出せたはずで、自業自得といえなくもない。ノートパソコンが届くまで10日以上あるから、当分はネットカフェでブログを更新することになる。

 この間、参院選に向けた会議や集会が相次いだ。俺はへそ曲がりゆえ、いわゆる〝正論〟に乗れない。感情ではなく論理で違和感の理由を語れば、以下の3点になる。第一は、安倍政権の右傾化ばかり強調され、国の仕組みのアメリカ化、集団に埋没しがちな日本人のメンタリティーがあまり語られていないこと。第二に、<安倍政権=極悪>が前提になっているが、辺見庸、星野智幸、是枝裕和、森達也らが言及してきたように、十数年の流れの中で現状を位置付けるという視点に欠けていること。

 第三に、平和憲法下でも、日本は従犯としてアメリカの戦争に加担してきたという事実が見落とされている点だ。ファルージャ空爆時に用いられた劣化ウラン弾は街と人を破壊した。唯一の被爆国である日本は、被爆と被曝に責任があるという罪の意識が遡上に載せられることはない。だから俺は、「戦争をやめよう」というシュプレヒコールを唱和できない。俺の手は既に、血で濡れているからだ。

 気になるのは、文化的な背景が見えてこないこと。60年安保、70年安保と比べ、2015年安保には組織されていない人たちが自然に集まったと主張する識者もいる。確かに、そうかもしれない。それでも、当時は空気を醸す文化があり、反抗を下支えしていた。反原発映画の傑作「あいときぼうのまち」を周りで見た人は皆無だった。俺が日本の反体制運動の黄金期と位置付けている1930年前後も、個々の表現が運動を支えていた。その点で、「個々が起点になるべき」と語る奥田愛基(シールズ)は慧眼の持ち主だと思う。

 へそ曲がりの繰言はここらでやめよう。というのも、今の空気は<小異を捨てる>で、同じ未来を見据える者は、手を携えて安倍政権の暴走にストップを掛けることが肝心だ。とはいえ、野党が結集出来る旗印は<立憲主義の尊重>ぐらいしかない。反TPP、辺野古移設反対、護憲、原発再稼動反対にまで合意を広げるのは不可能で、<祭りのあとの内ゲバ>を招くきっかけになりかねない。参院選では1人区を中心に反自公(+橋下新党?)で結集するべきだ。その辺り自民党もしたたかで、衆参同日選を画策している。政権選択選挙になれば、野党の連合など不可能になるからである。

 会議では<一点突破、前面展開>風の発想に縛られている人は皆無だった。地道に市民運動に取り組んできた人たちは、敵の強固な壁を身に染みて知っている。参院選は一里塚で、立憲主義を政治に取り戻すという目標で一致している。そこから先に見ている夢は異なるはずだが、何かを成し遂げられたら、その時に考えればいい。

 俺流のスローガンは<政治を獣から人間に取り戻そう>となる。沖縄で起きた様々な出来事、原発再稼働、被災地を見捨てた東京五輪開催、TPPの先にある日本の伝統や自然の破壊、そして国会運営……。自堕落で煩悩の塊である俺が偉そうに言う資格がないことは承知の上だが、それでも安倍政権には目を覆いたくなる。良心、倫理、プライドの欠片も感じない政権は、拝金主義に支配された国民を写す鏡なのか。

 だが、オプティミストの俺は希望を失ってはいない。高坂勝氏(緑の党前共同代表)は著書で「まず5%の人たちの意識を変えよう」と綴っていた。三宅洋平氏も「数年後の地殻変動に向け準備しよう」と常々主張している。永田町の地図を塗り替えるような気配を感じている。未来に向け、何かが少しずつ動いているのだ。俺もまた、壁に石を投げるひとりでありたい。

 と、真面目に書いて、枠順が発表された天皇賞の予想を……。「いい加減なやつ」と思われても仕方がない。だが、俺の持論は<人生はギャンブル>で、恋愛も政治も賭け上手が勝者になる。かつてのPOG指名馬の①ディサイファと⑭ステファノスを軸に馬券を買う。予想というより心情だから、少額投資で楽しみたい。

 次稿は、日本を最も深く洞察していると推奨してきた星野智幸の新作「呪文」について記したい。期待に違わぬ傑作だった。

 
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レイジ&「ボーダレス」~世界観を問いかけるもの

2015-10-26 18:16:38 | カルチャー
 菊花賞は牝系の祖父がサクラバクシンオーのキタサンブラックが①着、鞍上の福永が距離不安に言及していたリアルスティールが②着と、俺にとって想定外の結果に終わった。血統評論家たちは商売上がったりである。POG指名馬タンタアレグリアの④着は健闘の部類だろう。今後の飛躍に期待した。6頭出走した2歳の指名馬は2勝を挙げ、ひと息ついた。

