酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

春の雑感~ガラバゴス化、反原発集会、桜、球春、猫

2021-03-31 20:38:21 | 独り言
 世界男女平等度ランキングが発表され、日本は120位で韓国102位、中国107位を下回った。<同性婚を認めないなど日本はジェンダーへの理解が乏しい>が先進国の一般的な認識だ。莫大な供託金は世界で希だし、EU加盟の条件の死刑廃止は程遠い。日本は<世界標準>に背を向けたガラバゴス国家になってしまった。

 供託金違憲訴訟では裁判長の姿勢にも呆れかえった。宇都宮健児氏が団長を務める原告側弁護団はOECD加盟37カ国の供託金の現状を提示したが、<先進国で不要な供託金も日本に適している>という政府におもねった判決を下した。〝有象無象が立候補すれば選挙は成り立たない〟という民主主義にそぐわない俗論と同じだ。

 先週末、「さようなら原発 首都圏集会」(日比谷野音)に参加した。ソーシャルディタンスを保つため1300人に制限されており、開会15分前に着いたら残り10人ほどでぎりぎりセーフだった。集会は1時間弱、デモのコースも東電前、銀座、鍜治橋駐車場前とコンパクトだった。

 原発関連のニュースが相次いでいる。水戸地裁は日本原電に東海第二原発の運転差し止めを命じた。規制委はテロ対策不備で柏崎刈羽原発への核燃料搬入を禁じる。危惧されていた通り、福島第一原発事故で生じた汚染水を溜めるタンクが限界に近づき、海への放出が現実になろうとしている。

 福島原発事故がもたらした惨禍を直視し、<この国を変えるための分岐点になる>と希望を抱いた人たちもいた。俺もそのひとりだが、分岐点どころかバルブは閉じられ社会は閉塞する。永田町と霞が関に漂う腐臭は、モラル欠落、政治の私物化が主成分だ。エネルギー政策の転換と情報公開に舵を切っていたら、日本はガラパゴス化を止め、世界標準に近づいていたのではないか。

 世界がコロナ禍に喘ぐ今、政府は五輪開催を諦めていない。五輪誘致の決定打となった<アンダーコントロール発言>が事実無根であることが明らかになった以上、安倍前首相は国民の前で謝罪すべきだ。<コロナに勝った証しとして五輪を開催する>も虚言で、費やした巨費が復興に回っていたら、東北の風景は別のものになっていただろう。

 金曜恒例の国会前の反原発デモが3月末で休止となった。参加者が減少し、資金難になったことが最大の理由という。俺は自分への叱咤を込めて<今必要なのは怒り>と記してきた。閑散としたデモコースを虚しさを覚えつつ歩いた後、満開の桜を愛でる。新青梅街道、哲学堂公園、中野通りは俺にとって最高の桜スポットだ。認知度が低く観光地化していないから、町行く人ものんびり楽しんでいる。

 四季折々の移ろいに感応するようになったのは、会社を辞めた40代後半になってからだ。3・11と1年後の妹の死により、無常観が体内に一層染み込んできた。65歳になり、厚生年金に加え国民年金を受給出来る今年10月は、生き方を変える時機かもしれない。<自殺防止ボランティア>も考えているが、選考には通らないだろう。運だけで人生を乗り切った俺に、的を射たアドバイスは難しそうだ。

 プロ野球が開幕し、センバツはあす決勝を迎える。中高生の頃は一年で一番、心がときめく日々だった。当時は巨人ファンで、教室で拮抗する阪神ファンとの丁々発止が楽しかった。浮気性の俺は上京するやアンチ巨人に転じ、広島、近鉄と贔屓を変える。熱烈というわけではなく、この20年は何となく横浜を応援している。

 ベイスターズは最悪のスタートになったが、<やせ蛙 負けるな一茶 これにあり>の心境でゆったり見守りたい。外国人選手は来日しているが、出場するまでに時間はかかるだろう。50勝ぐらい出来れば御の字だと思うし、負けが込んでも腹は立たない。

 別稿で、「岩合光昭の世界ネコ歩き」(NHK・BSプレミアム)を奥さんと楽しんでいる友人について記した。彼の影響か再放送(BSプレミアム)を毎週見ているうち、猫についての感じ方が変化した。日本の猫番組では狭い空間で、愛玩動物としていかに可愛いかがテーマになっている。でも、岩合が撮る猫の環境は全く異なる。

 猫たちの行動範囲は実に広い。仲間と森に入り込んで遊んだり、狩りをしたり、海岸線まで1㌔を往復したり……。人々にとって猫はペットではなく仲間であり友人なのだ。驚いたのは親和性で、馬、牛、羊、山羊を飼う牧場で重宝されている。〝猫の手も借りたい〟というが、彼らは牧場で癒やしと和みをもたらす仕事人で、ともに暮らす犬とも仲良しだ。

 都市部ではキャットフードが多いが、牧場では牛や山羊の生肉や乳を与えられている。海辺では採れたての魚の切れ端をおいしそうに食べていた。自然の中、恋を謳歌している気配も窺える。自由で野性的かつ人懐っこい姿を見て、日本で暮らす猫たちが不幸に思えてきた。老後、猫を飼おうかなと思っていたが、気持ちが揺らいでいる。

