酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「水いらずの星」~愛の深淵から噴き上がる水

2023-11-30 22:17:48 | 映画、ドラマ
 俺はエンターテインメントを好む。〝藤井聡太絶対王朝〟が確立した将棋界だが、AIとの共存でエンタメ度は増した。解説する棋士たちはサービス精神に溢れ、タイトル戦での食事やおやつの紹介は〝観る将〟の関心の的だ。キャラが立った棋士も多いが、俺が贔屓にしているのは藤井王将に挑戦する菅井竜也八段だ。

 女流棋士なら磯谷祐維1級だ。〝発見〟したのは王将挑戦者決定リーグで、記録係の席に目力の強い金髪ギャルが座っていた。将棋連盟ではなく、LPSA(日本女子プロ将棋協会)に入会したのは「奇抜な髪色でも認めてもらえる自由さがあるから」と話している。アマ時代の戦績は抜群で、師匠は独創的な棋風で知られる山崎隆之八段だ。数年後、<里見・西山2強時代>に割って入ることが出来るだろうが。

 俺ぐらいの年になると、マンネリとわかりやすさもエンタメのプラス要素に組み込まれる。新シリーズも面白いとは思わないが、「相棒」にチャンネルを合わせてしまうのはそのためだ。体力と集中力が落ちているので、2時間半を超える映画はパスするが、例外もある。新宿武蔵野館で164分の「水いらずの星」(2023年、越川道夫監督)を見た。別の映画を見た後、同館入り口で主演の河野和美に声を掛けられ、「今月中に上映される映画に出ています」とサイン入りのチラシを渡されたのがきっかけだった。熱い思いが伝わったので見ることにした。

 河野は10作以上の作品に関わっており、「水いらずの星」では製作も担当している。原作は松田正隆による同名の戯曲で、映画化に際し台詞は出来る限り忠実に再現したという。冒頭とラスト以外の2時間は女(河野知美)と男(梅田誠弘)の台詞で進行する一幕物で、舞台は女のアパートだ。俺は演劇に疎いから、2人芝居の見え方が演劇と映画でどう異なるか理解出来ない。演劇なら2人のやりとりを等距離で見ることになるが、映画では男女いずれかの視界に映る相手の表情を捉えるケースが多く、本作も同様だ。

 両者の微妙な表情と佐世保弁に、リハーサルが積み重ねられたことが想像出来る。2人はかつて佐世保で結婚生活を送っていたが、男が働いていた造船所が閉鎖された。女は福山に駆け落ちした別の男と別れ、叔父の子を身ごもったが叔母に毒を盛られて流産するという悲惨な体験を経て坂出に流れ着いた。一方の男は末期のがんを患い、余命いくばくもないという設定だ。

 絶望の淵に沈む2人だが、互いを思いやる気持ちは消えていない。だが、セックスに至る場面で奇妙なことが起きる。「1万円でいいよ」と女が囁くのだ。女は売春で生計を立てていた。雨音が聞こえ、2人が抱き合う時、天井から漏れた水がバケツに零れていた。本作の基本イメージである水がラストで迸る。

 ストーリーらしきものはないが、男が海を渡って女の元を訪ねるシュールな冒頭に、スクリーンで交わされる会話は冥界で交わされているのではないかと感じる人もいると思う。男はがんで、女は毒で既に亡くなっていると想像することも出来る。男が撮った写真と描いた絵が現実との結び目で、2人が穏やかに過ごした時期を窺わせる。

 記憶に殺人を織り込んだ女の右目から水が溢れ、画面がドラスチックに展開する。愛の深淵から噴き上がった水が世界を崩壊に導き、船に乗った男が女の眼球を手に3年前、包帯を巻いた女と会話する。女の顔の前に手が差し伸べられて、エンドタイトルになる。

