酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「靴ひものロンド」~虚構の絆と家族の真実

2022-09-26 18:41:12 | 映画、ドラマ
 里見香奈女流5冠が棋士編入試験で連敗し、崖っ縁に立たされた。第2局は終盤で優勢になったが、緩手が出て岡部怜央四段に逆転負けする。思い出したのはNHK杯の今泉健司五段戦だ。編入試験を突破し41歳でプロ入りした今泉を投了寸前まで追い詰めたが、勝利の女神がスルリと逃げた。

 将棋は逆転のゲームである以上、非運とか緊張によるミスではない。だが、上記した今泉は30代後半、介護士として働きながら編入試験受験資格をクリアし、プロ四段になる。現在49歳だが順位戦ではC級1組への昇級に向け4連勝している。里見はまだ30歳。今回チャンスを逃しても、未来の扉は開いている。

 独身の俺でも、家族についてあれこれ考えることがある。もちろん答えは出ないが、結婚して40年近く経つ知人に尋ねたら、「いろいろあったな」と素っ気ない。家族を普遍化して語るのは不可能で、100の家族があれば、100の物語がある。そのことを再認識させられた映画を新宿武蔵野館で見た。「靴ひものロンド」(2020年、ダニエール・ルケッティ監督)である。

 ルケッティ監督作は「ローマ法王になる日まで」以来、2作目になる。原作はベストセラー小説「靴ひも」(ドメニコ・スタルローネ著)で、物語の起点は1980年代初頭のナポリだ。坂本九が歌ってヒットした「レットキス(ジェシカ)」が繰り返し流れ、冒頭で歌詞の〝列になって踊ろう〟そのまま、ダンスパーティー会場から4人家族の靴がアップで捉えられる。

 アルド(ルイジ・ロ・カーショ)、ヴァンダ(アルバ・ロルヴァケル)夫妻は長女アンナ、長男サンドロとナポリで平穏に暮らしていた。アルドはラジオ番組の進行役で、文学から時事まで的確なコメントが評価され、知名度も上昇中だ。平日はローマで仕事をし、週末はナポリの家族の元に帰る二重生活を送っている。

 ある日、アルドはヴァンダに告白する。「女と関係を持った」と……。相手はリディアという美しい女性だった。カトリック国のイタリアでは離婚は成立しづらいのかもしれない。アルドとヴァンダのキャラは好対照だ。情熱的で感情の揺れが激しいヴァンダは自殺を試み、一方のアルドは常に周りを意識して慎重に行動する。
 
 夫妻が30代の頃と、30年後がカットバックして物語は進行する。老年期のアルドをシルヴィオ・オルランド、ヴァンダをラウラ・モランテが演じている。40歳前後になったアンナ(ジョヴァンナ・メッツォジョルノ)とサンドロ(アドリアーノ・ジャンニーニ)の姉弟は、不仲の両親のせいで自身の家庭運も悪くなったと感じている。

 タイトルの「靴ひも」がキーワードになっている。姉弟は小さい頃、アルドに靴ひもの結び方を実演させた。家族共通の結び方が絆になっていた……、これが肝かと思ったが、そんなに甘くはない。アルドとヴァンダは共に暮らすようになっているが、老年期に達しても折り合いは良くない。〝腹を立てない〟を自らに課しているアルドにヴァンドは事あるごとに突っかかる。

 家族の絆、夫婦の絆、姉弟の絆……。俺も絆という言葉は好きだが、よくよく考えれば、絆を積極的に醸成したことはない。だから、絆が虚構であったことを剥き出しにする本作に妙にシンパシーを覚えてしまう。まあ、負け男の卑屈なひがみだ。子育てに励む30代の夫婦、肩寄せ合って老後を暮らしている熟年夫婦は、本作にいかなる感想を抱くのだろう。

 旅行に出かけたアルドとヴァンダが帰宅すると、部屋は荒らされ、飼い猫が消えていった。一体誰が? 泥棒の正体は? 悲しく、そして微笑ましい家族の真実に心が緩んだ。飼い猫の名前ラベスはラテン語で自滅、悪徳、恥辱、崩壊を指すという。老夫婦の家から消えた崩壊の行方が、本作のその後を暗示している。

 最後に、イタリア総選挙で極右政党が第1党になり、メローニ党首が首相に就任するという。極右の支持を集めた安倍晋三元首相の国葬があす執り行われるが、難民、物価、エネルギー問題をリトマス紙に、暗い影が欧州を覆っているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「某」~実験的な手法で普遍的な愛を問う

