酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「アースパレード」と「オルタナミーティング」に参加して

2015-11-30 23:21:45 | カルチャー
 28日は忙しい一日だった。昼は「アースパレード2015」(日比谷野音)に参加し、夜は「オルタナミーティングVol.7~ハダカノオウサマヲワラヘ」(阿佐ヶ谷ロフト)に足を運ぶ。アースパレードは気候変動対策を話し合う「COP21パリ会議」(30日~)に向けたアクションで、「オルタナ――」はPANTAと遠藤ミチロウのジョイントライブである。

 「アースパレード」には世界で数千万人が参加したが、日本では浸透していない。協賛団体は100以上だし、1万人以上が集まった「土と平和の祭典」(11月1日、日比谷公園)をプレイベントと考えていたから、1000人弱の参加者(主催者発表)に愕然とした。ステージでアピールした世界各国からの活動家も「?」だったに相違ない。

 かく言う俺も日頃、環境について考えているわけではない。気候変動は原発やエネルギー問題、TPPだけでなく、第三世界の農業を壊滅させたグローバリズム、地域を荒れ地に変える戦争ともリンクしている。世論を喚起するためには、他の課題に取り組む運動体との連携が必要かもしれない。

 俺が会場外でビラまきしていた頃、「オルタナミーティングVol.2」(昨年10月)で大工哲広と共演していたジンタらムータの雑食性かつ無国籍風、祝祭的なサウンドが聞こえてきた。その後は佐藤タイジ(シアターブルック)、追っかけ?が盛り上がっていた制服向上委員会と続き、銀座一帯をパレードする。

 阿佐ヶ谷ロフトはフルハウス(120人)の盛況だった。初めて接する遠藤ミチロウはMCなしでステージを進めていく。俺にとって今年のベストアルバム「FUKUSHIMA」から、ハイライトというべき「NAMIE(浪江)」、メルヘンチックな「冬のシャボン玉」などが演奏された。詩的、猥雑、アナーキー、自虐、叙情……。様々な形容詞が坩堝で煮え、叫びで濾過され純水になる。妹の命を奪った膠原病と闘っていることもあり、俺はミチロウに肩入れしている。来年は折を見てライブに足を運びたい。

 休憩後、PANTAが登場する。テーマは「戦争」で中東の現状を踏まえながら、水晶の夜を背景にした静謐な「ナハトムジーク」、激情迸る「七月のムスターファ」と繋いでいく。「曲は完成したら作り手を離れ、皆さんの心で思い思いに生きていくもの。この曲もそう」と前置きし、「裸にされた街」を歌う。本人にお会いした時、「一番好きな曲」と伝えたこともあり、俺の心は温かく湿った。フランス製の武器を用いたイスラエル軍の無差別空爆で数千人の命を奪われたガザの人たちが、「私たちはパリと連帯します」というプラカードを掲げたという。PANTAが紹介したエピソードが胸に染みた。

 ラストはミチロウいわく「合わせて130歳」の共演だった。出会いは1969年、山形大学園祭実行委員会のメンバーだったミチロウが頭脳警察を呼ぶ。「45年経ってこのような形で同じステージに立てるとは想像もしなかった」と異口同音に話していた。PANTAは年相応だけど、ミチロウは若く見え、まるで父子のようだった。PANTAは俯瞰の目でクール、ミチロウは赤裸々さと情念を前面にと、ライブの手触りも好対照だった。

 PANTAとミチロウはともに母への思いを託した曲を歌い、両者の出演作は来年1月に公開される。PANTAはマーティン・スコセッシの「沈黙」(遠藤周作原作)で隠れ切支丹を演じ、ミチロウは自身が監督・主演のドキュメンタリーである。ライブはミチロウの「ジャスト・ライク・ア・ボーイ」、そしてミチロウが「頭脳警察で初めて聴いた曲です」と紹介した「さようなら世界夫人よ」で締め括られた。ミチロウの目がサングラス越し、潤んでいたように感じた。

 柔らかく心を抉るライブだった。俺より5歳ほど上の男たちがまだ、気力を振り絞って前を見据えている。蒼い焔が背後に立ち昇るのを覚えた。
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安保法制、そして落語~硬軟織り交ぜトークバトル

2015-11-27 13:23:00 | 独り言
 原節子さんが亡くなった。世間と接触を絶って半世紀余、後半生は謎に包まれていた。恋愛小説の金字塔「無限カノン三部作」(島田雅彦著)には原さんをモデルにした女性が描かれていた。出演作で最も記憶に残るのは「わが青春に悔なし」(1946年、黒澤明)だ。三船敏郎とのコンビで傑作を〝男臭い〟傑作を発表し続けた黒澤だが、同作で原さんは、気高くファシズムに抗い、フェロモンを発散していた。伝説のヒロインの冥福を悼みたい。

 24、25日と硬軟織り交ぜトークバトルに参加した。前後するが25日、「我らの時代 落語アルデンテXⅡ」(東京芸術劇場プレイハウス)に足を運ぶ。トップバッターは落語界で最も勢いのある春風亭一之輔で、「鈴ケ森」でバチバチ弾けた。人気の噺家が集うホール落語は戦場だ。笑いとはポップ同様、狂気の領域で、噺家たちは日々、自分を壊し再構築する作業を繰り返している。

 続いて三遊亭兼好が高座に上がる。28歳で弟子入りと苦労人の噺家らしい。枕は家族ネタで「短命」へとスムーズに繋ぐ。表情豊かに飄々と演じる兼好に柳亭市馬が重なった。中入り後の春風亭百栄が心配になったが、杞憂に終わった。アウトサイダーの脱力キャラで、外しても許される〝落語界の蛭子能収〟キャラの百栄だが、新作「キッス研究会」で爆笑の渦を起こしていた。

 3人の熱を吸収しヒートアップさせたのが、トリの桃月庵白酒だ。百栄をいじり、いつもの自虐ネタ満載の枕で笑いを取る。郭噺の「お見立て」は何度も聴いたのに、男女の機微、いや、男の愚かさと女の狡さに来し方を重ねてしまう。カタルシスが染み込んだ心身を雨で冷やしながら、徒歩10分ほどの高坂勝さん経営のバー、通称「たまつき」に向かう。

