酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

混戦ムードの天皇賞~馬より騎手の「競輪予想」

2006-10-29 01:19:16 | 競馬
 ファイターズ日本一から一夜明け、水面下でさまざまな動きがあることを知った。小笠原がFAで巨人入り、ヒルマン監督レンジャーズへ、岡島はメジャー希望……。新庄祭りの後、いかなるドラマが用意されているのだろうか。

 さて、本題。秋天皇賞はバランスオブゲームの回避もあり、どの馬が引っ張るのか分からなくなった。今回は展開やペース、騎手の仕掛けどころを軸に「競輪予想」で進めることにする。留意すべきは府中の馬場だ。昨年はラチ沿いを通った先行馬が結果を出したが、今年は様相が異なる。「グリーンベルト」どころか内が荒れ、外差しが決まっているのだ。

 ペースを作るのは、腹が据わった佐藤哲(インティライミ)と中央包囲網を避けたい五十嵐冬(コスモバルク)か。安藤勝(ダイワメジャー)はバルクに気を配りながらレースを進めるだろう。北村(ダンスインザムード)にとってダイワは、ここ数戦先着を許し続けている目の上のタンコブだ。前走(毎日王冠)は安藤勝にぶつけられてひるんだ経緯もある。後ろも怖いが、ダイワを潰さぬ限り勝利のチャンスはない。意識過剰で共倒れになるとみて、両馬とも買わないことにした。

 中団以降、武豊(アドマイヤムーン)、横山典(スウィフトカレント)、福永(カンパニー)、池添(スイープトウショウ)、武幸(ファストタテヤマ)といった「武ファミリー」が勢ぞろいしている。鍵を握るのは武豊の仕掛けどころだ。スイープ鞍上の「マーク屋」池添にとって、進めやすいレースかもしれない。ちなみに武アドマイヤは、目標にされて失速するとみた。

 福永カンパニーは府中実績がいまひとつだ。レース中の不利はあったが、乗り方(位置取り)を責められても仕方ない。②番枠を利して6、7番手につければ上位食い込みもある。渋ると良さそうだし、「切ると来る」は癪だから、今回も買うことにした。前売りではスウィフトカレントが意外に人気になっている。GⅠでは信頼度NO・1の横山典が流れに乗せれば、差し脚が炸裂するかもしれない。

 結論。新庄効果に期待し、◎は道営の星⑧コスモバルク。3歳秋(セントライト記念V、JC2着)の調子は戻っているだろうか。以下、○②カンパニー、▲⑦スイープトウショウ、△⑩スウィフトカレント。馬連は⑧②⑦⑩のボックスで計6点。3連複は②⑦⑩1点。3連単は⑧1頭軸で<⑧・②・⑦・⑩><⑧・②・⑦・⑩><⑧・②・⑦・⑩>の計18点。

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ドアーズの真実~一線を越えた者たち

2006-10-27 00:33:13 | 音楽
 <僕は時々想う この世界で一番幸せな人を 何を手に入れたら感じられる 何処にもいないさ そんな人は>……。ファイターズ日本一の瞬間、ブランキー・ジェット・シティの「幸せな人」が頭をよぎった。「幸せな人」とはもちろん新庄である。謹慎中の金村をメールで励ますなど、新庄は求心力としてチームにプラスαを生み出した。熱さと温かさが伝わってくる最高の「ジ・エンド」だった。

 さて、本題。先日、NHK衛星でドアーズの60年代のライブが放映された。メンバーの証言や当時のインタビューもあり、知られざるバンドの真実に触れることができた。1stアルバムの1曲目「ブレーク・オン・スルー」には「トゥ・ジ・アザーサイド」の副題が付いている。ドアーズは<一線を越える>ことを身をもって示したバンドだった。

 <「イエスタディ」が流行っていた頃、俺たちは「ヘロイン」を歌っていた>……。これはヴェルベット・アンダーグラウンドを率いたルー・リードが、得意げに語った言葉である。ロックを抵抗の武器に磨き、アートの領域に引き上げたのはアメリカのバンドの功績である。大衆的な人気をも獲得したドアーズは、代表格というべき存在だった。