 惑いながらスクリーンを出ると河野が立っていた。買っておいたパンフレットにサインしてもらい、少し話をする。「あれは男の手なんですか」と問うと、「全て見る方の想像にお任せですが、たぶん」と頷いていた。河野は乳がんと闘っている。病に勝ち、更なる活躍を祈っている。
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「あなたの人生の物語」~極大と極小の連なりを提示するテッド・チャンの魔力

2023-11-25 21:50:25 | 読書
 ガザ地区に対するイスラエルの虐殺を非難したスーザン・サランドンが〝反ユダヤ主義〟を理由に事務所を解雇された。エンタメ界やメディアにおけるユダヤ系の力は絶大で、ガザ無差別空爆(2014年)の際、観覧席に集まったエルサレム市民が火の手が上がるたび乾杯していた光景を伝えたキャスターは翌日、CNNを解雇された。アメリカの若い世代ではパレスチナ支持が上回っている。グレタ・トゥンベリが<パレスチナと共に立つ>とボードを掲げたことが、空気を変える第一歩になるかもしれない。

 俺はSFには極めて疎く、ブログで紹介したSF小説は「虐殺器官」(伊藤計劃)、オムニバス「冷たい方程式」(2011年版)、「夏への扉」(ロバート・A・ハインライン)だけだ。ブログを始める前に10作以上読んだ小松左京の作品の特徴を以下のように整理したことがあった。

<A>物体や精神が時空を超えて行き来する
<B>個人や社会が想定外の事態にいかに対応するかを描いている
<C>極大と極小の繋がり
<D>管理と本能の衝突。未来社会に風穴を開ける反抗、欲望、愛といった人間的要素
<E>環境からの逆襲

 紀伊國屋書店の文庫コーナーで見つけた「あなたの人生の物語」(テッド・チャン/ハヤカワ文庫)を読了したのだが、SF門外漢の俺にはハードルが高い作品だった。小松作品を上記のように整理したが、チャンに感じたのは<C>で、時間や空間を全体軸として捉え、細部を総合的に把握している。

 チャンは台湾出身で大学卒業後、渡米後にソフトウエア関連のライターとして活動する傍ら、中短編を発表した。寡作の作家だが、SF界で最も権威のある賞を数多く受賞しており、「あなたの人生の物語」にはキャリア前半の8編が収録されている。数学、物理学、生物学から宗教、歴史まで該博で奥深い作者の知識が反映されている。

 ♯1「バビロンの塔」はデビュー作だ。無限の高さまで建てられた塔はバベルの塔を彷彿させる。主人公は建設のために招集された鉱夫で、目的地の丸天井に辿り着いたが、そこは天国ではなく、塔近くの地上だった。主人公は天国と地上は繋がっているという神の意志に気付いた。

 ♯2「理解」の主人公は投薬によって超人的能力を得た。俺みたいな凡人は切り離した事象を一つずつ理解していくという方法を選ぶが、本作では統一的全体像を捉えることで、不可分なあらゆる分野の理解に繋がると提示されている。♯3「ゼロで割る」は数学がメーンで、<1=2>を証明してしまった女性数学者は、数学が意味をなさなくなったことに苦悩する。

 表題作の♯4「あなたの人生の物語」は二重構造になっている。女性言語学者は軍の依頼で、エイリアン(ヘプタポット)とコンタクトを取り、その思考方法を理解しようと試みる。同時並行で彼女が娘に語り掛ける言葉が時を遡行する形で綴られる。ラストで明らかになるのは、人類とエイリアンの時に対する感覚だ。人類は順次的に時を把握するが、エイリアンは過去・現在・未来を包括的に捉えている。

 ♯5「七十二文字」は錬金術と科学が共存していた時代、名辞(今風にいうと遺伝子)という聞き慣れない言葉が重要な意味を持つ。人類はあと5世代で滅びるという設定で、格差や労働者の権利など社会的な問題にも言及している。単為生殖の技術を用いて人口調整を行い、下層階級の数を抑えようとする動きに、主人公は逆らおうとする。