 パソコンだけでなくDVDまで故障し、市販のディスクを視聴出来ない。仕方なく友人宅でレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの「ライヴ・アット・フィンズベリー・パーク」を見た。社会現象になった〝事件〟によって実現したライヴである。

 イギリスではクリスマスの週、「Xファクター」(オーディション番組)のチャンピオンが歌う曲がチャート1位に輝くのが〝お約束〟になっている。だが09年、支援活動によってホームレスから社会復帰を果たしたジョン&トレーシーのモーター夫妻が、フェイスブックで反抗を呼び掛けた。<格差と貧困が深刻な社会で、レイジの曲こそクリスマスに相応しい>というのが2人の思いで、17年前にリリースされた「キリング・イン・ザ・ネーム」を選ぶ。

 ♪殺戮の権限を与えているのは誰だ この世界を操る権力の中枢には 十字架を燃やす連中と 同類の者がいる バッジを着けた選ばれし白人が相手なら 彼ら(抵抗する者)の死はやむをえないというのか……というラディカルな歌詞だが、パゾリーニが「奇跡の丘」で描いた革命家イエスの誕生日を祝う歌と考えればピッタリだ。

 僅差で「キリング・イン・ザ・ネーム」が1位を獲得し、レイジのスポークスマンは英国でのフリーコンサート開催(翌年6月)、ホームレス支援団体への収益の全額寄付を表明する。8万人を集めた祝祭ライヴが本作に収録されている。MCでガザ封鎖を続けるイスラエル政府を非難するなど、従来の姿勢は変わらないが、ザックが時折、笑みを浮かべるなど柔和になった印象を受けた。辺見庸は客席後方を見据えながら「公安の皆さん、ご苦労さんです」と講演を切り出したことがあったが、レイジのアリーナツアーには100人単位のFBIが紛れ込み、バンドや聴衆をチェックしていた。場所は英国で、権力との緊張関係から既に解放されていることもあり、バンドもリラックスして楽しんでいたのだろう。

 サウンド的にはミクスチャー、オルタナの先駆けとされるが、メッセージ性はバンドだけでなく社会に大きな影響を与えた。今回はなかったが、ステージにはゲバラの肖像が高々と掲げられ、同じデザインのTシャツを着た人が世界を闊歩している。サパティスタの支持者ザックとハーバード首席卒業のトム・モレロが創り出す知的でラディカルな世界観により、レイジは「反グローバリズム」のシンボルになる。このライブの翌年、ロンドン蜂起が起き、ウォール街占拠の起点になった。そして4年後、英労働党の左派転回だけでなく、欧米で「反資本主義」のうねりが起きた。

 クラッシュの「白い暴動」を演奏するなど、ザックはザ・フーやパンクロッカーへのオマージュを語っていた。レイジの魂も幾多のバンドに受け継がれているが、ミューズもそのひとつだ。07年にフジロックで来日した際、レイジから受けた影響を語っていた。前回のツアーでは巨大なピラミッドを逆さまに吊るし、「ヒエラルヒー(権力構造)をひっくり返したいという思いの表現」とインタビューに答えていた。

 新宿武蔵野館で先週末、イラン映画「ボーダレス ぼくの船の国境線」(14年、アミルホセイン・アスガリ監督)を見た。<イラン映画には神が宿る>と記してきたが、寓意に満ちた本作も神話の高みに達していた。一幕物といってよく、舞台はイランとイラクの国境地帯に廃棄された船だ・住み着いているイラン人の少年、闖入したきたイラクの少年兵――実は少女で赤ん坊を連れている――、アメリカの脱走兵が言葉の違いを乗り越え心を寄せていく。 
 

 俺は多様性の尊重、アイデンティティ-の浸潤を志向しているが、奇麗事、絵空事といわれても強くは返せない。トルコ大使館前の乱闘が物語るように、世界中で差異が憎悪のもとになり、人々を暴力へと駆り立てている。だが、廃船でボーダレスが実現した。中心に位置するのは少年で、生活力に溢れ、少し年上の少女に優しく接する。父性と母性を備えた少年、破壊兵器があると騙され戦地に送られた米兵、家族を殺した米軍への憎しみを緩和していく少女……。緩やかな円を紡ぐ3人の紐帯になったのは赤ん坊だった。

 エンディングが謎めいているのはイラン映画の常だが、理想郷は果たして? 痛切なラストに余韻は去らない。権力と折り合いを欠くイランの監督は多いが、本作は幸い? にも大使館協賛だ。政治状況を超え、人間の悲しみ、孤独、慟哭を描いた普遍性を持つ作品といえる。

 音楽、映画とジャンルは異なるが、自分の世界観を再確認できる作品に触れた幸せな週末だった。

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「アカギ」~小心ギャンブラーの心を抉る凄絶な死闘

2015-10-22 17:21:39 | 映画、ドラマ
 今日もまた、ネットカフェでブログを更新している。来週中には新しいパソコンを購入する予定だが、突然死したハードディスクからデータを吸い上げることが出来るか不安だ。バックアップしていなかったことを悔やんでも、後の祭りだが。