 才気溢れる若者が全米から集うUCLA映画学科で、ドアーズは産声を上げた。ジム・モリソンの悪魔的なボーカルとレイ・マンザレクのキーボードが肝といえるが、ストーンズやフーと比べるとライブでのインパクトは小さい。今回の番組でドアーズがパフォーマーとして成熟できなかった謎が解けた。「反体制」と「風俗紊乱」のレッテルを貼られたドアーズは、徹底的に締め出しを食らったことで、演奏機会が限られていたという。

 モリソンの変死で実質的な活動は4年だったが、<歌詞>を<詩>に高めたモリソンの志向やサイケデリックなサウンドは、その後のロック界の指標になった。DNAはパティ・スミス、ストラングラーズ、エコー&バニーメンを中継し、21世紀のパンドたちにも宿っている。かのトム・ヨークも「エニイワン・キャン・プレイ・ギター」で、「ジム・モリソンになりたい」と叫んでいた。

 ストーンズは「エド・サリバンショー」に出演した際、規制通り歌詞を改変したが、ドアーズは約束事を本番で破り波紋を広げた。ドアーズだけでなく<一線を越えた>バンドたちは、アメリカで厳しい弾圧を受けたが、ジョン・レノンもFBIの監視下にあった。「イマジン」がいまだに放送禁止なのは、レノンがラディカルと見做されているからである。

 昨年の話だが、ブレアの掌で踊らされた「良い子ロッカーたち」には心底腹が立った。「イマジン」は「ライブ8」の最後に合唱されるべき曲だが、メジャーレーベルの飼い犬たちに、<一線を越える>勇気など期待できない。だが、モリソンやレノンの反骨を受け継いだロッカーは少なくない。有名どころを挙げれば、マニック・ストリート・プリーチャーズ、モリッシー、パール・ジャム、デーモン・アルバーンといった面々だ。ドアーズの精神は世紀を超えても生き続けている。

 最後に、スカパーで放映された「ブラックリスト」の感想を。<日本のイギー・ポップ>大江慎也が、チバ、ベンジーと同じステージに立っていた。ドラムは池畑で、ルースターズ時代の曲にはジーンときたが、大江は晩年のモリソンのように丸々太り、膨らんだ顔は武田鉄矢によく似ていた。若い頃から太っている俺に、とやかくいう資格はないけれど……。


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デラシネ男は回帰する?

2006-10-24 00:48:47 | 戯れ言
 故郷を出て30年。東京砂漠を漂流し、副都心のコンクリート函が今の棲家だ。花実もならぬデラシネ(根なし草)だが、不幸と感じたことはない。

 デラシネは決して群れないが、最高の友がいる。ディスコミュニケートのコミュニケートを可能にする、インターネットという利器である。仮想ではなく現実の絆の意義を説く識者は多いが、ナイーブな者にとり、集団は家族であっても居心地は悪い。独居老人より同居老人の方が自殺を選ぶ確率は高いという統計がある。いじめが社会に横行する現状において、ニートは「自死回避手段」といえぬこともない。

 俺はなぜデラシネになったのだろう? 第一の理由は<集団幻想への違和感>である。学生時代、大学当局と対立する活動家でさえ、スポーツイベントになると<学校ナショナリズム>に浸っていた。同志社ラグビーを応援する俺など「非校民」扱いだった。暗い資質はライブで顕著に表れた。会場の熱狂と反比例して醒めてしまう。こんな俺を<狂気の淵>に追い詰めたエコー&バニーメン(80年代限定)、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン、ミューズらは、実に偉大なパフォーマーである。