2022-09-21 21:11:43 | 読書
 ロックファンをリタイアしたことはブログで綴ってきた。シガー・ロスの来日もスルーしたし、今後も海外ミュージシャンのライブに足を運ぶことはないだろう。新譜からも遠ざかっていたが、デビュー以来、贔屓にしていたミューズの9thアルバム「ウィル・オブ・ザ・ピープル」を購入した。

 全10曲で38分弱とコンパクトにまとまった秀作で、タイトル曲の♯1を筆頭に、ミューズらしいラディカルな歌詞が並んでいる。一曲一曲がドラマチックかつメロディアスでクオリティーが高い。20年以上も聴き込んでいる俺には〝過剰さ〟が影を潜めていることが気になるが、これも時代の趨勢なのだろう。

 川上弘美著「某」(2019年、幻冬舎文庫)を読了した。川上の小説を紹介するのは7作目で、作品ごとの色調の違いに驚かされる。「某」の主人公は人間に擬態する生命体だ。自ら丹羽ハルカと名付けた16歳の少女は、蔵医師と水沢看護師の庇護の下、病院から高校に通う。友人たちと交遊しながら、自身の記憶とアイデンティティーを形成していく。

 宿題に課せられた作文を読んだ蔵医師はハルカの停滞に気付き、野田春眠(はるみ)に変化させる。ハルカと同じ学校に通う男子高校生だ。春眠は性欲の塊で、同級生を含め複数の女性と関係を持つが、思春期特有の懊悩とは無縁だ。蔵医師はハルカや春眠が通う学校の事務員として22歳の山中文夫を送り込む。文夫はガールズバーでハルカそっくりの女性に出会い、恋愛と性欲の狭間に苦しむようになる。

 蔵医師と水沢看護師が次に選んだ23歳のマリは、キャバクラで働くように。マリには3人分の短い過去の記憶しかなかったが、同居するようになったナオは夜逃げ屋グループの一員で、意識的に過去を遮断していた。マリは他者の人生を聞き取って再構成するバイトを始めた。マリが担当するのは物語として成立しづらい内容だ。変身を繰り返して蓄積がなく、ブツ切れの記憶を重ねるマリの生き様に似ていた。

 読み進むうちに思い出したのはヴァージニア・ウルフ著「オーランドー」と奧泉光著「東京自叙伝」だった。「オーランドー」はエリザベス女王の寵愛を受けた美少年オーランドーが眠っているうちに性転換し、300年を超える時空を駆け巡る。「東京自叙伝」では1845年から東日本大震災直後まで6人の「私」がストーリーを紡いでいく。

 マリは十数年、ナオと暮らし、人間としての絆、時間の感覚を学ぶ。病院を去って蔵医師ではなく、何かの力で20代のラモーナに変化した。ラモーナはトロントに渡り、日本人の青年、少し年上の女性とルームシェアするなど、他者との関係を気付いていく。過去の自分になかった料理の特技が、絆の糸だった。

 外国人とも交流するようになったラモーナに衝撃の事実がもたらされる。津田という男から、擬態して変化する生命体は世界に200前後存在することを知らされるのだ。ラモーナを5年で〝卒業〟し、片山冬樹として仲間と積極的に関わるようになる。後半に進むにつれ、変化ではなく成長が意味を持ち始めた。ささやかな気持ちの積み重ねの上に成立し、孤独とやるせなさを濾過する愛を描いてきた川上の志向に連なっていく。

 「某」同様、SF的要素が濃い「大きな鳥にさらわれないよう」では俯瞰で人類を見据えていた。ラストの<あなたたち、いつかこの世界にいたあなたたち人間よ。どうかあなたたちが、みずからを救うことができますように>は本作の読後感に重なる。最後に変化したひかりは愛の意味を知り、<好き>という言葉に抵抗がなくなり、変化を拒む。

 地球温暖化など生態系の変化と、人類が常に追い求めてきた哲学的問いが交錯する実験的な試みに感嘆させられた。膨大な作品群の大半は未読で、書店の棚に積まれている。年に1作ほどのペースで読んでいきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「サバカン SABAKAN」~温かくて柔らかい夏休みの思い出