 菊花賞の枠順が決まった。POGはダービー以降もGⅠのみ適用というルールなので、もちろんドラフト指名馬の③タンタアレグリアを応援する。贔屓目とはいえ、馬柱を眺めているうち、馬券圏内に来そうな気がしてくるから不思議なものだ。現2歳は大苦戦で、グループ中、断然の最下位に沈んでいる。今週末は6頭出走するが、気負わずに応援したい。

 ドラフトといえばプロ野球が進行中だ。馬は気性など見えてこない点が多いし、しがらみがある関係者のコメントは信用できない。デビューが危ぶまれる馬だって、調教師は「将来走ってきそう」なんてごまかすのが常だ。当馬は駄目でも、生まれたばかりの弟や妹の入厩が既に決まっているケースも多い。馬と違って人間は話すし、的確な情報も得やすいはずだが、それでもプロ野球ドラフトに選択失敗例は事欠かない。

 巨人が震源地になり、球界は賭博問題で大揺れになっている。他球団に波及する可能性も大きい。この間、気になったのは、「A選手は麻雀やバカラが好きだった」など、<ギャンブル=悪>を前提に書かれている記事だ。俺は競馬専門で、愛情でPOG指名馬に、射幸心で中穴に賭ける〝小心かつ健全な〟賭博常習者だが、ギャンブルは誰にとっても極めて日常的な振る舞いである。

 恋愛、就職、住まい探しにしたって、勝負した人、即ちギャンブラーが成果を得る。政治や会社経営だって綱渡りの連続だし、冒険した人が勝ち組になる。人生に繋がるギャンブルの深淵を描いたドラマ「アカギ」(BSスカパー!、全10回)を見た。福本伸行による麻雀劇画が原作で、既に100カ国以上への配信が決定してる。麻雀のルールは知らなくても、世界中の人が壮絶な展開に圧倒され、垣間見える冷徹な真理に震えるだろう。

 話は逸れるが、俺は主にMONDOTVで麻雀の対局を楽しんでいる。高宮まりを応援していることは別稿に記したが、男性プロに混じって勝ちまくっているのが、高宮の親友である魚谷侑未だ。ちなみに魚谷はプロになる前は騎手を目指していたという。緻密さ、判断力、運を併せ持つ魚谷は〝史上最強の女流雀士〟かもしれない。囲碁や将棋に比べて基盤も弱く、陰の存在だった麻雀界に、億万長者のタニマチが現れた。昨年度の最強位、藤田晋サイバーエージェント社長である。MONDOのタイトル戦を協賛するなど、既に成果は表れている。

 閑話休題……。「アカギ」は1000万部以上を売り上げている。今回のドラマ化は現在も連載中の「鷲巣麻雀編」だ。ファンの方に「今頃、遅い」と言われそうだが、感銘を覚えた。これまで映画やドラマで、黒澤明作品の三船敏郎、任侠映画の鶴田浩二、高倉健、菅原文太らが演じてきたヒーローに痺れてきたが、一人を選ぶとなると赤木しげるである。「闘牌伝アカギ」で赤木を演じたのは柏原崇だったが、今回は本郷奏多だ。ドラマを見る前、最強位予選で本郷と福本が相まみえた対局を見た。本郷は福本を蹴落としたが、代表決定戦で敗れ、本戦出場は逃した。撮影の合間に腕を磨いたに違いない。

 ドラマでは鷲巣巌(津川雅彦)との対決に絞られている。舞台は1965年で、日本を牛耳る黒幕である鷲巣が6億円(現在に換算すると60億円)、赤木が自身の命を賭けて闘う。4牌のうち黒牌は一つだけ、あとの三つは透けて見えるというルールで、盲牌出来ぬよう手袋をして卓中央の穴からツモる。対面に鷲巣と赤木が座る。鷲巣の下家は部下の鈴木、赤木の下家は安岡刑事(神保悟志)とコンビ打ちが前提だが、鷲巣と赤木の得点だけが意味を持つ。狂言回しを務めるのはヤクザの仰木(田中要次)だ。

 本作の魅力は、盤上、そして内面で交わされる鷲巣と赤木の対話だ。赤木の台詞が心に刺さるのは、五七調をベースにしているからだろう。鷲巣のツモ上がりで血を抜かれるアカギだが、「あっさり死ぬくらいがちょうどいい」と常にクールだ。不敗の人生を誇る鷲巣の若さへの嫉妬、死への恐怖を読み取り、「死が怖いからあがくように勝とうとする」と言い放つ。こき下ろし、嘲りながら、自分と同じ狂気を鷲巣に見る。鷲巣の中の悪魔を呼び覚ました喜びに、赤木は浸っていた。