 ♯6「人類科学の進化」は割愛して、♯7「地獄とは神の不在なり」について。本作は「ヨブ記」をベースに信仰をテーマにしている。神の啓示によって、多くの天使が降臨し、人々に祝福や災禍をもたらす。光を纏った天使を目撃した者は視力を失うが、天国への通行証は確保する。地獄顕現も実現するが、人々は永遠の生命を得て、地上と変わらぬ生活をしている。<地獄と人間界の違いは、地獄にあるすべてのものに神が不在であるということだけ>という結びが妙に心地良い。

 ♯8「顔の美醜について――ドキュメンタリー」は複数の主観で綴られていく。美醜失念処置(カリー)義務化を推進しようとするペンブルトン大に入学した女子学生はカリーに懐疑的だが、推進派、元恋人、企業関係者、研究者と語り手は次々に変わって、人類にとって容貌の意味について語っている。ちなみに、カリーを処置しても顔立ちを見ることは出来るが、審美的な情動はなくなってしまう。それが人間の本質――精神や理想など――の理解に通じるのか……。チャンは読者に問いかけている。

 残念ながら理解に至らなかったが、自分の低いレベルに引き寄せてインスパイアされた点は多かった。第2短編集「息吹」も機会があれば読んでみたい。
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「悪い子バビー」~神とロックに導かれる人生賛歌?

2023-11-20 18:41:51 | 映画、ドラマ
 別稿(4月16日)で紹介した連続ドラマW「フェンス」がギャラクシー賞に選ばれた。キー(松岡茉優)と桜(宮本エリアナ)のミックスバディが、復帰50年を迎えた沖縄で起きたレイプ事件の真相に迫っていく。野木亜紀子の脚本は日米地位協定、珊瑚礁破壊、辺野古移設問題、沖縄を食いものにする癒着、福島原発による子供たちの被曝にまで踏み込んでいた。WOWOW制作のドラマはテーマ性とエンターテインメント性を併せ持っているが、本作は白眉といっていい。

 新宿武蔵野館で衝撃作と出会った。「悪い子バビー」(ロルフ・デ・ヒーア監督)は豪伊合作で1993年に製作された。原題“BAD BOY BUBBY”の本作は世界の映画祭で多くの栄誉に浴したが日本では公開されず、VHSのみが発売された。タイトルの「アブノーマル」が映画関係者の評価を物語っている。当時の単館ブームに乗れそうもないと判断されたのだ。

 舞台はオーストラリア南部のアデレードだ。バビー(ニコラス・ホープ)は街の一角にある廃屋に生まれてから35年間、「外の世界は汚染されている」と語る母に監禁されていた。母はガスマスクを被り、施錠をして外に出る。服従を強いられたバビーの友だちは猫とゴキブリだけだ。夜は母の性の玩具になる。

 冒頭の30分は目を背けたくなるシーンの連続で、まさに地獄の光景だ。変化が訪れるのは牧師姿の実父の登場で、母は唐突に、あれほど依存していたバビーを邪魔者扱いする。バビーは猫に続き、両親の顔をラップで巻いて死に至らしめ、危険な外に出る。ちなみにバビーには死を認識出来ず、ラップで巻いた猫の亡骸とともに行動する。本作は寓話、メタファーと捉えることが出来る。第一のテーマは信仰で、廃屋の壁には磔刑されたキリスト像が架かっており、マリアの絵が繰り返し現れる。

 バビーの耳に特殊マイクを着けて収録した音を流すなど、工夫が凝らされていた。第二のテーマは音楽で、ヘンデルや賛美歌、バイオリン協奏曲、パイプオルガンが流れていたが、メインはロックだ。ツアー中の売れないバンドと知り合ったバビーは雑用を引き受ける。ブランクを経て再会したバビーは引き寄せられるようにステージに立ち、イアン・デューリーやニック・ケイブを彷彿させるパフォーマンスで観客を惹きつける。

