敗戦の日前後にノンフィクションW(WOWOW)の枠で2本のドキュメンタリーが放映された。録画しておき、週末に続けて見る。共通するテーマは戦争で、満州映画協会(満映)製作の「私の鶯」(1943年)発見の経緯、戦争に翻弄されたピストン堀口の人生に迫っている。背景と合わせ感想を記したい。
まずは「満州映画70年目の真実~幻のフィルム『私の鶯』と映画人の情熱」から……。満州国は1932年に成立した日本の傀儡国家である。満州人の懐柔を目的に設立されたのが満映で、理事長として君臨したのは甘粕正彦だ。関東大震災時、大杉栄、伊藤野枝とその甥の惨殺(甘粕事件)に関わったとされるが、上層部の罪を被ったとする説が主流になりつつある。満州人にも慕われた甘粕を、〝麻薬王〟里見甫と並ぶ満州の実効的指導者とみる史家もいる。
太平洋戦争に突入した1941年、島津保次郎監督は時世にそぐわぬミュージカル映画を企画した。李香蘭(山口淑子)を主役に据えた「私の鶯」は、映画法(国家による統制)が制定された日本での製作は不可能だった。映画法に反対して拘留された左翼の論客、岩崎昶(映画評論家)は出獄後、満映に迎えられる。満映と東宝合作の形で製作し、外国映画として輸入するという岩崎のウルトラCが承認され、極寒の満州でクランクアップした。
編集担当として「私の鶯」に携わった岸冨美子さん(94歳)の証言と山田洋次監督のコメントを軸に、ドキュメンタリーは進行する。発見されたフィルムは1時間半以上のはずが70分しかない。公開直前に上映禁止となり、戦後はGHQの検閲に備えて再編集され、タイトルも改変されていた。「私の鶯」が辿った道は、現在の日本と無縁ではない。秘密保護法により、ドキュメンタリーの現場では自己規制が始まっているという。
中国戦線で多くの映画関係者が召された。不世出の天才と謳われた山中貞雄(享年28)もそのひとりである。戦地に慰問に訪れたピストン堀口の試合を、山中が見た可能性は高い。「拳闘こそ我が命~戦争に翻弄されたボクサー~ピストン堀口」は、堀口の生き様、死に様に迫る感動のドキュメンタリーだった。
ボクシングは戦前、最も人気のあるスポーツで、堀口の知名度は首相を上回るほどだった。今でいえば、〝浅田真央+ダルビッシュ+田中将大〟といったところか。デビュー間もなく世界のトップと引き分けた堀口は、肉を斬らせて骨を断つラッシュ戦法で時代の寵児になる。徴兵検査で丙種となった堀口は、「兵隊さんに申し訳ない」と拳闘報国の一念で慰問ツアーを続ける。
内山高志(WBAスーパーフェザー級王者)は堀口の過酷なスケジュールに驚愕し、「途轍もない疲労が蓄積していたはず」(要旨)と語っていた。堀口は戦後、「戦争協力者」と批判され、負け続きでもリングに立つ。引退勧告を受けてグローブをおいた半年後、列車事故で亡くなった(享年36)。
堀口の戦後に、俺は感銘を受けた。<私は過去の試合で、こうして勝つのだと示してきました。今度は負けるというのはこういうことだと示したいと思っています>との言葉を残している。「金の亡者」と罵られながら負け続けた堀口の懐に金は入らず、死を迎えた時は貧窮していた。
堀口は興行収入を、海外からの引き揚げ者や戦災孤児への基金に充てていた。戦争を煽り、兵士を死地に送ったことで、自責の念に苛まれていたのだ。その生き様は、戦後の支配層に潜り込んだA級戦犯、戦争遂行者(メディアを含む)と対照的に清々しい。勝利に執念を燃やし、晩年は自らを穿つようにリングに蹲る……。拳聖と呼ばれた男の生涯は苦行僧に似ている。死は堀口にとって贖罪であり、解放だったのかもしれない。