 アカギは周到に伏線を張り巡らす。無鉄砲に見える打牌に驚く周囲を「今にわかるさ」と煙に巻き、その通り鷲巣を追い詰めていく。赤木の信念は、極限状態でも自分を信じること。とりわけ決まっていた台詞は、有り金はたいた鷲巣に赤木が掛ける言葉だ。即ち<金に守られし魔王、鬼よ。遂に引きずり出した、同じ地表まで。さあ、ともに始めよう。互いの血液を賭けた狂気の麻雀を>……。福本が本作で表現しようとしているのは、拝金、支配欲の醜悪さなのか。赤木は真理に執着するが、あくまで無私で、欲望を超越している。

 超凡人たる俺にとって、本作は格好の濾紙になる。心が荒んだ時――いつもそうだが――繰り返し見ることにしよう。柏原は赤木を演じた後。パッとしない。赤木の毒にあたってしまったのだろうか。鋭く軽やかに演じた本郷が、同じ轍を踏まぬよう願っている。

 
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寺山ワールドに惑った夜~生誕80年記念音楽祭に参加して

2015-10-18 15:06:40 | カルチャー
 「相棒~14シーズン」2時間スペシャルを見た。ドラマで反町隆史を見るのは初めてで、違和感を覚えなかった。前シリーズのラストは議論を呼んだが、<法の下の正義と人としての正義>という対立項を据えたことに意義があったと思う。ちなみに当代きっての人気作家といっていい伊坂幸太郎は後者に軸足を置いており、警察は時に巨悪として描かれている。今回の舞台は刑務所だったが、その国の民度を測る物差しは選挙制度と監獄だ。日本が民主国家に値しないことは、両者を見ても明らかである。 

 自分がいかにパソコンに依存しているか、壊れてみて改めて思い知った。POG指名馬の近況、NFLのダイジェスト動画、映画や落語の情報などすべてパソコン頼みで、今いるネットカフェで竜王戦の中継サイトを見て、糸谷先勝を知る。とはいえ、会社のパソコンで大抵のことはチェックできるから、情報砂漠というわけではない。東北への旅で被災者が失ったものの大きさを実感した以上、些細なことを愚痴っていてはバチが当たる。

 この1週間、政治の世界では共産党が野党協力に向け、安保容認の姿勢を打ち出した。頭が固いのか、自公政権打倒の第一歩として来夏の参院選で野党統一候補を目指すという動きに懐疑的だが、俺より石頭の人たちがネットを騒がせていることを友人が教えてくれた。小熊英二、辺見庸への批判である。小熊については、秘密保護法、集団的自衛権、イスラエルによるガザ空爆、戦争法案、武器輸出と様々な課題に先頭で取り組んできた杉原浩司さん、仕事先の夕刊紙記者も肯定的に語っていた。一方で、小熊の若者論が物議を醸しているという。俺は著作と監督作に触れていないので、あれこれ述べることはできない。

 辺見といえば大道寺将司死刑囚(反日武装戦線「狼」リーダー)を支援し、3・11後に発表した2冊の詩集で多くの人に感銘を与えた。講演会の冒頭、「公安の皆さん、ご苦労さんです」と切り出すほど〝要注意人物〟で、ファシズムの到来に最も早く警鐘を鳴らしてきた。辺見叩きはシールズ支持者から起きているようだが、批判する側は辺見の著書を読んだことがあるのだろうか。小泉―安倍的な<二元論>に、反対する側も毒されているとしたら深刻だ。ちなみに俺も、<国会前の言葉にイマジネーションもリアリティーも感じられず、あの場にいて心が冷えた>(要旨)と繰り返し記してきた。「民主と共産は手を結べ」と主張する寛容さに比べ、異論はあっても同じ側に立つ者を攻撃する狭隘さに愕然とする。

 今年の一連の動きを、60~70年代と比べて評する識者も多い。残念なのは、当時と比べて文化的背景が浮かんでこないことだ。作家なら高橋和己、映画なら大島渚、音楽ならフォーク歌手たちが当時の空気を支えた。寺山修司もまた、形に囚われない自由を様々な形で表現していた。ちなみに上記の友人もファンのひとりで、4年前だったか、反原発集会で偶然出会った時、俺と同様、拳を振り上げることはなかった。理由を聞くと、「俺、寺山が好きだから」と答えたが、妙に納得した。寺山ワールドは現実と異界、正義と邪さ、生と死といったアンビバレンツな価値を内包し、無数の入り口が用意されている。当人もボルヘスに言及するなど、南米のマジックリアリズムに共感していた。前稿に記したが、柳田國男と感性が近いと思う。俺好みの十進法、いや〝無限進法〟で時空を行き来した自由人だ。