 デラシネ第二の理由は、常に別の選択肢を用意している<スキゾ人間>であること。音楽、映画、文学、スポーツとアンテナを張り巡らせることによって、生きるというより生かされている蜘蛛男なのだ。スポーツの楽しみ方も実にいい加減だ。反グローバリズムを支持しているが、最もアメリカ的なNFLとWWEを追いかけている。クラシコではもちろんバルサを応援したが、ファンニステルローイがゴールを決めてレアル勝利が濃厚になるや、オランダサポーターの部分が頭をもたげ、「まあ、いいや」と矛を収めてしまった。

 10代の頃は、演歌やニューミージックのウエットなメンタリティーに近かった。東京での30年は情感を濾し取り、湿度を下げ続けた日々だったと思う。身軽で乾いたデラシネとはいえ、いずれは土に還る。潤いを取り戻してから眠るのも悪くはないが、冷血から温血に戻るエネルギーを蓄えるのは難しい。

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「風の歌を聴け」~ディープ騒動渦中の菊花賞

2006-10-21 01:02:09 | 競馬
 ディープインパクトの薬物疑惑に衝撃が走った。真相究明は必要だが、JRA理事たちの官僚的なコメントがファンの怒りを買っている。

 凱旋門賞の敗北でディープ陣営に亀裂が生じたとみるのは下衆の勘繰りだろうか。天皇賞を使いたいオーナーと自重したい厩舎サイドが折り合わず、宙ぶらりんだったマルカシェンクは菊花賞出走に踏み切った。ムラ社会の競馬サークルでは珍しい事態で、マルカが大本命メイショウサムソンと同厩舎というのも因縁めいている。人間界のざわめきに馬たちが感応すれば、菊花賞が波乱の結末になる可能性もある。

 京都3000㍍で開催される菊花賞は、ステイヤーの血が開花する舞台といえる。下位人気で制したタケホープ、グリーングラス、ミナガワマンナ、ホリスキー、メジロデュレンらは、古馬になってもGⅠ戦線を賑わせた。ここ5年もディープ以外、マンハッタンカフェ、ヒシミラクル、ザッツザプレンティ、デルタブルースらが、5~10番人気で資質を爆発させている。

 日本伝統の重厚な血脈を受け継ぐメイショウサムソンの評価は高い。他に距離適性で注目するのは、ステイヤーの血が母系に流れるソングオブウインドだ。「風の歌」という村上春樹の処女作を連想させる馬名が洒落ている。正統派の兄豊と違い異能派のイメージが濃い武幸だが、先行して粘り込む神戸新聞杯(3着)の戦法がベストだろう。

 <凱旋門賞⇒秋華賞>で連続パンチを食らった武豊が、アドマイヤメインでいかなるペースを刻むのか注目している。有馬記念(中山2500㍍)ならディープよりメイショウの方がコース適性は上だ。菊花賞でメイショウの勢いを削ぎたいというのがディープの主戦、武豊の本音だろう。横山典で勝負を懸けるドリームパスポートは、フジキセキ産駒ゆえ距離克服が課題だ。奇をてらわず後方で待機するだろうが、逃げを打ったアドマイヤと追いかけたメイショウがともに失速すれば、先頭ゴールのシーンが現実になる。

 結論。本命◎⑫メイショウサムソン、○⑱ソングオブウインド、▲⑬ドリームパスポート、△⑤アドマイヤメイン。馬券は単勝⑱、馬連⑫⑱、ワイド⑫⑱。3連単は⑫⑱軸で<⑫・⑱・⑬><⑫・⑱・⑬・⑤><⑱・⑬・⑤>の7点。

 メイショウ鞍上の石橋守に親近感を抱いている。俺みたいに冴えない風采で、レース翌日に40歳を迎える独身男だが、朴訥とした人柄ゆえ後輩たちに慕われている。そういや、俺が買う4頭の騎手は全員「武ファミリー」だ。武幸は当然だが、石橋は「武豊TV!」の常連だし、横山典は武豊の飲み友達だ。結果はどうあれ当日夜、弟分の福永や池添らも合流し、「武ファミリー」の酒宴が開かれるのだろうか。
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五十路雑感

2006-10-18 00:10:10 | 戯れ言
 先日(15日)、五十路に突入した。今の俺は<晩年気分>で、煩悩を削ぎ落とし、淡々と生きることを目標にしている。俺のような凡人にとって、人生とは可能性を消しゴムで消していく過程なのだ。

 俺程度の人間が新宿近くの屋根付きに棲んでいること自体、奇跡以外の何ものでもない。社会的不適応に加え、1合目から2合目に進むのに時間のかかる鈍臭い人間なのだ。会社なら長い目で見てくれるが、フリーは即対応しないと評価されない。俺みたいに周囲に情けや我慢を強いるタイプは、フリーにならない方がいいだろう。

 番組テロップ、商業印刷、マニュアル、PR誌、カタログ、雑誌(海洋関係、パソコン関連)、テレビ番組誌、問題集、在宅校正(小説、料理関連、漫画)、フリーペーパー……。この半年フリーとして担当した仕事を挙げてみた。それぞれの現場にはルールがあり、進め方も筆記用具も違う。異分野での長い経験は、留意するポイントが偏ってしまうため、マイナスに作用することさえあった。

 フリーには体力も必要だ。早朝から深夜まで始業時間はバラバラだし、在宅校正とバッティングしたら寝食を忘れて働かざるをえない。フリーになるなら、気力と体力が充実した30代までがいい。俺と違って有能で営業力があれば、高収入も可能な業界だ。もちろん俺は多くを望まない。自らの至らなさが身に染みているからだ。

 最近のキーワードは「感謝」と「礼節」である。ともに勤め人時代には縁のなかった言葉で、いまだ血肉化していない。俺の<晩年>はせいぜい20年ほどだろうが、新しい言葉を少しずつ心に刻んでいきたい。「矜持」「寛容」「情義」あたりが候補である。

 ウーン、ジジ臭い。自分でもそう感じるくらいだから、読まれている方は鼻をつまんでいるに違いない。進取の気性は目立って衰えてきたが、体も死臭を纏い始めているのだろうか。

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秋華賞はブルーメンから~勘違いも初志貫徹

2006-10-15 00:21:17 | 競馬
 「飲む」「打つ」「買う」は江戸っ子のたしなみらしいが、こちとら軟弱な京男ゆえ、いずれの方面も捗々しくない。「飲む」はコップ2杯のビールで眠くなるし、「打つ」も毎年せっせとJRAに寄付している。「買う」を女性一般との付き合いに敷衍するのは気が引けるが、50歳にして独身という現実が苦手の証明だ。

 博才がなく女心も掴めぬ俺が、牝馬3冠の掉尾を飾る秋華賞を的中できるはずもない。理屈をこねるのはやめ、閃きで「青い男たちの血」を選んだつもりが、確定枠順を見て勘違いに気付いた。「ブルーメンブラッド」ではなく「ブルーメンブラット」、すなわち「花びら」(ドイツ語)という意味だった。ガチョーンだが、レース名の「華」には「花」とこじつけ、初心を貫くことにした。

 ブルーメンの兄姉はそれぞれの父の血統から短距離で使われているが、手前勝手に解釈すれば、父の血が素直に反映されるということ。父がアドマイヤベガなら内回り京都2000㍍は守備範囲と信じたい。昨年のエリザベス女王杯、オースミハルカを駆って2着に逃げ粘った川島騎手の思い切りに期待する。

 馬券は⑥ブルーメンブラットから馬連5点。①キストゥヘヴン、⑤フサイチパンドラ、⑨アドマイヤキッス、⑫カワカミプリンセスの実績馬に加え、得体の知れぬ⑬サンドリオンにも流す。3連複は⑥と⑨2頭軸で①⑤⑫⑬の4頭を絡めたい。

 最後に、当たらない予想を幾つか。

 <その①=ディープインパクトはもう勝てない> JC⇒有馬のローテだろうが、凱旋門賞で敗れた心身のショックが尾を引き、風船が萎んだように失速する。

 <その②=日本ハムが日本一> パのプレーオフを見る限り、ロッテを含めた「4強」の競り合いを制した日本ハムのしぶとさはかなりのものだ。

 <その③=安倍政権は長持ちする> 池田大作氏との強い絆が発覚した。参院選では「自由創価党」として勝ち残るだろう。保守層との亀裂から自滅する可能性もなくはないが……。

 <その④=村上春樹氏はノーベル賞を取れない> 「民衆の側に立つ」とか「反グローバリズム」とか、ノーベル賞には政治的ポーズと、大江健三郎氏が実践した周到な根回しが必要だが、当人にそこまでする気はないと思う。

 秋華賞を含め、全部ハズレだろうな。

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「テロルの決算」~浅沼暗殺から36年

2006-10-12 01:03:23 | 社会、政治
 「昭和史全記録」(毎日新聞社)を眺めていると、狐につままれた気分になることがある。例えば1960年……。安保闘争を先導した浅沼稲次郎社会党委員長は36年前のこの日(10月12日)、山口二矢の凶刃に斃れる。実況中継された演説会でのテロは、3年後のケネディ暗殺に劣らない衝撃を与えた。

 追悼集会が全国で開催され、反テロを掲げたデモに数十万の国民が加わる。翌月の総選挙は社会党にとって弔い合戦のはずが大幅減で、分裂した民社党と合わせても前回を4議席下回った。意外な結果に思えるが、当時の世論の流れは、「テロルの決算」(沢木耕太郎著)にも記されている。浅沼の死は、池田首相の<所得倍増計画>に吹き飛ばされてしまったのだ。

 闘士のイメージが強い浅沼だが、無産政党から代議士に当選したものの、転向の先陣を切った。国家総動員審議会委員、聖戦貫徹議員連盟幹事、翼賛議員連盟理事と禍々しい肩書が、変節を物語っている。死ぬまで皇室崇拝者だった浅沼が<左翼の箱>に分類されていること自体、歴史の悪戯だが、対照的なのは<右翼の箱>深くに仕舞われている北一輝だ。北は徹底した反皇室主義者で、武力革命成功後、<木偶>としての天皇を使い捨て、民主主義社会に移行する道筋を想定していた。アジア連帯を掲げ、中国革命実現に奔走した時期もある。

 浅沼は訪中時(59年)、いきなり初心に帰った。かつて中国侵略を煽ったことへの贖罪、毛沢東への敬意もあっただろうが、「アメリカ帝国主義は日中人民の共通の敵」と演説し、波紋を広げた。大言壮語の既成右翼に心底絶望していた二矢は、<同根>として親近感を抱いていた浅沼の豹変に激昂し、抹殺を決意する。

 暗殺の瞬間を捉えた写真は、「子連れ狼」の鮮烈なラストに重なる。柳生烈堂は大五郎を刃ごと導き、「我が孫よ」と抱き上げる。<烈堂―大五郎>と<浅沼―二矢>……。殺す者と殺される者の背景には、相似形の宿命のドラマがあった。自らを罰したいと願っていた浅沼にとり、純粋な意志に衝き動かされた二矢こそ、この上ない暗殺者だったのか。

 善玉の浅沼に対し、徹底した悪役は岸信介首相だった。ファッショ的議会運営で悪名を独り占めした岸首相の退陣も、自民党にとって<毒消し効果>があったはずだ。孫の安倍首相は「村山談話」のみならず、従軍慰安婦をめぐる「河野談話」も政府として踏襲すると明言した。昵懇とされる池田大作氏のアドバイスといわれるが、右派からみれば許し難い豹変と映るかもしれない。ひ弱なイメージが拭えない安倍首相だが、祖父の血を継ぎ、<平成の妖怪>に化ける可能性も出てきた。今のところ「のっぺらぼう」だが、本性むき出しの「かまいたち」に転じる日が来るかもしれない。

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街での音楽との接し方

2006-10-09 02:14:21 | 音楽
 <聴覚世界で一つの音がただのノイズかはたまた助けを求めている人びとの悲鳴か、あるいは、人工的「虚音」か本然的「実音」かを聴き分けるのがほとんど不可能になってきた>……。これは辺見庸氏の「自分自身への審問」の一節である。