2022-09-16 10:02:49 | 映画、ドラマ
 全国民はエリザベス女王の死を悼んで喪に伏している……。メディアはこんな風に報じているが、実態はそうでもない。王室不要論を唱える若い世代が増えているようだ。女王といってまず思い出すのはモリッシーだ。スミスの3rdアルバム「ザ・クイーン・イズ・デッド」のタイトル曲は、直截的な歌詞ではなく、ユーモアを交えて英国の伝統を揶揄したものだった。

 モリッシーはその後、折に触れて王室批判を繰り返してきた。ベジタリアンで性的マイノリティーへの理解者としても知られるモリッシーに異変が起きたのは数年前のこと。反イスラムを標榜する極右政党を支持していることが明らかになったのだ。女王の死に、モリッシーはどんな感想を抱いているのだろう。

 前々稿(9月6日)で紹介した「灼熱の魂」はギリシャ悲劇「オイディプス」を連想させる壮大な叙事詩だったが、今稿の「サバカン SABAKAN」(2022年、金沢知樹監督)は対照的に〝観客目線〟に沿った作品で、記憶の箱に手を突っ込めば掴めそうな感触を覚えた人も多いはずだ。

 冒頭は2016年の東京だ。語り手の久田孝明(草彅剛)は40代の売れない作家で、ゴーストライターとして糊口をしのいでいる。離婚の理由は恐らく孝明の生活力のなさで、娘の親権者は別れた妻だ。小説の構想を練る孝明は視線の先にあるサバカン(鯖の缶詰)に、小学5年時の夏休みを思い出す。

 舞台は金沢監督の故郷である長崎で、子供時代の孝明(番家一路)と同級生の竹本健次(原田琥之佑)の友情が描かれる。作文が得意だった孝明が小説家を目指したのも当然と思えるし、貧しい母子家庭で育つ健次は野生児の趣がある。ブーメラン島にイルカが漂流しているとの噂を聞いた健次が孝明を誘う。孝明の自転車に2人乗りして小冒険は始まった。

 孝明、健次の母親役を尾野真千子、貫地谷しほりが、健次の天敵に見えて実は愛情を注いでいるみかん農家を岩松了が好演している。イルカを見るためというのは、貧しさゆえに孤立していた健次の口実かもしれないが、様々な困難に直面した2人は、優しさと強さの意味をさりげなく教えてくれた由香と金山に出会う。台詞にあったイルカとクラゲは、冒頭で孝明が娘をイルカショーに連れていくシーンにも出てくる。

 監督の知人で孝明、健次のモデルになった2人がエキストラで出演した。後半に悲しい事件が起きるが、それでもアットホームな空気が流れているのは、長崎の人たちの協力があったからだろう。とりわけ柔らかいオーラを放っていたのは孝明の父親役の竹原ピストルだ。故遠藤ミチロウと交流が深く、「ジャスト・ライク・ア・ボーイ」をカバーしている。「海炭市叙景」(10年)では、争議の当事者で解雇された兄役を演じた。妹役の谷村美月との慎ましい日常はラストで暗転する。

 本作の竹原は「キンタマ」が口癖で、急所をかく癖のある中年男を演じていた。品のなさと稼ぎの悪さをなじる尾野との掛け合いも夫婦漫才風だが、孝明にとってはざっくばらんで包容力のある父親である。息子と揃って斉藤由貴のファンという設定も面白い。タイトルの意味は作品後半で明らかになり、30年年後にも繋がっていく。心が和むラストに、30年ぶりの友との再会が頭をよぎった。

 前稿末に記した通り、事務的な手続きがあったので、母の暮らすケアハウスを訪ねた。思ったより元気そうで安心したが、「久しぶりに会えたから、もういつ死んでもええ」と話す母に胸が痛んだ。普段は頑ならしいが、「息子さんの顔を見て気が緩んだのか、聞き分けがよかった」と施設の方は話していた。コロナで面会禁止が続く可能性も強いが、近いうちにもう一度、訪ねる予定でいる。その際、友に連絡してみようかな……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ねこのおうち」~猫と人の絆が紡ぐ愛の神話

2022-09-11 18:31:29 | 読書
 アパート近くに生息する三毛の野良猫ミーコについて何度か記してきた。今じゃ俺を含め10人以上から餌をもらう人気者で、高価でおいしい餌をくれるファンが現れるたび、ホームグラウンドを微妙に替えている。猛暑を生き抜いたミーコと俺の距離が微妙に変わってきた。満腹で餌を食べない時も、ゴロンと横になり、俺のタッチを待っているのだ。