 俳句、短歌、詩、評論「死者の書」「アメリカ地獄めぐり」、対談集「闘技場のパロール」、それに競馬やスポーツ関連のエッセーは読んだ。映画も見たが、それでも寺山ワールドの二合目あたりにしか行き着けない。天井桟敷のみならず、演劇について門外漢であるからだ。「冥土への手紙」と題された生誕80年音楽祭初日(11日)に参加したが、演劇的要素が濃く、遺志を継いだ劇団員たちとスクリーンに映し出される時代の熱気が、独特の世界を創り出していた。多人数によるパフォーマンスの合間を縫ってカルメン・マキ、山崎ハコ、PANTAらが歌うという構成である。ちなみに進行、MCを兼ねていたのが大槻ケンヂだった。

 カルメン・マキは有名な曲を歌わず、寺山の詩を朗読し、新作を披露した。耳を傾けながら感じたのは、彼女が表現者として〝アライブ〟だということ。過去の人というイメージを抱いていた自分自身が恥ずかしくなる。彼女もまた、寺山の遺志を継ぐひとりだったのだ。山崎ハコは寺山を<紙一重のところに視線を向ける人>と評していた。至言だと思う。人々は無数の境界線の上に佇み、時に世間では悪いと見做される側に墜ちてしまう。寺山の根底にあるのは彼らを見据える優しさではないだろうか。

 PANTAは頭脳警察時代の「時代はサーカスの象にのって」を披露し、寺山の同タイトルの詩を朗読して「さようなら世界夫人よ」で締めた。圧巻のステージに、同行したサラリーマン時代の後輩で今も仕事先で会うT君も感心しきりだった。来月のミチロウとのジョイントライブについて詳述するつもりだ。

 カルメン・マキ、山崎ハコ、そしてPANTAは俺より年上だが、意志の力で今も輝いている。そして、寺山の未完に終わった試みは、今もあらゆる分野で継承されている。これからも寺山という巨大な迷宮をしばしば訪ね、惑うことにする。
 
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遠野、釜石、気仙沼、南三陸、石巻~被災地で感じたこと

2015-10-14 20:32:48 | 社会、政治
 あす15日、59回目の誕生日を迎える。俺が最近、心を打たれたのは、先日(6日)、100歳で亡くなったグレース・リー・ボッグズの<世界を変えるためには、まず我々自身が変わること>だ。言葉をまき散らかしている俺にとって、人生の道標になる至言である。

 11日夜、寺山修司生誕80年記念音楽祭「冥土への手紙」初日に足を運んだ。濃密な時間を過ごしたが、感想は次稿に記したい。帰宅すると〝事件〟が起きていた。パソコンが立ち上がらないのである。応急処置が事態を悪くしたのは確実で翌朝、後ろ髪を引かれる思いで東北に向かった。昨年の福島に続く被災地への旅である。本稿は帰京後、ネットカフェでアップしている。

 最初に訪れたのは遠野の「柳田國男展示館」だ。「遠野物語」の作者で民俗学者である柳田國男の軌跡に触れた。柳田が民俗学に興味を抱いたきっかけは、当時まだ残っていた間引きの風習を目の当たりにしたことだ。遠野物語に登場する物の怪たちは、人々の罪の意識が作り出した、生者と死者を紡ぐよすがなのだろう。柳田の感覚は寺山修司に似ているような気がする。

 釜石の津波被害も甚大で、海から2㌔ほど離れた宿泊先のホテルも数十㌢、水に浸かったという。50㍍弱の「釜石大観音」が陸中の海を見守っていた。壮大な外見だけでなく、胎内には三十三観音が展示されており、煩悩の塊である俺の汚れた魂を磨いてくれる。至高のモニュメントなのに、あまりの閑散ぶりが悲しくなった。

 三陸鉄道とBRTを乗り継いで南三陸に向かう。窓の外を眺めているうち、怒りが込み上げてきた。地震から4年半、復興は遅々として進まず、被災地から離れる人は後を絶たない。東北の生々しい傷痕を放置して開催される東京五輪とは<国家的犯罪>ではないか。川内原発2基の再稼働が決定した。復興の遅れといい原発再稼働といい、日本政府は倫理や良心を持たず、人々の痛みを顧みない獣になった。沖縄で起きていることも同様である。

 では、どうすればいいのか。巷では永田町の地図を前提にした合従連衡が叫ばれている。でも、根本から仕組みを変えない以上、パッチワークに過ぎない。2011年を起点にした<ラディカル・シフト>が欧米に広がっている。日本で今年起きた抵抗運動が5年後に地殻変動をもたらすための準備を今、始めるべきだ。