 別稿で人間交差点と評した通称「たまつき」では、高坂さんがお客さんを結んでいく。中国と日本における格差、日本は内と外からどう映るのか、理想の経営者とは……。日本で起業した中国人と高坂さんの会話を興味深く拝聴する。俺はカウンター越しに高坂さんとパリの事件、維新圧勝、東北の現実について言葉を交わした。<5%が変われば社会は変わる>が高坂さんの持論だが、〝祭りのあと〟の空気を踏まえ、「今は3%ぐらいですか」と尋ねた。「5%は超えているけど、受け皿がないですね」が高坂さんの答えだった。

 講演、トークイベント、テレビ出演が相次ぐ高坂さんは、杉原浩司さんの地道な活動に驚嘆していた、その知名度は飛躍的に浸透している。落語会の前日(24日)、拓大キャンパスで開催された「徹底討論 佐藤丙午VS杉原浩司~日本の武器輸出と防衛装備庁の設置」に参加した。司会は「武器と市民社会研究会」の阿久根武志氏である。拓大教授の佐藤氏は政府系機関で委員、参与を兼任しており、安保法制推進の軸のひとりだ。一方の杉原さんは、様々な社会運動のキーパーソンといえる。

 世界では今、二元論が幅を利かしている。<欧米=善、イスラム国=悪>の構図に囚われず、「中東における欧米諸国の市民殺戮を対置すべき」と語る古舘キャスターを安倍機関の「週刊文春」が攻撃していた。一方で反安倍側も二元論に呑み込まれ、言葉が粗く貧困になっている。この討論会もささくれ立った雰囲気で噛み合わないのではないか……。だが、そんな心配は無用だった。淡々と語る佐藤氏、熱い杉原さんは、何度も議論を重ねてきたという。共通するのは<人間として>をベースにしていることだ。

 〝敵〟というべき佐藤氏の言葉にも説得力を感じる部分があった。安保法制(戦争法案)について反対派は安倍首相を糾弾するが、形になったのは民主党政権時で、佐藤氏の先輩に当たる森本敏氏(拓大特任教授)の防衛相就任もその一環という。杉原さんがかねて言及している通り、早くから日本の武器輸出に積極的だったのは、前原元代表など民主党の面々である。

 1980年前後、俺は一学生として<産学共同>に抗議していたが、今や<軍産学共同>が安保法制の前提になっている。反論に理解を示しながら、活力と資金を有効に用いるために<軍産学共同>は必要と佐藤氏は語る。むろん杉原さんは反対の立場だ。杉原さんは日本の高度な技術がアメリカの兵器に使われていることを指摘していたが、佐藤氏によると「兵器関連の日本の技術は総じて高くない」が世界の評価という。日本製を含めパーツパーツをフリーハンドで採用するのがアメリカの方針だ。

 質疑応答における佐藤氏の言葉に納得できる点もあった。杉原さんが武器関連企業を<死の商人>と批判した点について、「ロシアや中国では問題にならないのに、日本ではなぜ否定的に用いられるのか」と質問された佐藤氏は、「憲法の縛りがある日本では当然。ロシアや中国とは土壌が違う」と答えていた。佐藤氏は輸出国の関係者に「武器がどこに流れ着いたか調査しますか」と尋ねたところ、「全く気にしない」と一蹴され、違和感を覚えたという。

 中国についての質問では、現在の米中の軋轢を<管理されたダンス>と評していた。政権に近い佐藤氏の言葉ゆえ説得力がある。経済で密接に繋がっている以上、米中、そして日本が交戦状態になることはあり得ないとの冷静な分析は、ファナティックに中国脅威論を叫ぶ安倍応援団と一線を画している。

 杉原さんは世界を俯瞰の視線で多角的に眺めている。俺がブログで何度も取り上げている「デモクラシーNOW!」は、杉原さんの情報源でもあるようだ。〝戦争屋〟といえばブッシュ前大統領が頭に浮かぶが、オバマこそ最も多額の武器輸出を承認した大統領であることを数字で示す。ロッキード、BAE、フランスの軍需産業が世界を蝕む現状も指摘していた。

 発言の全容を知りたい方は「杉原こうじのブログ」と検索すれば、レジュメに触れることが出来る。杉原さんの情報収集力、分析力、論理構成力には驚かされるが、根底にあるのは<人間として>で、モラルハザード、良心の喪失、他者の痛みを感じない政治への憤りだ。杉原さんはアウェーである防衛装備庁を単身訪れ、シンポジウムなどで鋭い質問を投げ掛ける。〝霞が関が最も恐れる男〟(山本太郎参院議員いわく)の面目躍如だ。

 数千人が亡くなったガザ無差別空爆だが、杉原さんは幹部から「イスラエルの実戦における成果と日本の技術力を融合することが目標」とのおぞましい発言を引き出している。同幹部は「アメリカのミサイルに組み込まれた瞬間、消費したと見なし追跡調査は行わない」と語っていたという。杉原さんだけでなく、佐藤氏も納得しない発言といえる。俺にとって学ぶことの多い討論会であった。

 高坂さんと杉原さん、そして、あす開催されるPANTAと遠藤ミチロウのジョイント「第7回オルタナミーティング」をプロデユースした大場さんも、昨年2月に入会した緑の党の仲間である。3人に共通するのは正義感、情熱、そして優しさだ。アラカンになって心から敬意を抱く人たちに出会えた幸運に感謝したい。

 最後に、あまりに軟らかいバトルの予想を。ジャパンカップで俺が注目しているのは⑧イラプト(仏)と⑱ナイトフラワー(独)の2頭で、日本のエース格ラブリーデイは思い切って消すことにする。根拠と自信は全くないが、少額投資で楽しむたい。
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「マイ・インターン」~NY発のお伽噺にしばし浸る

2015-11-23 23:33:54 | 映画、ドラマ
 贔屓の調子がイマイチだと気合が入らない。NFLは開幕時に応援しようと決めたチャージャーズ(AFC西)、ライオンズ(NFC北)がともに2勝7敗で地区最下位に沈んでいるから、ブログで書く気にもならない。将棋では糸谷哲郎竜王が挑戦者の渡辺明棋王にカド番(1勝3敗)に追い込まれた。順位戦のB級1組でも、山崎隆之8段、豊島将之7段の関西勢がともに1勝5敗で降級の危機にある。