 電車内でも街中でも、イヤホン着用者を多く目にする。チャリンコ暴走族もいるから危険極まりない。かく言う俺もある時期、CDウォークマンを愛用していたが、1年ほどで携帯をやめた。混ざり合った「虚音」と「実音」が耳障りの悪いノイズと化したのが第一の理由だ。

 長く音楽に接していると、リズムやメロディーが脳や皮膚に刻まれてくる。満員電車ではレディオヘッドの「OKコンピューター」収録曲、爽快ならオアシス、苛々してきたらレイジやパンク、仕事が捗っている時はマーラー、雨の日はミューズ、物思いに沈む時はマイルス、夢想するならキュアー……。状況と街の音、内面と気分が感応し、心に流れる曲は異なっている。

 アメリカではPODの普及でここ5年、CDの売り上げが20%減という。米タワーレコード倒産も時代を象徴するニュースだった。莫大な投資に見合うセールスを記録したロックアルバムは、最近ならグリーンデイの「アメリカン・イディオット」ぐらいではないか。ニルヴァーナやパール・ジャムらがアメリカだけで1000万枚を売り上げた90年代初期が、奇跡のように思えてくる。

 この40年、レコート⇒CD⇒PODとツールは軽量化し、聴き方も変わってきた。数万円のイヤホンが売れるなど音楽のテイクアウトも進化したが、「実音」と断絶された「虚音」に浸る気はしない。ラジオで音楽と出合ったアナログ世代ゆえ、「実音」に即した「虚音」を内側で奏でつつ、街を歩きたいと思う。

 俺は見知らぬ人から、頻繁に道を尋ねられる。いわば「市民おまわりさん」だが、イヤホンを着けていたら敬遠され、数少ない自慢のタネをなくしてしまうに違いない。

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バンドの持つ意味~ベンジーとジプシーズ

2006-10-06 13:48:44 | 音楽
 タワレコで浅井健一(ベンジー)のソロ“Johnny Hell”とロックンロールジプシーズの“Ⅱ”を購入した。思い入れが強い中年ロッカーたちの作品である。

 “Johnny Hell”はJUDEの“Zhivago”やシャーベッツの“Natural”の延長線上で、鋭くて繊細、重く沈んだ音が心地よい。照井利幸と椎名林檎の参加も話題になったが、ベンジーはなぜ、ソロの形を選んだのだろう。今のベンジーは、ブランキー・ジェット・シティ時代の暴力性やザラザラ感を削ぎ落としている。JUDEやシャーベッツはベンジーにとって濾紙だったかもしれないが、ライブバンドとして成熟しつつあったJUDEの活動停止は残念でならない。

 ロックンロールジプシーズは、花田裕之、池畑潤二、下山淳の旧ルースターズのユニットだ。今や伝説になったルースターズだが、辛酸を舐め続け不遇のうちに消えたバンドだった。フジロック04でオリジナルメンバーが結集し、「解散ギグ」を行ったのは記憶に新しい。大江慎也脱退後の後期ルースターズを最強ライブバンドに押し上げたのは、下山の功績である。その下山をフジのステージで5人目に加えなかったことに、俺は今も納得していない。

 アルバム「Ⅱ」だが、さすが俺と同世代、野心などサラサラなく、花田の武骨さとあけすけさを前面に、音楽を楽しんでいる感じが窺える。今のバンドが、彷徨い続けたロックジプシーたちの終の棲家かもしれない。大江や柴山俊之が曲作りに参加しているのも<情>や<絆>を感じさせるし、付録のライブDVDも感慨深かった。池畑の豪椀は二十数年前と変わらないが、花田の後退気味の髪、毒々しさが消えた下山に、年月の流れをしみじみ感じた。来月下旬のライブでは、メンバーだけでなくオールドファンとの再会も楽しみにしている。