 気仙沼で乗ったタクシーの運転手は、左右に広がる傷痕を説明してくれた。南三陸で泊まった「ホテル観洋」は当時、近隣の人たちに施設を開放したことで世界でも知られている。被災地バスツアーでは、実際に起きたことを具体的に知らされ、衝撃を受ける。自己犠牲の精神を発揮して亡くなった方々に胸が熱くなった。絶望とか希望、孤独とか絆……。血肉になっていない薄っぺらな言葉を吐いていたことが恥ずかしくなった。

 石巻は旅程上、滞在時間が短かったが、ボランティア関連施設で被害について教わった。来年は石巻と女川を中心に訪ねてみたい。石巻は俺が敬意を抱く辺見庸の出身地である。震災後に発表した2冊つの詩集を再読してからになる。
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「キングスマン」~パチパチ弾けるUKテイスト

2015-10-11 12:57:18 | 映画、ドラマ
 スポーツへの興味は年々薄れているが、贔屓の成績が芳しくないと気分は冴えない。今季限定でベイスターズに肩入れしたのは、ブログに記したように、自殺した後藤浩輝騎手と中畑清監督のキャラが重なったからである。痛々しいまでのサービス精神を発揮した中畑だが、最悪のジ・エンドになった。

 進化を見せたラグビー日本代表だが、決勝T進出を逃した。この間、〝多国籍軍〟を否定的に捉える報道が気になっている。外国人選手は日本国籍を持つリーチマイケル主将(札幌山の手高卒)を筆頭にトップリーグ所属で、世界と日本を紡ぐ文化大使の役割を担っている。日本のメディアはいまだに偏狭さを引きずっているようだ。

 サッカーの強豪国は多民族で構成され、異なる人種が互いを補い合っている。南米からの移住者が多い静岡や群馬は、代表イレブンの配給源になるだろう。綺羅星の如き陸上競技のアフリカ系ティーンエイジャーだけでなく、野球ではオコエ瑠偉がドラフトの目玉だ。

 人種間の軋轢を克服したはずだったサッカーのオランダ代表だが、欧州選手権出場は絶望的だ(予選A組4位)。ドイツW杯以降、40年来のファンで、死ぬまでに頂点に立ってほしいと願っているが、育成システムが制度疲労を来してしまったのだろうか。

 TOHOシネマズ新宿で先日、「キングスマン」(15年、マシュー・ヴォーン監督)を見た。「キングスマン」とは国の縛りがないスパイ組織である。エキサイティングで息つく間もなく、文句なしのお薦め作品だ。いずれご覧になる方も多いと思うので、ストーリーの紹介は最低限にとどめ、以下に感想を記したい。

 冒頭で一人の男が自らを犠牲にして仲間を救う。生き残ったハリー・ハート(コリン・フォース)は17年後、殉死した同志の遺児エグジー(タロン・エガートン)に手を差し伸べた。どん詰まりのチンピラといえるエグジーに、父譲りの高潔さとチームスプリットの片鱗を認めたからだ。ハリーの期待通り、エグジーは家柄と学歴を誇るエリートたちと伍して頭角を現していく。ロキシー(ソフィー・クックソン)に仄かな恋心を抱くが、「おやおや」と笑えるシーンも用意されていた。

 「007」のボンドや「ミッション:インポッシブル」のハントは登場した途端、凄腕で見る者を瞠目させるが、危なっかしいエグジーも、直観力と機転をフル回転させてスパイ道を邁進していく。ラストではトム・クルーズに負けないオーラを放っていた。本作は父、ハリーとの絆に根差したエグジーの成長物語で、続編への期待も大きい。

 この手の作品に不可欠なのは存在感ある悪役だが、世界征服を目指すヴァレンタイン(サミュエル・L・ジャクソン)と助手のガゼル(ソフィア・ブテラ)のキャラはぶっ飛んでいる。だからこそ、エグジー、ハリー、そしてロキシーの奮闘が際立つのだ。

 本作は疾走するアクション映画だが、「モンティ・パイソン」に通じるUKテイストがちりばめられており、スタイリッリュと異端の混淆が楽しい。アイロニー、ブラックユーモア、猥雑さに溢れ、戯画的で荒唐無稽だ。案の定というか、原作はアメコミで、「キック・アス」で知られるマーク・ミラーによるものだ。主要なキャストではないが、高潔と淫乱併せ持つ王女(ハンナ・アルストロム)が印象的だった。コメディーの要素も濃いが、<スパイが志向すべきは忠義と正義? それとも実利?>という永遠の課題も提示されていた。

 あす早朝から東北旅行だ。「辺境の誇り――アメリカ先住民と日本人」(鎌田遵著)に紹介された「ホテル観洋」(南三陸)に宿泊し、被災地ツアーに参加するのも目的のひとつである。
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「日本語が亡びるとき」が鳴らす普遍化への警鐘