 殆ど見ることがなくなったが欧州サッカーだが、クラシコの結果には大満足だ。クライフとの縁もあり肩入れし続けているバルセロナが、クラシコでレアル・マドリードを4対0と粉砕した。メッシの体調が整わず(途中出場)、ホームということあって下馬評ではレアル有利だったが、明らかに嚙み合っていなかった。MVPはバルサGKのブラボで、スーパーセーブの数々で勝利を導いた。

 贔屓や感情で政治を論じるとつもりはないが、大阪維新のダブル選勝利に暗澹たる気分になった。安倍首相と橋下大阪市長は互いを認め合う〝双子〟で、公明党は今回、水面下で維新にくみしていたとされる。独裁的体質を共有する自民、公明、大阪維新が遠からず組むことは明らかで、橋下氏の入閣も囁かれている。反戦争法の盛り上がりは今いずこ、風向きを再度変えるためにも、まやかしの員数合わせではない地殻変動を目指すべきだ。

 昨日、新宿ピカデリーで「マイ・インターン」(15年、ナンシー・マイヤ-ズ監督)を見た。個人で立ち上げたファッションサイトが瞬く間に人気を博した30代の女性社長ジュールズ(アン・ハサウェイ)、そして高齢インターンとして採用され社長直属になった70歳のベン(ロバート・デ・ニーロ)……。老いたデ・ニーロの含羞と〝人工美女〟っぽいハサウェイの笑顔が印象的で、好対照の2人の魂は相寄り交錯していく。

 3連休の中日でもあり盛況だったが、若い女性の姿が目立った。ニューヨークのIT会社が舞台とくればお洒落であることは予想できるが、恋愛ドラマではない。ささやかな日常が描かれ、主役のデ・ニーロはベンと同じ70代の老人だ。本作はテンポがいいヒューマンドラマだが、同じジャンルで今年見た「おみおくりの作法」、「Dearダニー 君へのうた」、「海賊じいちゃんの贈りもの」ほどの深みはない。パブリシティーの成功で若い女性を引き寄せたのだろう。

 30代の女性と高齢男性の交流を描いた小説といえば、「すべての真夜中の恋人たちへ」(川上未映子)と「センセイの鞄」(川上弘美)を思い出す。ともに孤独な女性が、男性の教養と人間性に惹かれる〝生徒〟という設定だったが、アクティブなジュールズもベンに癒やされていく。本作は性と年を超越した友情、〝偽装父娘〟の物語といっていい。

 両川上、そしてマイヤーズの3人の女性表現者が問い掛けるのは<女性は男性に何を求めているのか>だ。俺など今さら答えを出しても手遅れだが、ベンは女性の目に理想形と映るのだろう。様々な経験によって引き出しは無数にあり、ジュールズが驚くほどTPOに応じて即座に言葉が出てくる。危機に直面したら裏技を用いることも厭わない。アナログの典型であるベンはフロアで緩衝材になり、デジタルの若者の心を繋いでいく。

 観賞後、お伽噺の世界に浸っていたことに気付く。この国の高齢者はベンほど余裕もなく、老後破産の危機に瀕している。介護疲れと生活苦を理由に親子3人が利根川で入水自殺し、生き残った娘は殺人と自殺幇助で逮捕された。暗いニュースだが、これが日本の現実で、アラカンの俺にとっても他人事ではない。

 「CSI:サイバー」の放映がWOWOWで始まった。パトリシア・アークエットが演じるエイヴリー・ライアン主任は、ジュールズより10歳ほど年上の女ボスだ。サイバー犯罪がテーマゆえハイテンポだが、これまでの「CSI」シリーズ同様、アメリカの病根とメンバーが抱える闇がストーリーに陰影を刻んでいくはずだ。
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パリの悲劇、2016問題、ステレオフォニックスetc~晩秋のロック雑感

2015-11-21 21:54:14 | 音楽
 日本相撲協会の北の湖理事長が長い闘病の末に召された。俺と3歳しか違わないが、一気に頂点に上り詰めた北の湖は雲の上の存在だった。憎々しいイメージでアンチが多かった北の湖だが、へそ曲がりの俺はヒールゆえ贔屓にしていた。良くも悪くも相撲界の因襲に漬かっていた印象はあるが、同世代のヒーローの死を心から悼みたい。

 ロックは今、二つの問題に揺れている。一つは言うまでもなくパリの悲劇で、イーグルス・オブ・デス・メタルのライブ会場が襲撃の対象になった。5㌔離れた場所で同時刻、ソロツアーのステージに立っていたダン・オーバック(ブラック・キーズ)は演奏終了後、起きたことを知り、ミラノに逃れたという。フー・ファイターズは2日後(15日)のパリを含め、欧州ツアーの中止を発表した。

 マドンナやU2らのコメントに窺えるのは<欧米=善、テロリスト=悪>の構図で、米、英、仏、露の空爆が桁違いの人命を奪っていることを顧みていない。彼らはアフリカへの援助を訴えるが、グローバリズムによる地場産業破壊と常任理事国からの武器輸出には決して触れない。〝体制側のいい子〟たちは業界を牛耳るユダヤ系資本に配慮して、イスラエルの蛮行には頬被りする。大物ロッカーで唯一、ガザ無差別空爆に怒りの声を上げたのは、チケットマスターやレーベルに真正面から立ち向かってファンとの紐帯を深めたパール・ジャムのエディ・ヴェダーぐらいである。

 動向が注目されるのは来年2月、パリのベルシー・アリーナ(キャパ1万7000人)から大掛かりな欧州ツアーをスタートするミューズだ。6日間公演のうち、既に4日はソールドアウトという盛況である。ミューズはハイパー資本主義の手法と高度なテクノロジーを最大限に利用して、反体制を高らかに掲げてきた。矛盾を止揚しながら怪鳥に成長したバンドだが、イスラム国は歌詞などに斟酌せず、格好の標的と考えるだろう。

 週に一度(金曜)はタクシー帰りのシフトになっているが、深夜の工事が増え、スイスイ進まないことが多い。東京五輪に向けての準備らしいが、1%(ゼネコンや政治家)だけが潤うという仕組みはこの半世紀、何も変わっていない。五輪の余波はロック界にも及んでいる。来年以降、ホールの改修、閉鎖が相次ぐ「2016問題」はファンにとって実に深刻だ。