自身の人生を振り返ると、戦いを避けた不戦敗の連続だった。とはいえ、悔いているわけでもない。この温さこそ、凡人の俺に相応しい生き様なのだから……。
まずは「満州映画70年目の真実~幻のフィルム『私の鶯』と映画人の情熱」から……。満州国は1932年に成立した日本の傀儡国家である。満州人の懐柔を目的に設立されたのが満映で、理事長として君臨したのは甘粕正彦だ。関東大震災時、大杉栄、伊藤野枝とその甥の惨殺(甘粕事件)に関わったとされるが、上層部の罪を被ったとする説が主流になりつつある。満州人にも慕われた甘粕を、〝麻薬王〟里見甫と並ぶ満州の実効的指導者とみる史家もいる。
太平洋戦争に突入した1941年、島津保次郎監督は時世にそぐわぬミュージカル映画を企画した。李香蘭(山口淑子)を主役に据えた「私の鶯」は、映画法(国家による統制)が制定された日本での製作は不可能だった。映画法に反対して拘留された左翼の論客、岩崎昶(映画評論家)は出獄後、満映に迎えられる。満映と東宝合作の形で製作し、外国映画として輸入するという岩崎のウルトラCが承認され、極寒の満州でクランクアップした。
編集担当として「私の鶯」に携わった岸冨美子さん(94歳)の証言と山田洋次監督のコメントを軸に、ドキュメンタリーは進行する。発見されたフィルムは1時間半以上のはずが70分しかない。公開直前に上映禁止となり、戦後はGHQの検閲に備えて再編集され、タイトルも改変されていた。「私の鶯」が辿った道は、現在の日本と無縁ではない。秘密保護法により、ドキュメンタリーの現場では自己規制が始まっているという。
中国戦線で多くの映画関係者が召された。不世出の天才と謳われた山中貞雄(享年28)もそのひとりである。戦地に慰問に訪れたピストン堀口の試合を、山中が見た可能性は高い。「拳闘こそ我が命~戦争に翻弄されたボクサー~ピストン堀口」は、堀口の生き様、死に様に迫る感動のドキュメンタリーだった。
ボクシングは戦前、最も人気のあるスポーツで、堀口の知名度は首相を上回るほどだった。今でいえば、〝浅田真央+ダルビッシュ+田中将大〟といったところか。デビュー間もなく世界のトップと引き分けた堀口は、肉を斬らせて骨を断つラッシュ戦法で時代の寵児になる。徴兵検査で丙種となった堀口は、「兵隊さんに申し訳ない」と拳闘報国の一念で慰問ツアーを続ける。
内山高志(WBAスーパーフェザー級王者)は堀口の過酷なスケジュールに驚愕し、「途轍もない疲労が蓄積していたはず」(要旨)と語っていた。堀口は戦後、「戦争協力者」と批判され、負け続きでもリングに立つ。引退勧告を受けてグローブをおいた半年後、列車事故で亡くなった(享年36)。
堀口の戦後に、俺は感銘を受けた。<私は過去の試合で、こうして勝つのだと示してきました。今度は負けるというのはこういうことだと示したいと思っています>との言葉を残している。「金の亡者」と罵られながら負け続けた堀口の懐に金は入らず、死を迎えた時は貧窮していた。
堀口は興行収入を、海外からの引き揚げ者や戦災孤児への基金に充てていた。戦争を煽り、兵士を死地に送ったことで、自責の念に苛まれていたのだ。その生き様は、戦後の支配層に潜り込んだA級戦犯、戦争遂行者(メディアを含む)と対照的に清々しい。勝利に執念を燃やし、晩年は自らを穿つようにリングに蹲る……。拳聖と呼ばれた男の生涯は苦行僧に似ている。死は堀口にとって贖罪であり、解放だったのかもしれない。
自身の人生を振り返ると、戦いを避けた不戦敗の連続だった。とはいえ、悔いているわけでもない。この温さこそ、凡人の俺に相応しい生き様なのだから……。