 バビーはパパ(実父)とバビーを巧みに使い分け、自分に掛けられた言葉を模倣し、叫びに昇華する。表現の本質に則り、善悪を超越した無垢なロックシンガーになり、コミュニケーション技術を身につける。興味深かったのはバビーの性的嗜好だ。虐待を受けた母は巨乳だが、母性への憧れがあるのが、バビーは無遠慮に女性の胸に触り、時に騒動を引き起こす。そんなバビーは理想の女性に出会った。障害者施設で働くエンジェルで、もちろん巨乳だ。

 本作のハイライトは、バビーが入居者のレイチェルを抱きしめるシーンだ。レイチェルは伝えられない気持ちを理解してくれるバビーを愛するようになる。バビーは彼女の思いを受け止めつつ、抱擁しながら耳元に囁く。「僕にはエンジェルがいる。ごめんなさい」と。バビーは究極の愛を学んでいたのだ。

 無神論者と対話したり、招かれたエンジェル宅で両親の異常な帰依を罵ったり、バンドメンバーと唐突に神について議論したりと、日本人の理解を超えた部分もあった。いかに自分の生き方を構築していくのかを問う実存主義とも通底しているのだろう。ラストは人間賛歌とも取れるが、主観はバビーではない夢なのか、それとも神の目なのか。一度見ただけでは解けない謎が残る傑作だった。
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「星に仄めかされて」~多和田葉子が描く越境者たち

2023-11-15 17:29:44 | 読書
 Youtubeにアップされた動画を見る機会が増えている。最近凝っているのは「事件記者」(島田一男原作)だ。1958年から66年までNHKで放映され、この間、日活で映画化されている。俺が見ているのは恐らく日活版で、サスペンスとしてもレベルが高く、リズムとテンポを刻むのはジャズだ。東京日報を軸に警察記者クラブに詰める4社の競争と友情が描かれ、旺盛な記者魂が警察との程良い緊張感を生む。東京が舞台だが、高度成長前の街の光景にノスタルジックな気分になる。

 多和田葉子の3部作、「地球にちりばめられて」、「星に仄めかされて」、「太陽諸島」の第2弾「星に仄めかされて」(2020年、講談社文庫)を読了した。昨年11月に「地球に――」の感想を記したが、困ったことに内容が脳から零れている。あらすじは以下のようなものだった。

 <日本は失われたという設定で、母国喪失者のHirukoはパンスカ(汎スカンジナビア語)を創出し、国境を越えながら、必要な単語を拾ったり、要らなくなった単語を捨てたりして熟成させてきた。日本語を話せる者を探して欧州を漂流するHirukoにとって、最も大切な友人はデンマークの言語学者クヌートだ>

 続編「星に仄めかされて」の主な舞台はコペンハーゲンの病院で、失語症と診断されたSusanooのお見舞いに前作で登場したキャラクターが続々訪れる。新たに担当医ベルマーと食堂で働くムンンとヴィタが加わった。ストーリーに引っ張られるというより、多和田特有の会話や語りに乗せられた感じだ。

 <多和田の小説では、言語は伝達の手段であるだけではなく、ものの本質として屹立する空間を形成している>と与那嶺恵子氏は評していた。本作を読み進めながら、的確な分析であることを改めて実感したが、面白い表現に付箋を貼っておけば紹介出来たのにと反省している。物語の回転軸になっていたのは〝ラ〟を挿入させたムンンとヴィタの会話だった。

 過去の多和田の作品に、3部作の作意を読み取ることが出来る。消滅したHirukoの祖国という設定は、3・11直後に発表された「献灯使」を想起させる。同作で日本は放射能汚染を恐れる諸外国の意思で遮断されていた。3部作のラスト「太陽諸島」では登場人物が日本を訪れるという設定なので、「星に――」の内容を忘れないうちに読むつもりだ。

 「海に落とした名前」の主人公は飛行機が不時着した際、海に名前を落としてしまった。収容された病院の医師たちの協力で自分探しをする設定は、「星に――」のSusanooと重なる部分もある。多和田ワールドの登場人物の共通点は、多様性を重視すること、いずれの場所でも疎外感を覚え、非現実的な夢を繰り返し見ることだ。

 「星に――」のテーマとして浮き上がってくるのは<ジェンダー>と<環境>だ。インド人のアカッシュは男性だが女性として生きる〝性の越境者〟だ。Hirukoとクヌートは恋人同士に見えるが、性の匂いは皆無だ。ナヌークとノラも同様で、性を超越した関係だ。2人は別々にコペンハーゲンに向かうが、結果として飛行機は使わなかった。解説(岩川ありさ)によれば、二酸化炭素を多く排出する飛行機を忌避するムードがあるらしい。

 ベルマーとナヌークの性格の交換、クヌートの母とベルマーとの恋、Susanooとムンンの血縁関係など想定外の展開が用意されていた。非日常だけどなぜかリアルだ。ラストで失語症と見做されていたSusanooが語り出す。コミュニケーションの本質的な意味を問いかける作品だった。
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「サタデー・フィクション」~魔都で蠢く恋と謀略

2023-11-10 21:01:31 | 映画、ドラマ
 前稿冒頭で斎藤幸平(経済思想家)が「報道1930」でグレタ・トゥンベリが<パレスチナと共に立つ>とボードを掲げたことを踏まえ、人種、階級、ジェンダーなどのカテゴリーが相互に関係し、人びとの経験を形づくっていくインターセクショナリティー(交差性)が世界を変える第一歩になると期待を寄せた。そのことを関連しているとは言い切れないが、保守的といわれる米ケンタッキー州の知事選や3州の議会選挙でも妊娠中絶を唱える民主党が勝利を収めた。トランプ有利とされる大統領選挙にも影響を与えそうだ。

 戦時中の現在も同様だが、第1次世界大戦後の1930年代も混沌という坩堝で煮えたぎっていた。象徴はベルリンで、映画「キャバレー」やルー・リードの「ベルリン」に描かれていたように頽廃と狂気が渦巻いていた。遠く離れた上海も、麻薬と売春が蔓延する妖しい魔都だった。両者に共通するのは文化の混淆と政治の嵐である。ベルリンではナチズムが忍び寄り、上海では様々な勢力がせめぎ合っていた。

 当時の上海を舞台にした書物は無数にある。記憶に残るのは川合貞吉著「ある革命家の回想」と「ゾルゲ追跡」(F・W・ディーキン、G・R・ストーリィ著)だ。小説ではともにブログで紹介した「ジャスミン」(辻原登)と「わたしたちが孤児だったころ」(カズオ・イシグロ)が記憶に残る。「ジャスミン」では上海在住時(1930年代)の父を主人公に据えた映画が製作中と知った息子が上海の撮影所を訪ねる。「わたしたち――」では上海租界で少年期を過ごした主人公が、孤児になった経緯を探るため上海に帰って来る。

 上海を舞台に、真珠湾攻撃直前の数日間を追ったモノクロのスパイアクションを新宿武蔵野館で見た。「上海の死」(ホン・イン)と「上海」(横光利一)の2作をベースに脚色された中国映画「サタデー・フィクション」(2019年)である。諜報戦と蘭心大劇場で演じられる芝居が交錯する入れ子構造で、現実とフィクションの境界を行き来する。芝居のタイトルは「サタデー・フィクション」(原題/蘭心大劇院)で、ロウ・イエ監督作は2月に見た「シャドウプレイ」以来だ。