 来年2~4月に来日すると踏んでいたミューズだが、いまだに発表はない。さいたまスーパーアリーナなどの改修を考えると、単独公演はなく、来日はサマーソニックになる可能性もある。日本公演を心待ちにしているマニック・ストリート・プリーチャーズ、ステレオフォニックスも、国内のバンドとも競合する以上、会場を押さえるのは難しそうだ。代わりに屋外フェスは増えそうだが、俺のようなアラカンには足を運ぶ気力も体力もない。

 この間、読書のBGMとして、秋以降に購入したアルバムを聴いていた。ステレオフォニックスの「キープ・ザ・ヴィレッジ・アライヴ」、フォールズの「ホワット・ウェント・タウン」、ハーツの「サレンダー」、エディターズの「イン・ドリーム」で、いずれもUKロックを支えるバンドたちの最新作だ。熱と潤いを帯びたステレオフォニックスとダウナーな他の3枚に、温度と湿度の違いを覚えた。

 アメリカでは上記のエディ・ベター、イギリスではポール・ウェラーとケリー・ジョーンズ(ステレオフォニックス)が〝フーの息子〟の代表格だ。パール・ジャムとステレオフォニックスの共通点は、古典的なロックバンドであること。骨組みがしっかりしていて、普遍的な感覚と問題意識に根差した曲を作り続けている。ステレオフォニックスの新作は、タイトルに含まれているように〝アライヴ〟だった。

 キュアーの「ウィッシュ」はデビュー13年目、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの「カリフォルニケイション」は15年目の作品だった。瞬間最大風速、微分係数が試されるロックの世界で、結成10年を超えて最高傑作を発表することは困難だ。ロックの女神は浮気性だから、あっちこっちに気分次第で降臨する。停滞期もあったステレオフォニックスだが、18年目に発表した新作は最高傑作と言い切れる。

 フォールズ、ハーツ、エディターズの3枚は、聴いているうち境界が消え、混然とした空気になって皮膚に染み込んできた。俺は幸いなことに、ある程度の音量でロックを自室で聴くことが出来る。だから、耳で聴くという感覚はない。体で、そして心で感じている。老いているせいか、聴いていてデジャヴを覚えることも多い。メランコリックで繊細な音に紡がれたアルバムに、UKニューウェーヴに浸っていた30年前の記憶が甦ってきた。
 
 俺が〝現役ロックファン復帰〟を宣言したのは数年前のこと。俺のアンテナがその頃、反応したのはダーティー・プロジェクターズとローカル・ネイティヴスで、祝祭的でオルタナティヴなライブに感嘆し、<いずれフジロックでヘッドライナーを務めるだろう>と記した。ところが、予言は大きく外れる。HPを覗いても具体的な話はないし、ともに頑張ってきたグリズリー・ベアはこの間、解散してしまった。「ロッキング・オン」の記事によると、グリズリー・ベアのメンバーの年収は1000万円に届いていなかったという。

 むろん、金が全てではない。インディーズであることは気楽で自由なのだろうが、世界中でもっと聴かれるべきバンドが、商業的成功と無縁のまま活動を停止するのは残念でならない。
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戦争法、パリ、メディア~岐路に立つ日本

2015-11-18 23:46:05 | 社会、政治
 国連・憲法問題研究会主催の講演会「戦争法廃止への第2ラウンド――立憲主義と民主主義の逆襲――」(14日、文京シビックセンター)を今稿のメーンに据える予定だったが、講師を務めた杉原浩司氏(緑の党東京本部共同代表)は24日、立場が真逆の佐藤丙午拓大教授とアウェー(拓大キャンパス)で闘論という大舞台を控えている。講演の詳細はトークバトルと併せて記すことにする。

 山本太郎参院議員が「霞が関が最も恐れる男」と評する杉原氏の認知度が高まってきた。今週末には「草の実アカデミー」主催の講演会、ネットテレビ出演が予定されている。パシフィコ横浜で開催された日本初の武器展示会に単身乗り込み抗議した際の映像はTBS系のニュース番組でオンエアされ、神奈川新聞など内外のメディアで紹介された。任侠映画の鶴田浩二や高倉健が重なる格好良さである。14日の講演会でも視野の広さ、情報収集力、分析力、論理構成力に感嘆させられた。

 杉原氏は交流のあるシールズについて、「私たち」から「私」への主語の変化を体現したことの意義を強調していた。<覚悟を決めた個>である杉原氏の言葉だから説得力がある。さらに、欧米、アジアのリベラル・ラディカルシフトとのシンクロを提示していた。直接、あるいは参加型民主主義は議会制民主主義に繋がらないという〝悪しきグローバルスタンダート〟が覆りつつある。数年後、日本でも地殻変動が起きることを期待する。

 杉原氏は戦争法成立により、日本は準戦時が常態になったと指摘する。フランスのオランド大統領は、「フランスは戦争状態にある」と宣言した。9・11直後のアメリカに重ねる人も多いだろう。「おまえはそれでも人間か」となじられそうだが、俺は<欧米=善、イスラム国=悪>の構図を受け入れられない。

 中東やアフガニスタンにおいて、米軍ならびに有志連合の攻撃で無数の一般市民が犠牲になった。イラク戦争時のファルージャ空爆による被爆と被曝は戦争犯罪というしかなく、地獄絵さながらの光景を現出させた。米国と同盟関係にあるイスラエルはガザへの無差別空爆で病院や国連施設まで破壊し、幼子を含め数千人の命を奪う。イスラム国の行為は許せないが、欧米諸国によってもたらされた桁違いの一般市民の死は看過していいのだろうか。

 憎しみが芽吹いた背景には、グローバリズムが拡大した格差と貧困がある。さらに、誰を傷つけようが利潤が挙がればいいという悪魔(軍需産業)が陰で哄笑している。武器は回り回ってイスラム国に流れ着き、多くの米兵が自国産の武器によって殺されている。そもそも常任理事国が主要な武器輸出国という国連に、平和を主張する資格はない。日本もまた、おぞましい競争に加わろうとしている。

 遠からず日本も、イスラム国のターゲットになっても不思議はない。ちなみに日本は、人間魚雷、特攻隊、テルアビブ空港事件と自爆の祖国である。安倍政権は間違った方向に舵を切ったが、今なら元の地点に戻れる。歯止めのツールになるべき現憲法の精神について国民が再度、考える時機に来ている。杉原氏は尊敬する小田実の<良心的軍事拒否国家>を紹介し、戦争法とパリをリンクさせて論じていた。