2015-10-07 23:57:57 | 読書
 安倍政権の真の3本の矢は、<軍国主義化>、<全体主義化>、<アメリカ化>で、3本目が最も太く尖っている。矢先には毒が付着している。戦争法案も辺野古移設もTPPも、そして夥しい格差も、小渕政権→小泉政権がレールを敷いた<アメリカ化>によってもたらされた。

 昨夏のBS-TBSの対談で半藤一利、保阪正康の両氏が<読書と無縁だから言葉が軽く、物事を論理的に考えようとしない>と安倍首相を論断していた。二進法思考の首相は上記の既定路線に乗るだけではなく、小学校から英語教育を重視し、大学の人文系学部の縮小を打ち出した。日本の伝統文化にこだわりを持たない、本籍ワシントンの首相らしい。

 施光恒九大大学院准教授は、自発的植民地化に噛みつくひとりだ。著書「英語化は愚民化」(集英社新書文庫)は水村美苗著「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」(08年、筑摩書房)にインスパイアされたに違いない。小林秀雄賞を受賞した本作は、既に歴史的名著としての評価を確立している。

 「私小説」、「本格小説」、「新聞小説 母の遺産」については別稿で感想を記した。小説の形を取りながら自伝風、私小説風、ドキュメンタリータッチで、等身大の水村が投影されている。第一章「アイオワの青い空の下で<自分のたちの言葉>で書く人々」と第二章「パリでの話」は、作者自身の経験に基づく導入部だが、どこかフィクションっぽい。ところが本題に入ると、情緒を排した伽藍を仰ぎ見ることになる。

 水村は明治維新後の日本を背景に、言語を普遍語、国語、現地語に分類する。普遍語とは世界に流通する言葉で、19世紀では国力を反映し英語と仏語がその地位を占めていた。ちなみに江戸時代の日本では漢文が普遍語だった。前島密と森有礼は漢字不要論を説き、英語を国語にしようと試みた。現地語を脱却して国語になった日本語は文明開化の波に呑まれる。当時の大学は普遍語を翻訳する機関だった。

 デビュー作が「續明暗」であったことからも明らかだが、水村の夏目漱石への絶対的敬意と親近感が本作の下敷きになっている。漱石は留学先のロンドンで孤立を味わい、12歳時に家族で渡米した水村は日本文学を読み漁った。日本語を思想信条や感情の機微を表現する国語のレベルに引き上げた漱石ら明治期の作家たちを、水村は高く評価している。

 本作では「三四郎」を題材に、明治期の日本を分析している。三四郎が「日本より広い頭の中。でも、世界と連なりながら、雑学の塊でしかない」と評した広田先生にとって日本語は、普遍語への回路としてのツールでしかない。話は逸れるが、生理医学賞に大村智氏、物理学賞に梶田隆章氏と、ノーベル賞受賞者が相次いだ。「三四郎」には普遍語で光線の研究を発表し、世界にその名を轟かせている野々宮が登場する。世界と勝負するなら自然科学であることを、慧眼の漱石は見抜いていたのだろう。

 水村は現在の日本文学に手厳しい。「英語が普遍語として屹立する状況で、国語文学から現地語文学に後退する危機にある」と分析し、「漱石ほどの才能が現在生きていても、表現の手段に小説を選ばないのではないか」(論旨)と綴っている、俺は三流の小説好きだが、水村は日本文学に造詣が深い一流の書き手だ。旗色は明らかに悪いが、それでも<現在は何度目かの日本文学の黄金期>という確信は揺るがない。

 本作で加藤周一と丸山真男の対談が紹介されているが、富国強兵に繋がる科学や技術だけでなく、芸術論など人文系の翻訳も奨励した明治政府の度量に、両者は感嘆していた。安倍政権とは大きな違いがある。日本文学は懐が深くて柔らかい。インターネットの普及にビビッドに反応し、平野啓一郎を筆頭に、メールやSNSの病理を作品に織り込んでいる。

 普遍語と国語もしくは現地語との関係は、欧米ロックと邦楽ロックの関係に似ている。日本のバンドがグラストンベリーやロラパルーザのメーンステージでヘッドライナーを務めるなんて想像出来ない。この辺りに、自然科学の分野と比べ、日本の作家がノーベル文学賞と遠い構図が重なる。

 水村は普遍語、即ち英語の習熟を否定していない。中学校の国語の授業が週3時間という現状を憂慮しているが、彼女なりの理由がある。英語を読み解くための前提は、日本語の習熟にあると考えているからだ。十進法的な日本語を理解出来れば、英語の把握に役立つ。底の浅い二進法思考のバイリンガルが、世界に通用するはずもないのだ。

 純文学は商売にならないようで、島尾敏雄に最近凝っている知人は、辻原登、星野智幸らの文庫本が既に絶版になっていることを嘆いていた。本作のタイトル通り、日本語、いや日本文学が亡びる時は迫っているのだろうか。
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「Dearダニー 君へのうた」~アラカンになっても人は変われる

2015-10-04 19:50:45 | 映画、ドラマ
 前々稿の冒頭で<シリア難民の発端はイラク戦争>と記したが、思いつきの類だった。小心な俺はここ数日、不安を覚えていたが、〝権威の後ろ盾〟を発見して安堵する。ラシード・ハーリーディ教授(コロンビア大)が「デモクラシーNOW!」で、同様の趣旨を論理的に語っていたからだ。

 小泉元首相の解釈改憲によるイラク派兵、劣化ウラン弾を用いた米軍のファルージャ空爆がもたらした被爆=被曝への加担は、戦争法案、原発再稼働の形を取って愛弟子の安倍首相に引き継がれた。日本はシリア難民にも道義的責任を負っているが、首相のニューヨークでの的外れな記者会見に愕然とする。

 恥の上塗りというべきか、安倍首相はジャマイカ訪問の際、ボブ・マーリー博物館に足を運び、ミラー首相主催の晩餐会でレゲエに合わせてダンスを披露した。ブッシュの前でプレスリーを歌った小泉氏は想定の範囲内だが、反抗精神に満ちたレゲエと弾圧する側の安倍首相に、いかなる接点は見いだせない。

 <政治と音楽のミスマッチ症候群>でいえば、重症の政治家は事欠かない。代表格が英キャメロン首相(保守党)で、スミスへの傾倒ぶりを野党議員に揶揄された。スミス解散後も反王室、反保守党を前面に、一貫してマイノリティーの側に立つモリッシーは〝反体制の象徴〟といえる。立ち位置は首相と対極で、「心理療法が必要」とメディアに皮肉られる始末だ。

 さらに症状が酷いのは、3年前に共和党副大統領候補だったポール・ライアンだ。新自由主義を体現し弱者切り捨ての先頭に立つライアンは、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンへのオマージュを繰り返し語り、失笑される。ノーマ・チョムスキーとも交流があり、ウォール街でマイケル・ムーアとゲリラ的にPV撮影を敢行したレイジは、反グローバリズム、反資本主義の潮流の魁になったバンドだ。安倍、キャメロン、ライアンのように想像力が欠落していないと、指導的な政治家になれないのだろうか。

 有楽町で先日、米映画「Dearダニー 君へのうた」(15年、ダン・フォーゲルマン監督)を見た。音楽をテーマにした作品で、実話がベースになっている。

 1971年、21歳の歌手、ダニー・コリンズは編集者に不安を語っていた。その編集者と知り合いだったジョン・レノンはダニーに手紙を書く。電話番号も記されていたが、諸般の事情もあって、届いたのは40年後だった。誕生パーティーの日、マネジャーで親友のフランク(クリストファー・プラマー)がコレクターから入手した手紙をダニー(アル・パチーノ)に手渡す。

 「金持ちで有名になることで、君の音楽は堕落しない。音楽と自分自身に忠実であれ」……。信奉していたジョンのメッセージに、ダニーは来し方を振り返る。現在もツアーで全米を回り、莫大な富を得ているダニーは、「自分の成功は初心と懸け離れている。ジョンとあの時会っていれば、生き方は大きく変わったかもしれない」と考え、豪邸と若い婚約者を捨て、ひとりニュージャージーに向かう。

 著作権等の問題もあったが、本作の意図を理解したレノン財団は楽曲使用を承諾した。ジョンの曲は主人公ダニーにとってだけでなく、見る者の心を浄化する濾過作用がある。「イマジン」、「真夜中を突っ走れ」、「コールド・ターキー」、「ラヴ」といった名曲が映像にマッチしているが、とりわけ心に響くのは、息子ショーンを思って作ったと「ビューティフル・ボーイ」だった。

 ニュージャージーには捨てた息子トム(ボビー・カナベイル)が暮らしていた。ジョン同様、悪い父親だったことにようやく気付いたダニーは、危機に瀕したトムとその家族に救いの手を差し伸べようとする。トムの憎悪は簡単に消えないが、ダニーの言動がわだかまりを解かしていく。

 ダニーはアーティストとしての原点に立ち返り、久しぶりに曲を作り始める。完成した「ドント・ルック・ダウン」は長期滞在したホテルの支配人、メアリー(アネット・ベニング)に捧げた曲でもあった。ショービジネス界を泳ぎ続けた澱みを振り払うのは簡単ではなく、ダニーはあれこれ失敗し大切な人たちの顰蹙を買ってしまうが、希望は失わない。エンドロールの先にある、絆の再生と和みを予感させる秀作だった。

 ダニーと年齢が近い俺にとって、心に染みる作品だった。もうすぐ59歳になるが、二十歳の頃、いや、その時以上の熱さと蒼さが老いた体を迸っている。少し前まで戯言だと思っていた<いくつになっても人は変われる>を今、実感している。
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