 取り留めない雑感を記したが、読書が進まなかったための泥縄という。次稿ではヘビーな小説を紹介したい。
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「異邦人」~カミュとヴィスコンティのコラボが突き付ける自由の意味

2021-03-27 22:32:03 | 映画、ドラマ
 読書が習慣になったのは高校生の頃だ。夏目漱石、芥川龍之介といった古典、松本清張が入門編も、スノッブの同級生の影響を受けて高橋和己の「我が心は石にあらず」を読んだ。当時はピンとこなかったが、大学入学後、本格的に読み始めた。

 若い頃、高橋を耽読したことで知られるのが佐川宣寿元国税庁長官だ。初心を思い出しての〝逆噴射〟を期待するむきもあったが、心は〝石〟のままだった。佐川氏にとって教養に過ぎなかった高橋だが、俺にとって世界の捉え方を根底から変える熱を秘めていた。

 20歳前後で読んだのがカミュの「異邦人」(1942年)だ。新宿で先日、ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画版「異邦人」(67年)を見た。カミュとヴィスコンティの芸術の薫り漂うコラボで、主人公のムルソーを演じたのはマルチェロ・マストロヤンニである。当時は英語版で、本作はイタリア語によるデジタルリマスター版として公開された。

 カミュはフランス統治下のアルジェリア出身で、本作と「ペスト」はともに同国が舞台だ。カミュは1940年、ナチスが占領したフランスにジャーナリストとして渡る。アルジェリア戦争がフランスの若者に残した深い傷痕は「死刑台のエレベーター」(56年、ルイ・マル監督)の背景にもなっている。

 冒頭は有名なムルソーのモノローグ「きょう、ママンが死んだ」だ。訃報を受けてムルソーはバスで養老院に向かう。後に法廷シーンで検事に追及されるが、涙を流さず、霊安室でたばこを吸うムルソーは、冷淡で情に欠けるという印象を周りに与えた。お通夜に集まった老人たちの表情を追うカメラワークにヴィスコンティの真骨頂を見た。

 葬儀翌日の行いも、公序良俗に反するものだった。海水浴場で元同僚のマリー(アンナ・カリーナ)と再会し、一夜をともにする。手鏡に映ったマリーの謎めいた表情が印象的だった。同じアパートに住むヒモ同然のレイモン(ジュルジュ・ジェレ)に手を貸したことが事件の発端だった。アラブ人の娼婦を殴ったレイモンは、彼女の弟に付きまとわれることになる。

 カミュはノーベル文学賞を43歳で受賞したが、フランスでは騒がれなかった。その一つの理由は、敵が多かったことである。本作でムルソーは雇い主に「パリに支社を置きたいので、行ってみないか」と提案されるが断り、「夢はないのか」と尋ねられ、「昔はありました」と答えた。その言葉にカミュ自身の経験が重なっている。カミュはかつて関わった共産党の独裁的体質に批判的で、そのことがサルトルとの対立を生んだ。

 カミュは共産主義だけでなく、実存主義にも疑問を抱くようになる。本作に描かれているのは愛とキリスト教への不信だ。マリーに「愛している?」と問われ、「愛していない。でも、君が望むなら結婚する」と答えた。キリスト教に人生を捧げている検事に「神を信じない」と述べたことで、論告は決定的に不利になった。

 ヴィスコンティのカメラワーク、原作を引用したテロップとナレーション、マストロヤンニら名優たちの演技に紡がれた本作の回転軸は炎暑で、「太陽が眩しかった」というムルソーの殺人の動機にリアリティーを覚えた。ムルソーの殺人にシーンにインスパイアされたのがロバート・スミス(キュアー)で1979年、「キリング・アン・アラブ」(邦題「異邦人」)を発表した。ここ10年は歌詞を「キリング・アナザー」や「キシング・アン・アラブ」に変えてステージで披露している。

 ドストエフスキーの小説の肝は対話だが、本作でも死刑を間近に控えたムルソーと教誨師とのやりとりは重要な意味を持つ。ムルソーは懺悔を拒絶し、イエス・キリストのように、刑場で多くの人々の罵声を浴びることを願う。母とアラブ人、そして自身を重ね、普遍的な死を見据えたことで自由を獲得した……という論理を理解することは、俺には出来なかった。

 「ペスト」では神との距離感が少し異なる。神と民衆の仲介者だったバヌルー神父の存在が大きかった。だが、「異邦人」同様、原罪とは何か、孤独とは何かという深遠なテーマと不条理を提示している。観賞後、虚脱感と喪失感を覚えた。老い先短い俺だが、「異邦人」を再読し、世界、自由、死の意味を考えてみたい。
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6000日の〝奇跡の軌跡〟~俺にとってブログの意味とは

2021-03-23 22:30:00 | 独り言
 テーマが見つからず困っていたら一昨日(21日)、ブログ編集ページ左上に目に留まった。<開設から6000日>……。本稿は6003日目の更新ということになる。意志薄弱の俺がよく続いたもんだと、我ながら感心している。〝奇跡の軌跡〟を簡単に振り返りたい。

 自他共に認めるお喋り男がブログを始めたきっかけは、退職を決めたからだ。辞めた理由は、<このまま管理職を続けていたら、俺はきっと壊れる>……。もともと社会的不適応者の俺は、組織には適さない。さらにいえば、上から目線で後輩たちを指導するなんて、悪い冗談なのだ。

 勤め人時代、後輩たちを頻繁に飯に誘った。奢るのは当然で、彼らは俺話を聞く傾聴ボランティアと受け取っていたはずだ。会社を辞めれば、話すことも出来ない……。そう考え、自分を発散するツールとしてブログを始めたが、読者は当初、1桁だった。弱小ブロガーも数にこだわる。何とか訪問者数を増やそうと策を弄した。

 ミクシィで足跡を残したり、競馬ブログにトラックバックを送ったり……。ミクシィ会員の何人かがブログ読者になってくれたことに感謝している。競馬の方だが、俺のブログは雑食性だから、競馬ブロガーに敬遠されたのは仕方ない。テーマがバラバラだから求心力を得ることは出来ないし、文章だけでビジュアル的魅力はない。寄りつきが悪いのも無理からぬところだ。

 それでも時折ブレークする。郵政解散前後、小泉純一郎元首相に批判的な文章を綴っていたら訪問者数が急増する。当時、自民党サポータークラブが生んだとされるネット右翼がSNSを闊歩していた。ブログ訪問者の多くはパトロール隊で、南京大虐殺、従軍慰安婦について記し、自己責任論を批判したら。脅迫めいたコメントが送られてきたこともあった。

 次なるブレークは別稿(3月11日)に記した東日本大震災と福島原発事故関連で、多くの方が共感してくれた。その後は低空飛行が続くが、公開初日に見た「主戦場」でバブルが弾けた。2年前の4月のことだが、このバブルの主成分は同作に憎悪を抱く日本会議の支持者だと思う。そして昨年、最大のバブルが降ってきた。緊急宣言による〝ステイホーム・バブル〟である。

 読者数の乱高下とは関係なく、ブログは俺にとって大きな意味を持っている。備忘録、遺書代わり、暴走と妄想で他者に迷惑を掛けないための〝ストッパー〟になっている。だが、最大の成果は、自身の無知を知り得たことだ。この6000日、俺はあらゆる点で劣化した。内蔵はガタがきているし、目、歯、肩、腰、膝と満身創痍だ。もともと記憶は曖昧だったが、今や初期の痴呆症といっていいぐらいだ。気力の萎えも甚だしく、生き方を変える時機かもしれない。

 生きるとは、消しゴムで可能性を消していくことだが、俺の関心の対象も日々、狭まっている。かつては欧州サッカー、NFL、WWEに夢中になっていたが、今は殆ど気にならない。6月に始まるサッカー欧州選手権では、半世紀近く応援してきたオランダに最後の歓声を送るつもりだ。

 読書と映画は、現在も生活の基本だが、目が悪くなってページを繰るスピードが大幅に落ちたのは残念だ。数年前まで最先端の音を追いかけていたロックだが、アンテナが錆びついた今、読書のBGMとして聴いている。
 
 俺だけじゃなく、世の中も大きく変わった。電車の中の景色は最たるもので、6000日前は新聞や本を読んでいる人も多かったが、今や8割方、スマホを触っている。それが進歩なのか退化なのか、俺にはわからない。6000日後、生きている保証はない俺だが、ブログを続けているのだろうか。
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「すばらしき世界」~複数のアングルで紡がれた男の真情

2021-03-19 12:29:52 | 映画、ドラマ
 札幌地裁は17日、<同性婚を認めないのは、婚姻の自由と法の下の平等を定めた憲法に違反する>との判断を示した。日本では画期的といえるが、多様性とアイデンティティーに価値を置く先進国の人々は「何を今更」と感じただろう。同根といえるのが森前五輪組織委会長の女性差別発言、五輪開閉会式の演出責任者が考えていた渡辺直美さんを貶めるプランだ。

 性差、ジェンダーのみならず、日本が国際標準を黙殺するようになって久しい。俺が頻繁に記してきた死刑や歪んだ選挙制度も、メディアは殆ど取り上げない。コロナ禍による閉塞感も相まって、日本のガラバゴス化は進行している。国際連盟を脱退した1933年の空気に近づいているのではないか。

 別稿(2月13日)で絶賛した「ヤクザと家族」(藤井直人監督)の約10日後に公開された「すばらしき世界」(西川美和監督)を新宿ピカデリーで見た。公開時期だけでなく、両作には共通する点が多い。作品の質、主演の演技といい、両作は年間ベストワン級の傑作だった。

 「ヤクザと家族」の賢治(綾野剛)、「すばらしい世界」の三上(役所広司)はともに2010年代後半に出所する。賢治は現役組員、三上は20年前に組を抜けているが、世間の冷たさは変わらない。暴対法施行後、元であっても組員は〝反社〟で、就職はおろか携帯も買えず、銀行口座も開けない。

 「すばらしい世界」は実話に基づいている。原作は佐木隆三が1990年に発表した「身分帳」だ。三上は14年の刑期を終えて出所した殺人犯だが、回想シーンでも明らかなように、傷害致死で裁かれるべきだった。激しやすい三上は法廷で検事に挑発され、墓穴を掘ってしまう。刑務所でも怒りを制御出来ず、独房入りを繰り返した。

 60歳の三上は14歳以降、少年院、鑑別所、刑務所で28年を過ごした。人生の半分である。直情径行の三上が娑婆に適応するのは不可能に思えるが、身元引受人の庄司弁護士(橋爪功)と妻敦子(梶芽衣子)の口添えで、都内でアパート暮らしを始める。刑務所で縫製を学び、剣道の防具を作ったこともあるほど器用だが、出所後は需要がなかった。

 世間の偏見もあり、仕事も見つからない。おまけに持病も抱えているが、区役所職員の井口(北村有起哉)の尽力で生活保護を受給出来るようになった。更なる支援者はスーパー店主の松本(六角精児)だ。万引を疑がわれたが、同郷(福岡)のよしみもあり交友を深めていく。

 テレビ局が三上の波瀾万丈の人生に目を付けた。そもそものテーマは三上の元を去った母親捜しで、古澤プロデューサー(長澤まさみ)と津乃田ディレクター(仲野太賀)が撮影を始める。仕事をやめようと考えた小説家志望の津乃田だが、三上と出会って番組制作に熱中するが、中年男を恐喝していたチンピラ2人組を三上が叩きのめすシーンを目の当たりにして動揺する。三上は津乃田に以下のように言い放った。

<損得勘定でしか生きとらん人間が言うこったい。そりゃ、善良な市民がリンチにおうとっても見過ごすのがご立派な人生ですか>

 〝今のままでは、社会で生きていけない。元に戻ってしまうのではないか〟と津乃田は不安を抱いている。仕事も見つからない三上は、幼馴染みの下稲葉組長(白竜)に連絡して九州に向かうが、ヤクザの厳しい現実に直面する。組長の妻(キムラ緑子)に「戻ってきてはいけない」と諭される。

 本作はこの国の<普通>の意味を問いかける。街中で誰かが暴力に晒されていても、<普通>の人は目を背ける。職場や地域で不条理が横行していても、事を荒立てることなく<普通>の人は沈黙する。怒りを表すことは<異常>と見做され、その延長線上に現在日本の閉塞がある。

 津乃田も協力したが、三上の母の行方はわからなかった。東京に戻った三上には新しい家族があった。津乃田、庄司夫妻、井口、松本が三上の就職祝いの宴をもうける。老人介護施設でも信頼を勝ち取り、体を張って守った元妻の久美子(安田成美)と会う約束もする。希望の光が射し込んできたかに思えた。

 「ヤクザと家族」の賢治は絆に殉じたが、カーネーションに触れたままの三上の最期に、母への思いが窺える。矜持を守るための〝自死〟とも感じた。政官財に漂う腐臭と比べ、〝反社〟を背景に描かれた2作は清々しく温かい薫りがする。<普通>の意味がが顛倒していることを再認識させられた。
 
 俺は西川監督作に、監督・脚本をこなすことで視点が狭くなっていると感じていた。だが、本作は違う。原作があるし、三上の主観だけでなく、津乃田、庄司夫妻、井口、松本の複数のアングルで三上の真情、そして社会の矛盾を捉えていた。西川は作家でもある。三上について執筆を始めた津乃田は監督自身の分身といえるだろう。
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「鉄砲玉の美学」&「狂った野獣」に漲る渡瀬恒彦の野性

2021-03-15 22:18:20 | 映画、ドラマ
 まずは前稿の補足から。11日、東電前の集会に参加した。震災で亡くなった犠牲者への追悼、原発事故の責任を取らず再稼働に邁進する東電への抗議の意志を示す集会である。韓国・大統領府前での抗議集会とマイクを繋ぐ試みも画期的だった。コロナ禍で停滞気味の俺だが、この国で今、最も必要な感情は<怒り>であることを再認識する。

 話はコロッと変わって本題に……。1990年以降、テレビで最も活躍した俳優は渡瀬恒彦だ。「十津川警部シリーズ」は54作、「タクシードライバーの推理日誌」は39作。ともにBS、CSで繰り返し放映される人気アイテムである。渡瀬が引く手あまただったのは情熱と気遣いだ。演出や脚本に積極的に意見を言うだけでなく、若いスタッフに気を配る渡瀬は、プロデューサーのような存在だったと語る関係者もいる。

 「十津川警部」で最も記憶に残っているのは第3作「上野駅殺人事件」で、十津川とソープ嬢を演じた島田陽子とのキスシーンは名場面だった。初期の作品は恋愛ドラマの色調も濃く、文学や音楽に造詣が深い渡瀬自身が投影されている。「タクシードライバーの推理日誌」の初期でも渡瀬演じる夜明日出夫が寂しさを独白するシーンがあった。両作ともその後、カラーは堅くなる。

 渡瀬は東映のヤクザ映画で名を上げたが、看板スターというわけではなかった。ピラニア軍団との交流が深く、〝軍団村長〟を自任した中島貞夫の作品に多く出演している。その後、主演、助演男優賞に輝いた渡瀬だが、WOWOWが先日、若き日の野性漲る「鉄砲玉の美学」(73年)と「狂った野獣」(76年)をオンエアした。ともに監督は中島で、画面から血飛沫が飛んできそうな作品だった。

 まずはATGとの提携作「鉄砲玉の美学」から。頭脳警察の「ふざけるんじゃねえよ」が流れた瞬間、身構えてしまう。主人公の小池清は関西の大組織、天佑会のチンピラで、組の資金源なのかウサギを売っている。その小池が鉄砲玉に指名され、100万円とピストルを携えて宮崎に向かう。完全な捨て駒で、命の値段は少々安い。覚悟も美学もなく、鏡の前で「わいは天佑会の小池清や」と凄みを利かせる練習をしていた。

 ATGらしい遊びや工夫がちりばめられていた。小池はソープ嬢よし子の部屋に居候している。宮崎に飛んだ小池、巨大化して商品にならなくなったウサギのカットバックが暗示的だった。小心な小池だが、女性には積極的で、南九会幹部の杉町(小池朝雄)から奪った潤子(杉本美樹)との濡れ場が多いのも役得だ。だが、ターゲットである杉町を殺せず、事態は暗転する。

 小池がピストルを手にするシーンでは「銃をとれ」、エンディングではアルバム未収録の「今日は別に変わらない」が流れる。世界観は共有しているとはいえないが,頭脳警察と本作は空気を共有していた。ラストシーンにリンクしていたのは「狂った野獣」である。

 古い邦画を見ていて気になるには街の光景だ。「狂った野獣」は京都を走るバスの中で物語が進行するが、上京した頃に公開されており、車窓に映る光景に懐かしさを覚えた。「鉄砲玉の美学」にも出演しているピラニア軍団の川谷拓三と片桐竜次が、銀行強盗に失敗し、バスジャックする2人組を演じている。若き日の片桐のキリッとした表情は、現在と全く違っていた。女ピラニ軍団の橘麻紀も乗客のひとりとして出演している。渡瀬はピラニア軍団と固い絆で結ばれていた。

 最後部に座り、競馬中継を聞いている速水伸を演じているのが渡瀬だ。映画が始まって30分が過ぎた辺りの最初の台詞で正体が明らかになる。速水は目を壊し、テストドライバーをクビになった。どん詰まりの速水は恋人の美代子(星野じゅん)と8500万円の宝石を強奪し、逃走中だった。

 〝芸能界一、喧嘩が強い男〟の渡瀬は抜群の運動神経で肉体派として知られていた。「狂った野獣」はハリウッドのカーチェース作品と比べたらスケールは遥かに小さい。B級、いやC級と考える人が殆どの低予算映画だが、妙なリアリティーがあった。渡瀬は反対を押し切ってノースタントで撮影に臨む。バスが横転するシーンなどかなり危険が撮影だった。

 テーマ曲は「小便だらけの湖」で、三上寛当人が歌うシーンも挿入されている。虚無が滲む曲で、♪夕日を見ると さみしくなるから 星を見ると 涙が出るから 小便だらけの湖に あなたと二人で 飛び込んで うたう唄は さすらい色歌……の歌詞は哀しいラストを映している。

 解放後の乗客の会見は<ストックホルム・シンドローム>そのものだ。3年前に命名されたばかりの新語を、本作はいちはやく採用した。絶望、狂気、孤独、そして怒りを表現しきった渡瀬はその後、求心力と包容力でスタッフ、キャストを牽引する役者になる。今更ながら、渡瀬の不在が残念でならない。
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東日本大震災と原発事故から10年~時計の針は止まったまま

2021-03-11 22:36:44 | 社会、政治
 東日本大震災で家族や友人を亡くしたり、原発事故で故郷を奪われたりした方々の悲しみと慟哭はいかばかりか。俺自身にとっても2011年3月11日は人生最大の分岐点だった。3・11直後から反原発をテーマに据えた講演会や映画会などに足を運び、感じたことをブログに書き綴った。

 阪神・淡路大震災(1995年)は故郷近くで起きたにもかかわらず、東京で自堕落で無為な日々を過ごしていた。当時の俺は〝人間もどき〟だったが、48歳で会社を辞めた頃から無常観、他者との絆に敏感になる。人間に近づいた時期に起きたのが東日本大震災だった。

 原発事故から10日後に開催された緊急報告会「福島原発で何が起きているか?」(「デイズジャパン」主催、早稲田奉仕園)は、広河隆一氏と広瀬隆氏が顔を揃えた歴史的なイベントだった。広河氏は現地で撮った写真を基に訥々と語り、広瀬氏はデータを示して危機の全体像を明晰に示していた。

 第11回「終焉に向かう原子力」(4月29日、明大・アカデミーホール)は立ち見が出る盛況で、1000人以上が入場できなかった。反原発の機運の高まりを実感した集会では、広瀬氏に加え小出裕章氏も壇上に立つ。反原発運動を長年牽引してきた広河、広瀬、小出の3氏だが最近、表舞台で見かけることは少なくなった。

 同年のGWに帰省した俺は、母、妹、義弟とともに和風レストランで食事をした。隣席では老夫婦、息子夫婦と思しき4人が卓を囲んでいたが、「新聞やテレビは信じられん。正しいのはインターネットだけや」と話すおじいさんに一同うなずいていた。「自由報道協会」を創設した上杉隆氏は記者クラブに妨害されながら東電に厳しい問いを発し続け、ネットにアップする。自身がキャスターを務める「ニュースの深層」(朝日ニュースター)に〝放送禁止物体〟広瀬氏を呼ぶなど戦闘モードだった。

 希望はたちまち潰えた。朝日新聞は「ニュースの深層」を打ち切っただけでなく、「放射能は大丈夫」を繰り返した山下俊一氏(福島県放射線リスク管理アドバイザー)に朝日がん大賞を授与する。731部隊の人脈に連なる山下氏の栄誉は、政官財+メディアからなる〝原発村〟の堅固さを物語っていた。
 
 3・11は大きなターニングポイントになり、ドイツを筆頭に再生可能エネルギー、環境保護に舵を切る動きが広まった。膠原病と闘いながら前向きに生きていた翌年の妹の死で、俺は生き方をチェンジした。立脚点を定めて世の中に真摯に向き合うことが妹への手向けになると考え、グリーンズジャパンに入会した。多様性、アイデンティティー重視など、価値観を発見するきっかけになった。

 仕事先の整理記者Yさんに誘われ、〝反原発PANTA隊〟の一員として集会に参加した。ピート・タウンゼント、ロバート・スミスと並び、俺にとっての〝ロックレジェンド〟であるPANTAさんと話す機会を得て、見識と人格に感銘を覚えた。PANTAさんと共演した故遠藤ミチロウは福島出身で、学生時代のサークルの先輩と同窓で、妹と同じく膠原病と闘っていた。「FUKUSHIMA」(2015年)は故郷への思いを歌った傑作である。

 <地震と原発事故は多くの犠牲を生んだが、日本が生まれ変わるきっかけになるかもしれない>……。俺だけでなく10年前、このように考えた人は多かった。俺は復興の兆しを確認するため、何度も東北を旅したが、そのたびに傷痕を目の当たりにした。<アンダーコントロール>の偽りで開催にこぎ着けた東京五輪は、東北を蔑ろにした国家的犯罪だったのだ。

 震災直後、体内被曝を心配する世論に<直ちに影響はない>を繰り返した枝野幸男官房長官が現在、野党第一党代表というのも理解に苦しむが、その後の安倍-菅政権で日本は出口の見えない闇に取り残された。台湾の現状に羨ましさを覚える。抵抗が市民の権利になり、ひまわり運動支持、反原発デモに数十万人が集まる。警察車両は皆無で、多くの有名人が笑顔で参加していた。

 蔡英文総統を支えるのが39歳のトランスジェンダーで無任所閣僚(IT、デジタル担当)を務めるオードリー・タンだ。台湾がコロナ禍を最小限に食い止めたのも、彼、いや彼女の功績大である。タンの影響下にある30以上のサイトは、政治の透明性確保のため政治家の発言を徹底的にチェックし、フェイクを公開する。民主主義アナキストを自任するタンの名は既に世界に鳴り響いている。
 
 今夜は東電前で犠牲者追悼と再稼働に固執する東電に抗議する集会に参加した。次稿の枕で簡単に紹介したい。原発事故は結果として風穴にならず、むしろ可能性は失われた。日本は今、エネルギー、環境、ジェンダー、選挙制度などあらゆる点で国際標準から遠ざかっている。新しい風は吹くのだろうか。
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「ターコイズの空の下で」~70年の時空を疾走するロードムービー

2021-03-08 21:36:21 | 映画、ドラマ
 NHKで放映された「カンパニー~逆転のスワン~」(全8回、BSプレミアム)と「六畳間のピアノマン」(全4回、総合)を録画してまとめて見た。評価の高い原作、豪華なキャスティングとくれば、秀逸な内容になるのも当然か。まずは「カンパニー」から。

 主人公の青柳(井ノ原快彦)はリストラ寸前のサラリーマンで、会社が出資するバレエ団(カンパニー)への出向を命じられる。次々襲いかかる難題を、トレーナーの瀬川由衣(倉科カナ)らとクリアし、崩壊の危機にあったカンパニーは熱い絆で結ばれていく。存在感が際立っていたのはプリンシパルを演じた宮尾俊太郎だ。世界的なダンサーだが、今後は俳優としても脚光を浴びるだろう。

 「六畳間のピアノマン」はビリー・ジョエルの「ピアノマン」によって紡がれた者たちの出会いを描くオムニバスだ。ブラック企業に勤めていた3人の青年、そのうちのひとりを過労による事故で失った父親、シンガー・ソングライターを目指す女子高生、子供食堂を切り盛りする女性、そして3人の青年と縁があった居酒屋のバイト……。錚々たる役者が織り成す物語に胸が熱くなったが、悪魔と無垢の二面性を演じ切ったパワハラ上司役の原田泰造が光っていた。

 新宿ピカデリーで「ターコイズの空の下で」(2021年、KENTARO監督)を見た。日本、モンゴル、フランス合作で、モンゴルを舞台に70年の時空を疾走するロードムービーだ。世界で最も人口密度が小さいモンゴルの広大で荒涼とした光景に圧倒された。監督はミュージシャンゆえ、モンゴルの民俗音楽がちりばめられていた。

 冒頭で在日モンゴル人のアムラ(アムラ・バルジンヤム)が厩舎から馬を盗み出し、高速道路を駆け抜ける。逮捕されたアムラの身元引受人になったのは、病魔に侵されていた実業家の三郎(麿赤兒)だった。三郎は戦後、モンゴルで捕虜生活を送っていたが、看護師のスヴトと恋に落ちた。娘ツェルマが生まれたが日本に帰り、消息は手を尽くしてもわからなかった。

 三郎の心配の種は甘やかされて育ち、自堕落な日々を送っている孫のタケシ(柳楽優弥)だ。今のままでは跡を継がすのは不可能と考え、あるミッションを与える。<モンゴルに渡り、アムラの協力の下、生き別れになった娘ツェルマを捜すこと>……。モンゴルに渡ったタケシはアムラが運転する中古バンでモンゴルを旅する。

 柳楽といえば「誰も知らない」のデビューが鮮烈で、中村文則原作の「最後の命」(14年)も記憶に残っている。今年中に主演作が封切られる予定で、海外からも声が掛かるなどキャリアを着実に積んでいる。本作で演じたタケシも魅力的だった。奔放に生きてきたせいか、日本人らしい気遣いや堅苦しさと無縁なのだ。

 風土や習慣が180度異なる土地にいち早く馴染んでいく。アムラとの距離が縮まっていくのを象徴的に示すのが連れションのシーンだ。最初はバンの陰に隠れるように用を足していたが、後半にはアムラと一緒に豪快に飛沫を飛ばしていた。コミュニケーションもジェスチャーでばっちりだ。
 
 70年前の三郎の抑留生活、タケシの日本での放蕩三昧、アムラの恋人との思い出がカットバックしながらロードムービーは進行する。タケシは荒野にひとり置き去りにされるが、身重の遊牧民女性(ツェツゲ・ビャンバ)に助けられた。三郎とスヴト、タケシと遊牧民女性……。2組の出会いがオーバーラップする。

 俺の年になると生き方を変えられないが、順応力のあるタケシはモンゴルで何かに気付いた。それは絆、多様性の尊重、自然との感応、世界を俯瞰で眺める視線、叫びたいほどの自由といったところか。オフィスに座ったタケシが見やる空の先、ターコイズの空の下で母子がゲルの前で佇んでいた。余韻が去らぬ暗示的なラストだった。
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「籠の鸚鵡」~欲望と暴力の果て、魂は浄土に至る

2021-03-05 10:12:14 | 読書
 五輪相、男女共同参画担当相を兼任する丸山氏が、選択的夫婦別姓制度への反対を呼び掛ける書面に名を連ねていた。別稿(2月17日)で<世界標準>について記したが、丸川氏が現在の役職に就くことは先進国ではあり得ない。ジェンダー、死刑制度、莫大な供託金と公選法……。挙げたら切りはないが、日本は多くの面で<世界標準>と距離がある。丸川氏は戦前回帰を掲げる日本会議議連の役員だから尚更だ。

 将棋界に世代交代の嵐が吹き荒れている。斎藤慎太郎八段は名人挑戦を決め、王将戦で連勝して踏みとどまった永瀬拓矢王座はB級1組最終局で、A級を懸け近藤誠也七段と戦う。ベテラン棋士は押され気味で、羽生善治九段はNHK杯準々決勝で上記の斎藤に屈した。鋭さと閃き、漲っていた気もここ数年、影を潜めた感が強い。

 辻原登著「籠の鸚鵡」(2016年、新調文庫)を読了した。「枯葉の中の青い炎」を読んでから9年、辻原の小説は10冊以上紹介してきた。<虚実の皮膜で空中楼閣を築く魔物>、<マジックリアリズムへの熊野からの回答>、<想像力の地下茎を紡いで造られた伽藍>など繰り返し絶賛してきたが、白眉といえるのは壮大なスケールを誇る「許されざる者」だ。大逆事件に連座した大石誠之助を主人公に据え、日本近代史を照射している。

 「籠の鸚鵡」の舞台は1980年代半ばの和歌山で、山一抗争、関西国際空港建設を巡るマネーゲーム、公金横領事件が背景にある。史実と創作が交錯するメタフィクションは、辻原の全作品を貫く手法だ。バー「Bergman(バーグマン)」ママのカヨ子、彼女を巡る3人の男……。4本のタイヤが軋みながら物語を疾走させる。辻原の出身地である和歌山の魅力が織り交ぜられていた。

 カヨ子の夫である紙谷は不動産業者だが、関空建設予定地買収に失敗し儲けに絡めなかった。カヨ子を奪った峯尾は武闘派ヤクザで、山一抗争を一和会側で闘っている。しのぎが必要な峯尾は、町役場で出納室長を務める梶に目を付けた。「バーグマン」の常連になっていた梶への脅迫に、カヨ子も加担する。

 「籠の鸚鵡」は「南の花嫁さん」(高峰三枝子)の一節、「おみやげはなあに 籠のオーム」から取られている。本作においてカヨ子は、〝男たちの言葉をうのみに話す〟で、鸚鵡のような習性がある。一方の梶も、籠の中で怯える鸚鵡の如き存在だった。帯で絶賛し、解説も担当しているのが組織犯罪に詳しいジャーナリストの溝口敦氏だから、本作が<一級のクライムノベル>と謳われるのも当然の成り行きだ。

 山口組傘下の組幹部を銃撃した峯尾は、報復を恐れた身内の不審な動きを察知し、熊野に身を潜める。紙谷は金の強奪、復讐、カヨ子との復縁という一石二鳥の奸計を企てた。胸躍る一級のピカレスクだが、ページを繰るうち、別の側面が見えてきた。梶という平凡な男、カヨ子という世知長けた悪女……。ベクトルが真逆に見える魂が感応し、相寄っていく。

 長崎出身のカヨ子はクリスチャンで、梶は熊野那智山から出帆すると辿り就くという補陀落(フダラク)の存在を信じている。梶が海を漂流するラストが象徴的だ。
 「何やここがフダラクか……」
 梶は法悦に浸って、恍惚の表情を浮かべた。
 「ナンマイダ、ナンマイダ」
思わず瞑目して、手を合わせる。

 本作を艶やかに妖しく彩るのは、梶に宛てたカヨ子の手紙だ。ポルノグラフィーと文学性を併せ持つ手紙は罠だったが、梶は引き寄せられた。心身を曝け出すカヨ子は、西行法師や与謝野晶子の歌、伊東静雄の詩を文末に記す。お返しとばかり梶は「バーグマン」で吉本隆明の詩を朗読する。店名は映画「カサブランカ」にちなんでいるが、カヨ子は一瞬、梶をハンフリー・ボカードに重ねていた。

 籠から解き放たれたカヨ子と梶は、愛というより宿命に導かれ、魂は浄化される。4人の主観で物語を紡ぐ辻原こそ、日本文学を代表するストーリーテラーだ。辻原と同郷である中上健次を読みたくなった。
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「私は確信する」が問いかける正義の意味

2021-03-01 22:41:53 | 映画、ドラマ
 想定通りの<ワクチン格差>に、世界保健機関(WHO)は、数十億回分のワクチン買い占めで、貧困国へのワクチン供給を妨げないよう先進国に呼び掛けている。130カ国がワクチンを入手できない〝ワクチンのアパルトヘイト〟状況について「デモクラシーNOW!」は、製薬メジャーの利益を優先するアメリカを元凶に挙げている。

 日本でも供給の遅れが指摘されているが、半世紀とは昔日の感がある。排ガス規制を掲げたマスキー法(1970年)を最初にクリアしたのがホンダで、他のメーカーも後に続いた。技術立国を掲げた日本の面目躍如で、日本車が世界を席巻するきっかけになる。製薬業界の現状は知らないが、パンデミック以降、日本の技術が俎上に載せられる機会は皆無だ。

 古今東西、法廷を舞台にした名作は多い。ここ数年なら、「判決 ふたつの希望」、「黒い司法 0%からの奇跡」、「コリーニ事件」に深い感銘を覚えた。新宿武蔵野館で先週末見た「私は確信する」(2019年)は上記3作ほどのインパクトはなかったが、正義をキーワードに製作されていた。

 本作は実際の事件をベースにしている。2000年2月、フランス南西部のトゥールーズでジャック・ヴィギエ(ローラン・リュカ)の妻スザンヌが失踪する。〝ヒッチコック狂の大学教授の夫が仕組んだ完全犯罪〟が世間の捉え方だったが、ジャックは一審無罪になる。

 ジャックとスザンヌの夫婦仲は冷え切っており、スザンヌにはオリヴィエ・デュランテ(フィリップ・ウシャン)という愛人がいた。嫉妬による殺人が疑われるのは当然だが、遺体は見つからず、物証は一切挙がらない。世間の目が厳しくなったことで9年後、検察はジャックを訴追し第二審が始まる。

 ヴィギエ家で家庭教師を務める女性シェフのノラ(マリーナ・フォイス)が、ジャックの無罪のために立ち上がる。高名なデュポン=モレッティ弁護士(オリヴィエ・グルメ)に白羽の矢を立て急接近するが、多忙を理由に断られた。根気強いノラにほだされたモレッティは、証拠品である250時間分のテープ起こしを依頼した。

 熱いノラとクールなモレッティは、時に対立しながら一つのチームになって真実に近づいていく。俺が驚いたのは、意外なほど適当なフランスの司法制度だ。警視は思い込みに基づき捜査を進め、ジャックを犯人と決めつけている。<推定無罪>の原則が軽んじられ、司法や警察が一体となって冤罪を生み出す構図が浮き彫りになる。世論のプレッシャーに弱く、印象に則った捜査に走りがちだ。

 モレッティとノラは何よりも物証を重視して曖昧な証言にメスを入れ、事件前後の経過を再構成していく。日本やアメリカなら、裁判と真犯人捜しが並行して進行するが、本作でモレッティが控えめに言及したのはデュランテだ。後半で動機らしきものが見えてくるし、親族の女性がヴィギエ家でベビーシッターを務めていた。

 モレッティは無実の人が裁判で有罪になることを避けるのが正義と考え、<人間は神ではないので、真実は誰にもわからない。大事なことは。臆測ではなく証拠に基づき判断(確信)すること>と最終弁論で訴える。ジャックは偏見、孤独、絶望に苛まれてきた真情を振り絞るように吐露する。

 正義に加え、SNSによる情報操作が本作のテーマになっていた。デュランテはSNSを巧みに用いてジャック犯人説を世間に流布する。司法と警察に加え、メディアまでSNに翻弄される展開は斬新で先駆的だった。シェフであるノラの恋人がアフリカ系という設定も、社会が多様性に価値を求める時代に即している。

 安倍、菅政権下で連続する目を覆う不正義と倫理違反に、俺を含め日本人は麻痺している。正義とは何かを再度問い直す必要があることを本作に教えられた。
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