 話は逸れる。新しいノートパソコンに少しずつ慣れてきたが、DVDの寿命が尽きつつある。録画できるがディスクに落とせず、市販のDVDも映らない。買い替える前にHDDにためた映像をチェックしているうち、ある事実を再認識する。3・11直後、朝日ニュースター(現テレ朝チャンネル)と日本映画専門チャンネルは立ち位置を明確に奮闘していたのだ。

 上杉隆氏らが日替わりでキャスターを務めた「ニュースの深層」には反原発サイドの識者が次々に登場し、真実を伝えないメディアの堕落を突いていた。「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」には小出裕章氏が頻繁に登場し、「デモクラシー・ナウ!」はアメリカから見た3・11を報じた。日本映画専門チャンネルも様々な企画で反原発を訴えた。ネットでの配信もあり、「政府もメディアも嘘ばっかりで信用出来ない」という空気が当時、蔓延していた。震災と原発事故は悲劇だが、日本の構造を根本的に変えるきっかけになると、俺も希望を抱いた。

 あれから4年8カ月……。メディアの状況は3・11以前に戻り、さらに悪くなった。杉原氏の講演会後のディスカッションでも、メディアの姿勢を問う声が多く上がった。反戦争法の動きを伝えたメディアも今じゃ〝祭りのあと〟で、継続して地道に闘っている人たちをどこも取材しない。メディアの端くれに棲息する俺に言わせれば、期待してはいけない。騒ぎになれば記事にし、静かになれば去っていくというのがメディアの習性なのだ。

 闘う側にはオルタナティブで新しい表現が求められる。最近ではスコットランド独立賛成派が既成メディアの偏向をはねのけ、創意工夫で一定の成果を挙げた。来夏の参院選に向け、永田町では無意味な数合わせが進行中だが、俺が期待するのは定数1増の東京選挙区だ。リベラルとラディカルが結集し、ワクワクするような候補者が立つことを期待している。結果次第で、日本の空気も変わるだろう。
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「ザ・フー/LIVE IN HYDE PARK」~色褪せぬ奇跡の煌めき

2015-11-15 19:03:51 | 音楽
 昨日(14日)、国連・憲法問題研究会主催の講演会「戦争法廃止への第2ラウンド――立憲主義と民主主義の逆襲――」(文京シビックセンター)に参加した。講師の杉原浩司氏は緑の党東京本部共同代表で、敬意を抱く知人である。会の詳細は次稿に記すが、杉原氏が冒頭で言及した通り、パリで起きた忌むべきテロと戦争法は根っ子で繋がっている。

 「CSI:科学捜査班」がスピンオフのマイアミ編、ニューヨーク編に次ぎ、シーズン15で幕を閉じた。アメリカの闇、病理、腐敗を抉った「CSI:科学捜査班」は世界中で指示されたが、作品の魅力を体現していたのは、シーズン9途中まで番組を牽引したギル・グリッソム主任(ウィリアム・ピーターセン)の個性だった。洞察力と包容力を併せ持ちながら孤独だったギルの扉を叩いたのはサラ(ジョージャ・フォックス)だった。

 最終話には、サンディエゴのチーフになったニック、殉死したウォリックを除くスタート時のメンバーが集結した。肝になっていたのはギルとサラの絆である。心に染みるラストに続き、15年にわたる2人の愛を綴ったダイジェスト映像(WOWOW制作?)がザ・フーの「ビハインド・ブルー・アイズ」をバックに流れる。齢を重ねるにつれて脆くなった涙腺が一気に決壊した。

 本作が「フー・アー・ユー」、マイアミ編が「無法の世界」、NY編が「ババ・オライリィ」、そして昨夜、オンエアが始まった新シリーズ「CSI:サイバー」が「恋のマジックアイ」と、主題歌はフーで統一されている。奥深いテーマ性は、世紀をまたいでも色褪せない楽曲の持つ普遍性に裏打ちされているのだ。

 バルト9で先日、「ザ・フー/LIVE IN HYDE PARK」を見た。ハイドパークで今年6月、50周年記念ツアーのファイナルとして開催されたライブが収録されている、ベスパで乗り付けたオールドモッズからキッズまで、幅広い層の6万数千人は心に錨を下ろし、自己の来し方と重ねるように聴き入っていた。「CSI」関連で上記した5曲も全てセットリストに含まれている。

 ピート・タウンゼント(ギター)は70歳、ロジャー・ダルトリー(ボーカル)は71歳……。〝年金ツアー〟と高齢バンドの公演を揶揄してきたが、フーのステージは全盛期のエネルギーを奇跡的に保っている。そう感じるのが贔屓目でないことは、ハイドパークから日を置かず、旬のバンドが覇を競うグラトンベリーでヘッドライナーを務めたことが証明している。ロシア陸上界のドーピングが耳目を集めているが、フーのライブは800㍍、1500㍍といった中距離レースを繰り返すに等しい過酷な内容だ。ピートとロジャーは、亡きキース・ムーン(ドラム)とジョン・エントウイッスル(ベース)との絆を養分にした〝精神のドーピング〟に支えられているのだろう。

 演奏の合間に織り込まれるピートとロジャー、そして縁の深いアーティストたちのインタビューも興味深かった。かつてピートは、「3人の天才(自身、キース、ジョン)と1人の凡人(ロジャー)から成る」のがフー」と論じていた。俺はピートとロジャーを、<偉大な父と永遠に超えられない息子>に喩えていたが、ロジャーが今回、「ピートは仲のいい弟みたいなもの」と語っている。両者の関係は喜寿を越えて変化したのだろう。

 かつてパンクバンドを〝フーの息子たち〟と評したロバート・プラント(レッド・ツエッペリン)はロジャーに敬意を表し、「50年もバンドが続くのはボーカルとギターの関係がいいから」と、暗にジミー・ペイジとの軋轢を仄めかしていた。ちなみに若かりし頃のフーの不仲は有名で、ペイジはキースとジョンを何度かセッションに誘い、「バンドの名前を決めよう」と提案した。レッド・ツエッペリンの命名者はジョンだったが、キースともどもフーに戻る。知られざるエピソードだ。