 蘭心で主演する人気女優のユー・ジン(コン・リー)、恋人で演出家のタン・ナー(マーク・チャオ)、日本海軍の古谷三郎少佐(オダギリ・ジョー)を軸に物語は進行する。迷路に迷い込んだ部分もあったので帰宅後、HPをチェックして事実関係を確認する。ユーはフランス諜報部ヒューバート(パスカル・グレゴリー)の養女で、キャセイ・ホテル支配人とも協力関係にある。古谷は特務機関の梶原(中島歩)とともに、暗号更新のため上海にやってきた。フランス諜報部は古谷の亡き妻・美代子と似ているユーを接近させる〝マジックミラー作戦〟を発動する。

 各国の諜報部員が入手したかったのは日本が先制攻撃する場所で、ナチス占領下にあったドゴール率いる自由フランスも同様だった。中国も共産党だけでなく様々な勢力が角を突き合わせている。ユーに近づいてきたバイ・ユンシャン(ホァン・シャンリー)は蒋介石率いる重慶政府の諜報員だ。ユーの元夫は日本と協力関係にあった南京政府の施設に監禁されていた。

 芝居「サタデー・フィクション」はストライキを背景にしたラブストーリーで、そこにユーとタンの悲恋が重なる。美代子を誤射して命を奪ったのはユーだった。〝マジックミラー作戦〟は成功したかに思えたが、ユーが聞き出した情報を最初、ヒューバートに正しく伝えなかったのは、古谷への贖罪の意識があったのかもしれない。魔都で恋と謀略が蠢くスタイリッシュな作品だった。

 どこか冷めたユーの表情、繰り返す雨のシーン、ジャズの生演奏の余韻に浸ってスクリーンを出ると女性に挨拶される。「武蔵野館で今月中に上映される映画に出てます」とサイン入りのチラシを渡された。彼女は「水いらずの星」に主演している河野知美で、インディーズ系を中心に10本以上の作品に関わっている女優、監督、プロデューサーである。彼女の思いが伝わったので見ることにしよう。
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漫画版「サピエンス全史 文明の正体編」~ハラリが熱く語る差別とジェンダー

2023-11-06 21:51:41 | 読書
 先週、「政治は変わる! 地域からコモンをつくる」(セシオン杉並)に足を運んだ。他に書くことがあって先延ばしにしていたが今回、簡単に紹介する。全体を貫くテーマはジェンダー、コモン、ミニシュパリズムだった。

 第1部では岸本聡子区長ら杉並に変革をもたらした女性議員が壇上に登場する。第2部ではケア、公契約、脱酸素を軸に、斎藤幸平(経済思想家)を進行役にコモンの意味を問う。第3部では中島岳志(政治学者)をコメンテーターに岸本杉並区長、保坂展人世田谷区長、能條桃子(FIFTYS PROJECT代表)が地方自治の可能性を提示した。

 上記の斎藤は先日、「報道1930」(BS・TBS)に出演していた。後半でグレタ・トゥンベリが<パレスチナと共に立つ>とボードを掲げた写真が映されると、斎藤は<グレタは政治に直接関わるメッセージは発信していなかったので驚いたけど、気候、環境、ジェンダー、差別、格差は根底で繋がっている>と語り、アメリカの若い層(18~39歳)の47%がパレスチナを支持しているのは当然と付け加えた。斎藤はインターセクショナリズムが、閉塞した世界を変える第一歩になることを期待している。

 ジェンダーと差別は人類が克服出来ない課題だが、解決への道程を予感させる書物を読んだ。別稿で紹介したユヴァル・ノア・ハラリ著「サピエンス全史~文明の構造と人類の幸福」の漫画版(河出書房新社)の下巻「文明の正体編」である。上巻同様、脚本はハラリ自身で、ダニエル・カザナヴが作画を担当している。生物学や科学にも踏み込んだ人類史が、カラフルな画像とユーモアたっぷりの台詞で脳内に染み込んできた。

 〝本題〟は後半に記すことにして、まずは農業革命から。小麦や米を栽培することで人類は定住し、社会は大きく発展した……。という定説にハラリは異を唱える。安定を希求していたのに、〝改良〟というプレッシャーに追いまくられて、労働時間は増える。天災などで穀物が不作になると、狩猟採集民だった頃の経験則が失われているから、飢えが進行した。現代人が抱える肉体的な不調をもたらしたのは農業革命だったとハラリは指摘する。

 一定の生産量が確保された場合、権力を持つ者が人々から収奪し支配権を確立する。格差と階級が生まれ、農耕革命によってもたらされた既得権益を守るため、集団ごとで対立し、戦争が頻繁に起きるようになった。ハラリが指摘している興味深い視点は<アニマルウェルフェア>だ。収益第一で人間たちに暴虐の限りを尽くされてきた牛、鶏、豚、羊たちの側に立って、適正な酪農、食肉産業を本作執筆中に思考した結果、ハラリはヴィーガン(乳製品も取らない菜食主義者)になった。

 人類史に大きな発展をもたらしたのは記憶を記録するシステムだ。シュメール人は粘土板に記号を刻むことで様々な情報を保存するシステムを生み出した。アラビア数字の普及で情報保存は容易になり、世界で官僚制が整った。官僚制がもたらした神話(≒想像上の秩序)で権力者は特権を得たが、一方で底辺の人間は差別と迫害を被った。

 本作後半、差別とジェンダーがメインテーマになる。バビロニアのハンムラビ法典とアメリカ独立宣言には決定的な違いがある。だが、自由と平等を説く独立宣言も〝虚構〟に則っていた。独立宣言に署名した者のうちの何人かはアフリカ系の黒人を奴隷として所有していた。女性の自由は制限され、アメリカ社会は貧富に基づくヒエラルヒーを認めていた。

 差別とジェンダーを語るハラリの熱さに驚いた。ハラリはゲイであることを公言し、パートナーは男性である。ちなみにカナダ映画「C.R.A.Z.Y」でも描かれていたが、イスラエルはゲイに寛容な国であるようだ。ハラリは人種差別を維持した巧みな〝神話〟の虚妄を暴き、農業革命以降、女性の地位が抑えられた仕組みを考察する。

 <今の社会は完全に平等ではないが、過去100年で男性と女性、そしてジェンダーを巡る構図は流血を伴わず一変した>と述べている。ハラリは<私の仕事はサピエンスが信じる物語(虚構)の隠れ蓑を吹き飛ばすこと>と締めくくった。〝知性と理性の人〟の熱さを感じることが出来た。
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「月」~社会の底から見上げた月

2023-11-01 19:38:24 | 映画、ドラマ
 小説「列」を紹介した前稿で、相対的な評価に囚われる現代社会の問題点を記した。映画や音楽についても、<歴代ベスト100>などランキングを挙げ自らを権威付けするメディアは多く、つけ込まれているファンは少なくない。悪しき例は「ローリングストーン誌」だ。1980年前後はクラッシュなどパンクを酷評していたのに、彼らが次代のメインストリームと評価されるやランクを高めに修正している。

 何の権威もない俺も、年末に映画ベストテンを記してきたが、昨年は<映画館で今年見て感銘を覚えた作品>という風に〝姿勢〟を改めた。今年もこのスタイルでいきたい。この10カ月、多くの傑作に出合えたが、とりわけ感銘を覚えた「怪物」(是枝裕和監督)、「福田村事件」(森達也監督)に匹敵する映画を新宿バルト9で見た。「月」(石井裕也監督)である。

 長男を亡くした痛みが癒えない洋子(宮沢りえ)、昌平(オダギリジョー)の夫婦が本作の軸になっている。洋子は作家として脚光を浴びたことがあったがスランプに陥り、生活を立て直すため重度障害者施設「三日月園」で働くようになる。施設で仲良くなった職員は作家志望の陽子(二階堂ふみ)、絵が上手なさとくん(磯村勇斗)だ。4人は表現にこだわりを持っており、昌平も人形アニメーションを製作している。