 頭、顎、背中、尻尾の根元に触れると嬉しそうな表情を見せる。猫が嫌う部位で、飼い主さえタッチさせないこともある腹も無防備だ。ひとしきり撫でて立ち去ろうとすると、ニャーと鳴く。続けろということで、二度三度、こんな感じで交流する日々だ。

 別稿(2019年2月22日)で紹介した「猫はこうして地球を征服した」(アビゲイル・タッカー著)の帯には<ひそかに人を手なずけ最強の王者になった小さなライオンたち>と記されていた。俺がミーコを手なずけたのか、それとも手なずけられたのか……。猫と人間の絆を描いた小説を読了した。柳美里著「ねこのおうち」(16年発表)は4章から成る短編集である。柳作品は「JR上野駅公園口」以来、2作目だ。

 ♯1「ニーコのおうち」を起点に、ホームグラウンドは野良猫がたむろするひかり公園だ。痴呆症になったおばあさんは子供たちに見捨てられ、ニーコは駆除用の毒入りの団子を食べて死んでしまう。♯2「スワンのおうち」、♯3「アルミとサンタのおうち」、♯4「ゲンゴロウとラテとニーコのおうち」にニーコが産んだ子猫たちが繰り返し登場する。社会派らしい柳の視点が背景に描かれた連作短編集だ。

 定年後に猫の保護に努める子供会会長の田中さん、獣医の港先生が本作の回転軸になっている。♯2でニーコの娘スワンを拾った留香の姉が登校拒否から回復し、転校して中学生活を送るようになる。まさに猫の〝癒やし効果」だ。保護猫を飼い猫にする過程はYoutubeにもアップされているが、獣医の貢献大だ。港先生は生後間もない猫たちを診察し、ユーモアを交えて飼い主にアドバイスする。

 ♯3では、<捨て猫の里親募集>の貼り紙を見て、フリーライターのひかる青年と正樹少年が港先生の元を訪れた。ひかるは離婚した両親との葛藤を抱え、正樹は母と身を寄せ合って生きている。アルミとサンタは2人にとって、希望の光を灯しているのだ。

 ♯4は生きる意味を優しく問いかけている。話は逸れるが、波瀾万丈の人生を送ってきた柳は2年前、カトリックの洗礼を受けたという。東日本大震災から11年……。転機になったのは大震災ではないか。柳は南相馬に転居して書店を経営している。♯3,4には教会のシーンがあり、港先生と牧師が友人であるという設定になっている。柳は新たな道標を見つけたのかもしれない。

 「ねこのおうち」は転居後、初めて発表した小説だ。本作は老後と介護、格差、そして、生と死の意味を問いかけている。コロナ禍で生と死は遮断された。死は数値化され、弔うことは社会から後退している。そういえば日本時間11日、12勝目を挙げた大谷翔平は高校1年時、岩手で地震を経験し、人生観が変わったと話していた。周りに敬意を払い、優しく接する大谷の原点は3・11だったのだろう。

 ♯1~3を受け、結節点になった「ゲンゴロウとラテとニーコのおうち」は猫と人との絆を織り込んだ神話の域に到達している。若いためがんの進行を止められない妻を支える夫が奏でる哀切な愛の形に深い感銘を覚えた。ラストのおばあさんとニーコとの〝再会〟に、齢を重ねて涙腺が脆くなったせいか泣いてしまう。

 母は常々、「年を取ったら猫を飼ったらいい」と話していた。息子の孤独な老後を心配しているのだろう。今週、京都に日帰りで母の暮らすケアハウスを訪ねる。入居施設変更も考える時機だからだ。母は先日亡くなったエリザベス女王と、日本風にいえば同学年。衰えが目立つのも当然だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「灼熱の魂」~崇高な愛を謳う叙事詩

2022-09-06 22:38:44 | 映画、ドラマ
 的外れの発言がNHKで飛び出した。自民党の茂木幹事長が4日の討論番組で同党議員と統一教会の関係が報じられていることを踏まえ、「左翼的な過激団体と共産党との関係について調べないのは問題」と発言する。同席していた共産党の小池書記局長は「事実無根」と撤回を求めた。