 BBC制作「ヒストリー・オブ・ロック」で〝ロックの誕生〟と位置付けられていたのが、フーの「マイ・ジェネレーション」(65年)だった。♪ジジイになるまでに死にたいと、ジジイのロジャーは歌う。「愛の支配」では“Love reign on me ”の“reign”を“rain”に掛けてシャウトする。「ババ・オライリィ」でピートが叫ぶ「十代の荒野」に俺は今も閉じ込められている。

 フーは誰しも思青春期に突き当たり、大人になって解決したふりをするテーマを曲にした。「トミー」が象徴的だが、疎外からの解放こそピートが追求したテーマだった。かつてピートの元に、「フーを聴いて何とか生き長らえることが出来ました」とのファンレターが多く寄せられたという。その気持ちはよくわかる。35年ほど前、〝元祖ひきこもり〟だった俺は、フーの「四重人格」を擦り切れるまで繰り返し聴いていた。俺もまたフーに救われたひとりだった。

 ロバート・プラント以外、イギー・ポップ、ジョニー・マーらがフーへの思いを語っていた。ステレオフォニックスのケリー・ジョーンズも〝フーの息子〟たちのひとりで、初めて共演した96年、ロジャーに「グッド・ラック!」と声を掛けられたという。そして今年、ステレオフォニックスは「キープ・ザ・ヴィレッジ・アライヴ」で全英1位に返り咲く。快作の感想は近日中に記したい。
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「宿屋めぐり」~アンビバレンツを閉じ込めた万華鏡

2015-11-11 23:25:05 | 読書
 ようやくノートパソコンが部屋にやってきたが、女性、酒と並び機械が大の苦手ゆえ、設定その他に悪戦苦闘している。部屋でパソコンが使えなかったこの1カ月、予想を上回るスピードで〝祭りのあと〟が進行した。
 
 ♪なにごともなかったみたいだ 街を行く人々の顔は あれほど深かった傷あとも消して 季節のよろめきに身をまかす……

 PANTAの名曲「裸にされた街」を口ずさみながら、俺は希望を捨てていない。永田町の地図など破り捨て、まずは5%を変えることから始める。員数合わせなど無意味であることは、欧米のリベラル、いやラディカルシフトの奔流が教えてくれる。タイムロスは痛いが、人と人を意識の糸で紡ぎ、将来の地殻変動に繋げたい。楽観派の俺は、一歩踏み出す前にデスクトップが急死してくれて、むしろよかったと感じている。

 町田康の長編「宿屋めぐり」(08年発表、講談社文庫)を読了した。「夫婦茶碗」、「告白」田ワールド体験だ。町田康は近代日本文学でどのような位置付けになるのだろう。「日本語が滅びるとき」の著者で夏目漱石に心酔する水村美苗は、町田康の〝逸脱〟に厳しい評価を下すかもしれない。一方で、文庫版のあとがきを担当した笙野頼子は、文壇における評判――星野と自身が似ている――を紹介し、星野へのオマージュを記していた。

 俺にとって星野は、<石川淳の域に到達する可能性を秘めた現役作家>……。石川淳は自分の殻を破り続け、ドラマトゥルギーとご都合主義の境界を追求した。生命線は町田と同様、<言葉とリズム>で、聖俗、善悪の狭間を疾走する。椎名麟三にも重なる部分がある。ポップに弾けた「懲役人の告発」に、57歳にして自分を変えたパンク精神を感じた。そして町田康はパンクロッカー、町田町蔵として世に出た。

 前半ではタイトル通り、主人公が宿屋を巡って放浪する。行き先は神社で、神社に刀を奉納するよう主に厳命されていた……などまじめに紹介しても意味はない。そもそも主が何者か明らかではない。イエス・キリスト? いや、違う。主人公は時折、主の顔を思い浮かべて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えるが、仏とも遠い。ギリシャ神話に登場する怒りの神、あるいはイスラム国が信奉する独善的な神といったところか。主は極めて残酷に周囲に接し、主人公もしばしば暴力的だ。これこそ御意と自分に言い聞かせながら……。

 主人公は正常かつ清浄な世界から突き落とされ、悪意と汚濁にまみれたパラレルワールドを彷徨う。時空はねじれ、江戸時代と21世紀が混在し、主人公は旅人から希代の犯罪者、一世を風靡する魔術師へと次々に変身する。まるでひとり輪廻転生だ、本作の肝は、主人公の心中での対話といえる。煩悩と欲望に塗れた自身を穿ちながら、尊い主に思いを馳せる。主人公は諦念を身につけ、自分を捨てる境地に達するまで、出口のない環に閉じ込められるのだ。

 本作は戯作調、落語の語り口に彩られたパンクロックアルバムで、虚実、正気と狂気、アヴァンギャルド、遊び、幼児性がちりばめられた壮大な万華鏡だ。哀しくて破壊的だが、豊穣で可笑しくもある。アンビバレンツを飛ばないように括り付ける町田の力業に驚嘆するしかない。
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「裁かれるのは善人のみ」に重なる日本の闇

2015-11-08 20:04:50 | 映画、ドラマ
 ノートパソコンが届いたが、事はうまく運ばない。デスクトップが突然死したから、内部データも消滅し、一からの設定になる。ニフティ登録時点(10年以上前)のアドレスとパスワードなど覚えているはずもなく、マイクロソフト等々に接続出来ない。結局、電器屋持ち帰りになる。

 ふと考えると、パソコンメールでやりとりしているのは海外在住者ぐらいで、ブログを読んでくれていたら実情はわかるはずだ。俺は他者とどう結ばれているのだろう、ネットでの絆にどれほどの意味があるのか……。 この間、あれこれ考えたが答えは見つからない。 

 名古屋で起きた中学生の自殺が波紋を広げている。級友も担任も知っていたのに、悲劇が防げなかったという事実を、私たちは真摯に受け止めるべきだ。いじめはそれぞれ事情が異なり、大枠で論じてるべきではないが、他の件とも共通する背景が浮かび上がってくる。

 それは社会――日本だけに限らない――にはびこる〝身を守るための沈黙〟で、とりわけ日本人は集団化の傾向が強い。ちなみに俺も中学生の頃(45年前)、加害の側に身を置いたことがある。「Aは……だからハブンチョしよう」といった回覧にサインしたことは、人生に無数ある汚点の中でも黒ずんでいるもののひとつだ。

 悔恨の記憶は、生き方を変えるきっかけになった。〝子供は大人を写す鏡〟というが、長じるにつれ、社会や世間に強烈ないじめがあることを学んでいく。ここ十数年の日本政府による酷薄な弱者切り捨ては、その典型といえるだろう。

 職員会議で教師が意見を述べるのも憚られる雰囲気で、生徒たちも、空気を読んで多数に与することが世渡りの術と弁えている。貧困と格差の拡大が、いじめを一層、陰湿にしていくだろう。教育現場だけでなく、個人、そして自由と民主主義も死につつある。アラカンになって政治に関わったのは、<個々を解き放ち突破することに価値がある>ことを身をもって示したいと考えたからだ。

 ようやく本題……。新宿で先日、ロシア映画「裁かれるのは善人のみ」(14年、アンドレイ・ズビャギンツェフ監督)を見た。エンターテインメントと真逆で、重厚で苦く、予定調和と無縁の作品だった。舞台は現在の北ロシアで、権力を濫用する市長、彼の不正を友人の弁護士ティーマと組んで追及するコーリャ(アレクセイ・セレブリャコフ)の闘いが軸になっている。政財官と司法を牛耳る市長にとって、コーリャはまさに虫けらだった。

 正義と悪の構図を掲げたポリティカルフィクションかと思いきや、コーリャ一家が抱える葛藤、ロシア正教と権力の環が提示され、罪と罰、愛と死、原罪と救済に彩られたストーリーは、深度を次第に増していく。息が詰まるような切迫がスクリーンから零れていた。本作は欧米で数々の栄誉(27の映画賞)に浴したが、キリスト教という背景を共有している点が大きいのではないか。

 原題の「レビヤタン」(英語読みはリヴァイアサン)は旧約聖書「ヨブ記」に描かれた怪物で、ヨブを試すために悪魔が神を唆すして使わしたとされる。本作に重ねればヨブ=コーリャ、レビヤタン=市長となるだろう。一方でトマス・ホッブスはリヴァイアサンを、<個人が抵抗出来ない国家を象徴するもの>と規定した。本作には荒涼とした海辺に、恐竜の骨組みらしきものが繰り返し現れる。コーリャの心眼に映るレビヤタンの残骸なのだろうか。

 かのソルジェニツィンでさえ、ロシア正教の伝統と国民的気質を鑑みプーチン(巨大なレビヤタン)を高く評価した。市長室に掲げられているのはプーチンの写真だ。反プーチン映画かと感じたが、不合理と不条理を受け入れたーリャのラストの表情に、別の思いが頭をもたげてくる。レビヤタンを神の意思と受け入れたヨブは幸せな後半生を送る。絶望の淵にあるコーリャもまた、怪物と和解したのではないかと……。

 コーリャの妻リリアの諦念を滲ませた表情が印象的だった。寂れた街で人々を繋いでいたのは携帯であり、iphoneである。コーリャが育んできた情義の世界は意外なほど脆かった。上記したいじめ、疎外ともリンクするテーマで、闇の濃さに日本社会と重なっている。

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「海賊じいちゃんの贈りもの」~ウイットとペーソスに富んだ人間賛歌

2015-11-05 19:04:00 | 映画、ドラマ
 注文したノートパソコンが今週末に届くので、ネットカフェで更新するのは最後になりそうだ。 

 一昨日(3日)の午後、街をぶらぶら散策した。半袖姿が目立ち、公園では季節外れの番の蝶が舞っている。長閑な晩秋だが、暖かさは滅亡のシグナルといえぬこともない。旧聞に属するが、第9回「土と平和の祭典」(1日)に参加した。日比谷公園に着くと、異様な緊張感が漂っている。警察車両が入り口に止まり、マスク姿の数人の〝レポ〟が鋭い視線をやっていた。野音でラディカルズ(某党派)の開催されるらしい。奥へ進むと緑の旗がたなびき、空気が一気に和らいでくる。

 緑の党のグリーンマルシェは、三宅商店(三宅洋平主宰)、ナマケモノ倶楽部と友好団体のブースと軒を接し、物販も賑わっていた。隣接する「暮らしの種まきエリア」でトークイベントが始まる。司会は高坂勝さんで、ゲストは環境問題に取り組む吉田明子、桃井貴子、古野真、長谷川平和の各氏である。高坂さんに冒頭、いきなりイジられたので面食らった。甘党の俺はオーガニックに作られた蜂蜜、ジャム、マーマレードを購入しつつ、トークに耳を傾ける。

 原発は二酸化炭素排出を抑え、温暖化防止に繋がるというロジックに囚われている人も多い。広瀬隆氏もバッシングを受けた経緯があるが、「この30年余り、日本で多くの原発が稼働したが、気温上昇は防げなかった」という指摘は説得力があった。欧米ではエコを掲げる金融機関が多く、預金を付け替えるのが当たり前になっているという。俺を含めて日本人は、大枠で反対を唱えても、<ささやかな意思表示で社会を変える>との意識に乏しい。28日の「コップ21」に向けた集会&パレードには、自分なりに考えをまとめて参加したい。

 新宿で先日、「海賊じいちゃんの贈りもの」(14年、ガイ・ジュンキン&アンディ・ハミルトン共同監督)を見た。英国映画らしく棘と皮肉を織り交ぜられており、5人家族が祖父の75回目の誕生日を祝うため、ロンドンからスコットランドに向かうという設定である。

 夫ダグを演じたデヴィッド・テナントはTVドラマ「ブロードチャーチ」のハーディ刑事役で世界的にブレークした。エキセントリックで傲岸、無精髭で目をぎらつかせている辺り、ハーディとキャラはあまり変わらない。妻アビーを演じたロザムンド・バイクは「ゴーン・ガール」のミステリアスな妻エイミー役で注目を浴びた。危険なキャスティングで、冒頭から衝突の連続に「ただではすまない」と覚悟したが、予想は柔らかく裏切られる。

 本作の真の主演は冷め切った夫婦ではなく、長女ロッティ(9歳)、長男ミッキー(6歳)、次女ジェス(4歳)だ。子供たちはがんに侵されたダグの父ゴーディ(ビリー・コノリー)から人生の幾許かを学んでいく。バイキングの末裔を自任するゴーディは、虚飾にまみれた周囲と距離を置いているが、超然としているわけでもない。冒頭で船の上、競馬中継に見入るシーンに笑ってしまった。子供が大人と対等に話すのは英仏映画の定番で、危険ワードを連発していた。ロッティは善悪と虚実を切り分け過ぎる嫌いがあり、ミッキーは物語の世界に没入している。ジェムは石に執着し、物を隠す癖がある。個性ゆえ叱られてばかりの子供たちは、同じ視線で接するゴーディに惹かれ、その願いを叶えようとする。