 四十すぎのベンジーは<閉じられたイメージの世界>に純化し、五十前の花田たちは<緩やかな連帯>を求めているのだろう。<刹那>より<継続>が課題になる中年ロッカーたちが、何を志向し、いかに生き延びていくのか、同じく晩年を生きる者として見守っていきたい。

 14日にフジ721で「ブラックリスト」が放映される。大江+池畑+渡辺圭一の<ルースターズ+JUDE>のユニットが、ベンジー、バースデー(チバの新バンド)と共演する。録画を忘れないようにしよう。

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「ベルリン、僕らの革命」

2006-10-03 00:36:49 | 映画、ドラマ
 WOWOWで録画しておいた「ベルリン、僕らの革命」(04年)を見た。ダニエル・ブリュール主演ゆえ、別稿(昨年4月26日)に記した「グッバイ・レーニン!」(03年)の続編というイメージを抱いていたが、質の高さで一歩も譲らない作品だった。

 知的なヤン、行動的なピーター、その恋人ユールの3人は、反グローバリズムを掲げるグループに属している。閉塞感が漂う<昼の革命>に比べ、<夜の革命>は異彩を放っていた。ヤンとピーターの<エデュケーターズ>は豪邸に忍び込み、誰も傷つけず何も盗まず、大胆な模様替えを楽しんでいた。血と暴力が付きものの<革命>とは遠く、ユーモアと創意に満ちた<マニフェスト>に近い活動といえるだろう。

 偶然が重なり、ブルジュワのハーデンベルグが3人と行動を共にすることになる。鉄面皮に思えたハーデンベルグの過去が明らかになるにつれ、ヤンたちと世代を超えた連帯感が芽生えてきた。<青春>とは、<愛>とは、<革命>とは……。大自然の中、ストーリーはテンポをスローに落としつつ、瑞々しく鋭い問いを発していく。

 感想は世代によって異なるはずだ。<人は老いるにつれ汚れていく>と考える若者は結末を受け入れるだろうし、ハーデンベルグと年齢が近い人はやるせなさを覚えるかもしれない。五十の大台が迫った俺にしても、<再チャレンジ>ではないけれど、人生に<回天>が訪れることを願っているからだ。

 音楽と映像のコラボで心に残るのは、ジェフ・バックリーの「ハレルヤ」が流れる中、ストーリーが終息に向かう部分だ。癒しと再生を伝えるシーンが夭折したバックリーの生き様と重なり、極上のセンチメンタリズムに浸れる十数分間だった。エンドタイトルでは、蹉跌を乗り越えたヤンたちの<革命>の継続が象徴的に示されている。恋愛映画の煌きと奥深い社会性を併せ持ち、現代版「突然炎のごとく」の賛辞に相応しい傑作だった。

 ドイツ絡みで、別稿(8月26、29日)に記したギュンター・グラス騒動その後を紹介したい。欧米ではグラスの勇気を讃える声が起こり、ワレサ氏も矛を収めた。真摯で悔恨に満ちた作品のトーンが、読者に感銘を与えたに相違ない。本作でハーデンベルグが<僕らの革命>に加われたかは秘すが、老境のグラスはあえて<革命>を試みた。敵は皮肉なことに、過去の自分自身だったのだが……。

 最後に、ディープインパクトの敗戦について。前稿で<逆もまた真なり>と書いた通りの結果に終わってしまった。楽観論が渦巻く中、「競馬予想TV!」でお馴染みの水上さんと亀谷さんが厳しい見解を示していたのはさすがである。<トニービンは白人的な耐久性、サンデーサイレンス(ディープの父)は黒人的なスピード>……。この分析は亀谷さんが先週の番組で紹介した吉田照哉氏(社台代表)の分析である。80年代以降、凱旋門賞の冠を引っ提げ輸入された種牡馬で、唯一成功したのはトニービンだった。

 日本と欧州では、求められるサラブレッドの資質が違うのだ。FⅠマシンが耐久レースに出場することはありえない。ディープは競馬界に<革命>を起こせなかったが、陣営の志の高さに敬意を表したい。

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