 茂木氏が何を念頭に〝左翼的な過激団体〟と発言したのか別にして、60年安保以降、共産党の裏切りに辛酸をなめてきたラディカルな活動家、団体は、共産党に拭い難い不信感を抱いている。茂木発言は的外れだが、共産党を批判したいなら、20年以上もトップが代わらない閉鎖的な体質を問うべきだ。

 ゴルバチョフ元大統領の葬儀に、プーチン大統領は参列しなかった。ロシア国内ではソ連崩壊を主導したゴルバチョフ氏への否定的な声が強い。旧ソ連を批判して国外に追放されていたソルジェニツィンでさえ、ロシア正教の伝統と国民的気質を鑑み、プーチンを高く評価していた。〝皇帝幻想〟が定着するロシア国内で、ゴルバチョフに冷ややかな視線が注がれているようだ。

 新宿シネマカリテで「灼熱の魂」(2010年、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督/カナダ・フランス合作)を見た。日本でも高評価された同作のデジタルリマスター版である。レバノン生まれでカナダに移住したワジティ・ムアウッドの戯曲「焼け焦げる魂」を映像化したのが本作だ。背景にあるのは1975年、キリスト教マロン派の民兵が27人のパレスチナ人の命を奪ったことをきっかけに始まったレバノン内戦だ。

 ケベック州に暮らす双子の姉ジャンヌ・マルワン(メリッサ・デゾルモー=プーラン)、弟シモン(マクシム・ゴーテット)に母ナウル(ルプナ・アザバル)の遺言が伝えられる。公証人であるジャン・ルベル(レミ・ジラール)はナワルを秘書として長年雇ってきた。遺言を神聖なものと見做すルベルは、姉弟に母の思いを託す。

 ジャンヌには父への手紙を、そしてシモンには兄への手紙を、それぞれ手渡すようにという内容だったが、姉弟は自分たちの父と兄の存在を知らない。それどころか、とりわけシモンはナウルに疎遠さを感じていた。数学の研究者であるジャンヌは、相談した教授に「純粋数学は、解決不能な問題に取り組む必要がある。避けられぬものに反抗すべきでない」と言われ、母の生まれ故郷レバノンに旅立った。

 映画「判決、ふたつの希望」にも描かれていたが、レバノン内戦ではキリスト教徒、ムスリム、パレスチナ難民、シリア、イスラエルが凄惨な戦闘を繰り広げた。30年の時空を超えてナウルとジャンヌの主観がカットバックしながらストーリーは進行する。目の前で殺された難民の恋人の子供を身ごもっていたナウルは出産後、子供と離れ離れになり、キリスト教右派の指導者を暗殺して十数年間、獄中で拷問にさらされることになる。

 テレビ、ネット、DVDでご覧になる方も多いと思うのでストーリーの紹介は最低限にとどめたい。観賞後、背景を詳しく知りたくなったのでパンフレットを買おうとしたが、作製していないとのこと。ナワルはキリスト教徒だと思うが、右派の裏切りを許せず、指導者に銃を向けたと推察しているが、勘違いの可能性もある。

 シモン、そしてルベルもレバノンを訪れ、姉弟は歴史に翻弄された母の波瀾万丈の生き様を知り、残酷な真実を突き付けられる。シモンがジャンヌに問いかけた「1+1=……」が印象的だった。「ポロポロ」を紹介した前稿で<物語>の意味を考えたが、「灼熱の魂」は<物語>から飛翔した壮大な叙事詩で、ギリシャ悲劇「オイディプス」を連想した方も多いはずだ。絶望的な苦悩の末、母が到達した崇高な愛に、俺のふやけた魂も焼け焦げた。

 「国際報道2022」(NHK・BS1)はイスラエルでの極右勢力の台頭を報じていた。彼らは「アラブ人に死を」と訴え、ヨルダン川西域のパレスチナ人居住地への不法な入植を進めている。レバノン内戦時(1982年)、イスラエル軍とキリスト教右派がパレスチナ難民キャンプを襲撃ことは「灼熱の魂」の背景のひとつだ。戦争と戦乱が生む憎悪の連鎖を断ち切る術はあるのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<物語>の意味を問う田中小実昌著「ポロポロ」

2022-09-02 21:36:57 | 読書
 Y容疑者は安倍晋三元首相襲撃に至った理由に、母が多額のお金を統一教会に振り込んだ影響で一家が破産したことを挙げた。Yがいかなる<物語>をつくり上げ、教会トップへの恨みを元総理への殺意に転化させたのかをメディアや識者は考察しようとしたが、答えは簡単だった。安倍元総理こそが自民党と統一教会との結び目だったという<真実>が明らかになる。