 ダグの兄ギャビンは成功した投資家だが、子供たちのからかいの的になる。ダグ一家だけでなくキャビン一家も崩壊の危機で、妻はうつに苦しみ、息子は覇気を失くしている。大掛かりなゴーディの誕生パーティーの準備にいそしむ二つの家族を、思わぬアクシデントが襲った。隠し事が露呈し、メディアに叩かれるが、これこそがゴーディの贈り物だった。一つの死が、癒やしと和みをもたらし、家族の結び目になる。、冒頭で記した環境問題にあまり関心がないのも、俺に家族がいないせいかもしれないと、本作観賞後に考えた。

 ウイットとペーソスに富んだ人間賛歌で、俺は生と死、愛する意味に思いを馳せた。驟雨のように心を濡らす佳作だった。イングランドやスコットランドを舞台にした映画では、曇天の下、荒涼たる海が登場する。燃える船はゴーディの誇りと自由な魂の表現だった。アラカンの俺も遠からず、ゴーディの年齢に達する。彼のように透徹した境地に達することはできるだろうか。


 
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「呪文」~星野智幸が抉り出すファシズムの病理

2015-11-01 18:10:20 | 読書
 今日は午後から、第9回「土と平和の祭典」(日比谷公園)に足を運び、代々木のネットカフェで当稿を更新している。イベントの感想等については、次稿の枕で記したい。

 2015年安保ともいわれる一連の流れは、60年、70年安保と比べて継続性を保っており、〝祭りのあと〟の空気にまだ覆われていない。過去と比べると答えらしきものがおぼろげに見えてくる。60年安保の直後に発足した池田政権は所得倍増を掲げた。闘争のシンボルだった浅沼社会党委員長が刺殺されたにもかかわらず、自民党は議席を伸ばす。70年安保後は「赤信号をみんなで渡った」若者が消費社会に戻ってきた。

 2015年はどうか。格差と貧困は拡大し、戻るべき生活基盤が揺らいでいる。世代、性差を超えて多くの人々が喘ぎ、もがいているのだ。理念だけでなく、生活実感に根差した運動は簡単に壊れない。当ブログで頻繁に取り上げている欧米の動きは、リベラルシフトというよりラディカルシフトといっていい。反資本主義を日本でいちはやく演説に取り入れた山本太郎参院議員は、体制にとって危険な存在なのだろう。

 旅行したり、部屋掃除に励んだり、所用が重なったり、ドラマ「アカギ」(全10回)にハマって繰り返し見たりで、この秋は読書が捗らなかったが、星野智幸の新作「呪文」(河出書房新社)を一気に読了した。前作は南米のマジックリアリズムに通底するスケールの大きい迷宮だったが、今回のテーマは身近で手触り感がある。帯に記された桐野夏生の「この本に書かれているのは、現在日本の悪夢である」はピンポイントの評といっていい。

 星野の作品の底にあるのは多様性の尊重、アイデンティティーの浸潤だ。世紀が変わる頃から<1999年が日本のファシズム元年>と位置付け、憲法の精神を捻じ曲げたイラク派兵に抗議し、日本人の沈黙と集団化に警鐘を鳴らしてきた。小泉元首相、安倍首相が暴走する前に似たキャラを小説に登場させるなど、日本を最も深く理解している識者といっていい。差別、貧困の問題にも個人として取り組んでいる。

 本作の舞台は、都内にある寂れゆく松保商店街だ。読み始めて重なったのが徒歩数分のK商店街で、まさにシャッター通りといっていい。畳む店が相次ぎ、夜逃げ同然で消える者もいる。本作の主人公はトルタ店経営者の霧生で、複数の主観の結節点になっている。貧困と格差が前提になっているが、物語はネット社会の病巣、意識の集団化に重心を移していく。

 松保の救世主として登場したのが図領だ。組合理事長の娘婿であるだけでなく、アイデアマンとして定評があり、人気居酒屋「麦ばたけ」を経営している。深夜に訪れ諍いになった客は、日々の鬱憤を晴らし、ネットで拡散する「ディスラー総統」こと佐熊だった。被害は他店にも及び、ネットには悪意に満ちた根拠のない書き込みが蔓延する。

 インターネットが登場した時、<自分の世界を広げ、グローバルに繋がるためのツール>と喧伝したひとりが、〝知性の巨人〟立花隆だった。だが、凡人は優れたツールを使いこなせず、同レベル、同じ考えを持つ者とタコ壷を形成し、閉じられたまま沈んでいく。佐熊の仕掛けで炎上した図領のブログだが、反転攻勢に打って出て、〝神〟になる。奇跡が松保に起きたのだ。

 図領の説く希望に、霧生は距離を置き始める。メキシコで料理を学び、現実と幻想が混然一体となった当地に魅せられた霧生はまさに作者の分身で、金を媒体に画一性を志向する図領とは、対極に位置するからだ。だが、そんなき霧生でさえ、判断停止状態に陥る。「呪文」のベースにあるのは星野の旧作「ロンリー・ハーツ・キラー」と星野が推奨した中島岳志著「血盟団事件」だと思う。絶望して自分の価値を見失い、死をも含めコントロールされている者は決して少なくない。

 権力中枢の政治家と話す機会が多かった知人がいる。15年以上前、「インターネットって、可能性はあるんですか」と知人が尋ねたら、その政治家は「いずれ金と力を持っている者に操られる」と答えたそうだ。悲しいことだが、現実はそのように進んでいる。〝ネット右翼〟を動かしているのは、果たして……。

 <その衝動に支配されたら、いわば呪われたようなもので、自分の力だけではどうにもできない(中略)。でも、そのまわりの人も全員衝動に支配されていたら、どうなる(中略)? それが今の松保であり、世の中。それどころか、衝動に支配された人が無限に広がってる>

 この湯北の言葉で、霧生は呪文から解かれ、個へと立ち戻る。本作はファシズムの本質を小さな商店街をモデルに抉っている。星野の洞察力に改めて感嘆させられた。

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