 映画館に足を運んだ方は、違和感を覚えたに違いない。相模原障害者施設殺害事件に着想を得た辺見庸の原作には洋子、昌平、陽子は登場しないからだ。原作は殺人者の「さとくん」、語り手である入居者の「きーちゃん」を軸にストーリーは進行する。映画では洋子が、生年月日が同じであるきーちゃんを気に懸けるという設定になっていた。辺見の熱心な読者は、この点から本作を否定的に評価しても不思議はない。だが、忘れてならないのは、石井監督も辺見の全ての著作を読んでいる熱心なファンであることだ。

 前提は自身が老健施設に通い、母親が養護施設に入居したことだが、辺見は著作や講演会で<老いていても、障害を抱えていても、人間の価値や尊厳は変わらない>と繰り返し表明している。ハイライトシーンは、入居者の大量殺害を決意したさとくんと洋子が対峙する場面だ。さとくんに「あなたは同志」と同意を求められた洋子だが否定した。

 洋子は全編、苦渋の表情を浮かべている。第一は陽子による問い詰めだ。3・11を題材にした小説で世に出た洋子だが、「目を覆いたくなる被災地の状況や臭いが一切省略されている。薄っぺらい作品」と批判される。洋子にも言い分があり、「暗い部分も書きたい」と編集者に提案したが拒絶され、書けなくなったのだ。

 第二は高齢で妊娠したことだ。障害を持って生まれた息子は3歳で亡くなった。友人である産科医(板谷由夏)に相談し、産むか中絶するかの判断を委ねられる。<出生前の診断で異常が認められた場合、96%の夫婦は中絶を選ぶ>という事実が明かされる。さとくんによる殺害、そして中絶……。位相が異なる二つの〝殺人〟が見る側に示される。

 俺は原作読了後、ブログに紹介するのは無理と感じた。だから、「月」発刊記念の講演会を知り、解題に期待した。一度キャンセルされ開催の運びになった会の冒頭、辺見は<「月」を対象化出来なかった。脱稿後も「月」は終わっていない。閉じ込められている>(論旨)と述べていた。作者自身も苦悩していたのだ。辺見は「月」を書いた〝動機〟をメインに言葉を紡いだ。

 辺見は日本の現実を後景に据えている。引き取り手がなく、存在が消された遺体である「行旅死亡人」を施設入居者に重ねていた。<加害者であるさとくん=悪、被害者であるきーちゃんたちは善>……。洋子はこの構図に則り、<命の価値>と<誰しもが生きる権利>をさとくんに説いたが、辺見は<人間は例外なく障害者。健常者と障害者の区別はない>と考えている。

 洋子が施設に通う道は森の中で、カラスの群れが舞い、地面に蛇がとぐろを巻いている。社会から途絶し、隠蔽された場所のメタファーか。見上げた空に懸かる三日月がタイトル通り本作に通底するイメージになっていた。冒頭に示される「コレヘトの言葉」(旧約聖書)からの<なんという空しさ 全ては空しい かつてあったことはこれからもあり かつて起こったことはこれからも起きる 太陽の下 新しいものは何ひとつない>は辺見が俯瞰する日本社会の未来なのだろう。

 映画についての感想が記されているかもしれない。そう期待して辺見のブログをチェックしたら、この半月余り、イスラエルへの抗議が綴られていた。

 <かつてナチスにやられたことを〝ゲットー〟ガザに対してやっている。〝優越民族〟の自意識を〝劣等民族〟パレスチナに向けている。狂気だ>
 <執拗な病性。イスラエルによるパレスチナ人殺戮には報復以上の異常な執着がある。反吐が出る>
 <イスラエル軍事指導部はある種の〝サイコパス〟だ。ガザには何をしてもよいと思っている。皆殺しも可か。虫酸が走る>

 ガザの人たちが見上げる夜空、どんな月が懸かっているだろうか。
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