 俺は31日、国会正門前大行動(主催:安倍元首相の『国葬』に反対する実行委員会)に足を運んだ。立憲民主党、共産党、社民党、沖縄と女性の権利を求める市民グループの代表、識者がアピールした。紛うことなき<真実>に怒りを覚えた参加者は4000人だが、同世代が大半を占めたのは残念だった。

 別稿(8月19日)で紹介した「この国の戦争」で対談者の奧泉光と加藤陽子東大大学院教授が取り上げていた「ポロポロ」(1979年、河出文庫)を読了した。田中小実昌の作品を読んだのは初めてだが、「ボチボチ書いてるだけのいいかげんな男」を自称する通り、飄々とした〝不良おじさん〟そのままの自虐的な筆致に魅せられた。

 俺は<物語>の意味を問う「ポロポロ」に新たな視点を提示される。「ポロポロ」は1941年12月の開戦時から敗戦後(47年前後)までに至る数年間を描いた連作短編集だ。<物語>批判を全編のテーマに据え、自伝的要素も濃い。表題作♯1には家族も登場する。牧師の父は広島で独立系教会を創立した。

 「ポロポロ」とはお祈り中の父や信者たちの口からこぼれる何かだ。♯5「鏡の顔」で記される主人公と父との対比が興味深い。父は<物語>を否定するクリスチャンだが、主人公(ぼく)は中国戦線に送られた時に見聞した出来事を周囲に話して<物語>にする。「ポロポロ」とは言葉になれば<物語>に後退する内なる思いのメタファーかもしれない。

 ♯3「岩塩の袋」に<中国戦線では、敵兵を見ない、というのは有名なはなし>と記されている。♯7「大尾のこと」には、<ぼくの兵隊物語のなかで、ぼくが、得々として初年兵の役をやっていたことも白状する>と綴られている。中国に赴いたのは19年暮れで、敗戦まで9カ月あまりひたすら行軍に明け暮れたから、本書には戦闘シーンも日本軍の残虐行為も描かれていない。

 ♯2「北川はぼくに」には<だいたい、軍隊というのが物語だ>、♯6「寝台の穴」には<軍隊はなんでも命令だから、というのも物語だ。ぼくは命令というものをうけたことは一度もない>と記されている。上記した「この国の戦争」で奧泉と加藤は、「ポロポロ」を念頭に、小説や歴史での記述が抽象化した<物語>に埋没していくことを逃れるべきと述べていた。田中の安直な<物語化>を戒める方法論を提示した。

 田中は中学時代、教練での成績はビリで、応召されてからも「苦力に劣る」と上官に罵られ、二等兵のまま敗戦を迎えるダメ兵士だった。とはいえ、創意工夫を発揮して軍隊で生き抜いた。行軍に負担になる銃弾をこっそり廃棄するなど要領はよかったぼくを悩ませたのは空腹と下痢だった。アメーバ赤痢、マラリア、天然痘に真性コレラまで発症し、隔離病棟で長い時間を過ごすことになる。シラミとノミも難敵だった。

 ぼくは曖昧な記憶を辿りながら、自問自答を繰り返す。興味深い独白もちりばめられていた。「北川はぼくに」では敗戦を知った時、<ぼくはなんとも思わなかった>と回想している。「鏡の顔」には<内地にかえり、父母や妹にあいたい……(中略)ひとには、ごくふつうにあって、ぼくには欠けてるものは、このフレーズが成立しないことかもしれない>と記されている。だから、鏡に写った顔が父に似ていたことに驚いたのだ。

 <物語>に繰り返し言及した「寝台の穴」で、ぼくの誕生日の記憶が綴られる。田中が生まれたのは昭和天皇と同じ4月29日だ。クリスチャン一家には国民こぞって祝う天長節など無縁だったのだろうが、ぼくにはロクでもないことが続いた。ぼくが物語をしているのか、母の物語を受けただけなのか思い悩んだ後、<物語をはなす者は、もうすっかり、なにもかも物語なのだ>と結論付ける。

 「ポロポロ」は65歳の俺にとって新鮮な発見だった。時に〝文学通〟を気取る俺だが、それもきっと<物語>なのだろう。目が悪くなり、ページを繰るスピードは落ちたが、残り少ない人生、読書を生活のベースに据えていきたい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする